ふゆのおわりにうたう唄 息が白い。
海の中では見られない現象を面白く思いながら、オレは出来たばかりの魔法薬を雲がかかる空にかざした。虹色に輝く半透明の液体が、ガラス瓶の中で揺らいでいる。なにとはなしに左右に振れば、それは美しく光りながらたぽたぽと瓶の中でたゆたった。
「キラキラじゃん」
まるで他人事のようなつぶやきが白く変わって空気に溶ける。外廊下に隣接している学園の裏庭。流れる吐息に誘われて目を向ければ、そこは一面真っ白な新雪に覆われていた。
寒さのせいか、庭に人の気配は全くない。まっすぐ歩いていた外廊下から、裏庭へと向きを変える。芝生の上に落ちた雪が、平らな革靴の底で圧縮される感覚があった。もう少し積もったら、滑って転んでしまいそうだ。そんなことを考えながら、オレはうっすらと雪がかぶったスチールのベンチを、ゴム手袋をしたままの手でぞんざいに払った。脚を伸ばして腰かけて、灰色の空を大きく仰ぐ。
思い出すのは、悲鳴にも似た泣き声だった。このキラキラの魔法薬を作らせた、ポムフィオーレ寮の同じ二学年の依頼人。
一週間前。そいつはくしゃくしゃになった三枚のポイントカードをガラスのテーブルの上に乗せ、涙と鼻水を垂らしながらVIPルームでアズールに悩みを打ち明けた。
「わすれたい」「でもわすれたくない」「なくしたい」「でもなくしたくない」
握りしめたままの両手が膝の上で震えていた。よくある、恋愛関連の相談事だった。好意を寄せる相手に婚約者がいたとかなんとかで、一方的な恋愛感情に早急に見切りを付けたいらしい。
胸が潰れるほどの痛みを、息が出来ないほどの苦しみを、早くどうにかしてほしいのだと大声を上げて泣き出したあの声が、今も忘れられずにオレの耳に残っていた。
オレは付けっぱなしだったゴーグルを首からぶら下げ、透明な薬瓶の栓を抜いた。中身は依頼人が望んだとおり、誰かを想う感情を、消さず、殺さず、ただ眠らせる魔法薬。
「……冬の、秘薬」
飲んだ者は独りよがりの苦しみからも、行き場なく苛まれる胸の痛みからも解放されるのだとアズールは言っていた。アズールが作って、アズールが名前を付けた、オリジナルのそれ。効果が切れるのは、恋をした相手からの、同じ想いを確信した時。春の訪れに目を覚ます動物や植物のように、愛情を確信した瞬間、効果は霧散し消えるという。
――その時が来たら目覚めます。
まるで慈悲深い海の魔女のような魔法薬だ。希望の芽を摘み取らず、残してくれているのだから。これならば依頼人もためらわずに薬を飲むことができるだろう。けれど、つまりそれは裏を返せば、その時が来ない限り感情が目覚めることは絶対にないということだ。依頼人も、それから、オレも。
これを飲めば、オレはジェイドとずっと兄弟のままでいることができる。
本心を偽らず、嫉妬にも苦しまず、将来にも怯えずにこの先も今の関係を維持できる。
だから、隠しきれなくなった感情が暴走する前に、オレはこの薬を手に入れた。アズールのアシスタントという立場を利用して、作った魔法薬の本数を改ざんした。簡単だ。冬の秘薬を瓶に移し、タグを付けたのはオレなんだから。六本できた魔法薬を、五本だったと言えばいいだけ。
いつの間に降り始めたのか、頭や肩にうっすらと雪が積もっていた。指先の感覚もなんだか鈍い。感覚的には肌寒いくらいの気温でも、人間の身体にはそろそろ毒だ。もう戻ろ。そう思い、今までの情緒はなんだったのかという勢いで、オレは瓶の中身を一気に呷った。空になった薬瓶をそのまま雪の上にぼとりと捨てる。同時に、おえっとえずいて白衣の袖で唇をぬぐった。
甘くて、苦くて、渋くて、まずい。口の中がやけにねばつく。最悪な味と舌触りだ。いっそ吐いてしまいたい。けれどそんな衝動を堪えていると、身体に薬が馴染んだのだろうか、ふいに不快感がなくなった。代わりに虹色の、薄い皮膜のような光沢が皮膚の上をすうっと覆った。頭の天辺からつま先まで。それは一瞬で目には見えなくなったけれど、瞬間、確実にオレの中にあった何かを黙らせた。
