追憶の勿忘草久しぶりに山から降りて街並みを歩けば、知っている景色との若干の差異がことさらに目を引いた。
住民が増えて居心地の悪さを感じて去った頃より、更に賑やかになっている気もしてやはり来なければよかったかもしれない、と早々に後悔が胸に生まれる。
雑踏の中の喧騒、人混みに満ちる、強すぎるほど強い生き物と命の気配。
山の静けさとは正反対のそれに目眩にも似たものを感じる。まるで一気に歳をとったようにどっと疲れが押し寄せてきた。
細い路地裏に入って、建物に懐くように寄りかかる。翼が邪魔だが仕方ない。
自力で立てないほどではないが、気疲れは思ったより大きかった。
用がなければ山を降りることはない。そして山に住むようになってから、用は作らないようにして世俗と関わらずに生きてきた。
それを違えてここにいるのは、なにかと自分を気にかけている同族の青年が手土産に持ってきた酒と、弁当の味が気に入ったせいだ。
特に、誰かが誰かに食べさせるために作った料理というのは久しぶりで、柄にもなく温かい気持ちになった。
(それに──……)
気のせい、だろうか。いや、気のせいのはずだ。その弁当の味が懐かしく感じたなんて。
家族の作る料理の味ではない。その他に料理を振舞ってもらって、それが懐かしさに繋がる記憶もない。
だから気のせいのはずなのに、ひと口ひと口噛み締めるようにして食べた料理の味を、やはり懐かしいと思う自分がいた。
他人に興味を引かれるなんて自分らしくない。もしかすると人生で初めてかもしれない。
三日、悩んで山を降りた。懐かしさの正体を知ることが出来なかったとしても、冷めても美味しかった料理を作る相手の顔を見て見たかった。
食事には頓着しない質の自分にしては信じられないような理由であり、出不精には不似合いな行動力だ。
半ば勢いでここまできたけれど、やはり帰ってしまおうか。
今になってそんな思いに挫けそうになる。
そんな時に、その声は響いた。
「なあ、あんた。大丈夫か?道にでも迷った?」
振り返れば逆光になっていて顔はよく見えない。ただ、同じくらいの年頃の同族の男だということは分かった。
「……いや、問題ない」
「そうか?なら、いいんだけどさ」
「ああ」
その声が妙にひっかかる。耳障りだとかそういう意味ではなく、聞き覚えがあるような気がした。
違和感を確かめようと相手を目を眇めて見つめれば居心地悪そうな気配。
知らない男だ、と思う。そもそも人付き合いは最低限だったし、街に住んでいた頃の知り合いの顔などろくに覚えていない。その中の一人が記憶に引っかかっているのかもしれない。
「もし具合が悪くなったならその辻を曲がったところにある店にこいよ。飯屋だから匂いで気分悪くなっちまうかもしれねえけど、休んでいけるからさ」
「……飯屋?」
「ああ。……腹減ってんの?」
飯屋、という単語に釣られた僕の様子に相手がふっと笑う気配がする。その笑い方も、何となく覚えがある。
「……知り合いが、手土産に持ってきた弁当を売っている店を探していて」
「へえ?」
店の名前を聞かれて包みに書いてあった名前をあげると戸惑う気配。
「……?」
「……間違いじゃないなら、それ俺たちの店だよ」
言葉を上手く咀嚼できなくて瞬きの数が増える。
「きみ達の、店?」
何故か気まずそうに相手が頷いたのがわかった。
たち、ということは何人かでやっているのだろうか。
言葉を探して、見つからなくて。それは相手も同じなのか沈黙が降りる。
「……今は、混んでいる時間か?」
「いや、そこまでではねえはず。……きてくれる?」
遠慮がちに続いた問いかけへの答えの代わりに、路地裏から足を踏み出す。
逆光でなくなった相手の顔にはやはり見覚えはない。
花曇りのようにくすんだ空色の髪と鬱金の瞳が目を引いた。
……空の色であり、山で見かける花の色にも似ている。確か花の名前は、勿忘草だったろうか。
見覚えはないはずなのにその色彩に覚えがある気がして、眉を寄せる。
相手も同じような表情でこちらをみていた。
「……前に会ったこと、あったっけ?」
