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    shimotukeno

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    忘れ鏡のフーイル♀ テキスト版3 すまん、ゴッソリ抜けてた部分あったので追加しました 完全に新しい節です……

    ##忘れ鏡

    忘れ鏡のフーイル 41~55  四十一
     ネアポリス郊外の森の外れには、数年前にうち捨てられた屋敷がある。近隣住民には有名な、曰く付きの屋敷である。かつて屋敷を根城にしていたマフィアが敵対組織との抗争により一夜にして皆殺しとされたのだ。立派な屋敷であるにも関わらず、近隣の住民は近寄ろうとしない。
     かつて美しい庭園であったであろう場所は、草木が生い茂り見る影もない。噴水は枯れ、雑草がはびこっている。一面荒れ野原となった芝生に、一台の車が停まった。ドアを閉める音が二度して、二人の男が降りてきた。
    「つきましたね」
     遠足にでもやって来たかのように、無邪気にジョルノが言った。
    「はい。入りましょうか」
     フーゴは目の前の屋敷を見上げる。数年前、イルーゾォが潜入していた屋敷だ。
     この屋敷は、数年前の『抗争』の際一度組織が押さえたのだが、すぐに手放したらしい。その関係もあってフーゴが調査に来たのだが、今日はジョルノもついてきた。日頃ボスとして忙しくしているので、息抜きも兼ねて、である。
     ――廃墟探訪が息抜きになるかは議論の余地があるが。
     数年前まで使われていたとあって、中は意外と綺麗である。きちんと掃除や修繕をすれば、案外すぐ使えそうだ。
     イルーゾォが惜しんでいた高級オーディオや最新式のエスプレッソマシン、マッサージチェア、ホームシアターの機材等々はごっそり無くなっているが、年代物の家具調度品はそのままになっていた。部屋を回ればほとんどの部屋にアンティークミラーが置いてあるし、廊下にもそこかしこにかけてある。イルーゾォがねだったのだろうか。だとしたら中々の甘え上手である。プライドの高そうな美女に甘えられると、つい叶えたくなるのが男心というものなのだろうか? しかし、あのイルーゾォが可愛らしくねだる姿など、フーゴにはあまり想像がつかなかった。
     最上階まで一通り見て回った二人は、次に地下室に降りた。貴族の屋敷の地下といえば、大抵使用人の領域だ。それも往年の話であるが、マフィアの組織員も地下で寝泊まりしていた形跡が見られた。地下室にはイルーゾォが言っていた『秘密の抜け道』を探す目的もあったのだが、このエリアにはなさそうである。
     廊下の突き当たりのドアを開けると、そこは部屋ではなく、また廊下が伸びていた。その奥に、明らかに色の違うドアがあることに気がついた。少なくとも使用人用の部屋ではないだろう。先ほどのドアは領域を区別するためのドア――ということは、この先は主人の領域だ。廊下の壁や床の色も違う。期待感にかられてドアを開くと、数年滞留していた空気が一気に襲いかかってきた。
    「げっほ! うえっ」
     顔をしかめつつ、独特のほこりっぽさと臭いに我慢しつつ、足を踏み入れる。しかし、妙に心惹かれる類いの臭さだ。うんと古い紙やインクの、懐かしいにおい。そう、路地裏の古本屋のような、大学図書館の閉架書庫のような――。
    「わあ……」
     フーゴの口から、うわずった感嘆の声が漏れる。壁はほとんどガラス戸つきの本棚で、どこもかしこも本で埋め尽くされている。フーゴは本棚に駆け寄った。国内外で出版された、百年は昔の本ばかりだ。稀覯本もある。恐らく初版本もだ。地下室で、ガラス戸が閉めてあるので状態もそれほど悪くなさそうだ。十分読むに耐えうる。なぜ置いていったんだろう? と首をかしげるほどの垂涎もののコレクションだ。これにはフーゴもパープル・ヘイズ並によだれが出そうになる。
    「わ……わあ~っ……」
     全部貰っていきたい。それが出来なければ、全部読んでいきたい。というか、もう持っていっていいんじゃあないか? 稀覯本を前にしてひとりでに動き出そうとする手を押さえ、フーゴはなんとか本来の目的を思い出す。
     ――なんだっけ。そうそう、秘密の抜け道を探すんだった。
     フーゴは改めて図書室を見回す。部屋にはらせん階段があり、どうやら上階の別の部屋に繋がっているようである。位置的には撞球室(ビリヤードルーム)だろう。ただ、らせん階段は確認していないので、そこにも隠し扉があるか、もしくはさらに上の階に繋がっているのだろう。
     秘密の抜け道があるのは恐らくこの部屋だ。本棚を隠し扉にするのは『いかにも』である。だが、見たところよくある背表紙だけのダミーの本棚はない。全ての本棚に本物の本が収まっている。ジャンルも多岐にわたっていて、きちんと分類されていて、整然と並べられていて、――ついつい手が伸びていく。
     ――あれ、何しに来たんだっけ? そうそう、秘密の抜け道。
     そんな感じで、フーゴは一つの本棚を調べるごとに三回ほど正気を取り戻す必要があった。
     ふと、とある全集に目がとまった。本に怪しいところはない。どれも本物だ。いわゆる作家の全集である。重厚な赤い革の装丁に、金の箔が押されている立派な書物だ。小口にマーブリングまである。本そのものに不審な点はないが、その並び順がフーゴはどうにも気になってしまった。他の本はきちんと番号順に並んでいるのに、この作家の全集だけ、番号順に並んでいないのである。恐らく前の持ち主がうっかりしていたのだ。急に呼ばれたとか何かで、順番を間違えてしまったのだ。人間、そんなこともあるだろう――。
    「クソッ! なんだこれふざけてんのか!?」
     フーゴは全集を引っ張り出すと、きっちり番号順に並べて収め直す。ふう、と満足のため息をついたのも束の間。本棚から「カチリ」とスイッチが押されたような音がしたかと思ったら、何かが「ガコ」と外れるような音がした。不吉な異音に、フーゴはとっさに顔を上げ――下顎がガクンと下がった。
    「うわあああ!」
     全集を満載した本棚が滑るようにフーゴの方に向かってきたのである!

