「鬼鏡」 疫神1一
目に映るのは、底も知れない漆黒の闇。
それは己の運命を示すのか、それとも心の内を現すものか。
春日(かすが)は、ゆっくりと視界を巡らせた。瞳を開けようとも閉じようとも変わらない、黒い風景。どこまで続くのかも、どれほどの広さがあるのかも解らない。瞳に映るものは、何もないはずだった。
不意に、闇の向こうに浮き出るような白い光がぼんやりと立ち上ぼった。
丸い、毛玉のような光は、手も届かない彼方に、ただ揺らめきながら浮いていた。遮るものは、何もない。
春日は、顔色も変えず、手にした大筒を構えた。
低い銃声が響いた。
どさりと、重い音とともに光は消えた。その下には、狐の死骸が転がっていた。
「まだだ・・・。」
うわごとのように、春日は呟いた。
彼はもういちど、瞳をめぐらせた。
ぽうっと、軽い音が聞こえた。
遠巻きに、漁火(いさりび)のように、白い光が浮き上がった。一点の光は、左右に次々と同じ高さで順に点された。
ぽうっと、その度ごとに灯火の声が響いた。
灯りは、ぐるりと春日を取り囲んだ。
白い光の中には、赤い瞳の狐が浮いていた。腹の膨れた赤子がいた。醜く歪んだ仮面があった。
どれもこれも、この世の地獄で見たものばかりだ。
春日は、大筒に弾を込めた。愛用の『火神招来』を再び構えた。
銃声が、また、響いた。
瞬きもせず、狐が地に堕ちた。光がひとつ、消えた。音も立てなかった。
重い声が響く。『火神招来』が怒声を上げる。
ひとつ、またひとつ、光は消えた。地に伏した躯(むくろ)の数が、次第、次第に増えていった。
「まだだ・・・。」
再び春日は呟いた。
彼の足が動き、山と詰まれた屍を踏みしめる。自ら狩った躯の頂に、彼はいた。
また、ぽうっと光が上がる。
大筒が火を吹く。
山が、増える。
しかし、春日は飽きることなく大筒を撃ち続けた。
「まだだ・・・。まだ足りない。」
他の言葉を知らないのか、同じ呟きだけが彼の口の中でこだましていた。
「まだいる、まだ・・・。」
最後の光が、消えた。
だが、彼の期待に反し、それ以上、灯は上がってこなかった。漆黒の闇だけが、彼を包んでいた。
春日は呟いた。
「・・・嘘をつくな。」
春日は、足元の躯の山を踏みにじった。叫ぶような声を上げた。
「まだいるだろう、鬼ども!これだけのはずない!」
春日は、大筒の引き金に手をかけた。相手となるものはもういないはずなのに。
「邪魔をするな、貴様ら・・・。何もかも、この世の鬼は全て俺が滅ぼしてやる・・・!」
足下のもう動かない鬼に、大筒を放った。
低く、銃声の余韻が残った。
その声にかぶさるように、何者かの声が響いた。初めて耳にした、己以外の声だった。
―ならば存分、戦うがよい。
春日は誰何した。
「誰だ!」
―倒すのだろう、全ての鬼を。滅ぼすのだろう、何もかも。
声は、すぐ近くから聞こえていた。
訝しむ、彼の鋭い視線が己の手元に落ちた。
そのときだった。
ぶつり。
肉のちぎれる、嫌な音がした。
春日の手の甲に、米粒ほどの鬼が顔を出していた。
「な・・・ッ!」
あわてて春日は、子鬼を振り払った。床に落ちたそれめがけ、至近距離から容赦なく大筒で打ち抜いた。大筒の弾より小さい子鬼は、粉みじんとなっていた。
ぶつり。
また、肉のちぎれる音がした。
今度は、彼の腕に子鬼が取り付いている。
ぶつり。ぶつり。
脚からも、腹からも同じ音が響く。
ぞろり、ぞろりと肌の下から子鬼が這い出していた。
ぶつり。
肉を下から食い破り、血にまみれた鬼が顔を覗かせる。
見る見るうちに春日の顔が青ざめた。彼は、子鬼を払うこともできず呟いた。
「・・・やめろ・・・。」
だが、彼の体からは、後から後から鬼が這い出す。鎧の上にも、肌の上にも、虫のような小さな鬼が、びっしりと彼を覆い始めた。
