夜が明けるころあの古びた温室は薬学部のもので、校舎から少し離れているから普段はあんまり人を見かけない。
オレが金城に教えたんだ。
部の先輩ですごく猫が好きな人がいる。
こっそり構内の猫スポットを共有してる。
なぜこっそりなのかと言えば、先輩は顔立ちが怖い。オレはこういう性格だから、学部とか部でも猫の話で盛り上がってたりするときなんかには混ざらない。
先輩のリュックにはキーホルダーが付けてある。小さいやつだし普段は見えないようにポケットに突っ込まれてるけどあれは猫だと気付いた。だから小声で「先輩、もしかして、ね」まで言ったら「やっぱり荒北もか」と笑った。笑っても先輩の顔立ちは怖い。
けど先輩とオレは細々と独り『猫道』を極めてきたみたいなところがあって気が合った。
その話を金城にしたら「よかったな」とだけ言った。だいぶ端折った。金城の顔には「荒北がなにを言っているのかよくわからない」と力強い筆文字で書いてあるのがわかったから。
けれどオレが教えた猫スポットでもある温室を金城は気に入っている。
温室の窓は雨風で汚れ、キレイとはとても言えない。
見慣れない植物がたくさんあって。小さな札には説明が書いてあるから金城はここに来始めたころそれをひとつひとつ読んでた。
見学用にも開かれたこの温室は奥の一部だけが非公開になっていてその柵の奥は部学生と関係者しか入れないようになっていた。
その少し手前辺り。結構広く奥に向かうほど背が高くなる植物群の辺りまで来る人はあまりなく、薬学部の学生がときどき管理に入ってくるくらいのものだ。
その辺りの日差しがよく当たり、暖かい場所を猫も金城も知っていた。
植え込みを囲うレンガが置いてあって金城はよくそこで居眠りをしたり本を読んだりした。
不得手ではない。かと言って好きでもないという喧騒を金城は上手く避けた。
ときどき姿が見えなくなって誰も連絡がつかなくなるときがある。
そういうときは大概ここにいた。
「明日は予定があるじゃろうから今日夜でも四人で飯食わんか」
「荒北くん、待宮くんと私はマフラー買うたよ」佳奈ちゃんが言う。
金城のこと昼から見かけてないから伝えてくれと待宮が言う。
いつもの場所に行ってみると金城は腕を組んでなんだか難しい顔をして寝てた。
無精髭で腕を組んで眠る姿は昔の武将とか浪人みたいだナァ。
今日はなにがあって、なにを避けてここにいるんだろう。鳴らないスマホだけをポケットに突っ込んで。
武将の寝顔を見ながら思う。
聞いてもたぶん答えない。聞くつもりもない。
金城の中にいるのはひどく老成した『金城さん』とある種の無垢と無邪気さを持った『真護くん』とを色違いの粘土にしてくつけ、無理やり丸くしたみたいな塊でそれをときどき持て余してるように見える。
誰にだって多かれ少なかれそういう部分はあるヨ。
そりゃそうなんだけどさ。
もどかしさとかやるせなさみたいなのを飲み込む。噛み砕けないから丸飲みばっかりで消化することもできない。
そんなことを思いながら無精髭の生えた顎を指でなぞる。
金城は目を覚まし、オレに気付いて笑った。
寝呆けた顔で「ちょっと疲れてた」とそう言ってふうと大きくため息を吐いた。
金城の隣に座り坊主頭をグリグリと撫でた。
「なんか食いたいもんある?」
金城はしばらく考えてから
「肉かな」
「括りが大雑把すぎてわかんねえ」
「じゃあ鶏肉」
「そういうことじゃねえからァ」
下らない会話と金城が笑う声で、どこか張り詰めていた部分が溶けていく。
心の底でなにごともないと思いたかった自分の。
日を浴びていた金城は温かい。普段よりもずっと。
その体温が自分に教えた安堵と不安は嬉しくて憎い。それはたぶん金城にとっても同じだ。
戸惑いながら始まった。でも今はもうそれを手放すことはできない。
「明日、オレ運転すっからどっか行こうぜ」
「荒北の運転で?」
「ドキドキさせてやるからさァ」
「ドキドキは別の意味でしてるから遠慮したいが」
「……オレ、お前のそういうとこホント憎いわ」
行ったことのないところに二人で行ってさ。
できれば夜が明けるころに。
初めて見る景色を二人で見よう。
いつか思い出す。
冬の朝の寒かったこと。それが十九歳の始まりの朝だってこと。
そしたら一緒に思い出せ。温室の木立に隠れてキスしたことを。