      四十二
     フーゴの叫び声に駆けつけたジョルノが見たのは、パープル・ヘイズと一緒になって本棚を押さえるフーゴの姿だった。どうやら本棚は扉になっていて、その奥には暗がりの通路が続いているようだ。ジョルノの顔は、一気に少年のそれになった。
    「隠し扉!」
    「ええ……どうやら……」
     フーゴは冷静さを取り戻してパープル・ヘイズを引っ込めた。とっさにパープル・ヘイズを出してしまったが、キャスターがついているので見た目に反して扉はそれほど重くはなかった。
     この棚には重量を感知するスイッチが仕込まれているのだろう。全集は喜劇・史劇・悲劇・詩の四つのジャンルにで分けられており、当然、厚みが違ければ、重さも違う。正しい順番に並べると、スイッチの上に反応する重さの本が配置され、ロックが解除される仕掛けになっているのだ。
     フーゴは扉の向こうを見た。暗い石造りの通路がずっと続いている。
    「探検しましょうよ、これ」
     ジョルノは目を輝かせて言った。大組織のボスであるが、まだ少年らしい部分が多分に残っている。いや、少年かどうかは関係ないだろう。古い屋敷の隠し通路はロマンだ。フーゴだってそれを解する情緒ぐらいは持ち合わせている。
    「でも、古い道ですから。途中で崩落でもしたら洒落になりませんし、有害物質が溜まっているかも……」
     ――しかし、パッショーネのボスにロマンで命を落とされたら、たまったものではないのである。
     ジョルノは一瞬不満げに頬を膨らませると、スタスタと図書室から出ていき、数十秒後、両手いっぱいに弾薬を持って戻ってきた。
    「なんですかそれ」
    「地下室に隠してあったんですよ」ジョルノは得意げな笑顔を浮かべている。
    「そうでしょうけど、そうじゃないでしょう」嫌な予感を覚えつつ、フーゴが言った。
    「安全なことがわかればいいんでしょ? 万が一生き埋めになっても、僕たちならなんとかなります、ゴールド・エクスペリエンス!」
    「うわあやっぱり!」
     弾薬はネズミやコウモリになり、隠し通路の闇に消えていった。
     
      四十三
     数十分後、二人は隠し通路を探検していた。先に派遣したネズミもコウモリも、無事に光のあるところにたどり着けたようだった。
     一方通行の道とはいえ、光の届かない暗闇である。頼りになるのは懐中電灯とジョルノが生み出したホタルの光だけだ。かれこれ数百メートル歩いた気がするが、一向に出口が見えない。ジョルノ曰く全長一キロメートルくらいあるらしいので、フーゴはこの道を作らされた人に心底同情した。
     ひんやりとした空気が肌を舐め、フーゴは身震いをした。足下には水が溜まっている箇所もある。かつてイルーゾォはこの道を一人で歩いたのだ。緊急だったので懐中電灯も持たされなかったかもしれない。だとしたら、さすがのイルーゾォも心細かったに違いない。何より頼りになる彼女の能力には「光」が必要なのに。この道を行く彼女は、まったくの孤独だった。
     さらに数百メートル歩いて行くと、明るい場所に出た。見上げれば空が丸く切り取られている。足下には縄梯子が落ちていて、溜まった雨水に浸かっていた。あまり古いものではないので、イルーゾォが使った縄梯子だろう。ジョルノは縄梯子を拾うと、ゴールド・エクスペリエンスに触れさせる。縄梯子は蔓性の樹木に変わり、上へ上へと伸びて行く。根はしっかりと壁面に食らいつき、枝分かれし、絡み合い、自然の足場を作り、しばらくすると映画に出てくる古代遺跡のようになった。ジョルノは満足げに胸を張る。
    「こういうのを登ると、冒険って感じしますよね」
     そう言うと、ジョルノは張り切って登り始めた。フーゴも感心しつつ、その後に続く。
     井戸から這い出ると、イルーゾォの言ったとおり森の中だった。すがすがしい若緑の風が頬をくすぐる。しばらく地下道を歩いていたせいか、空気がとても美味しく感じられた。
    「さて、屋敷に戻りましょうか」ジョルノは屋敷の方角に向かって歩き始めた。
    「ええ。森林浴としゃれ込みましょう。ところで、あの木はそのままにしておくんですか?」
     ジョルノは井戸を振り返り、にっと笑った。
    「このままにしておきましょう。小動物が井戸に落ちても、あれなら上がってこられるでしょう?」
     
