from Day 4 onwards, 平日は飛ぶように時間が過ぎた。正しく、約一年前の生活をやり直しているようだった。
前の事なんて覚えてるかな、と思っていたが杞憂で、完全に覚えている訳ではないが、仕事は一度やった事をやり直すためそこそこに捗った。同僚とのランチで聞いた愚痴やちょっとした浮いた話には、前よりいい返しをしてあげられた気がする。
ただし記憶通り繁忙期だったため、定時に帰ることはなかなか叶わず、仕事の合間や夕方にはオーエンを思い出してそわそわとした。
数日するとオーエンも生活リズムがわかったようだった。スペアキーと少しのお小遣いを渡して、最低限の生活の常識を伝えた上で、自由に過ごしてもらうようにした。魔法が使えないので、そうそう間違いも起こらないと思いたい。
初日は帰ると遅い、と言われたが、それはそうだろう。向こうで言えば、アーサーレベルの長時間労働だ。申し訳ないと思いつつ、一日の出来事をお土産話に、晩ご飯はもちろんの事、開いているお店でスイーツを買って帰ってあげたりした。
コンビニスイーツには当初文句を言われたが、物珍しさが勝ちそのうち慣れた様子だった。特に白いたいやきはもちもちがお気に召したようで、また食べたいとリピートをねだられた。
その日、晶は弁当を家に忘れたことに昼になって気づいた。二人分の食費とあり、以前はさぼりがちだったお弁当を毎日持って行くようにしていたのだった。しまったな、朝急いでたからキッチンに置いてきた。オーエンが食べてくれるかな。
同僚と別でランチを取るべく社屋の外に出ると、秋風にコートがなびいた。何気なく見上げると、風上を白い鳩が飛んでいる。
この辺りで鳩は珍しいな、と思っていると、どんどん近づいてきて、なんとまっすぐ晶の目の前に飛んで来るではないか。見ると、脚には晶が忘れた弁当の巾着を掴んでおり仰天した。
きょろきょろと辺りを見回すと、幸い人の少ないタイミングで、ちらちらと見られはしているが、知り合いはいないようだ。
「ありがとう」
包みを受け取ると、鳩は短く鳴いて元の方向へ帰っていく。あちらは……家の方角ではないだろうか。疑うことなく、オーエンの寄越した鳩だろう。
定時を少し過ぎて急いで帰宅すると、オーエンはカーテンがたなびく夕暮れの部屋で、ティーカップを片手にこちらを流し見た。
「おかえり。間抜けな賢者様」
「ただいま……いや返す言葉もございません。鳩さんをありがとうございました!びっくりしました」
「本当に僕って優しいと思わない?」
「間違いなく優しいです。これ、有名なお店のケーキなんです。すぐにご飯の用意をするので、夕飯前ですけどよかったら先に食べててください」
「わかってるじゃない。早くちょうだい」
窓を閉めてフォークとお皿を持って行くと、すでに嬉々として箱を開け始めていた。
翌週の休日は、仕事量のためやむなく土曜の午後半日を出社することになってしまった。
休日の朝ゆっくりと過ごすことは元々晶の楽しみであり、オーエンとの朝はとりわけ特別になっていたので、午前中だけは死守した結果であった。
会社から見える近場のカフェで、ここで待ち合わせしましょう、とオーエンと別れた晶は、平時よりやる気を出して仕事をこなした。
「賢者様も大変なんだね」
夕方カフェに駆け込むと、クリームソーダと大きなパフェに取り掛かっていたオーエンが気だるげに言った。
「あはは……お待たせしました。それおいしそうですね」
「あげないよ」
「……ちょっとも?」
「あげるわけないだろ。自分で頼んで」
「はあい」
そのままそこで早めの夜ご飯をすませることにした。オーエンは甘いお酒を飲みながら、晶のお皿に興味を示した。
「なにこれ」
「ラザニアです。向こうにないですか?確かにネロの料理ではまだ見たことないかも。少し食べますか?」
「食べる。……へえ。ここはもちもちがたくさんあるね」
「そうかもしれません。気に入ってくれてますか?」
「気に入ってなんかないよ。でもこれは悪くない」
「ふふ、それならよかったです」
食べ終わって外に出ると、無数の雲が夕空で逆光を受けている。
「お腹もいっぱいだし、少しお散歩して帰りませんか?」
「はぁ、いいけど。……そういえば、あいつもう少しなにかしてくると思ったんだけど。なんの手掛かりもないままだね」
「あいつって、あの魔女ですか」
「そう」
「確かにそうですね。あ、最初にここに来た、あの丘の公園に様子を見に行ってみましょうか」
「……じゃあ、はい」
おもむろに手を差し出され、首を傾げる。
「え、なんですか?」
「あそこまで遠いだろ。箒で行こう」
「え、え確かに電車を降りてからも割と歩きますけど……」
