たぶん、僕は忘れてしまうだろう 父との思い出はほとんどない。元々あの人は家に帰らない人だったからかもしれないが、例えばセーフハウスで過ごした日々が俺の一生の思い出になったように、俺がずっと覚えていられるのは、ほんのわずかなものなのだろう。今日狡噛が俺の髪の毛を褒めてくれたこととか、筋肉の付け方を教えてくれたこととか、夜は旅先で覚えた料理をしようと約束してくれたこととかは、俺は多分すぐに忘れてしまうのだろう。大切にしているセックスの最中に言われた言葉も最近じゃルーティーンになってあやふやだし、俺が本当に覚えているものは、彼に捨てられた時のことだとか、彼と再会して初めてキスをした時のことなどだった。印象的なことしか、俺の頭は覚えていてくれない。それが苦しみを含むものであっても、覚えていてくれない。ただ幸せな思い出だけを、この頭は覚えていてはくれない。
「今夜、楽しみにしてる」
愛してる、そう狡噛は出掛けに言う。俺はそれに分かってると答えて、キスを受ける。やっぱりこんな些細なことも忘れてしまうんだろうかって思ったら、やはりじんわりとさびしかった。誰も悪くないのに、人の脳の作りがそうさせてしまうだけなのに、俺は日常をやがて忘れてしまうのだ。
この日俺はいつもとは違うビールを、いつもとは違う店で買って、いつもとは違う通りを通って自室に帰った。すると狡噛がいて、名前の知らない料理を作っていた。まだ食べたことのない料理だった。俺たちはいつものように喋りながら、いつものように食事をとった。そして俺は珍しいビールだなと、ベルギーのそれを飲む狡噛に対して、こう言ったのだった。
「愛してるよ、狡噛」
誰よりも愛しているよ、言葉が見つからないくらい愛しているよ、お前のことばかり考えて頭がおかしそうになるくらい愛しているよ。俺はそれをずっと覚えていようと思って、できたら彼にも覚えていて欲しくて、珍しいビールを買ったのだった。それを見た時に、思い出して欲しくて。滅多に買わないビールとともに告白されたと、そんなふうに覚えていて欲しくて。
「俺もだよ、ギノ」
狡噛が笑ってキスをする。彼はいつかこれを忘れてしまうだろうか? それとも、少し怯えた俺とともに覚えていてくれるんだろうか?