春日は我知らず叫んだ。
「やめろーッ!!」
どこからか、彼を嘲笑う声が響いた。
―どうした。倒すのだろう、全ての鬼を。最後の鬼は、そら、そこだ。
見えない指が、一点を示した。
その先にあるのは、大筒を構えた春日自身。微小な鬼に覆われた、鬼狩りの一族の男。
春日は、己を流れる血の中に、小さな声を聞いていた。
―ここだ。
―ここだ。
―ここにおるぞ。
血の中から、声がする。全身を駆け巡る赤い鮮血の中に、目に見えない微細な鬼が流れている。
ぞろぞろと、ぞろぞろと。
無数の鬼が、肌の下を這い回っている。
春日の唇が、青いまま、小刻みに震えた。
「・・・う・・・あ・・・」
子鬼が、頬の下から這い出した。血に濡れた鬼の瞳と、春日のそれとが邂逅した。
「うわああああぁッ!!!!」
「うわああああぁッ!!!!」
闇夜を劈(つんざ)く悲鳴に、明梨(あかり)は飛び起きた。
時刻は夜も開けきらぬ丑の刻。だが、迷うことなく、彼女は布団を飛び出した。
明梨は台所に駆け込んだ。すでにそこには、イツ花も姿を現していた。寝巻き姿のイツ花は、不安げな顔で彼女を迎えた。
「イツ花、薬は!?」
「すでに吹雪(ふぶき)さまがお持ちに・・・。明梨さま、これを。」
「わかった。」
「明梨さまッ、お気をつけて!」
イツ花が差し出したのは、どういうわけか、一本の荒縄だった。
明梨は縄を受け取ると、今度は廊下を駆け抜けた。何の光もない宵闇の中、しかし、明梨は踏み外すことなく廊下を走り抜け、目指す部屋に一目散に駆け込んだ。
「兄貴ッ!」
「ああああぁッ!!」
耳を覆う、春日の悲鳴が響いた。
春日は、布団に仰向けになったまま叫んでいた。瞳の焦点は合っていない。おそらく、自分が今どうしているのかも解ってないのだろう。暴れる彼の体を、壊し屋の時雨(しぐれ)が押さえつけ、だが春日はその手を懸命に振り解こうとしていた。
当代一の大筒士である春日にかなう者は、一族の中にもほとんどいない。いくら、時雨が力業を生業とする壊し屋であっても、いつまでも彼を押さえていられるはずがない。馬乗りに春日を布団に縛り付ける時雨の額には、すでに汗が浮かんでいた。
明梨は、イツ花から手渡された荒縄を時雨に差し出した。
「時雨、これ!」
「・・・すまない、助かった。」
時雨は、慣れた手つきで春日の腕に縄を渡した。荒行だが、仕方がない。たちどころに、春日の体は縛り上げられた。
その隙に、時雨の脇に控えていた吹雪が、春日の口元に茶碗を運んだ。中は、どろりとした薄汚れた緑の液体に満たされている。独特の鼻を突く匂いが上っていた。心を静める鎮静剤は、彼だけのために調合されたものだった。
しかし、唇をかみ締め、激しく体を上下させる春日の口に、すんなり薬湯が届くわけもない。彼の顎と茶碗がぶつかり、中身が布団の上まで跳ねた。
「吹雪、それ貸せ!」
明梨は、吹雪に手を伸ばした。しかし、吹雪は明梨に応えず、何を思ったのか、茶碗を自らの口元に運んだ。吹雪は、縛り上げられた春日の肩を押さえつけ、その上に覆いかぶさった。
温かさを感じたのは、一瞬だった。
唇に熱が走った。
吹雪はかすかに顔をしかめ、面を上げた。口元に当てた掌は、鮮やかな紅に染められていた。
明梨は目を見張った。
「吹雪、それどうした。」
くぐもった声のまま、吹雪は明梨に応えた。
「大事ない。薬は飲ませた。」
「大事ないじゃないだろ。血が出てるじゃないか。」
明梨は、心配そうに吹雪に駆け寄った。覆った手の上からも、彼女の唇が血に染まっているのがよく解る。明梨は、彼女を促して、部屋の外へ連れ出した。
廊下では、イツ花も寝巻きのまま、駆けつけてきていた。明梨はすぐに、手元にイツ花を呼び寄せた。