      四十四
    「はあ!? あの部屋まだ残してんのかよ!? 何考えてるんだ!?」
     鏡の中にイルーゾォの声が響いた。
    「何って。鏡とか衣類とか……全部処分してしまうのもどうかと思うんで。かといって僕の部屋もあまり広くないですから、そのまま置かせて貰ってます。家賃もたいしたことありませんし」
    「へん、悪かったな貧乏でよ」イルーゾォはへそを曲げて言った。
    「いじけないでください」フーゴは困ったように笑った。「今、広い家への引っ越しを考えているんです。引っ越したらその家に荷物を移そうと思ってます。それで、ゆくゆくはモルガナを引き取るつもりです」
    「え――?」
     イルーゾォは目を丸くしてフーゴを見る。そして、どこか困惑したように、地面の上に視線をさまよわせる。
    「フーゴ、お前は十分すぎるほどよくやってくれている。正直ここまでしてくれるだなんて思ってなかった。この上さらにモルガナを引き取ってしまったら、お前は……その、色々やりづらくなるだろう。そこまでは望んじゃいない」
     フーゴはほほ笑んで、首を振る。イルーゾォの言いたいことはわかる。要するに、自分の人生を大切にしろといいたいのだ。訳ありの子連れでは、いざフーゴが結婚を考えたときに障害になるであろうと。そう言いたいのだ。
    「モルガナは、前に僕の絵を描いてくれました。その絵には、僕とあなたとモルガナ、そして三人で住む家が描いてありました。僕はそれを実現したい。僕の人生の夢です」
     はじめは、モルガナから母親を奪ったことへの贖罪だった。だが、今はそれだけではない。フーゴ自身もあの子の成長を見たいと思っている。いつしかあの子がフーゴにとっての希望で、未来そのものになっているのだ。
    「フーゴ、私は、この場所に縛られた幽霊だ。だから、あの子の夢は……叶わないんだよ」
     イルーゾォは呻くように言った。確かに、イルーゾォは自分の死に場所の、しかも鏡の中にしか存在しない幽霊だ。『一緒に住む』だなんて、まさしく絵空事である。現実的ではない。そんなことはフーゴも理解している。それでも。
    「それでも僕は、そんな夢のために努力したいんです。そんな夢のような未来のために」
     
      四十五
     季節が巡り、また冬が訪れる。
     フーゴはナターレの打ち合わせのために孤児院を訪れていた。お絵かきの好きなモルガナのプレゼントは既に決まっている。
     フーゴとシスター、主だったスタッフとの間で、昼食会の献立と料理の手配、トンボラ(ビンゴゲーム)の景品についての打ち合わせが行われた。会議室の外では毎年のように子供達が耳をすませているので、顔を寄せ合い、小声での話し合いである。悪事を行う相談でもしているようだと新入りのスタッフが笑っていた。
    「あの、シスター、少々お話が」
     打ち合わせを終え、部屋を出ようとするシスターをフーゴは呼び止めた。シスターはいつもの慈しみに満ちたほほ笑みで振り返る。
    「モルガナのことです。将来的に、僕が引き取ろうと思っています」
    「あら――」シスターは目を見開く。
    「家も広い家に引っ越すことにしました。今の僕では色々と足りないかもしれませんが」
    「思ったより遅かったですね」シスターは笑って言った。「もっと早くそうされると思っていましたよ」
    「え――」
    「あの子はあなたにとても懐いていますし、帰れる家と家族が出来るのは喜ばしいことです。フーゴさんなら私も安心できますよ。それに――」
    「はい、何でしょうか」
     フーゴは姿勢を正して言った。
    「あの子はどこか他の子供と違うところがあるようです。フーゴさんも気付いているのではなくて?」
     普段柔和なシスターの目が鋭く光った。
     他の子供と違うところ――というのは、恐らくスタンド能力のことだろう。だが、シスター自身はどこまで知っているのだろう? 彼女自身はスタンド使いではないようだ。それらしいところは一切見られなかった。
     しかし、長年多くの子供達を見続け、神に仕える立場である彼女は、スタンド能力そのものは知らなくとも、『何かが違う』ことを直感的に見抜くことができるのかもしれない。
     実際のところ、モルガナを引き取る理由の一つにはあの子のスタンド能力のこともあった。イルーゾォたちはチームの機密保持を建前としていたが、能力が不明な以上、やはりスタンド使いの自分達の目の届く範囲にいてもらうのが安全だ。万が一非スタンド使いとの間に『何か』が起こってしまったら、あの子自身も傷ついてしまうだろう。
    「ええ、実はそうなんです」フーゴは重々しく切り出した。「あの子の母親は、特殊な能力を持つ人材でした。遺伝的に、モルガナもその能力を引き継いでいる可能性が高い。しかし、親子でも同じ能力とは限らない。その気は無くとも他人を傷つけることもあります。幸い、僕たちはその能力に対する知見があります」
    「やはりそうでしたか。では、お引っ越しが済みましたら、モルガナが遊びに行く機会を設けましょう」
    「よろしくお願いします」
     フーゴは深々と頭を下げる。シスターの賛同は得られた。となると、次はイルーゾォだ。特殊な地縛霊であるイルーゾォの場所を移すとなると、幽霊か、魂に干渉する必要がある。そんな能力を持つものが、組織にいただろうか? いや、どうにか探さねばなるまい。顔を上げたフーゴの目には強い光が宿っていた。
     
      四十六
     ずっと鏡の中にいると、今が何月何日なのか、だんだんわからなくなってくる。フーゴが来るたびに聞いてはいるが、やはりズレが生じるのだ。というのも、この頃どうやら時折眠っているらしいのである。それも、数時間単位ではなく、一日、二日単位で。幽霊になっておよそ三年にして睡眠を覚えたのか、それとも何か別の理由があるのか、それはイルーゾォにもわからなかった。
     計算によると、多分今日はモルガナの誕生日――のはずだ。
     イルーゾォは膝を抱えてじっと待つ。
     去年よりも大きくなったことだろう。
     手足もすらっとして、子供らしくなってきただろう。
     おしゃべりも上手になって、生意気にもなって、大人を言い負かすこともあるかもしれない。
     口答えするようになって、誕生日にこの遺跡に来るのを渋るかもしれない。
     ――ありえるな。イルーゾォは自身の幼少期を思い出して、一人苦笑した。
     すると、石壁を曲がる足音がして、イルーゾォは顔を上げた。
     いつものフーゴの影と、思っていたより大きな女の子の影が近づいてきた。