ああ、たった今、ジェイドへの狂おしい感情が長い長い眠りについた。
そう思うほどには確実に、空虚にも似た喪失感がオレの心の真ん中を冷たくした。大切なものを無くしてしまった、そんなもの悲しさすらどこかにあった。
いつかまた目覚める時がくるのだろうか。
ジェイドと想いが通じ合う、そんな日が。
そこまで考えて、オレは自虐するよう鼻を鳴らした。そんなことあるわけがない。なんて都合の良い想像だ。今どきおとぎ話でだってそんな展開は流行らない。
座っていたベンチから立ち上がり、真っ白な庭をぐるりと見まわす。
例えこの庭の雪がすべて消えても、春が来ても、夏が来ても、何度季節が巡っても、オレの中の冬だけは終わらない。
「……バイバイ」
墓標すらない感情に別れを告げて、オレは寂しげな裏庭を後にした。
*****
「どうもこうもありませんよ! なんなんだあいつらのあの横暴は! 保険すら対象外なんですよ! いえ、例え保険が降りたとしても、これは信用問題にかかわる重大な損失です。……損失ですよ、損失! 僕が一番嫌いな言葉だ! これだから妖精族は嫌なんだ! 横暴を横暴だと思わない傲慢な性格はデフォルトなんですか? クソッ! こんなことなら空調設備を妖精になんて頼るんじゃなかった……!」
バゴンッ、と執務机を手のひらで叩いたアズールが、捲し立てていた口をようやく閉じた。ぎりぎりと平らな歯を食いしばり、見開いた目からは涙どころか墨でも漏らしてしまいそうだ。思わず、限界まで膨れたハリセンボンを思い出した。全身の棘で全方向に威嚇してる姿なんか、面白いくらいにそっくりだ。
それでも、天板を握った拳で叩かなかった辺り冷静さは残っているんだろうな。そうでなかったらこのマホガニーのでっけー机は、今頃真っ二つに割れていたはずだから。
ふは、と思わず漏れた笑い声が白く変わった。腰を下ろしている本革のソファにもうっすらと霜が降りている。それから脚を乗せた応接セットのテーブルも。その上のクリスタルのシャンデリアも。棚に並べられている調度品の数々も。総支配人の部屋の全部が、冷凍庫の中の肉や魚みたいにカチンコチンに凍っていた。
完成したばかりのリゾートホテルなのに、ほんとアズールってついてねえの。
これはアズールが、ようやく目標の一つだったホテル経営を始めようとした矢先のことだった。ホテルに併設したチャペルが妖精共の奇祭の場所に選ばれた。それどころか空調設備に不可欠なホテルの魔法石まで盗まれて、オープン間近のリゾートホテルのそこここが極寒だったり酷暑だったりしてしまっている。
どこも人間が平気でいられる室温じゃない。アズールの執務室も御覧の通りの有り様だ。オレもジェイドもアズールも、元が人魚だから寒さには慣れてるけど、さすがにそろそろ身体の方が悲鳴を上げそうだ。
オレとジェイドのためだけに新調した、他の従業員とは少し違うホテルマンの制服も、気付けばすっかり凍っていた。固まってしまった袖や裾をばりばりと動かしながら、オレは興奮でイライラしているアズールに呆れと笑いを含んだ声を聞かせた。
「なぁんでわざわざ空調だけ妖精に管理させたりしたんだよ。他は電気なんだよな?」
「……一番は話題性です。それに長い目で見たら、コストパフォーマンス的にも悪くありません」
「でもそのせいで中庭のプールは干上がってるし、フロントホールもサウナみてーになってんじゃん。客室だって同じなんだろ? どーすんの? ほんとに来月オープンできんの? どう考えても無理じゃねえ?」
アズールが陽光の国の西海岸に建設した、真っ白なヴィラが並ぶリゾートホテル。予約は既に半年先まで埋まっていて、再来週には招待客だけのレセプションパーティーも予定されている。今日だって雑誌かなんかの取材があったし、従業員の研修も始まっているのに、このままではどちらもできる状態のわけがない。このイカレた空調のせいで、なにもかもが台無しになりかねない状況だ。
なるほど、早朝にものすごい剣幕で呼び出されたのも納得だった。