「そうでしょ」
「でもここはダメです、目立ちます!ええと、一本裏の道ならいいかな……」
普段なら日中に誰もいない道を探すのは難しいだろう。だが晶の会社はオフィス街で、今日は休日。なんとかなるかもしれない。
予想通り、裏通りに入るとしんとしてひと気はなかった。いませんね、と視線をオーエンに送ると、改めて手を差し出される。二人して無言で手を取ると、出した箒に流れるように乗せられ、飛翔した。
人に見られないように、できるだけ高く飛んでもらえませんかというお願いはなんとか聞き入れられた。夕方の空高く、その姿はあっという間にいびつな鳥のような、ひとつの影になる。
オフィス街で、いつもの通勤服で、魔法使いの箒に乗って空を飛ぶ。一年前には想像もしなかった、晶の日常になりつつある非日常であった。
確かに、時間的に鳥たちが住処に帰る頃合いとはかぶっていた。
丘に向かう彼らに追いつかれ合流してしまった晶たちは、話しかけられたオーエンが返事をしたために会話が始まってしまい、騒がしい交流をしながらの空の旅となった。
「まあ、人間には無理だろうね。……そうだよ……あはは、違うよ……違うってば。こいつはそんなんじゃない……だから、聞けってば……」
「オーエン、何をお話ししてるんですか?」
「あいつら好き勝手言って……大したことじゃない。教えない」
「ずるいです、楽しそう」
「……え、それ本当?……そう、ありがとう。晶、雨が降るから急いで帰ってるんだって」
「え、そうなんですか。そう言われると雲が暗いですね」
「行く?」
「うーん、様子は見ておきたいですよね。少しだけ見たら帰りましょうか」
程なくして丘の公園が見え、まもなくというところで雨に降られた。入れ代わり立ち代わり隣を飛んでいたカラスや雀は、一目散にねぐらに戻っていった。
晶たちは、丘陵の途中にログハウスのなりそこないのような休憩用の東屋を見つけ、本降りの手前で屋根の下に滑り込んだ。
「この前も雨だったよね」
「そうですねえ。十月ってそんなに降ったかなぁ」
「ねえ、雫が冷たい。もうちょっとそっち行って」
オーエンが急に晶の方へずれたので、濡れた地面に足を取られた。
「わっ」
「ちょっ、」
体勢を崩した晶の胴をオーエンが支えた。転びそうになった焦りと、胸の下に絡む腕に心音がうるさい。
「少し当たっただけで弱すぎ。しっかり立ちなよ。……ねえ、その顔、」
「や、あ、ありがとうございます。なんでもないです、びっくりしちゃって」
どうも、不意打ちに弱い。紅い自覚のある頬を手で隠し身を捩ると、戻すようにぐいと向かい合わされた。
「な……」
そのまま強引に手をどけられ、両手で頬を持ち上げられる。
逸らしていた目を、合わせたのがいけなかった。双眼に微かに灯った温度を、見つけてしまった。
秋雨に青く染まる、涼しげなかんばせが迫る。その頬が晶の頬に薄く触れ、おいしそう、と耳元で呟いた。そのまま、色づく頬に唇で触れ、柔く食む。そうして顎を少し引くと、肩を震わせた晶を上目に見、その端正な顔が伏し目がちに近づく。思わず目を瞑ると、ぺろりと唇を舐められた。
「!」
何度か繰り返され、息が漏れる。唇をつけたままで、彼の声が耳を震わす。
「足りないよ」
思わず応えるように薄く口を開けると、そっと唇を押しつけられた。軽く食まれ、口づけは向きを変え、重なりを深められる。吐息を飲み込むように、こくりと喉が動く。彼の袖口を掴むと、ゆっくりと顔が離れた。
「は、オーエン」
「……冷たくて、熱くて、甘いし……少し力が戻る。どうして」
確かめるように首筋に鼻先と唇が触れる。
「っ、わ、わかんな……」
身を震わせるコートの内側に、腰にするりと腕が回る。
「…………嫌?」
静かに首を傾げて問うひとに、そうと返すはずがなかった。あれ以来触れられなかった熱を、ふつふつと燻っていた熱を、からだの奥に感じる。
いいえ、という雨音に消えそうな答えが、確かに届いた。
晶の腰を抱く掌に力がこもり、服越しに薄い肉をわずかに拾う。引き寄せられて、腰がぶつかる。目前の瞳に抗わず目を閉じると、すぐに唇が重ねられた。
雨の止み間に井戸に近寄る。
しっとりと濡れた土と草の中で、ぼんやりと明るく見える気がした。
「きみにもわかるんだ。気配を感じるよ。ここにあるというより、奥底になにかあるような……土の中じゃなくてね。この井戸が繋ぐ媒介なんだろうな」
「繋ぐ、ですか。向こうの世界とこちらってことですよね?」
「うん。向こうからこちらを伺ってるのかも。飛ばしといてそのままってことはないだろうし、当然だよね」
「そうですか……何かされるのを待つしかないんでしょうか?」