「……聞いて許されるなら同じ言葉を返したい」
「ん~……ボケたかな。思い出せねえ」
歯にものが引っかかったような、喉に小骨が刺さったような収まりの悪さ。
収まりが悪い癖に、手離したくない、なかったことにしたくない。
「まあいいや、そのうち思い出せるかもしれねえし。とりあえず店行こうぜ」
「ああ……そうだな」
男に案内してもらうように店への道を辿り、さほど時間はかからずにたどり着く。
「どうぞ」
「ありがとう」
食事時は避けてきたがそれでも何人かの客で席は程々に埋まっていた。
適当な席へと座り、献立を暫く眺めて頼む。
「あいよ、ちょっと待っててな」
そういって男が厨房に入っていくのを見るともなしに眺めて、視線を戻した。
店の内装に見覚えはない。間違いなく初めて来る場所だ。
他の客の話し声と、厨房から聞こえる調理の音。店員ふたりのやりとり。
賑やかなのは外と変わらない。変わらないけれど外より幾分か静かだからか気分が悪くはならなかった。
「おまちどうさん」
コトリ、と食器を置く音がして我に変える。
「熱いから火傷しないよう気をつけてな」
「あ、ああ。ありがとう。いただきます」
湯気の立つ料理を軽く息をふきかけて冷まして口に運ぶ。
やはり、どうしてかその料理は懐かしかった。
「美味い?」
遠慮がちに問いかける声に視線を上げて頷く。すると男は初めて屈託なく笑った。
その笑い方が何かを思い起こさせて、けれど明確に形を結んでくれない。
大切なことを忘れている気がした。この男を、僕は知っているのだろうか?だとしたらそれはいつ、どこで、どのように結んだ縁だ?
「ゆっくり食べていって」
そういって男は仕事に戻っていく。威勢のいい声がネロ、と怒鳴るように名を呼んでいた。
その二文字を口の中で転がすように呼んでみる。初めて呼ぶ気がするのに妙にしっくり馴染んだ。
思い出せないもどかしさと言いしれない懐かしさを感じながら料理を食べきり、会計を済ませる。
「よかったら、また来てよ。歓迎する」
それは社交辞令だったのかもしれないけど、それでも僕は頷いていた。
『美味いか?』
『美味しい』
『よかった』
夢を、見ている。どこかの川辺、天気のいい昼下がり。子供の頃の自分が弁当を広げている。
向かいにはやはり子供が座っていて、僕がひと口料理を食べるごとに美味いか?と聞いて返事に笑う。
『ネロの料理は、とても美味しいよ』
『ありがとな、ファウスト。明日も味見してくれる?』
うん、と子供の頃の僕が今よりずっと明るく無邪気に頷く。
ネロも釣られたように笑って、約束の証に交わされる指切り。
そこで目が覚めた。
「……思い出した」
小さい頃、僕達は会っていた。なにがきっかけだったかまでは定かではないが道に迷っていた時に知り合って、ネロが作った弁当を二人で食べて。
美味しい、と驚いた僕にネロは嬉しそうに笑って。
それからあの川辺で遊んだり、ご飯を食べたりしていた。
お互いの家は伝え合わないまま、また明日、といって別れて。
そんな日常が当たり前のように続くのだと思っていた。
ある日、僕が熱で寝込んで川辺に行かない日が数日続くまでは、僕達は友達だった。
熱が下がって、外出の許可が下りて真っ先に川辺に向かったけれど、日暮れまで待ってもネロは来なかった。
何日待っても来なかった。
来ないネロを待つことをやがて諦めて、悲しみが記憶に蓋をした。
「……懐かしい、わけだ」
覚えている。きみのことをまだ覚えている。その声を忘れても、顔を忘れても、名前を、思い出を忘れても。それでも心のどこかで覚えていた。
『なあ、ファウスト。俺のこと──……』
忘れないで。
そういったきみの顔も、川辺に咲いていた勿忘草の色も、今なら思い出せる。
忘れてごめん、あの日行けなくてごめん。
今更謝ってもきみは覚えていないかもしれないけど、もう遅いかもしれないけれど。
忘れないよ、今度こそは。
勿忘草の花言葉は、私を忘れないで。
その花の色をしたきみを、もう二度と忘れないと約束するよ。
たとえその心に、僕がもう、欠片もいなくても。