「イツ花、吹雪のこと頼む。手当てしてやってくれ。」
「は、はい。吹雪さま、どうされたんですか?」
「あンの馬鹿兄貴、吹雪の唇、噛み切りやがった。」
明梨は腹立たしげに、吐き捨てた。吹雪のほうも、まだ血が止まらず、口元を押さえたまま少し困ったような顔をしていた。苦笑する吹雪とイツ花の目が合った。
「あ、解りました。吹雪さま、こちらへ。」
イツ花は、とりあえず、たとう紙を彼女に渡し、吹雪を台所の方へ促した。
廊下に残された明梨は、大きくため息をついた。春日には、薬を飲ませた。効き目が現れるまでにはしばらくかかるだろうが、幸い、時雨が無事、縛り上げた。
とりあえず、今夜はひと段落というところだろうか。
「明梨。」
「桂花(けいか)様。」
不意に、背後から声をかけられた明梨は、慌てて振り返った。見ると、当主桂花が疲れた顔で佇んでいた。交神のため、天界から戻ったばかりの彼女は、まだ幾分調子が戻っていないのだろうか。秀麗な眉目は、悩ましく皴が寄せられていた。
桂花は今来たばかりだというのに、迷いもせず、一人の名を上げた。
「春日、落ち着いた?」
「はい。吹雪が薬を飲ませてくれました。今、時雨が抑えています。」
「そう・・・。」
しかし、安心するどころか、桂花はますます眉間に皴を寄せ、悩ましげにため息をついた。
「・・・だんだんひどくなるわね、春日の発作。」
明梨は口を噤んだ。
返す言葉はなかった。いったい何が彼の心を苦しめているというのか、夜ごと、春日は悪夢に苛まれていた。こうして悲鳴を上げることも、そう珍しいことではなかった。
だが、春日はその胸の内を誰にも語らない。言葉すら、誰とも交わすことはなく、ただ血走った紅の瞳を虚空に向けているばかりだった。誰を恨むというのか、誰を憎むというのか。そこに宿るのは、深い憎悪でしかなかった。
桂花は続けた。
「明梨、春日は強いわ。彼に勝てるのは、私たちの中にもそうはいないわ。」
それは、改めて言うまでもなく、自明のことだった。
父からその才を存分に受け継ぎ、技でも術でも、彼の上を行く者は一族にはほとんどいない。当主の桂花であっても、それは同じことだった。その春日がこうして我を忘れるのだ。それを抑えるのは、並大抵の苦労ではなかった。
もし、彼にかなうものがいるとすればそれは。
桂花は、まっすぐに明梨を見つめた。
「それでも、明梨。春日を抑えていける?」
春日の存在は、大きな楔となる。当主を凌駕する力を持つ者が、当主に従わないのであれば、一族の団結を損なうことになる。当主となる者は、春日と戦っていかなければならないのだ。
しかし、明梨は、迷いのない瞳で桂花を見上げた。
「できます。」
きっぱりと、明梨は言い放った。不安がないわけではないだろう。しかし、そこに迷いはなかった。
桂花は満足げに微笑んだ。大輪の花のような、鮮やかな笑顔だった。
「やっぱり、貴女しかいないわね。二十一代目は。」
長元四年(一〇三一年)、五月。
この頃には、櫻一人から始まった九条家も大所帯を構えるようになっていた。
二十代当主は桂花(けいか)。弓使いである。
年長者は、大筒士春日(かすが)を筆頭に、剣士吹雪(ふぶき)、壊し屋時雨(しぐれ)、薙刀士千夜(ちや)がいる。
また、今月生まれたばかりの踊り屋風子(ふうこ)と、拳法家剛(つよし)は双子であった。もうじき、桂花の娘も来訪する。
そして、槍使い明梨(あかり)。
しかし、数ある面々の中でも、どんな鬼にも屈しない並外れた腕を持つのは二人だけであった。
明梨と、そして春日。
その二人が父を同じくする兄妹であったのは、単なる偶然ではなかっただろう。
翌日、桂花は、存命中ながら、明梨を後継に指名した。後に、節目を築く二十一代目当主の誕生は、間近であった。