大丈夫うなされて飛び起きしばし呆然とした後、肺の奥のほうから深い息を吐く金城を見るのは何度目だろう。
そんなに神経質ではない自分が目を覚ますような、ヒリヒリとしたニオイのようなものが伝わってくる。
月末に入って、金城の実家から電話がかかってくることが増えた頃から始まった。
自分の知らない金城真護という人間が、どういうふうに生きていたのかよく知らない。自分のことはあまり話さないから。
大体、人に説明できることなんて自分の中で整理がついていることしかない。
言葉になる時は整理がついた時だ。
声をかけたいといつも思う。
だけど、俺を起こさなかったことを確認して安堵し、そっとベッドを抜け出す金城の様子を見ていると、見られたくない姿だったのかと思う。
だから一度も声をかけたことがない。
尋ねることもできていない。
本当はどうするのが一番いいのかもわからない。
上手く言葉にならないような感情がぐるぐると胸に詰まってつらいんだろって思うから、それを尋ねたりできない。
いつかそのぐるぐるとした感情を吐き出せる時が来たら、こいつは楽になれるんだろうか。
帰ってこない金城を待ちながら考える。
そのいつか、っていつ?その時の相手は俺なのか?
俺は金城の「理由」を知らないままになるかもしれねぇんだなァ…
そう思うと問い詰めてしまいそうになる自分と、反対にもし俺じゃなくても、こいつが誰かに話せる日が来て、あんなふうに目を覚ましたりしないといい、とも思う自分がいる。
人の世話は必要以上に焼くくせに、自分はそうやって我慢すんだよなとだんだん腹が立ってきた。
歩いてくる気配がする。
俺はちょっとした拍子に溢れそうなたくさんの言葉を飲み込み、寝ていたふりをする。
これだけ近くにいても見えないことがあるって知った。
感情の入れ物が透明で、透けて見えりゃいいのにネ。
でもそうじゃないから「いつか一緒にいる」「話せる誰か」が両方とも俺だったらいいって欲深くも思う。
いつもは熱源みたいな温かさなのに、ひんやりとして冷たい。そっとベッドに潜り込んだ金城が、冷えた足を俺に当てないように避ける。それがなんか切なくなって、その冷たい足に自分の足を絡め、冷えてしまった背中を抱くように腕を伸ばすと金城がちょっと驚いたように顔を上げた。そして小さい声でありがとうって言った。
誕生日とまとめて祝われるクリスマスはケーキを食べる日、というくらいのもので特別な意味がない。早くからサンタクロースなどいないと言われてしまった自分にとって、それだけのものだった。とはいえ、下の子だったせいもあったのか誕生日はちゃんと祝ってもらった記憶があるし、歳の離れた兄は自分をとても可愛がってくれたと思う。
兄と比べられたらどうしようもない」
それは中学生になる前にはもう悟っていた。
そんな歳の離れた弟の気持ちをどこかで理解していたのか「俺と真護は別の人間だからそれでいいんだ」と、そう言った兄は優しかったし、とても嫌いになったり否定したりできる人ではなかった。
両親の関心のほとんどは兄に向けられていた。寂しいという気持ちもあったけれど、どこかで自分は自由だと感じていた。
古くから何代も続く家に住む家の長男は、とても窮屈そうに見えた。
両親の関心が薄い代わりのように祖父も祖母も自分をとても可愛がった。周りから見ればひどくアンバランスだったのかもしれないが、それも家庭としてひとつの形だった。
ある日、兄がテレビでロードレースというものを見ていて、なんとなく一緒に見始めた。続けて一緒に見ているうちに、始まると兄が声をかけてくれるようなった。
最初は凄い、くらいにしか思わなかった。
けれどレースの仕組みや戦略、選手の間にある欲望や嫉妬、虚栄心や誇り。わかればわかるほど面白かった。
本当に面白い」そう兄に言うと、嬉しそうに雑誌やDVDを出してきていろいろなことを丁寧に教えてくれた。
プレゼントで唯一ねだったのは自転車だった。
自分から何かをねだったのは初めてだった。
それが何回か繰り返されて、最後のプレゼントが今のトレックになった。
かなり高額だったから、自分が今までに貯めていた預金も全部出そうと思った。
すると兄が「いくらあってもお金は邪魔にはならないから」とその分以上を出してくれた。カタログや最新の部品の雑誌と一緒にプレゼントとして。
中学でほとんどの時間をロードレースに注ぎ、高校のインターハイでチームが優勝した時、兄は自分のことのように喜んだと人づてに聞いた。友人や同僚に「弟はプロ選手になれるかもしれない」と自慢した、と。
兄はとてもロードレースが好きだったんだと思う。本当は自分が乗りたかったんだろうってそう思う。
高校を卒業する時には自分なりにいろいろな選択肢があった。その中で家を離れ実家からは程々に遠い静岡を選んだ。予想していたとおり、いろいろなことを言われた。
迷ったその背中を押してくれたのは、祖父の言葉だった。
「自分の思うように生きなさい」
うん、と頷くと、自分より小さくなった祖父が子どもの頃のように頭を撫でた。
金城は高校以前の話をあまりしない。
ジイちゃんの話は聞いたことがあるし、歳の離れた兄ちゃんがいるのは知っている。
大学入った頃、待宮と三人で話をしていた時にそう言ってたから知ってるってだけ。
待宮が「金城は長男って感じじゃなぁ」と言った時、間髪入れず「違う、歳の離れた兄がいる」と答えただけで、後は何も言わなかった。
人間関係においてとても嗅覚のいい待宮は上手く話題を変えた。そういうところは闘犬っていうより探知犬っぽい。
