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    忘れ鏡のフーイル テキスト版 56~65

    ##忘れ鏡

    忘れ鏡のフーイル 56~65 五十六
     自分の名前が騎士物語の魔女と同じ名前だと言うことを少女は知っていた。そして、自分にも『魔法』が使えることも少女は知っていた。
     魔法が使えることは友達には言っていないし、何でも話せる育ての親にも言っていない。魔法の力というものは秘密にしておかなくてはならないのだと少女は直感的に知っていたのである。それに、秘密のほうがなんだからしい気がする。少女の魔法は、箒に跨がって空を飛んだり、杖の先から火を出したり、ものを浮かせたり、変身させるような派手な魔法ではない。少々地味で、ちょっぴり便利な鏡の魔法だった。
     春が近づく三月――モルガナは十一歳になっていた。
     中学校の授業が終わり、いつものように同級生達と別れると、モルガナは一路帰宅の途につく。高級住宅地を抜け、丘を登るとフーゴと住む一軒家だ。門の横のレモンの木が目印である。門を抜け、前庭を通り、玄関のドアを開ける。
    「ただいま!」
     大きな声で帰宅を告げると、台所の方から中年女性がひょっこりと顔を出した。
    「おかえりなさい、モルガナ様。今日の晩ご飯(チェーナ)はポルペッティーニですよ」
     家政婦のアニェッリはにこやかに言った。
    「でもその前に、おやつにいたしましょう」
    「うん! すぐ宿題終わらせるね!」
     モルガナは笑顔になって自室に向かう。その背を見送った後、アニェッリは台所に戻っていった。育ての親のフーゴはまだ若いが、パッショーネの筆頭幹部である。いつも忙しくしているので、家のことは家政婦に頼んでいるのだ。彼女は若い頃から組織の幹部御用達の家政婦であり、同時にスタンド使いでもあるのだが、モルガナはそのことを知らない。
     お母さんが病気で亡くなったとき、モルガナはまだ一歳になったばかりだった。フーゴは十六歳。今のモルガナと五つしか変わらない。でもお母さんは亡くなる前にフーゴにモルガナのことを頼んだと聞いている。それからずっとフーゴに守られてきた。孤児院にいるときはよく遊び相手になってくれたし、この家に来てからは何不自由なく育ててくれた。ギャングだけれど荒々しくないし、紳士的でとても優しい。地元の人にも頼りにされている。休みの時には遊んでくれたり、旅行に連れて行ってくれたりする。頼めばお母さんの話をしてくれるし、困ったときは相談に乗ってくれる。お父さんというよりはお兄さんに近く、何でも話すことができた。――魔法のこと以外は。
     フーゴを信頼していないわけではない。ただ、秘密を持ちたくなる年頃なのである。
    「ただいま」
     モルガナは自室の扉を開け、机の横にリュックサックを置くと、ベッドに腰掛けた。そして、ナイトテーブルに置かれた写真にそっと話しかける。
    「ただいま、お母さん」
     
      五十七
     モルガナはフーゴの腕に抱っこされていて、フーゴに抱っこされているモルガナはお気に入りのぬいぐるみを抱っこしている。周囲はどこかで見た寂しい石壁の街。たしか、ポンペイ遺跡だっただろうか。遠足で来たことがある。でも、モルガナは今フーゴの腕にすっぽり収まるくらい小さいから――きっとこれは夢なんだ。とモルガナは認識していた。
     フーゴの腕の中はいつも温かくて、安心できた。しっかり支えてくれているけれど、窮屈ではない。石畳を歩く靴音がなんだか心地よくて、夢の中なのに眠くなってしまう。
     フーゴは突然立ち止まった。
    「もうすぐマンマに会えるよ」
     フーゴが優しく笑いかけて、鏡を取り出した――。
     すると、目の前にお母さんがいた。写真で見るのと全く同じお母さんだった。綺麗な黒い髪を五つか六つに結んで、柘榴石のような赤い目をしている。自分とおそろいの髪と目。モルガナの自慢だった。お母さんは驚いたような、でも嬉しそうなほほ笑みを浮かべていた。
     モルガナは嬉しくなって走り出す。
     温かいお母さんの胸をめがけて。
     髪を撫でて貰ったり、抱っこして貰ったりするんだ! 今日あったことも、昨日あったことも、全部話そう! 魔法のことも、お母さんには教えちゃおう!