「今はこれ以上わからないからね。けどこの間はこうじゃなかったし、また近いうちに動きがあるだろ」
帰宅して、早めに湯船で体を暖めたが、長湯しても、床に就いても、オーエンのことが頭を離れない。元々早寝が上手くない方ではあるが、こんな日は余計に、いつものようには眠れる気がしなかった。
寝返りを打って、頭を枕に収まりよく少しずらして、じっとしてみる。
青く静かな夜の空気を、低音が震わせた。
「眠れないの?」
オーエンの方に首を向けて、正直に返す。
「そうですね……ごめんなさい、うるさかったですか」
「まあ、気になるくらいには。……何考えてたの」
すみません、と重ねるも、なんと返答するか躊躇する。
「ええと……今日の出来事を。今日も色々あったなって」
「……へえ。あの丘であったこととか?」
正しく言い当てられて、心臓が早鐘を打ち始める。
「っ、そ……そうですね。とかですね……」
「そう。……ねえ」
ふ、と空気を漏らすように笑うのが聞こえて、衣擦れの音がすると、オーエンの手がこちらに差し出された。
「来て」
驚きに目を開くが、暗がりで表情は伺えなかった。
この間と、今日のことがあった後だ。何が起こるのか、予感してしまう。多かれ少なかれ、前回のように寝かせられるだけではない気がする。
戸惑いながらも、ぬくもりの外に手を出すと、そろりとその手を取った。
実際はそうでもなかったかもしれない。冷静でいられない頭では、ゆっくりと握り返された気がした。力が込められ、ぐっと引き上げられた。
うわ、と思わず声が出て、腕に合わせて体を起こすと少し浮遊し、捲れた上掛けに引き入れられた。
そのまま腕を引かれ、寝衣の薄さに直接お互いを感じる。オーエンの低い体温も、布団の中ではきちんと暖かい。ほっとするどころではなく、男の人の体つきを感じ、かっと熱が上がる。
「オーエン、」
出た声は細く掠れていた。
「残念だったね。怖い北の魔法使いに気に入られるなんて気の毒にね、晶」
今、彼はなんと言ったか。
「ち、違います。あなたが怖い訳じゃありません。その、どうなるのか、不安ではあるんですが……オーエンに気に入ってもらえるのは、嬉しいです」
「……へえ。それもどうかと思うけど……」
言葉を切ると、観察するかのように、じっと目を合わされる。色違いの瞳は薄闇の中で、月明かりをぼんやりと反射して暗いその色を見せる。黒い瞳とは違う透明感が、きれいだ。
「今からどうなるのか、わからないでここにいるの」
手首から二の腕を、するりと指が撫でる。予感が、高まる。
「っ、それは……わかってると、思います。あの……オーエンなら、いいです。オーエンのこと……好きなので」
ぴく、と腕に触れる指が動く。止めていた息を吐いた時のような、空気が少し弛むような気配がした。
「……そんなこと言っちゃっていいんだ。まあ、退屈だけど、素直に心を明け渡しちゃうきみも、きらいじゃないよ」
顔を寄せられ、前髪が触れ合う。囁くように妖艶に言われ、頭が痺れるような心地がした。
肩を、首筋をなぞり、頬を包まれる。そっと唇が触れた。押し当てられて、ゆっくりと離れる。瞼を上げると、静かで、僅かに熱い瞳と至近距離で目が合う。もう一度口付けられると、緩く閉じていた唇に湿った彼の舌が触れた。受け入れるようにほんの少し隙間を開けると、ぐっと舌先が侵入し、肩が跳ねた。
口内を柔らかく舐められて息が漏れる。晶の頬の温度を移した手のひらはそっと下り、首筋を撫で、肩、二の腕をつたい、腰に差し入れられる。ぐいと寄せられると、内ももに彼の熱を感じた。どきりとして、無意識の期待に、ぶる、と震えた。
頬にキスをされ、いいよね、と静かな低音が鼓膜を揺らすと、もう、捕らえられていた。
鼻先に、どちらかの冷たい温度を感じた。熱を湛えた瞳が晶を映したが、それはきっとお互いに同じだっただろう。
はい、と答えると、唇が食むように合わされ、濡れた口内に再び熱い舌が深く入り込んだ。長い、味わうようなキスは既に、体験した事がない程に気持ち良かった。
遠いさえずりと走行音が耳に届く。
ベッドの隅で目覚めると、素肌に直接触れるリネンに、頭が覚醒してくる。
肌寒さに布団を首まで引き寄せてころりと横を向くと、いつもより襟元をくつろげたオーエンが、湯気の上がったカップを持ち上げながらこちらを見た。
一瞬目元を緩めたように見えたが、すぐに含みのある様子で目を細めて口角を上げ、何かを差し出した。
「おはよう」
あいつから、手紙が届いてるよ。
白い封筒にはあちらの世界の文字で――晶が覚えた、数少ないすぐに読める言葉である――賢者様、と書かれていた。