      四十七
    「ねえフーゴ、どうしてマンマはあそこにいるの?」
     車の中でモルガナが尋ねた。モルガナは去年と同じようにイルーゾォに話しかけ、去年と同じようにぽかぽかしたらしかった。フーゴにはモルガナのいうぽかぽかがわからなかったが、トリッシュとボス・ディアボロの間で通じ合うものがあった――伝聞だが――ように、イルーゾォとモルガナの間でもあるのだろう。
     それよりも、モルガナの無邪気な質問である。幼子の疑問というのは時折鋭く核心を突いてくる。
    「マンマはお病気で亡くなったんだけど――」
    「うん」
    「急病でね、あの場所で亡くなったんだよ」
    「ふーん」
     紛れもなく事実なのだが、真実ではない。かと言って真実を告げることも出来ない。フーゴは心苦しさに密かに顔をゆがめた。
     モルガナはそれ以上聞くわけでもなく、後ろに流れて行く風景を眺めていた。
    「ねえ」モルガナがまた口を開く。「どこ行くの? 来た道と違うよ?」
    「ふふふ、今日はね、これから僕の家でケーキを食べるよ。シスターには言ってあるから大丈夫」
    「フーゴのおうち!? ケーキ!?」
     モルガナは目を輝かせた。
     フーゴの新居はネアポリス西部の住宅街にある。もとは組織の不動産だったのを、この度フーゴが購入したのだ。実家のような屋敷ではないが、一人暮らしには大きすぎるほどの広さである。大きな庭もあるし、モルガナものびのび過ごせるはずだ。犬だって飼えるかもしれない。
     モルガナは車から降りると歓声を上げる。
    「おっきーい! ほんとにフーゴのおうちー!?」
    「ほんとだよ。でも、孤児院の方がずっと大きいでしょ?」
    「そうだけどー。お部屋は一人のお部屋じゃないもん」
    「うーん、それもそうだね。さあ、上がって。おやつにしよう」
    「うん!」
     元気に返事をして、モルガナは家に入る。すると、何かに気がついて、急にもじもじし始めた。前に彼女が描いた絵が、額縁に入れて壁に飾ってあるのだ。
    「なんでかざってんの……?」
    「そりゃあ、モルガナが描いてくれた絵だからだよ」
    「でもへたくそだし……」
     モルガナは口をとがらせる。拗ね方も、プライドが高いところも、既にイルーゾォそっくりで、フーゴは思わず笑ってしまった。
    「じゃあ、また僕に描いてくれる? それも飾るから。そしたら、モルガナが前より上手になったのもわかるよ」
     モルガナはちょっと恥ずかしそうに、こくりと頷いた。
     
     四十八
     フーゴはいつも通り、ポンペイ遺跡を歩いていた。観光シーズンが終わり、暑さもようやく和らいで、色々な意味で過ごしやすくなってきた。足取りも自然と軽くなる。
     あれ以来、シスターの後押しもあってモルガナは何度もフーゴの家に遊びに来た。最初は借りてきた猫のように大人しくしていたが、今やすっかり慣れて、飼っている猫のように我が物顔でくつろぐようになっている。きっとイルーゾォもそうなのだろう。彼女は高慢で気ままな猫のようだ。慣れないうちはツンとお高くとまっている。我が儘なのは警戒のポーズなのだ。だが慣れてくると一気に図々しくなる。この場合の我が儘はリラックスのサインである。どちらにせよ我が儘なことに変わりは無いのだが、その意味合いは大きく違う。イルーゾォが家に移ってきたら、なんだかんだ言っても最終的には我が物顔で家をうろつくに違いない。図々しい幽霊がいるなんて、きっと楽しい光景だろう――とフーゴは想像してくつくつ笑った。
     そのイルーゾォを家へ引っ越させる件は進みつつある。多くのスタンド使いと渡り合ってきたポルナレフに相談したところ、魂に干渉するスタンド能力者には心当たりがあるという。だが、現在生きているかどうかすら不明な上、かなりのくせ者で下手すればこちらが餌食になりかねないと苦い顔をしていた。だが、ジョルノを経由すればあるいは――とも言っていた。そのスタンド使いとジョルノとの間にどんな関係があるのかははっきりとは言わなかったが、とにかく交渉してみる価値はあるだろう。そのスタンド使いは現在捜索中である。
    「あれ――」
     ふとフーゴは行き過ぎていたことに気がついて足を止める。考え事に夢中になっていたようだ。振り返ると赤黒いしみが十メートル後ろの方にあった。いくら考え事していたとはいえ通り過ぎるなんて、らしくない。視界には入っていたはずなのに。フーゴは苦笑すると、来た道を引き返していった。
     