     だが、お母さんに触ろうとしたら消えてしまった。気がつけばモルガナは地面にはいつくばっている。転んでしまったらしい。
     ――おかしいな? 確かにお母さんのところに走って行ったのに。
     そう思って辺りを見回すと、悲しそうな顔をしているお母さんに気がついた。自分の姿が見えなくなってしまったのだろうか? ここにいるよ! そう叫ぶ代わりにお母さんのもとに駆け寄ると、またお母さんは消えて、モルガナはべちゃりと転んでしまう。何度も探す。何度も何度も駆け寄る。何度も何度も何度もお母さんは消えてしまう。そのうち全部真っ白になって、お母さんの姿は完全に見えなくなってしまった。
    「お母さん!」
     モルガナは叫びながら飛び起きた。周りを見ればいつもの自分の部屋だった。おやつを食べて、眠くなってうたたねをしていたらしい。頬や顔の周りの髪の毛が濡れている。夢を見ながら泣いていたのだ。
    「モルガナ様!?」台所の方から心配そうな声が飛んできたかと思えば、すぐにアニェッリが駆けつけてきた。「大丈夫ですか!? 何か――」
    「ううん、大丈夫、なんでもないの」モルガナは袖で涙を拭いた。「夢を見てたの。ただの夢……」
    「そうですか……」アニェッリは少しほっとしたようなため息をついた。「……今晩はモルガナ様の好きなイチゴのサラダもありますよ。好きなものを食べて、いやな夢を吹き飛ばしちゃいましょうね」
    「うん! 楽しみにしてる!」
     アニェッリはまた台所に戻っていった。彼女の足音が聞こえなくなると、モルガナはナイトテーブルの傍に寄って、写真を見る。世界にひとつだけのお母さんの写真を。
    「お母さん……」
     写真の中のお母さんは、赤ちゃんのモルガナを抱っこして照れたように笑っている。
     そのお母さんの笑顔が、悲しみに染まっていくのが頭から離れなかった。
    「会いたい……」
     
      五十八
    「モルガナが?」
     モルガナが入浴している間、フーゴがアニェッリから聞いたのは、夕方のモルガナのことだった。悪夢を見たらしく、「お母さん」と叫んで泣いていたという。
     何かに追われる夢で、自然にお母さんに助けを求めたのだろうか、それともお母さんがいなくなる夢を見たのだろうか。あの子にとって恐ろしいのは、恐らく後者であろう。
    「――ありがとうございます。もし何か気付いたことがあれば言ってください」
    「ええ、勿論です」
     アニェッリは一礼し、退出する。フーゴが不在の間、モルガナの様子を見るのも彼女の役目だった。スタンド使いとはいえ、彼女の能力は戦闘向きではない。だが、スタンドを見ることは出来るし、身を守ることも出来る。戦闘員ではないが、それなりの訓練は受けていた。
     それにしても、気にかかる。
     悪夢のこともだが、最近あの子は何か隠している気がする。悪いことを隠している雰囲気ではないのだが、何か大きなものを隠しているのだ。
     だが気になるからと言って、「悪夢を見たんだってね?」「何か隠し事はない?」などと聞くのも気が引ける。あの子もそろそろ思春期だし、保護者に秘密にしておきたいこともあるだろう。過剰に干渉されてきた自身の少年期を思い出すとなおさらだ。
     しばらくすると、モルガナはバスルームから出てきた。「モルガナ――」と呼びかけて、フーゴは続く問いを躊躇する。
    「なあに?」
    「今日も、楽しかった?」
    「……うん」
     答えとは裏腹に、モルガナの視線は宙をさまよう。少し逡巡してから口を開いた。
    「ねえ、フーゴ」
    「ん、どうしたの?」
    「私――小さいときに、フーゴと一緒にお母さんに会ったことあった? 遺跡で……」
    「ああ――」フーゴは言いよどむ。「モルガナのお誕生日の時に、何度か連れて行ったことあるよ。あの遺跡は、モルガナのお母さんが亡くなった場所だから……僕はあの場所にいると思っていたんだ。ほら、人が亡くなった場所に花や蝋燭を供えたりするでしょう?」
    「今は……?」
