6 蔵の中 全速力で走る。後ろを振り返っている暇などはない。迫りくる足音をふりほどくように、蛇行しながら先へ先へと向かっていく。目の前を走る男は自分などよりよっぽど速く走るのに少しも息が乱れていなくて、その体力を分けてほしいと思った。
「あの長屋へ戻るのか?」
「あの部屋は、捨てる。今はとにかく、奴らを撒くことだけ考えろ」
「わかった。まあ、賢明だな」
途切れ途切れの自分の声と違い、平然と喋る奴が小憎らしくて、悪態を吐きたくなったが、そんな余裕すらなかった。
「振り出しに戻ってしまったか」
そう呟く声が聞こえた。言われなくてもわかってる。しかし、そう返せるだけの体力も、気力も、残ってはいなかった。
*****
「ああ、どれも素晴らしくて、とても選びきれないね」
弦をつまびく音が薄暗い蔵にこだまする。窓から差し込む光は微かで、それでいて確かに蔵の中の様子を映し出す。中央に座るびわと、その周囲に置かれる無数の楽器。そこから少し距離を置くように、理人は腰掛けていた。
びわは新しい楽器を手に取ると、また弦をつまびいた。いくつもの楽器から溢れる音の数々は確かに美しかったが、理人にはその違いはわからない。
「こっちの琵琶は、他より音に深みがある。こっちの琵琶は……軽やかな音色だね。……もしかしてこちらは、胡琴、かな。龍笛、篳篥、笙に箏……まさによりどりみどりだ」
びわは楽器に囲まれては楽しそうに、それらを一つずつ試奏していく。理人にとっては馴染みのない楽器ばかりなのでその巧拙はわからないが、楽器そのものの美しさも、びわの奏でる音も、おそらくは一級品なのであろう。
「ねえ、やまぶきは、どの楽器がいいと思う?」
「自分は音楽はよくわからないのですが……、その琵琶という楽器は、なんだか心に響くような気がします」
「ふふ、そうかい?じゃあ今日は、この五弦琵琶にしようかな」
びわは近くにあった琵琶を手にし、その表面を撫でた。貝殻の内側のようなきらきらとした装飾が施されたそれは、まるで宝石のようで、燭台の炎が揺れるたびにその装飾も煌めいた。
バチを手にしたびわは、びん、びん、と音を奏で始める。またしても、理人の全く知らない曲であった。それでも、目を閉じてその曲に聴き入っていると、不思議と心が落ち着くような気がする。
演奏が終わりびわがバチを下ろしたその瞬間、「それはいったい何の曲?」と、何者かの声が聞こえた。
突然の声に驚いて顔を上げると、蔵の入り口にチャオが佇んでいた。理人は思わず身構えたが、チャオは余裕の笑顔を浮かべている。
「やあ、チャオ。なんでもないよ。ただ、弾きたいように弾いただけ。……仕事は終わったのかい?」
「ああ、やっとね。疲れたから二人の顔を見に来たんだ」
チャオはそう言いながら、蔵の中へと足を進めた。そして理人の目の前で腰を下ろし、そのまま理人の足に頭を預ける形で寝転がった。
「ちょっと、チャオさん?」
「やっと商談がまとまって、少し疲れたんだ……このまま一眠りさせてくれないかい?」
どうしたものか困惑する理人だったが、当のチャオはそのまま目を瞑ってしまった。本当なら膝から落としてしまいたかったが、確かに表情を見るに疲れているようで、しぶしぶそのままの姿勢を保った。
「今朝は、僕らが起きた時には既に出かけていったみたいだったしねえ。ふふ、じゃあチャオのために子守唄でも奏でてあげようか」
びわはそう言うと、手元の琵琶の弦を指で弾きはじめた。ゆっくりとした曲調で、確かに優しい音色だ。それに、とても情感に溢れている。
長い時間をかけてその曲を弾ききったびわは、「今の曲は、別れの曲とも呼ばれているんだけど……切ないなかにも優しい音色が込められていて、僕は好きだな」と小さな声で漏らした。
「とても素晴らしい演奏でした。……よろしければ、もう一度お聞かせ願えませんか」
「ふふ、やまぶきがそう言うならば。何度でも奏でよう」
びわは、また同じフレーズを最初から爪弾きはじめた。今度は理人も目を閉じて、その音色に耳を傾ける。
(気持ち良い。なんだか、ほっとする。それに、なんだか、眠たく……)
理人は、びわの奏でる別れの曲に導かれるように、夢の世界へと吸い込まれていった。
真っ暗闇の中、音楽が聴こえる。どこかで聞いたことがある曲なような気がしたが、曲名まではわからなかった。
いったい誰が弾いているのだろう?つい気になってしまい、音の主を探して、何も見えないなか歩き回った。すると、スポットライトを浴びた少年が、ヴァイオリンを弾いているのを見つけた。先程聞こえていたのはこれか、と納得した。とても上手なヴァイオリンだ。少年は生き生きとした表情で音を奏でている。
ああ、良かった。なんだかほっとしてしまう。
しかし、それだけでは終わらなかった。
ぐす、ぐすと、小さな子供の泣き声が聞こえ始めた。
こうしてはいられない。泣き声の主を探さなくては。
ヴァイオリンの音色は名残惜しかったが、微かな泣き声を頼りに、それを探し歩く。
どこだ。どこにいる。
たくさん歩いたその先で、やっと見つけた、小さな子供は、蹲って泣いている。
思わず手を伸ばし、頭を撫でてやった。すると、小さな子供は、さらに大きな声で泣き出した。
「とうさん、かあさん、どうして、どうして」
小さな少年は、なおも俯いたまましゃくりあげる。
理人は思わず、彼を思い切り抱きしめていた。よし、よし、と頭を撫でると、少しずつ泣き声が小さくなっていく。そして気づけば、少年は理人にもたれかかり、すうすうと寝息をたてていた。
「やまぶき?」
びわの声で、一瞬にして現に引き戻された。
理人は先程と変わらず、蔵の中で座ったまま。膝の上には、チャオの頭があり、自身の手は、そのチャオの頭の上にあった。
「は、はい。なんでしょうか」
理人は頭を振り、姿勢を正し、手を下ろしながらびわに言葉を返した。
「やまぶきがチャオの頭を撫でていたから、驚いたんだ。どういう心境の変化だい?」
「えっ、自分が、チャオさんの頭を……?」
「うん。無意識にやっていたのかい?」
不思議そうに理人を見つめるびわは、琵琶を床に置いたまま寛いでいる。
「どうやら少し寝ぼけていたようで。……それよりびわさんは、もう楽器は弾かれないのですか?」
「うん、少し疲れたから、休憩だよ」
「なるほど」
蔵の内側には灯りがあったため気が付かなかったが、扉の外はすっかり暗くなっており、チャオが訪れてから少なくとも三時間は経過していそうだった。確かに、そんなに長い間演奏を続けていては、疲れるのも当然だろう。そう思うと、理人もひどく腹が減ったような気がする。チャオを起こして、何か食べ物でも用意してもらおうか。
そう思った時だった。
「チャオ様!屋敷に賊が入り込みました!」
蔵の外から、大きな声が聞こえた。