夢見る少女じゃいられない一ノ瀬銀河×朝日奈唯
仰げは尊し わが師の恩
教えの庭にも はや幾年
思えばいと疾し この年月
今こそ別れめ いざさらば
銀河が菩提樹寮に着いたのは、時計の針が二十三時を指す少し前だった。
「ったく篠森の野郎~、こんな日にまで書類書類ってさあ……」
卒業式が終わり、木蓮館で教え子達の卒業の感慨に耽る間もなく
銀河はたまりにたまった書類を提出するために、篠森に連行されてしまった。
ようやく解放された銀河は憔悴しきった顔で菩提樹寮へと戻って来た。
「はあ~……何か食いもん残ってねえかな」
とぼとぼと食堂に向かうと、なぜか灯りが点いている。
「お前、何してんだこんなところで」
「ん~……あ、お帰り銀河君」
テーブルの上には白いクロスがかけられた皿が置かれていて
その隣で突っ伏して寝ていた朝日奈は、顔を上げるとへにゃりと微笑んだ。
「何だなんだ、銀河さんの事を待ってたのか~でも夜更かしはお肌の大敵だぞ……
って、まだそんなこと気にする年じゃないかお前」
「成宮君がね、皆が来るのは明日だけど一足先に私と朔夜君の卒業祝いだって、ご馳走作ってくれたんだよ」
ローストビーフに、ミネストローネ、ポテトサラダにミートローフ
皿に綺麗に盛り付けたのは朔夜だろうか、普段ありつけないような豪華なメニューに銀河の目がキラキラと輝きだす。
「うっわ、すげーなこれ、成宮が作ったのか?」
「うん、明日のリハーサルも兼ねてだって」
単位交換制度で星奏学院に来ていたメンバーも卒業式はそれぞれの学校だ
なので、朝日奈達スターライトオーケストラ三年生の卒業祝いはOBも集まって、明日の夜やることになっている。
「ったく、油断ならねえ坊ちゃんだな」
「……何か言った?」
銀河の呟きは、ミートローフをキッチンで温めなおしていた朝日奈には聞こえなかったようだ。
「いや、何でも……はあ~、労働で疲れた体に染みわたるわあ」
銀河はそう言うと、大袈裟に溜息を吐いてみせた。
「つーか別に飯があるってマインしてくれれば、お前が待っとく事なかっただろう」
「そうだけど……」
少し不服そうに口を尖らせる朝日奈の頭を、銀河の手がぽんぽんと撫でた
「そーかそーか、一秒でも早く銀河さんに卒業おめでとうって言って欲しかったんだな~可愛いやつめ~」
「そ、それもあるけど!」
茶化すようにグリグリと頭を撫でて髪の毛を乱す銀河の手をかいくぐって、真剣な顔の朝日奈が銀河の顔を見上げる。
「何だよ、どうした、そんなに怒る事ないだろう」
「違う……約束、覚えてないの?」
その言葉に、銀河の背中がギクリと伸びた。
──手を出すのは、お前が卒業してからな
一年前、思いを伝え合った時に銀河は朝日奈を抱きしめてそう囁いた。
それから文字通り、銀河は朝日奈に一切手を出すことはなかった
手を繋ぐことはあっても、決してその先に進むことはしない。
教員と生徒である以上、それは仕方のない事だと朝日奈も分かっていた
だが、今日をもって星奏学院を卒業したからには、もう普通の恋人同士だ。
どこか期待を孕んだ朝日奈の瞳を真っ直ぐに見ることが出来ず、銀河はガリガリと頭を掻いた。
「……はあ、ちょっと付き合え」
「え、ちょっと銀河君?」
そう言って銀河はポケットからバスの鍵を取り出すと朝日奈の腕を掴んで立ち上がった。
春とは言え、まだ夜は長袖一枚でも肌寒い時期
海岸沿いに他の車の姿は見えなかった。
「あの、銀河君?」
夜の海の、波音だけが静かに響く
ここに来るまでの間、運転席の銀河はほとんどしゃべらなかった。
その横顔が、まるでステージで指揮棒を振る時のように、鍵盤に向き合い音を奏でている時のように真剣で朝日奈も何となく声をかけられずにいた。
「なあ、お前さあ」
その声に横を向けばあっと言う間に朝日奈は銀河の腕の中に閉じ込められる。
バスのシートと銀河の体の間で身動きが取れない朝日奈の耳元で、銀河はどこか苦しそうに呟いた。
「分かってんのか、大人の男に手を出せって言ってる意味が」
いつものおちゃらけてくだけた声音ではない、今まで聞いたことのないような低いテノールが耳元を擽ると、朝日奈はびくりと体を震わせた。
「銀河く……」
名前を呼ぼうとした口はあっと言う間に塞がれる
ぎゅうぎゅうとシートに押し付けられて後頭部がじんわり痛い。
だがそれ以上に、鼻先に触れる吐息に、自分の舌を絡めとる銀河の舌の熱さに
朝日奈は翻弄されていた。
「ゃ……、待っ」
「今まで散々待ったんだ……今更、待てとか言うのなしだろ」
どこか張り詰めたような銀河の声に、朝日奈は言葉が出てこない
波のように、銀河の唇が触れては離れ、熱を昂らせていく。
「唯……」
「んッ……ぁ、」
まるで、宝物を愛でるように、甘い声で名前を呼ばれて、朝日奈は目の前の銀河の体に縋るので精一杯だった。
「ッ、悪ぃ……」
シートに押し倒した朝日奈がすっかり息を上げてしまっている事に気づいて、銀河は慌てて体を起こした。
まだ半分意識を飛ばしている朝日奈の目尻に浮かんだ涙を、銀河の指が拭うと酸素を求めて朝日奈は大きく息を吸い込んだ。
「その、悪い……なんつーか、がっついちまった……怖かっただろう」
「ちょっとびっくりしたけど……銀河君がくれるなら、怖くないよ」
バツが悪そうに視線を逸らす銀河に、朝日奈はフルフルと首を横に振ると、体を起こして銀河に抱きついた。
「お前、またそう言うことを……」
ため息を吐きながらも、朝日奈の髪を梳く銀河の手つきは優しい。
「ねえ銀河君、名前……呼んでくれないの?」
期待に満ちた眼差しが、銀河を見上げる。
「……唯」
──愛してる
そう続けた銀河の唇が、もう一度朝日奈の唇に重なった。
─了─