    「お空の上にいるよ」
    「そっか……」
     モルガナはぼんやりとした目で上を見上げた。イルーゾォであれば「空の上なわけあるか」と半笑いで馬鹿にしてくるところであろうが。
    「おやすみ、フーゴ」モルガナは曖昧な表情で手を振る。
    「おやすみ、モルガナ。黄金の夢を(Sogni d'oro)」
     モルガナが寝室に向かうと、フーゴは小さくため息をついた。あの頃はあの子も幼すぎて、「ぽかぽかした」記憶は薄れてしまったらしい。一方で、もっと幼い頃の、イルーゾォに触れられなかった記憶は残っているようだ。まだ一歳半にもなっていなかったのではないか? つらい記憶の方が覚えやすいとはいうが……。人の記憶というのは、中々奇妙なものである。
    「イルーゾォさん……」
     フーゴは一人で呟く。
    「どうか、あの子の夢に出てあげてください。幸せな夢の中に――」
     
      五十九
     翌日の夜、アニェッリが仕事を終えて帰ってゆくのを察知すると、モルガナは密かにベッドから抜け出した。今夜フーゴの帰宅時間は十二時を過ぎると言っていた。それまでの一時間半、ちょっとした時間がある。『魔法』の練習をするのにはもってこいだ。『魔法』を使って、モルガナが一度も中を見たことのない、鍵のかかった部屋を開けるのが今夜の目標である。
     モルガナはカーテンの隙間から外を覗き、アニェッリの車のライトが丘の下を遙かに遠ざかっていくのを確認してから用心深く家の灯りを点ける。足音を殺して部屋を出て、鍵のかかった部屋に向かった。誰もいないのだから、別に忍び足で行く必要はないのだが、夜は自然とそうなるものである。
     モルガナは鍵のかかったドアの近くにこっそり置いておいた鏡を回収する。鏡と正面に向き合うと、モルガナは呪文を唱えた。
    「鏡よ鏡――」
     コーヒーの渦にミルクが巻き込まれていくかのように、鏡の像がくにゃりと歪んだ。
     モルガナが自分の『魔法』に気がついたのはそう最近のことではない。一年前には既に気がついていた。無くしたハサミの場所を戯れに鏡に聞いたのがきっかけだった。『白雪姫』のように鏡が喋って答えてくれたわけではないが、モルガナが最後にハサミを使ったところを映してくれたのだ。
     フーゴやアニェッリの目を盗んで、モルガナは魔法について検証を重ねてきた。その結果、いくつかのことがわかってきた。一つは、その鏡が映した範囲しかわからないこと。もう一つは、像が映れば『鏡』そのものでなくともよいこと。夜の窓ガラスや、金属の取っ手、瞳、映るものでさえあれば何でも構わない。ただし、それ相応の不鮮明な像にはなる。さらにもう一つは、鏡に映させた過去の映像は、――鳩で実験した結果だが――他者にも見えるらしい、ということだ。
     今夜の魔法の練習は、練習と言うより実践だ。家中の鏡から情報を集めて、鍵のかかったドアを開けられるかどうか、試すのである。
     鏡には、フーゴが部屋の鍵を開けるところが鮮明に映されている。モルガナはにやりと笑うと、また別の鏡の場所へと移動した。
     
      六十
     鍵の入手に要した時間はわずか十五分であった。鍵はこれまた鍵のかかった箱に隠されていたが、ダイヤルキーを回すところも鏡に映っていたので、ある程度番号を絞ることが出来たのだ。結果は上々である。
     モルガナは鍵をドアの穴に差し込む。コソコソやることに少々後ろめたい気持ちはあるものの、フーゴからは「ダメ」とは言われていない。――鍵を見つけ出して開けるとまでは思っていなかっただけだろうけれど。
     そもそも何故このドアに鍵がかけられているのか、モルガナはずっと不思議だった。昔フーゴにきいてみたことはあるが、「大きくなったらね」と優しくほほ笑まれただけだ。しかし、「大きく」とはどの程度なのだろうか。記憶が正しければ、モルガナがこの家に来たときからずっと鍵がかかっている。その時からモルガナはかなり「大きく」なっている。つまり、「大きくなったら」という条件は十分に満たしているのではないだろうか?
