11月のアンダンテ その日の寝覚めは最悪だった。
下腹部が鈍く痛み、下着が湿っている感覚がする。瞼はいつもより重く、容易に持ち上がりそうにない。それなのに既に日は高いらしく、瞼の向こうがわは薄明るいクリーム色だ。
「賢者様、おはようございます。朝食の時間ですよ」
「おい、賢者、早く来ないと食いっぱぐれるぞ」
優しいノックの後に、少し乱暴で大きなノックが続く。さすがにヒースが止めるのでシノもドアを開けては来ないが、万が一入ってきてしまったら大変だ。だって、きっと下着どころかシーツも汚れているから。
ご飯を食べたら、カナリアさんと一緒にすぐ洗おう、と思いながらのろのろと身を起こす。時間が経つと染みが落ちにくくなる。
「はい、今行きます」
この世界には、ナプキンやタンポンがない。
異世界に来て困ったことはもちろん多々あるが、この問題は、その中でもかなり重大でしんどいものの一つだった。前の賢者様は男性だったようでこんなことは賢者の書にも書いていないし、初めて生理が来てしまった時は、タオルを挟んでこっそりとカナリアさんに聞いた。
結論としては、布をあててこまめに取り替えるしかなかった。中央の都ではそれ用の柔らかく吸水力のある布を売っていて、とりあえずはカナリアさんのそれを分けてもらってしのいだ。その布は貴族のお姫様とかだったら召使いが洗うし、使い捨てにすることもあるらしいのだが、私は基本的には洗って再利用している。布自体は何度も洗うとがさがさになっていくし、何より、洗うのが辛い。魔法使いはみんな男性だから相談しにくくて、誰にも言えない。
現代日本は恵まれていたなあ、と思いながら、かぼちゃスープをすする。少しでも体を温めたほうが痛みが和らぐのだ。前の席でリケとミチルが今日の訓練の予定を話している。その楽しそうな様子を眺めて癒されていたら、ふたりは、賢者様、お先に失礼しますね!と軽やかに席を立っていった。今の私はあんなに素早く立ち上がれない。
ふたりが出ていった後、誰かが斜め前の席に座る。視界の端に映るのは真っ白なコートと揃いの帽子。
「オーエン、おはようございます」
今朝は私のほうが寝坊してしまったとはいえ、彼がまだ朝食のある時間に食堂に来るのは珍しい。黙っているのもなんだろうと思い、とりあえずあいさつをする。
オーエンは帽子をとってテーブルの上に置き、色の違う目のうち、赤いほうだけを細めて私を見た。細い眉を寄せてつり上げている。朝に見るには刺激の強い美貌だ。
「何してるの、お前」
「え、何って……ご飯食べてます」
下腹部は重いが、まったく食欲がないわけではない。スープにちまちまパンをひたして食べているのが、お気に召さなかったのだろうか。自分だって、いつもスポンジを生クリームにひたして食べているくせに。
「そういうことじゃない。そんなに頭が回らないから、中庭に来る猫にも逃げられるんじゃないの?」
「猫は、残念ながらオーエンのほうが好きですから……」
オーエンは眉をしかめて、肘をテーブルにつく。それからまだ何か言葉を紡ごうとした彼の前に、キッチンから出てきたネロがパンケーキを置いた。
「オーエン、朝から賢者さんに絡むなよ。おまえの分は取っておいたからさ」
「そういうことじゃない」
「賢者さん、ゆっくり食べてな」
「すみません、ありがとうございます、ネロ」
ネロはオーエンの言葉を意に介さず、私に微笑みかけてからまたキッチンへと戻っていく。甘いものを与えておけば彼が大人しくなることを知っているのだろう。
朝早く起きた魔法使いたちが、次々に食器を片付けて廊下へ出ていく。今日は、中央と南の魔法使いは合同訓練で、西の魔法使いは任務に出かけている。北と東の魔法使いたちは各々自由時間を過ごすと聞いている。
「《クーレ・メミニ》」
オーエンがお皿に手をかざすと、すでにハチミツと生クリームが添えられているパンケーキに、音もなく、小さな星型のシュガーが降った。真っ白なそれはきらきらと輝いていて、まるで朝陽がさす雪山のようだ。綺麗だけど、いつもながらすごい量。
「手、出して」
「え? あ、はい」
ぶっきらぼうに言われて、スプーンを置いて彼のほうに手を伸ばす。右手の上に、ころころと何かが落ちてくる。シュガーだ。どうしてだろうと思っていたら、それはあっという間に片手では持ちきれない量になった。慌てて左手も伸ばす。
「わ、ちょっと、オーエン」
「あはは、その顔が見たかったんだ」