「ワシは身内では珍しく広島から出たくちなんじゃ」と実家の辺りに住む待宮一族の話で俺たちを笑わせた。
皆、酒が強くて正月は一升瓶を一本ずつ持参して本家に集まるとかそんな話だった。
三が日は皆、酔っ払っとるけぇさあ、同じ人からお年玉何回も貰ったりするんよ。儲けた!って言ぅてさあ」
そんな待宮の話に笑っていると「そういうのは賑やかでいいな」と羨ましそうに金城が言ったのを憶えている。
自分に対して人が言う「大丈夫」は、どこか突き放した言葉だと思ってきた。
特に子どもの頃の自分にとっては残酷な言葉だった。
助けてと言う前に「お前なら大丈夫」と言われるのは、伸ばした手を見る前に背を向けられるようなものだからだ。
「お前なら大丈夫だ」「ひとりで大丈夫よね」そんなことばかり言われているうちに毎回それに傷ついたり、何故そう言われるのか、と考えるのがどんどん厭になっていった。
だからやれることは全部自分でやるようになった。
考えて確認して目標を立て、そこに至るまでの道程を組み立て努力した。
幸いなことに信頼できる人もいた。迷ったら相談して方向を正した。
自分が信頼を置けない人たちに「大丈夫だな」などと言われたくなかった。
帰省を促される度に、やんわりとそれを断っていた。
今年は帰るつもりがなかった。
祖父にはもう連絡した。
「今年は帰らないことにするよ」と言うと「おばあちゃんが寂しがるな」と、それだけ言った。
電話の向こうの祖父と祖母に心の中でごめん、と言いながら電話を切った。
やっとひとりで生活することに慣れてきて、何もかもをひとりでやることは大変でも誰と比べられるわけでもなく、自分自身のままでこうしていられるのは言葉では言い表せないくらいの心地良さがあった。
そこで、今まで気付かないふりをしていたことを自覚した。
自分の家庭のどこかが少し、歪だったということ。それもひとつの形だとしてもやはり歪だったということを。
帰省しないことは荒北にはまだ言っていない。
どこからどうやって説明したらいいかわからなかった。まだ整理のついていないことがたくさんありすぎて。
荒北が帰省する前日にでも、こっちで年を越すよと話すつもりだった。
その日、何度目だったか忘れてしまったけど金城がうなされて飛び起きた時、知らないふりをする自分の我慢が限界を越えた。
ベッドを抜けようとしたその上着を掴み「寒いからここにいろよ」って言ってしまった。
振り返った金城は今にも泣きそうな顔をしていて、少し驚いてしばらくその顔を見てた。そしたらぎゅうと抱きついて「少しだけでいい」と言った。
何かをねだることがあまり上手くない。
それは知っていたから先回りすることもあった。
それでも金城のほうが気が利くし、自分はそうやって支えられてきたところもある。
でも人にはそういうふうに甘えたりできない。
真面目で何でもできる生まれついてのリーダー気質で、なんてさァよく言ったもんだよネ。
金城はただ、人に頼ることに慣れていないだけだ。
黙っていろいろなことを飲み込む。
蛇だって言われてたらしいけど、蛇だって執着したものしか追わない。
こいつはたぶん、どこにいてもずっと「リーダー」だとか「できて当たり前」みたいな言われ方をしてきたんだろうと思う。
周りから与えられた役割を、愚痴を溢すこともなく全部飲み込んできたとしたら、こいつはどれだけ苦しい思いをしたのか。
でも誰も気にしていなかったんだろう。
だけどその腹の中の全部をこいつ自身が望んだのか、って。
本当に執着して追いかけたのは、ほんの少しなんじゃねえの?
まだ数ヶ月しか一緒にいないけど「全部欲しい」というタイプじゃない。金城は「必要なもの」だけを「必要な分だけ」欲しがるタイプに見える。
高い目標も、日常を過ごす中でのわずかな期待も全部一緒に飲み込んできたとしたらひどく残酷だと思う。
消化する間もなくそれを自分の中で糧に変えてきた。
でももういいんじゃない?
そんなの捨てていいんじゃねーの。
お前は偉いなァ。憎んだり怒ったりしなかったのか?
それだとずっと許せないんじゃねえの?
怒りを糧にして立ち上がることは容易い。
期待に添って自分を律し、信頼を得ることで磨いた刃は諸刃の剣だ。
頭の形もいいんだよなァと思いながらその頭を撫でていると「祖父にされて以来だ」ってぼそっと言った。
「こんなのいくらでもしてやんヨ」と笑うと、肩口に額を押し付けた頭がこくりと動く。
荒北、とそのまま顔を見ずに「帰りたくないんだ」と言った。
帰りたくない先がどこかはすぐわかった。
「いいんじゃねえの?お前、何回も電話でそう言ってたよ」
言い方を変えて、電話がかかってくる度にそう言っていた。
相手はまったく聞いていないのか、ついに今日は「帰らなきゃいけないだろうか」になった。
「知ってたのか」
そう問う金城にそれがいいのか悪いのかわからないけど「知ってたよ」って答えた。
「荒北には見えるんだな」
「何が?」って聞いたけど、答えはなかった。
荒北の冷たい手が頭を撫でる。
目の端に溜まっていたらしい涙を細い指が拭う。
ムスッとしたような顔で頬に触れた冷たい唇が離れて、背中に回した腕が俺をぎゅっと抱く。
荒北は気付く。
伸ばした手に。
子どもの頃みたいに眠れず泣くこともない。
何事もなかったような顔をする必要もない。
ただ、どうしようもない自分を受け止めて荒北は「大丈夫」って言う。
この言葉がこんなに優しい意味だったと初めて知った。
ぐりぐりと頭を撫でながら「もう大丈夫なんだヨ、金城」と、相変わらずムスッとした表情のまま荒北が言った。