     ――じゃあやっぱり開けていいんだ。開けちゃえ。
     モルガナはカチャリと鍵を回し、ドアを開ける。部屋の空気が動き出し、ふんわりとモルガナの体をつつんだ。埃臭いのを覚悟したが、予想に反していい匂いだった。そしてなんだか泣きたいほど懐かしい――。
     モルガナは部屋の電気を点ける。部屋はモルガナの部屋より少し狭いくらいで、色々なものが置いてある。
     大人の女の人の服に、本、赤ん坊の小さな服、おもちゃ、ブランケット、アクセサリー、香水、そしてたくさんの鏡――。
    「お母さんの――」
     モルガナは目を輝かせて呟く。宝物の部屋だった。フーゴはずっと保管していて、「大きくなったら」モルガナに見せ、驚かせて喜ばせるつもりだったのだろう。だとすると、フーゴには少し悪いことをしてしまったとモルガナは内心反省した。
    「これは?」
     モルガナは標本ケースのような平たい箱に目をとめた。蓋を開けると、白い綺麗な布で何かが包まれている。きっと特別なものに違いない。どきどきしながら包みを解くと、中にあったのは鏡の破片だった。
    「えっ……」
     思ってもいない中身に、モルガナは落胆する。指環かピアスかと思っていたのに、鏡の破片なんて。近くの壁には覆いのかかった額縁が立てかけられているが、お母さんを描いた絵かと思えばこれも額縁だけである。しかも、ぶつけたような傷がついている。
     しかし、どうしてこんな鏡の破片までとってあるのだろう? 流石に捨てたっていいだろうに。モルガナは疑問に思った。
    「ううん、逆なんだ……」モルガナは独り言を言う。むしろ割れていてもとっておくだけの理由がこの鏡にはあるのだ。お母さんにとってとても大切な鏡だったとか。
     モルガナは鏡の破片を床に置いて覗き込むと、ゆっくりと口を開いた。
    「鏡よ鏡――教えて、お母さんとあなたのこと」
     覗き込む自分の顔がくにゃりと歪んだ。

     六十一
     鏡に映るお母さんは、なんだか怖い顔をしていた。鏡を持って行った先はどこかと思えばポンペイ遺跡で、モルガナも何度か見たことのある景色が映っていた。
     しばらくすると、今よりもずっと若いフーゴとフーゴのボスと、知らない長髪の人がやってきて――。
    「え?」
     その先は、わけがわからなかった。鏡自身も――自我があればだが――混乱しているようだった。フーゴが消えたのに、いる。お母さんがいるのに、フーゴにしか見えていない。残された二人は、必死にフーゴを捜している。ポンペイ遺跡が、二つある。
     お母さんの傍にもう一人誰かが出てきた。いや、人ではない。小さい頃からずっと一緒にいるぬいぐるみだ。小さい頃、モルガナが何故か「マンマ」と呼んでいたぬいぐるみの大きいヤツだ。その大きいヤツは、突然フーゴを殴りつけた。
    「どうして――!?」モルガナは息をのんだ。
     片方のポンペイ遺跡では、お母さんとフーゴが喧嘩を始めて、フーゴが酷い怪我を負い。もう片方のポンペイ遺跡では、紫っぽい怪人が現れて鏡を壊した。紫っぽい怪人は、残った二人の反応からしてフーゴが操っているのだろう。
    「何が起こってるの!?」
     突然烏が降ってきたかと思えば、お母さんは何かに気付いて移動し始めた。その先では長髪の人が何かを拾おうとして、今度はその人とお母さんが喧嘩を――いや、違う。喧嘩なんてものではない。これは殺し合いだ。モルガナは本能的に察知する。心臓が早鐘を打ち、呼吸が苦しくなる。体の震えを押さえるように、モルガナは自分自身をきつく抱きしめた。
     一体、この状況からどうやってフーゴとお母さんは仲良くなるのだろうか。
     お母さんはまた移動して、鏡にフーゴのボスを映したと思えば――。
    「お母さん……」
     お母さんの右手は、酷い皮膚病にかかったようになって――。
    「お母さん――」
     お母さんが鏡に飛び込んだと思えば、『左手』を失っていた。何かの気配に振り返ったお母さんは、さっきの紫っぽい怪人に捕まって……。
    「お母さ――」
     ぬいぐるみの大きいヤツが、怪人を止めようとしたけれど、何かがダメだったらしい。お母さんは倒れてしまった。鏡に映っているのは足から下だったが、穿いていたズボンが不自然にへこんでいく。ぺちゃんこになっていく。雪だるまが溶けて、帽子やマフラーだけが残るように。
    「え……あ……?」