オーエンは軽やかに笑うと、手を引っ込めた。それは繊細に輝くシュガーよりも魅力的な笑みで、思わず見とれてしまう。手袋に覆われた長い指が銀色のフォークをつかみ、パンケーキの真ん中に躊躇なく刺す。甘味が増量された朝食が、彼の小さな口の中に入っていく。
口の端についたクリームを紋章が目立つ舌で舐めとりながら、彼はまたこちらを見やる。笑みが消えた、突き刺すような視線だった。
「ちゃんと食べろよ、そのシュガー」
「は、はあ……」
両手に抱えるほどのシュガーをどうしたらいいかわからないので、とりあえず空いたパンのお皿に乗せ、ひとつぶだけ口に含んでみる。
外国のお菓子のような甘ったるさを予想していたが、舌にのせるだけですぐに溶けていく、はかなく優しい味だった。
秋晴れに感謝してカナリアさんとシーツを洗ってから、デスクワークに励んだ。励んだといっても、腹痛と眠気でいつもの三分の二くらいしか進まない。手伝ってくれるクックロビンさんにも心配されてしまった。スノウとホワイトも時々手伝ってくれるのだが、今日は用事で出かけている。
「賢者様、体調がすぐれないのでは?」
「すみません、ちょっと寝不足で」
「そうなんですか。お気になさらないでください。誰しも眠れない時はありますから」
眠れない、と聞いてミスラの顔が脳裏に浮かぶ。彼も可哀想だが、いくら寝ても眠いこの時期の私も可哀想だ。いつもはこんなにひどくないのに、下腹部もずっと重い。痛みどめというものはこの世界にもきっとあるだろうけど、フィガロやミチルなどには相談しにくい。温かいお茶を飲むくらいしか対策ができない。
「少し早いですが、昼食にしましょうか」
「いえ、今日の分がまだ終わっていないので」
「昨日まで頑張っていらっしゃったから、大丈夫ですよ。私は終わった分を城に持っていきますから、これで失礼しますね」
「すみません……」
謝るしかない私に対して、クックロビンさんは穏やかに笑いながら鞄に書類を詰めている。
「大丈夫ですよ。午後はゆっくりなさってください」
「ありがとうございます……」
じーんとした。情緒不安定なのか、彼の優しさが沁みてくる。先ほど血のついたシーツの洗濯を手伝ってくれたカナリアさんも、今日はできるだけゆっくりなさってくださいね、旦那に仕事を押しつけて構いませんから、と言ってくれていたっけ。
それでは、と図書室から出ていくクックロビンさんを見送り、筆記用具をまとめ、ゆっくり立ち上がる。立ち上がった瞬間に出血が感じられて気持ち悪い。少し貧血気味らしく、頭がくらくらした。昼食をとらないで寝てしまおうか。
未決裁の書類をまとめて重ねて、肘で扉を開けて廊下に出る。自分の部屋への道のりが遠く感じる。多くの魔法使いが不在のため、今日の魔法舎は昼間なのに静かだ。北の魔法使いたちも喧嘩していない。ミスラとオーエン、それにブラッドリーは居るはずだが、彼らは日番の日はどこかに出かけていることも少なくない。
渡り廊下への角を曲がると、不意にめまいがして、視界が白くなった。足の力が抜ける。
「ちょっと」
バサバサ、と宙を舞うはずだった書類の束が、私の胸の前で静止する。あれ、落ちてない。どうして。
「おまえ、まさか、仕事してたの?」
後ろから誰かの片腕が、肩から肩へ回されている。低い声音が耳元で聞こえる。歌う時には驚くほど表情豊かになる声が、今はいつも通り冷たい。
「オーエン……?」
「何倒れそうになってるの、僕のシュガーを食べたくせに」
「す、すみませ……」
「青い顔。そんなに血のにおいをさせて、月のものが来てるんだろ?」
問われてかっと頬が熱くなる。恥ずかしい、なんて思っている場合でもないのに。
「き、気づいてたんですか?」
「重いもの持って歩くなよ。こんな日は黙って寝てればいいのに、おまえ、やっぱり馬鹿なの?」
「それは……」
「口答えするなよ」
顔は見えないが、オーエンは怒っているらしい。私を支えているのは彼の腕で、落ちてばらばらになるはずだった書類を空中で静止させているのは、もちろん彼の魔法だろう。
ち、と今度は舌打ちが聞こえた。次いで、ぐ、と身体を引っ張り上げられる。書類と共に浮かべられるのか、と思いきや、驚いたことに、彼は私を横抱きにした。細く見える腕は、意外にも、歩き出してもびくともせず私を支えている。
「オーエン、あの」