      四十九
     鏡の中のイルーゾォは寝起きのようだった。しどけない様子で、目はとろんとしている。イルーゾォは以前「鏡の中も案外悪くない」などと言っていたが、何年も鏡の中にいるのは、やっぱりひどく退屈なのだろう。この退屈な環境に適応した結果睡眠を覚えたのかもしれない。しかし、イルーゾォも引っ越してくれば、退屈とはもうおさらばだ。
    「おはよ……」イルーゾォはくわあとあくびしながら言った。
    「おはようございます、イルーゾォさん。もう昼過ぎですけどね」
     フーゴはくすりと笑った。あくびをするときの仕草まで母子そっくりである。
     イルーゾォはいつも通り今日の日付を尋ねると、静かにモルガナの近況を聞いていた。最近の彼女は初めて出会った時からは考えられないほど、柔和な顔をしている。険がとれたと言うのだろうか? 昔モルガナが聖母像を「マンマ」と言ったときは「流石に似てないだろう」と思ったものだが、今ではその気持ちがわかる。今の彼女を見て、誰が暗殺者だと信じるだろう。静謐な時間が彼女を変えたのだろうか。それとも、今の彼女が暗殺や犯罪と離れた素の彼女なのだろうか。以前の傍若無人な彼女もいいが、今の彼女もそれはそれで安らぎを感じる。フーゴは密かに、イルーゾォの指先に自分の指を重ねた。
    「それで? どうなったんだ?」
    「ええ」ドキリとしつつフーゴは答えた。「パンケーキにブルーベリーで顔を作ったのはいいんですけど、ホラー映画みたいなできばえで……楽しみにしていたクマさんのクッキーは全部繋がっちゃうし、散々ですよ。あまりのことにモルガナは泣いちゃいましたし」
     大げさに肩をすくめてみせると、イルーゾォはからからと笑った。
    「ところで、あの子はそろそろおしゃれに目覚め始める頃かな」イルーゾォがぽつりと呟く。
    「どうでしょう? 四歳ですよ? まだ早いんじゃあないですか?」
    「どうでしょうって、お前のがよく知ってるんだろ」
    「そう言われても……」フーゴはモルガナを思い浮かべる。髪型には特にこだわりがあるようだが、服装はどうだろうか。基本的に与えられた服を着ているだけだし――。そういえば、最近モルガナが年上のお姉さんのメイクごっこに付き合わされていたのを見た。子供用のマニキュアを塗って貰ったのを嬉しそうに見せにきたっけ――。
    「……かもしれませんね? お姉さんに囲まれてたら、興味を持つのも早いかもしれませんし」
    「じゃ、次の誕生日プレゼントは香水だな」
    「早いですね、色々と……。でも、他でもないあなたの希望であれば。今時は子供用の香水とかもありますが、どんなのにしますか?」
    「ああ、もう決めてあるんだ」
     イルーゾォがニッと笑った。
     
      五十
     それは、冬の始まりの頃であった。木々の葉はすっかり落ち、枯れ葉の降り積もった歩道からはしゃくしゃくと妙に心地よい足音が聞こえるようになった。幹部のミーティングを終えて、フーゴは縮こまりながら執務室に戻る。太陽はすっかり高くなっているが、いやに風の冷たい日だった。廊下の空気も冷え冷えとしている。
     暖かい執務室に入り、フーゴはほっと一息つく。やはり「寒い」というのはいけない。心身の毒である。
    「フーゴ、電話が何度も」
     部下の一人が神妙な顔をしながら、私用の携帯電話を手渡してきた。画面を開くと、何件も留守番電話が入っている。――すべて孤児院からだった。
     ――嫌な予感がする。まさか、あの子の身に何かあったのだろうか。それとも、能力が発現して、何か起こってしまったのだろうか。次々と湧いてくる悪い想像に、ボタンを押す指にも自然と力が入ってしまう。
    「プロント? パッショーネのフーゴです。何度もお電話いただいたようですが――。……なんですって?」
     つとめて冷静であろうとしたフーゴが耳にしたのは、そのどれでもなかった。
     
     五十一
     三日後、フーゴは喪服を着て、街の礼拝堂にいた。隣にはモルガナが不安な様子でフーゴの袖をつかんでいる。
     今日は、孤児院のシスターの葬儀だ。三日前、シスターは自分の部屋で倒れているのを発見された。急いで病院に運ばれたが、助からなかったのだ。あまりにも突然で、あっけない別れだった。長年孤児院の子供達のために身を捧げてきたような人だった。スタッフが増えても、楽をしようとはしなかった。かえって張り切るくらいだった。長年の労苦に加え、近頃の寒さが、老体に障ったのだろうか。
     フーゴは唇を噛む。いつか彼女に助けて貰ったのに。まだ十分にその礼ができていないのに。
     礼拝堂には孤児院の子供達の他にも、彼女の知り合いのシスターや神父、地元の人々や、見知らぬ若い顔がたくさん集まっていた。
     厳粛なミサが終わると、シスターの棺は墓地へと運ばれていった。モルガナはフーゴの手を強く握りながら、霊柩車を見送る。
    「シスターとはもう会えないの? お話できないの?」
     モルガナは目に涙をいっぱいに溜めてきいた。幼いながら、直感的に『死』というものを理解しているようだった。
    「シスターは、神様のところに行ったんだよ」フーゴはその場でしゃがんで、優しい声で言った。「けどね、シスターはとても優しい人だから、神様と一緒に皆のことを見守ってくださる。もちろん、モルガナのこともね。それにね、心の中にいるシスターとなら、いつでもお話できるよ」
    「こころのなか……?」モルガナは不思議そうに繰り返して、胸に手を当てる。「こころのなかに、シスターいるの……?」
    「そうだよ」フーゴは花びらを慈しむような手つきで、モルガナの頭を撫でた。「心の中にいるシスターとお話するときはね、シスターのことをよく思い出すんだよ。こんな時、シスターはなんて言うかな? どんな顔をするかな? ってね。うんとうんと遠くにいってしまったけど、思い出すときはその人は傍にいてくれる。思い出してないときは、遠くから見守ってくれてる。ひとりぼっちだと思うとつらいこともあるけど、見守られて、わかってくれていると思えばちょっぴり寂しくなくなるんじゃないかな?」
     モルガナはフーゴの言葉を咀嚼するかのようにゆっくり瞬きをする。目に溜まっていた涙が一筋頬を流れていった。それからしばらくして、口を開いた。
    「マンマも……?」
    「もちろんそうだよ」
    「でも……」モルガナは悲しげに眉根を寄せる。「モルガナ、マンマのことおぼえてない……」
    「大丈夫。マンマはモルガナのことをずっと思ってる。だからね、マンマの心はずっとモルガナの傍にいるんだよ」
    「ほんと?」
    「本当だよ。マンマだけじゃない。モルガナの代父(パドリーノ)も、マンマの友達も、見守ってくれてるよ」
     フーゴが微笑みかけると、モルガナはほんの少し嬉しそうな笑顔になった。
    「さあ、お墓に行こう。シスターに一旦のお別れをしなくちゃね」
     切なくなるほど透き通った冬空の下、二人は手を繋いで歩き出した。
     