     モルガナは自分が一体何を見たのかわからなかった。ただわかるのは、お母さんが死んでしまったことだった。映像には続きがあった。フーゴが何かを拾い上げたかと思うと、すぐにその場を立ち去ってしまった。それっきり、フーゴは戻ってこなかった。
    「うそ……?」
     この映像が嘘ではないことは、モルガナが一番良く知っている。鏡はモルガナに決して嘘をつかない。フーゴが紫っぽい怪人を操ってお母さんを殺したのは、紛れもない事実だ。嘘なのは、これまでのフーゴの言葉だった。
     お母さんが病気で死んでしまったというのも、モルガナのことを頼まれたというのも、嘘なのだ。これまでモルガナにしてくれたお母さんの話だって、嘘なのだ。
     ずっと私を騙してたんだ――。
     モルガナは呆然とした目で部屋を見回す。この部屋にあるのはみんなお母さんのものだ。お母さんを殺して、奪ったものを飾る部屋だったんだ。モルガナの視界に姿見が飛び込む。モルガナ自身が映っていた。モルガナと、お母さんのものが映っていた。ああ、そうか。自分もお母さんから取り上げたもので、戦利品の一つに過ぎないんだ。
    「は――、あは……」
     これまでの幸せが色あせてゆく。フーゴの優しい笑顔も、声も、みんな嘘だった。モルガナのことが大切なんじゃなくて、戦利品を手元に置いておきたかっただけだったのだ。
    「あは――ばかみたい……あはっあはは」
     モルガナはしゃくりあげるような笑い声を上げる。焦点の合わない目からは、何故か涙がこぼれだした。笑い声が出るのに、一体どうして涙が出るのだろう? はじめからずっと騙されていたことが悲しいのだろうか? 何一つ持っていやしないのに、幸福だと信じ切っていたことが虚しいのだろうか? まさか! だって、こんなに滑稽で可笑しいことが、他にあるだろうか? フーゴも、フーゴの仲間も、ずっと可笑しくって仕方がなかったに違いない!
    「ふふ……ふふふ……うああああああ――!!」
     モルガナはできるだけ笑おうとした。だが無理だった。モルガナは、彼らと一緒に笑う仲間なんかではないのだから。
      
     六十二
     車から降りたフーゴは、ほっと一息つく。なんとか日付が変わる前に帰宅できた。とはいえ、モルガナはとっくに寝ているだろう。フーゴは真っ暗な我が家を見上げて――。
     灯りがついている。
     モルガナの部屋も、『あの部屋』も。フーゴは急いで家に駆け込んだ。まさか、何者かが侵入したのか? だが外から無理矢理侵入した様子はないし、玄関にも鍵がかかっている。スタンド使い、という可能性を考慮に入れつつも、モルガナの部屋に駆けつける。ベッドはもぬけの殻だ。布団は冷たいので、結構前に抜け出したようだ。鍵を掛けた部屋に向かうと、ドアが開けっぱなしだった。人の気配がある。すすり泣いているような声もする。そしてその声は、モルガナの声だった。
    「モルガナ?」
     フーゴはそっと部屋を覗き込む。モルガナは床に蹲って泣いているようだった。すぐ近くに、鏡の破片が落ちている。
    「モルガナ! 怪我でもしたんじゃ――」
     バチンと音がして、伸ばした手に鋭い痛みが走った。モルガナに手を叩かれたのだ。「え?」と思わず口に出して、モルガナを見た。今までこの子が訳もなく乱暴なことをするのを見たことがなかった。モルガナは破片をつかむと、幽鬼のようにゆらりと立ち上がる。振り返ってこちらを見るモルガナの目に、フーゴは一瞬心の底からの怖気を覚えた。
     赤い。赤い目だ。泣きはらして真っ赤になっている。それだけではない。強い怒りと憎悪がある。かつて見たことのないほどの強い怒りと憎悪だ。涙で濡れているはずなのに、どこか乾ききっている。
     本当にモルガナなのか? まるで別人の目だ!
     いや、本当に別人ということもありえる。フーゴは注意深くモルガナを見つめる。
    「……つき」
    「え?」
    「嘘つき」モルガナは低い、うなるような声で言った。「お母さんを殺して、ずっと私を騙してたんだ」
     フーゴは息をのんだ。頭からすうっと血が引いていくのがわかる。この子がどうしてポンペイでのことを知っている? どうしてここまで強く『確信』しているのだ? 何か言うべきなのに、喉が震えて声が出ない。言うべきこともわからない。一体、何を言い出したのだろう? 何故こんなことを言い出したのだろう?