「黙ってなよ。今すぐその身体を床に叩きつけてあげようか? 腰の骨が砕けて、しばらく歩けなくなるかもね。まあ、股から血を流してても仕事をしたがる奴なんて、骨を折ってしばらく寝たきりにしてやったほうがいいかもしれないね」
「うぅ……」
「ほら、食べろよ」
ぽい、と何かが口の中に投げられる。舌の上に載ったそれは、今朝と同じ味のものだった。少しずつ、めまいがおさまっていく。視界に色が戻る。
見上げた先にある細い顎、薄い唇、銀灰の髪。色の違う両目はどちらもまっすぐ前を見ている。まるで作りもののような美貌を持っているのに、意外にも彼の腕は温かい。でも、彼の鼓動は聞こえない。聞こえるのは、全身に響く、自分の鼓動だけ。
オーエンの身体には心臓がないと言う。魂もなく、殺されてもすぐに生き返る。いくら血を流しても、生き返るのだろうか。
「これだけは言わせてください、オーエン。迷惑をかけてしまって、すみません」
「おまえが僕に迷惑をかけなかったことがあるの」
「それは……」
逆に、色々迷惑というか、彼の行動で大変な思いをしたことなら多々あるが、今の状況でさすがにそれは言えない。
「……弱い僕なら、かけたか」
「えっ」
オーエンはそこで口を閉ざす。彼が何を言わんとしているのか、瞬きをして考える。ああ、傷のオーエンのことを言っているのか。あの、幼い子どものようなオーエンが、私に迷惑をかけたと言っているのか。
「いえ、それはあの、オーエンとお話ししてて楽しかったことも、癒されたこともありますし! それに、私もたくさん助けてもらっていますし……その、今も」
話しながら思考をめぐらす。もしかして、オーエンは今朝会った時から、私の体調が悪いことを見抜いていたんだろうか。においがしたと言っていた。命を賭けた戦いを日常的に乗り越えてきた彼は、きっと、血のにおいに敏感なのだ。だから今朝、シュガーを出してくれたのかもしれない。あの時は、いたずらとしか思えなかったけど。
「だから……ともかく、ありがとうございます」
オーエンは何も言わなかった。カツカツと彼の足音が規則的に響く。窓の外で、鳥たちが晴天を喜ぶように鳴いている。彼にはこの声が何と聞こえるんだろう。鳥のように、とはいかないが、私たちの前を、書類の束がふわふわと歩くような速さで飛んでいる。
「どこに行くんですか?」
「決まってる。おまえの部屋だよ。フィガロはいないし、オズも双子もいない。薬に詳しいミチルもいない。おまえを治せる奴は今ここにいない。道化になって励ましてくれる西の奴らもいない。偽善者ぶって何かしようとしてくる中央も。ネロと呪い屋は買い出しに行ってるし、ヒースクリフとシノは実家に出かけた。ミスラとブラッドリーは朝からいない」
淀みない口調でそう言った後、オーエンは私の不幸が面白く思えてきたのだろう、にやにや笑い出した。
「ふふ、賢者様って本当に間が悪い。可哀想だね」
「そうですけど、でも、オーエンのシュガーのおかげで、午前中頑張れました。今も、あなたがいてくれて、良かったです」
「……そう」
「はい。出かけないでいてくれて、ありがとうございます」
オーエンの言葉は意地悪だけれど、行動は明らかに私を心配してくれている人のそれだ。怒りは湧いてこないし、むしろ、しっかりと丁寧に抱きかかえて連れていってくれて、ありがたさもあるが、けっこう恥ずかしい。魔法を使っているのだろうか、それともやっぱり、彼も男の人だということか。
「別に、おまえのために残ってたわけじゃない。だいたい、曲がりなりにも医者なのに、フィガロにも話してないの?」
「曲がりなりって……いつもは、こんなにひどくないんです……それに、やっぱり恥ずかしくて……」
ふん、とオーエンは毛穴ひとつ見えない鼻を鳴らす。
「恥ずかしい? メスなら誰にでもあることだろ。狼だって、子を孕んでない時は、決まった周期で血を流してた」
「それはそうなんですけど……」
オーエンは人と暮らしていた時間より、動物たちと暮らしていた時間の方が長いだろう。彼にはわかりにくい感覚なのかもしれない。
「その、人間は、結婚をしていない異性に生理のことを知られるのは、恥ずかしいんです」
「ふうん。子を産めるのはメスだけなんだから、堂々としていればいいのに」
私は言葉に詰まる。彼の言うように生活できたら、どんなに楽だろう。どうして私たちは、それを恥ずかしいと思うのだろう。
「着いたよ」
「あ、じゃあ、降ります」
「《クーレ・メミニ》」