      五十二
     埋葬が終わると、子供達や関係者は静かに孤児院へ帰ってきた。普段の賑やかさはあの日以来どこかへ行ってしまった。短い会話がぽつりぽつりとあちこちで交わされては消える。奇妙な静けさがあった。フーゴはモルガナと手を繋いで、孤児院に入る。
    「さあ、着替えておいで。今の服のままじゃ寒いからね。着替えたら、また戻ってきてくれる? 大事なお話があるんだ」
     モルガナはこくんと頷くと、部屋に戻っていった。五分後、暖かそうな服装に着替えたモルガナが戻ってきた。二人はそのまま事務室に入る。事務室にはスタッフが二人いた。フーゴはモルガナをソファに座らせて、自身はその正面で膝をついた。
    「モルガナ、こんな時にする話じゃないかもしれないんだけどね」
    「なあに?」いつもと違う雰囲気に、緊張した顔つきでモルガナがきいた。
    「孤児院が落ち着いたら、僕の家で暮らさない? シスターとは話を進めていたのだけれど。いつでもモルガナが住めるようにしてあるんだ」
    「フーゴのおうち……?」モルガナはきょとんとした目になった。
    「僕は、君のマンマから君のことを頼まれてるんだ。見守ってくれって。僕も君のマンマに約束したんだ。僕に出来ることは何でもやるって……だから……」
    「へえー、やっぱりモルガナってフーゴの家に住むんだ?」
     事務室の外で聞き耳を立てていたらしい、中学生の男の子が入ってきた。今年に入ってモルガナが何度もフーゴの家に遊びに行くので、年上の子は薄々察していたのだろう。スタッフが何か言おうとする前に、男の子は口を開いた。
    「モルガナはさ、フーゴと暮らしたい? フーゴの家族になりたい?」
     モルガナはフーゴの顔をよく見てから、遠慮がちに頷いた。男の子はニコッと笑った。
    「じゃ、その方がいいよ。帰りたい家があるんならさ。でも、時々遊びに来てよね。フーゴもだよ」
    「もちろんさ」フーゴは笑顔で言った。「みんなも、僕の家の近くに来たら遊びにおいで。ジェラートをたくさん用意しておくから」
    「はいはい、まだお話の途中なんだから、邪魔しないの」
     スタッフに言われると、男の子は素直に事務室から出て行った。モルガナはどこか夢を見ているような目でフーゴの顔を見ている。
    「モルガナとフーゴが家族になるの?」まだ信じられないような声色でモルガナがきいた。
    「そうだよ。みんなと一緒じゃないからちょっと寂しくなっちゃうかもしれないけど。みんなに会いに行くし、みんなも遊びに来てくれるって。それに、時々僕の友達も遊びに来るし」
    「ミスタお兄さんも? トリッシュお姉ちゃんも?」
    「うん。他にも何人かいるよ」
     モルガナの顔に、ほっとしたようなほほ笑みが広がった。以前モルガナが家に来たときに、ジョルノとミスタ、トリッシュ、そして亀のポルナレフも遊びに来たのだ。子供の相手が上手なミスタと、美人のトリッシュにはすぐに懐いていた。ジョルノもゴールド・エクスペリエンス・インチキ手品で鳩や蝶を出して喜ばせていたし、亀には最初おっかなびっくりだったが最終的には触ることができた。モルガナの中でも、彼らと会ったのは楽しい記憶になっていたようだ。
    「でもね」モルガナはもじもじしながら口を開いた。「フーゴといつも一緒なら、いいの。モルガナ、さみしくないよ」
     