    「三人がかりでお母さんを殺したんだ! ひどい! お母さんのものを全部自分のものにして――私だってその一つだったんでしょ!?」モルガナは泣きながら叫んでいた。「お母さんに頼まれたなんて、よくもそんな嘘――騙される私を見て、みんなで笑ってたんだ!」
    「モルガナ! そんなこと――」フーゴは思わず叫んだ。モルガナの憎しみに満ちた目には、怒りと悲しみとが見え隠れしている。誰かに何かを吹き込まれたとしか思えない。アニェッリからは、モルガナは無事ベッドに入ったと連絡があった。アニェッリが帰宅し、自分が帰るまでに、一体誰が――。
     ――本当にそんな「誰か」がいるのだろうか? ドアには無理矢理こじ開けたような痕跡はない。鍵が使われている。鍵を探して荒らし回った痕跡もない。まるで、はじめから鍵のありかを知っている人物が開けたようだ。
     フーゴはモルガナを見る。モルガナが自分の手で、意志で、この部屋を開けたとしか考えられない。
     モルガナはフーゴをにらみつけながら、鏡の破片の切っ先をフーゴに向ける。
    「どいて」
    「モルガナ……」
    「どいてったら!」
     手と声とを震わせながら、モルガナは声を荒げた。色々と聞かなければならないことがあるが、今はあの子が落ち着くまで待った方がよいだろう。フーゴが大人しく道を空けると、モルガナは走って部屋を出て行き、自室のドアを勢いよく閉めた。
     
      六十三
     モルガナはベッドに突っ伏してしばらく泣いていた。ひどくみじめだった。フーゴに与えられたこの部屋で泣くことしかできない自分がみじめだった。
    「お母さん……」
     モルガナは写真立てを抱きしめる。写真の中のお母さんは、ずっと笑っている。綺麗な顔に、ほほ笑みを湛えている。あんな雪だるまのようなひどい死に方をするだなんて、この時は少しも思っていなかっただろう。
     ドアの外には人の気配があった。フーゴがいるようだ。「モルガナ……」と呼びかける声があって、モルガナは「入ってこないで! あっちいって!」と怒鳴った。いまさら一体何のつもりなんだろう? 
    「……お母さんのことは、君がもっと大きくなったら話すつもりだった。ドアを開けて。ちゃんとお話しするから……」
    「いや!」モルガナは拒絶する。「無理にでも開けたら! お母さんの鏡を割ったみたいにドアを壊したら!? そしてお母さんみたいに、私を殺したらいいんだ! そうしたら! そしたら……」
     モルガナはハッとする。そうだ。死んだら、お母さんのところに行ける。ずっと会いたかったお母さんに会える。たくさんの人がいるのに、自分を愛してくれる人が誰もいない世界より、たった一人でも自分を愛してくれる人がいる世界の方がいい。
     ああ、そうだ。死んだら、お母さんに会える。代父(パドリーノ)だっている。お母さんの友達だっている。赤ん坊のモルガナを囲んで、心の底から嬉しそうに笑っていた人々がいる。あっちの方が、ずっと幸せに違いない。
    「そんな乱暴なことできるわけがない」
     扉の向こうから悲しげな声がした。
    「モルガナ、僕はただ君が大切なだけだ。僕の命より大切だ。それに、イルーゾォさん……君のお母さんは、君に幸せに生きてほしいと思っている。僕のことは恨んでいい。お母さんを手に掛けたのは、僕だ。……許せないよね。憎いよね。でも、君の幸せを願うお母さんの気持ちを忘れないで」
     フーゴの声が震えている。それがモルガナには理解できなかった。なんでお母さんの気持ちを代弁できるのだろう? なんで恨んでいいとか言うのだろう? 