オーエンは答えずに詠唱をして、手を使わずにドアを開けた。見慣れた部屋の見慣れた机の上に、書類の束が戻っていく。私もあの書類みたいに浮かせたほうがやっぱり楽だったよな、と思うが、ふわふわ浮いていたら気分が悪くなってきた可能性もある。何より、オーエンの機嫌を損ねたくないので黙っていることにした。
「あ、オーエン、シーツが干してあって、まだ取り込んでないんです」
ベッドに寝かせられそうになって伝えると、彼は大きな溜息をついた。
「《クアーレ・モリト》」
ガチャ、と窓が開け放たれ、そこから洗濯ばさみがついたままの真っ白なシーツが飛び込んでくる。物干し竿がついていなくてよかった。オーエンは半乾きのシーツに向かって、もう一度呪文を詠唱した。ドライヤーのような温かい風が、シーツに吹きつける。洗濯ばさみは外れてまた外に飛んでいき、シーツがベッドに掛けられていく。至れり尽くせりだ。ホテルの客室のように整った彼の部屋を思い出す。いつもこうやって魔法で綺麗にしているのかもしれない。
「とっとと寝ろよ」
口調と台詞から投げられるのかと思いきや、オーエンはそうっと私をベッドに寝かせてくれた。今度は呪文を使わずに、毛布を私にかぶせてくれる。気づけば、腹痛と腰痛はあるが、下着のあたりに不快感がない。
「オーエン、あの」
「何」
まさか、あて布を綺麗にしてくれたんですか、と尋ねたかったが、それを聞くのは憚られた。でもたぶん、そうだと思う。いつもミスラやオズに殺されかけた、あるいは殺された後に、自分の服を綺麗にしているのだろうから、規模的には朝飯前だろう。
枕辺に立って見下ろしてくる彼の眼差しは冷たくはないけれど、けして温かくもない。
「いえ……ありがとうございます」
「この僕に借りを作ったんだから、わかるよね?」
「はい、生理が終わったら、ケーキ屋さんに行きましょう!」
「賢者様のくせに、物わかりがいいね」
彼はふっと息を漏らして微笑んだ。普段は剣呑ささえ漂わせている端整な顔立ちが、午後の日差しを受けて柔らかく見える。
「あの、どうしてこんなに優しくしてくれるんですか?」
今なら聞いても許されるかと思ったが、途端に彼は口をへの字にして帽子をかぶり直し、そっぽを向いた。
「思い上がりも甚だしいよ、賢者様。そんなの、おまえが急に死んだら世界が滅びるかもしれないからに決まってる。僕はまだ、本当に死にたくはないからね」
「そう、ですか……でも、ありがとうございます」
「……お人好しな奴。人間なんて、一瞬で死ぬこともあるんだから、シュガーでも食べて大人しく寝ておけよ」
「はい、そうします」
「……《クーレ・メミニ》」
静かな声で呪文を唱えた、彼の表情は見えなかった。染みひとつないインバネスコートを翻して、瞬きのうちに姿を消す。
枕の隣に置いた私の手の中に、金平糖のような色とりどりのシュガーを残して。
*
若い魔法使いたちが離れていくと、どやどやと騒がしかったのが静かになる。レノが羊の世話をするために部屋に戻り、オズは無言で部屋に戻っていった。オズなりに若い子たちの世話をして疲れているのだろう。秋の日没は早いから、既に日は傾いている。
俺も今日は早めに休もうと考えていたのに、斜め後ろの空気が途端に揺れ、雪と獣のにおいがする。
「おい」
振り返らずとも誰が来たのかわかった。だが、声の響きがいつもと違う。
「何、オーエン。お出迎え?」
「うるさい」
オーエンは足元を睨みつけるように見ている。屈辱と愛情の狭間で葛藤しているような表情だ。顔立ちが整っているのでやけに絵になる。
「ええ? これでも、フィガロ先生疲れてるんだけどな」
「あいつ、部屋で寝てる」
「あいつって?」
わかっていても尋ねてみる。オーエンがこのところ執心している『あいつ』なんて、ひとりしか居ない。
「……賢者様」
「えっ……? もしかして、おまえが看病とか、介抱とか、そういう慣れないことをしてたってこと? 明日は槍が降るかな」
「黙れ。早く行けよ」
最後にようやく俺の顔を見て、脅すように言葉を吐く。まるで、獣の威嚇だ。人の悪意から力を得るくせに、人に馴染むわけではなく、獣とともに過ごすほうが性に合うのだろう。だから、恋する相手とも容易に相容れない。
俺が頷くのを確認すると、また、一瞬間のうちに姿を消す。千二百年生きて初めてした恋なんて、可愛らしくて、馬鹿馬鹿しくて、愚かだ。しかし、少しだけ羨ましい。
「……まったく、素直じゃないなあ」