      五十三
     数日後、フーゴはコートに身を包み、ポンペイ遺跡を早足で歩いていた。早足なのは寒いから、というのもあるにはあるが、一刻も早くイルーゾォに会いたかった。モルガナを引き取る日が決まったのだ。そして、例のスタンド使いの消息が判明したのだ。良い知らせと良い知らせである。ああ、早く伝えなくては! そう思うと自然と足も速くなる。
     赤黒いしみのところで、フーゴは急停止した。あれから四年近くも経つと、しみも雨風によって薄くなっている。そのためか最近見落としがちなのだ。
     フーゴはいつものように鏡を取り出すと、すぐに鏡の中に引き込まれた。
    「やあ、随分ご機嫌じゃないか、フーゴ?」
    「ご機嫌にもなりますよ!」フーゴは大きな声で言った。威圧的な声ではなく、喜びで自然と大きくなった声だった。「モルガナを引き取る日が決まったんですから!」
    「そうか……」イルーゾォはため息交じりに言った。「よかった……」
    「それだけじゃあないですよ。魂に干渉できるスタンド能力者の消息が判明したんです。交渉はこれからですが、うまくいけば、あなたも僕の家でモルガナと過ごせます。いえ、必ず交渉を成功させて見せます」
     興奮を隠しきれずにまくしたてるフーゴの顔を、イルーゾォは沈黙したまま見つめていた。その顔に、悲しいくらいの優しい微笑みを湛えて。
    「ねえ、来てくれますよね? あの子を一番近くで見てあげられるんですから。いや、見てあげなくては……ねえ、イルーゾォさん!」
    「いけない」イルーゾォは首を振る。
    「どうしてもこの遺跡から動けないなら、今まで通り――いえ、もっと頻繁にモルガナを連れてきますよ。だから――」
     フーゴは段々と懇願するように言っていた。イルーゾォがこれから言おうとすることがわかってしまうのだ。けれど、認めたくなかった。それだけはいやだった。
    「そうじゃない」イルーゾォはどこまでも穏やかな声で言った。「もう、皆のところに行かなくちゃ。いい加減怒られちまう。お前がこれからもあの子の傍にいてくれるなら安心だ。わかるか? フーゴ。私はすっかり安心してしまったんだよ」
     そもそもイルーゾォはモルガナのことが気がかりであの世に行き損ねた幽霊だ。その彼女の気がかりがなくなってしまった。この世に彼女を縛り付ける未練が消えたのだ。喜ぶべきことだ。だのに。
    「いやですよ」
     心が受け入れられないのだ。イルーゾォの望みを叶えれば、彼女は安心してこの世を去るだろう。そんなこと、本当はわかっていた。でも、どこかでもっと娘の成長を見たくなるのではないかと期待していた。三人で暮らせるのではないかと、はかない夢を見ていた。
    「消えないで……」
    「消えるわけじゃない。行き損ねた場所に行くだけ。そこが私の帰るべき場所なんだ」
    「同じ事ですよ」フーゴは喉から声を絞り出す。「あの子だって、大きくなりました。お母さんが幽霊だってきっと受け入れますよ。あの子の心にはずっとあなたがいて……あなたを恋しがっている……。僕だって、……僕だって、あなたを――愛しているんです」
    「うん、知ってる」イルーゾォはくすりと笑った。
    「胸に秘めてきたのですが?」
    「お前マジに言ってんのか? 完全に恋する少年の目だったぞ」イルーゾォは呆れたように眉をひそめる。「けど、だからこそ安心できたんだよ。お前なら大丈夫だ」
    「僕を知らないわけじゃないでしょう? 僕はキレると辞書で人を殴るような人間です」
    「そう、この数年間で私もお前を知った。お前は、自分で思っているよりずっと分別がある人間だ」
     フーゴは呆然としてその場にへたり込んだ。きっと、どうあってもイルーゾォの気持ちは変わらない。そのことがわかってしまう。フーゴもまた、イルーゾォのことを知ったから。高慢で、我が儘で、プライドが高くて、意地悪で、気ままで、扱いの面倒な彼女が、最近はずっと穏やかで柔和な顔をしていた。俗世を離れて、穏やかな祈りに身を捧げた女性のように。本当は、もっと前から安心していたのだ。それを今まで――モルガナが正式にフーゴに引き取られることが決まるまで、留まることにしていたのだろう。むしろ、予定より長く存在していたのだ。
     それでもフーゴは、彼女を引き留めたかった。まだ、ちゃんとモルガナに会わせていない。直接モルガナと言葉を交わせていない。あの子の夢を叶えられていない。頭では無理だと知りながら、心では求めてしまうのだ。水面に浮かぶ銀色の月に手を伸ばしてしまうように。
     イルーゾォは子供をなだめるように座って、フーゴと視線を合わせる。
    「フーゴ、あの子は、私に似ているか?」
     突然、何を言い出すかと思えば――。
    「ええ、そりゃもうね!」フーゴはやけになって叫んだ。「何から何までそっくりで――あなたに一日中見てほしいくらいに似てますよ!」
    「そうか。ならやっぱり、強がりで、さみしがりで、へそ曲がりだ。死人にばっかりかまけていると、家をでていっちゃうかもな」イルーゾォは冗談めかして言う。「私がいるべき場所は死者の世界で、お前がいるべき場所は仲間のところで――あの子の傍だ。互いにあるべき場所に帰らなくちゃな」
     イルーゾォの穏やかなほほ笑みがにじんで、ぼやけていく。涙が溢れて頬を流れ落ちて行く。それも魂の動きが作り出したイメージに過ぎないのだが。魂のイメージに過ぎないのなら、どうして。
    「おいおい、泣くなよ!」
    「泣きたかありませんよ、僕だって!」フーゴは叫ぶ。「避けられないのなら、せめて、せめてあなたの姿を目に焼き付けたいのに――勝手に溢れてとまらないんですよ!」
     ふっと目の前が青白くなる。フーゴはイルーゾォに抱きしめられていることに気がついた。肉体はないので、ぬくもりも、感触も感じないはずだけれど、――あたたかい。まるで春の日の陽だまりのような。
    「いやです、……ずっといてください。もっと話がしたいんです」
     あふれ出てくるのは涙だけではない。子供のように率直で、拙い言葉の数々もとまらなくなる。
    「ずっとあなたの顔を見ていたい。あの子を見つめるあなたの横顔を、まなざしを見たい。……ずっと同じ空を見て話をしたいんです、あなたの隣で……」
    「うん」
     彼女はそよ風のようなどこまでも優しい声で、しみじみと言った。
    「いいもんだな。そこまで想われるってのは……。私は、お前のおかげで、安らかな心で旅立てる。この暗殺者のイルーゾォがだ。誇りに思えよ、フーゴ。お前は最良の選択をしたんだ」
     イルーゾォは腕の中からフーゴを解放する。フーゴはイルーゾォの顔を見上げた。イルーゾォの目にも涙の珠が光っている。
     ――寂しがりが、強がってるんじゃあないのか。
     フーゴはそう思った。それでも、イルーゾォの顔には、心の底から安堵したような――どこか晴れ晴れとしたような爽やかさがあった。
    「全く、そんな顔されちゃ、仕方ねえな」イルーゾォはフーゴの頭を撫でる。「お前のこともあの世から見ていてやる。情けねえところも、かっこいいところも、死ぬまでずっとだ。それなら、一緒にいるのと変わらないだろう? ……だからさ」
     イルーゾォは、魂に焼き付けるようにフーゴの姿を見つめる。フーゴの濡れた目には、自分の姿が映っている。それははっきり映っていた。
     イルーゾォは互いの顔しか見えない距離まで顔を近づけると、フーゴの震える唇を塞ぐ。しばらくの後、ぽかんとした顔で驚くフーゴを見て、イルーゾォはあの勝ち誇ったような、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
    「お前、長生きしろよ」
     鏡の世界が真っ白な光に包まれた。
     