     そう言って油断させて、また騙そうとしているんだ。もう騙されるもんか、とモルガナは決意を新たにする。
     ふと、壁に掛けられた絵が目に入った。昔、孤児院にいたときにフーゴに描いて貰ったお母さんの絵だった。モルガナはずかずかと額を外すと、高く振り上げる。
    「こんなの――!」
     振り下ろそうとしたとき、絵の中のお母さんと目が合った。絵のお母さんは笑っている。笑っているけれど、写真の少し照れた笑顔とは違う笑顔だった。優しくて、幸せそうで、でも自然な笑顔だ。上辺だけの気持ちと適当な想像で描ける表情ではない。本当にこの笑顔を見てきたとしか思えないくらいに自然な表情だった。
    「……ふ、ふん!」
     朝な夕なずっと見守ってくれていた笑顔をゴミ箱に入れることはできず、モルガナは机の上に静かに絵を置いた。

      六十四
     フーゴは一晩中、モルガナの部屋の前にいた。モルガナが『恐ろしいこと』をしないか、ただそれだけが心配だった。その気配があれば、パープル・ヘイズにドアを蹴り壊させてでも助けるつもりだった。
     それにしても気になる。モルガナがどうやって鍵を見つけ、さらにポンペイでの出来事を知ったのか。モルガナの言い方は、まるで自分の目で目撃したかのようだった。外部の誰かに吹き込まれたのではなさそうだ。だとすれば、モルガナが自分の力で知ったことになる。
     思い当たるとすれば一つだけ――あの子にスタンド能力が発現したのだ。あの子はずっとイルーゾォを恋しがっていた。過ぎ去った時を大切に思っていた。そんなあの子に、過去の記憶や、過去の出来事を知る能力が発現してもおかしくはない。
     空が明るくなってゆくと、生き物たちは活動を始め、街も動き出す。そろそろモルガナも起きる時間だが、今日は学校を休むかもしれない。そう思ってドアの方を向くのと同時に、部屋からモルガナが出てきた。きちんと着替え、リュックを背負っているが、頬の辺りは涙で荒れていた。
    「モルガナ、今日くらいは休んでも――」
    「来ないで! 嫌い! みんな嫌い!」
    「モルガナ!」
    「嘘つき!」
     モルガナは荒々しい足取りで、玄関に向かっていく。これでは、学校を休んだところで話など出来ないかもしれない。フーゴは深いため息をつくと、モルガナを刺激しないよう、静かに後をついていった。なんにせよ、今あの子を一人にするわけにはいかない。
     玄関ドアをそっと閉め、門から敷地の外に出る。
     モルガナはもういなかった。
    「……モルガナ?」
     フーゴは辺りを見回す。門を出て全速力で走ったとしても、まだそれほど遠くには行っていないはずだ。少なくとも姿は目視出来るはずである。フーゴは血相を変えて丘の斜面を見るが、姿はない。少なくとも滑り落ちたわけではなさそうだ。では、どこに。さっきの今で、どこに消えたというのだ? フーゴの背に冷たいものが走る。
     ふと、視界で何かが光った。草むらに何か光るものがある。拾ってみれば、それはモルガナに持たせている家の鍵だった。
    「モルガ――」
     フーゴが名前を叫ぼうとしたとき、黒いバンが一台、荒々しい運転で遙かに遠ざかっていくのが見えた。
     
     六十五
     ほんの少し前のことである。
     モルガナは普段と同じように、リュックサックを背負って家を出た。だが、リュックサックの中には勉強道具など入っていない。お小遣いの全部と、ファイルに挟んだお母さんの写真、そして昨夜拾った鏡の破片だけだ。
     門を出て、フーゴがすぐ後ろについてきていないのを確認すると、草むらにポイと鍵を捨てた。もう帰らないつもりであった。もうどうでもいい。どうなってもいい。このままどこかで野垂れ死んでもいい。死んだらお母さんに会える。会いたかったお母さんとずっと一緒にいられる。死ぬのが大人になる前でよかったとさえ思っていた。子供のうちに死んでおけば、お空の上でお母さんに甘えても、ちっとも変じゃないから。
    「どうして今まで気付かなかったんだろう……」
     モルガナは呟く。これからどこに行こうか。イタリアで一番空に近い場所に行こうか。不思議と前向きな気持ちになって、モルガナは歩き出す。
     突然、後ろから来た黒いバンが、モルガナのすぐ隣で急停止した。反射的に視線を向けると、開いていたドアから腕が伸びてきて、モルガナの腕をつかんだ。そして空港職員がひょいとスーツケースを積み込むように、いともたやすくバンに押し込められる。
    「フ――」
     叫ぼうとした口を、何か甘い香りのする布でおさえられる。ドアを閉めるのとほとんど同時にバンは急発進し、丘を下っていった。
     モルガナの旅は終わったのだった。
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