ふたりのしあわせ ふたりきりの部屋で、気の向くままにだらだらと続いていた会話が途切れた少しの沈黙に、ふっと空閑が笑い声を漏らした。小さな部屋の沈黙には、ほとんど吐息のようなかすかな音でもよく響いた。
「……急にどうしたんだ?」
「あっ……いや、あれ、ちょっと思い出して」
これは失礼、と取り繕う言葉を並べながらも取り繕う気があるのかないのか、遊真の頬はやわらかく緩んだままだ。それを訝しげに見やる修は、いったい今日は何があっただろうかと今日の行動を思い返す。しかし、特筆すべきことはなかったように思う。今日は朝から今までほとんどずっと一緒に過ごしていたから、遊真の行動は把握しているのだ。それでは、今日よりも前のことだろうか。
考え込む自分を他所に、くふくふと、あまりにやさしく、幸せそうな顔をするものだからなんだかすっきりしない。悪く言えば、面白くない。修は自分のことを、あまり他人に執着する人間ではないと思っていたが、遊真への特別な好意を自覚し、恋人として過ごし始めてから「そんなことなかった」と自覚するまで時間はそれほどかからなかった。
「今日はずっと一緒にいたよなあ。最近、そんな思い出して笑うような面白いことなんてあったか?」
「うーん、面白いというか、なんというか……」
「なんだよ、気になるだろ」
「おれにとってはうれしいこと」
さっさと教えてくれない空閑に続きを促す。つっこんでも機嫌がよさそうなので、隠したいようには見えないのに、焦らされると余計に気になる。
「オサムがさ、みんなの前で遊真って、呼んだだろ」
「えっ」
「ふたりっきりじゃないときに、しかもあんなみんないるとこで呼ばれるの初めてだから、おれとしては結構衝撃的でして……」
(なんだそれ。いや、空閑が照れたように首の後ろを掻くのはかわいいんだけど)
全く身に覚えがない行動を指摘されて、修の思考は停止した。ついでに混乱のあまりが違う方に逸れた。
「あ、夕飯のときだよ。ソースとってくれたじゃん、そのとき」
「夕飯……」
たしかにコロッケにかけるソースを渡すのに声をかけた。かけたけれど、遊真と呼んだ記憶がない。そのときは何とも思わなかったが、一瞬変な空気になったような気がしなくもない。言われてみればそうかも、くらいの記憶だ。ああ、ヒュースが口いっぱいに咀嚼しながら半目でじとっと見ていた、かもしれない。そういえば、今思えば、と曖昧な記憶が頭の中を巡る。
「やっぱりな、うっかりだった」
苦笑する空閑の声に意識が引き戻された。その微笑みに揶揄うような意地悪さは一切見られない。やっぱり、なんだか幸せそうに笑うのだ。失態をからかうでもなく、ただ幸せそうに。
両想いを確かめ合ってから、「遊真」と呼ぶようリクエストされた。しかし、修としては「空閑」と呼ぶのが好きだし、呼び方を急に変えたら周囲に違和感を与えるだろうし、そもそも呼び方を変える必要性を感じないと率直な意見を告げたのは、たしか2か月ほど前のことだ。
遊真も恋人になって浮かれた勢いで言い出したところが大きく、絶対下の名前を呼ばせたいわけではなかったので、あっさりと引き下がった。しかし、やっぱり呼んでみてほしそうな顔で見つめられると、その顔に弱い修から妥協案を提示した。それから、ふたりきりのときに無理のない範囲で「遊真」と呼ぶようになった。
それでも修があんまり忘れるので「なあ、空閑……」「遊真」「……遊真」「ん」というやりとりが染みついていたのだが、無意識に呼んでしまうとは――空閑の粘り勝ちだなあ、と素直に感心する。
「ああ、すっかり、お前のいいように仕込まれたなあ」
「おお?オサムが?……なにそれ、なんか気分いいね」
「それほどか?」
「うん。おれが仕込みましたーって言えるじゃん。……で、何のこと?」
自分のこぼした一言に思いのほか遊真が喰いついたのがわかって、修も軽く笑う。
「だってお前が、」
遊真が瞳をきらきらと輝かせたのがわかってむずむずとこそばゆい心地になったこともあり、一旦口を閉じてから、いや、思ったことを隠したって仕方がないと開き直る。
「遊真って呼ぶと、お前があんまり嬉しそうにするから」
「うん」
「それで、ぼくはく…遊真が笑うと嬉しい。その理由がぼくなら、なおさら嬉しい。それをこの2か月くらい何回も繰り返した。ぼくのうっかりはたぶん、そういうことなんだよ」
だってそんなの、遊真が修に仕込んだ条件反射としか言えないだろう。
一切の恥じらいなく明かした修は穏やかに破顔した。遊真は目を瞠って、これ以上ないほど嬉しそうにふわりと笑った。
実は呼び方はなんでもいい、ということはもう少し黙っていよう。関係の変化に浮かれたわがままを、修はなんだかんだ受け入れて自分が変わることを厭わなかった。そう仕向けたのは自分ではあるけれど、受け入れるどころか、お前のせいで変わったんだと、そこまで含めて笑ってくれた。オサムがやっぱり好きだなあと、今はその幸せな気持ちを噛みしめたい。