      五十四
     気がついたら、フーゴは元のポンペイ遺跡にいた。鏡を見ても、彼女はいない。きっと、二度と映ることはないのだろう。空を飛ぶ烏の影が地面を滑り、枯れ葉の匂いを乗せた風が髪をもてあそぶ。ふと足下を見れば、赤黒いしみは完全に消えていた。まるではじめから全て幻であったかのように。
     だが、幻ではない。
     ここにイルーゾォがいたことは、胸にぽっかりと空いた穴が、頬を濡らす涙が証明してくれる。
    「イルーゾォ、さん……」
     フーゴは石畳に手をつき、力なく呟く。葉に置かれた露が落ちるように、涙がぱたぱたと石畳に水玉模様を描いていった。フーゴは彼女と再会した時のことを思い出す。寂しそうなほほ笑みを思い出す。幽霊のくせに顔を赤らめていたのを、尊大な物言いを、突然暴れ初めて急に真顔になったのを、娘に触れられずひどく気落ちしていたのを、胸に挿した花に喜んでいたのも、娘の影を抱きしめていたのも、険のとれた穏やかなほほ笑みも、全て思い出す。全て思い出せる。全部魂に刻んでいる。何もかも魂に刻まれている。
    「イルーゾォさん……」
     フーゴはゆっくりと顔を上げる。彼女は「見ていてやる」と言った。人生を全うするまで、見ていてやる、と。なら、あの子と一緒に美しいものをたくさん見よう。温かな記憶で胸を満たそう。己を通して、彼女に見せよう。
     フーゴは立ち上がる。立ち上がって、歩き出す。傾き始めた太陽が、西空をオパール色に染め、浮雲に金色の縁取りを与えていた。
    「さようなら、なんて、不要ですよね」
     フーゴは胸に手を当てて、イルーゾォに語りかけた。

     五十五
     その日、モルガナはフーゴの家で五歳の誕生日を迎えた。ジョルノやミスタ、トリッシュたちに祝って貰ったその夜、フーゴは隠しておいたプレゼントを取り出した。イルーゾォに指定されていた香水のプレゼントだった。
     イルーゾォに言われるがままに用意したが、子供用のものではなく大人用だ。わざわざこだわって指定するなら、せめてモルガナの反応を見てから旅立ってもよかったろうに、とも思うが今更どうにもならない。それにきっと、見ているはずである。
    「五歳おめでとう。これは……モルガナが五歳になったらあげてって、マンマが言ってたプレゼントなんだ。思ったより重たいから、気をつけてね」
    「マンマが……?」
     箱の大きさと妙な重さに首をかしげながらもモルガナは包みを解き、蓋を開けた。
    「これ、モルガナの……!?」
     反応は上々で、大人っぽい香水瓶をうっとりと眺めている。まだ五歳、されどもう五歳である。トリッシュに会ったときは「綺麗でいい匂いする」と言ってすぐに懐いていたし、大人っぽいお洒落に憧れるお年頃なのだろう。フーゴが五歳の頃を思い返してみると、言われるがままに行儀のいい服を着せ替えられていただけだった。
    「……どうやってつかうの?」
     香水瓶を灯りに透かしたり、掌中でくるくる回しながらモルガナはきいた。
    「まず、ちょっとずつ使うんだ。一度にたくさん使いすぎると、気持ち悪くなっちゃうし、そうなったら香水も可哀想だからね。モルガナはまだ小さいからね、そうだなあ、まずは足首につけるのはどうかな?」
    「フーゴやって?」
    「じゃあ、一緒にやってみようか? ここ……一回押すだけで十分だよ。ゴシゴシすると匂いが壊れちゃうから、ぽん、ぽんって……」
     ふわり、と香りが立ち上る。その時、二人の頭に同じ人物の姿が魔法のように思い浮かんだ。
    「イルーゾォさん……」
    「マンマ……」
     二人は同時に顔を見合わせる。
    「マンマの匂い……マンマの匂いする……!」
    「わかるのかい?」
     モルガナは泣きそうな顔で、力強く頷いた。
    「マンマの顔は写真でしかわかんないけど……赤ちゃんの時、マンマに抱っこされてたのを思い出したの……マンマの匂い……マンマの匂いだあ……」
    「そうか……」
     匂いは、記憶に強く作用すると聞く。フーゴもポンペイ遺跡で対峙したイルーゾォからかすかに香ったのを思い出していた。イルーゾォの部屋にも残り香があった。
     イルーゾォはきっと、そのことを知っていて――。
     モルガナは目に温かい涙を溜めて、フーゴに抱きついた。
    「ねえモルガナ、マンマがいるような感じがする?」
     フーゴがたずねると、モルガナは抱きついたままこくりと頷いた。
    「赤ちゃんみたいで、変……?」モルガナは少し恥ずかしそうに、チラリとフーゴを見た。
    「ううん。ちっとも思わないよ」フーゴは目尻に涙の珠を光らせながらほほ笑む。「君のマンマは……もう一度だけでもモルガナを抱きしめたいと、そう思っていたんだ……。モルガナがマンマに抱っこされている気持ちになったのなら、きっとお空のマンマも喜んでいるよ」
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