貴方に逢えたからめでたいお誕生日の日「沢蕪君、お誕生日おめでとうございます」
1日で何度言われたことだろう。ただこの世に生まれ落ちた日というだけでみんなニコニコと祝ってくる。
それにニコニコと返しながら段々とそんな歪な口の形に凝り固まっていくような気がして遠くへ行きたくなった。
宗主の誕生日であるからと常になく騒がしい宴を抜け人目を避け音を避けて暗い方へと足を進める。辿り着いたのはかの離れでそこでやっと誕生を祝われることへの嫌悪感に気付いたのだった。
母は父との子である自分をどう思っていたのだろう。暗い谷へと降りていくような感覚。
紫の花が夜風に揺れるのを見ているとそこに花ではない紫がある。座り込んでいるのは後ろ姿だが三つ編みやきつく結い上げられた髪も相まって江家宗主江晩吟だとわかる。
「…江宗主?」
声をかけると振り返った青年は月光の下まるで天人のように光り輝いて見えた。
「良い夜だな、沢蕪君。月は綺麗だし酒は美味いし最高だ」
天子笑を掲げて豪快に口を開け笑う姿は人間味がある。
「なんだってそんな辛気臭い顔をしてるんだ。葬式みたいなのは服だけにしてくれ。こっちの気が滅入る」
頬を膨らませて眉間に皺を寄せる様は幼い子のようで可愛げがある。普段は眉間に皺を寄せた仏頂面の彼がこうもくるくると表情の変わる魅力的な人だとは思わなかった。
「そうだ。そんな顔をしていろ。いつも貴方の能天気な腑抜けた顔を見ると殴りたくなる気持ちもあった。だが今日の葬式みたいな顔を見てると存外不愉快だ。だから貴方は笑っててくれ」
相当酔っているようで普段は一応宗主としての体面は保っている口も今日ばかりは奔放らしい。
だが言い方は兎も角彼は私に笑顔でいてほしいし彼は私が笑顔でないと不愉快らしい。
「では私は貴方の為にいつも笑顔でいますね」
望み通りの返事なのに彼は口をへの字に曲げた。
「駄目だ駄目だ」
手を振って猫のように招かれて隣に腰を下ろす。縁側はひんやりと冷たいが隣の人の呼気がかかる距離だと寒さなど感じない。
「貴方はいい子すぎる。別に不快なら笑わなくてもいい。俺がそうしろと言ったからって笑う必要はない。まあ不愉快だからワケぐらいは聞いてやって貴方がまた暢気な顔をしてやる手伝いくらいはしてやらないこともない」
ぐいっと甕ごと煽ったので酒が口の端から溢れ月光が照らし出す白い首筋に流れる。見てはいけないと思っているのに目が離せない。
「なんだ?酒が欲しいのか?」
酒精によって赤く色付く目元、とろりと蕩けた紫紺の瞳。
ずくりと腹の底で何かが首を擡げたのを感じ形容できない未知の感覚に動揺していると彼は勢い良く酒を煽った。くれるのではないのかなと暢気なことを思っていると唇に柔らかい感触がする。唇の間から熱いものが流れ込んできて喉を焼きそれが酒だと理解すると舌で歯列をなぞられた。最後に舌を絡ませられ、その感触を楽しみ夢中になっていると淫靡な音をたてながら甘い唇が無慈悲に離れて行く。
「っ、…じゃ、江宗主?」
彼はイタズラが成功した悪童のように声を上げて笑った。「酒はいいだろう。家規に縛られてる貴方だって酒の愉しさを知らなければ損だ。人生は短いんだから」
壮絶な色気で人を翻弄しておきながら厭世的なことを言う。それがどれだけ人を惑わすかこの人はわかっているのだろうか。頬にかかる長い髪が彼の蠱惑的な瞳を隠している。
その髪を避けて瞳が見たいと手を伸ばした時だった。
「叔父上!」
「江澄!」
彼の甥と兄が登場してはがいじめにする。なんだお前らはなにすんだなどとぐだぐだと言いながらも彼の紫電は火花ひとつ散らさず静かなものだ。
「せっかく楽しく飲んでいたのに」
ぶすくれた顔で言う彼に金宗主が吠え立てる。
「楽しいのは叔父上だけだろ!この酔っ払い!沢蕪君に絡むなんて!ほんっとにどうしようもない!まだ魏無羨のほうがマシだよ!」
仔犬のような風情だなと微笑ましく見守っていると江澄は華麗に技を決めて甥を自分の腕の中に抱え込んだ。
「あ〜りん」
犬にするように頭を撫でくりまわしている。結えた髪を乱されながら不満げではあるが喜びが隠しきれてない金如蘭が羨ましい。…?羨ましい?
「お前は可愛い。とても可愛い。世界一かわいい俺の甥だ。こんなに可愛い子はどこを探してもいない。俺の可愛い阿凌」
頬を両手で包まれ正面から愛を囁かれた少年は顔を赤くして目を丸くしながらその愛に充足し受け入れている。
「金凌!敗けるな!それは罠だ!江澄は天子笑を奪われまいとして戦意を喪失させようとしてるんだ!」
果敢にも声を上げタチの悪い酔っ払いから酒を取り上げようとした魏無羨はモロに振り返った弟の笑顔を見てしまった。
「羨哥哥」
見るだけで人を石にした古の女怪を見たかのように彼もまた固まってしまった。
「羨哥哥は酔っ払いの澄澄は嫌いか…?俺は兄がどれだけ恥知らずだろうが嫌いじゃないが」
普段はツン99%デレらしきものが1%あるかないかの状態の弟からこう言われてしまってはかの夷陵老祖もかたなしだ。彼の甥と同じく呆気なく敗れてしまった。
「そうだよな。俺がどんなに恥知らずでもお前だけは俺を嫌いにならないよ。なんでそんな大事なことを忘れてたんだろう」
頷く魏無羨を尻目に江澄は天子笑をまた口に運んでいる。
「羨哥哥のことを嫌いになるわけなんてない。姑蘇に嫁に行っても変わらずウチの大師兄だ。でも勝手に江氏の祠堂に入って三拝したのは許せない」
怨みがましい目に魏無羨は慌てて釈明する。
「阿澄!それは俺が悪かったよ。でもわかるだろ?恋愛にはタイミングってもんがあるんだ。まあ恋をしたことのない童子の阿澄にはわからないか」
「わかる!」
わかるのですか…。危うく叫びたくなりながら拳を握りしめて耐える。
「恋愛ってのは、恋ってことだぞ。人に恋してその人を愛するってことだぞ。師姉が優しいとか金凌が可愛いとかじゃないんだぞ。羨哥哥がかっこよくて素敵だとかとも違う。そこんとこ、わかってるか」
先程までの有頂天だった顔から不夜天を思い出す夷陵老祖の顔である。
「わかってる。雲夢で育って雲夢江氏が命よりも大事だった羨哥哥が藍忘機と雲夢を出て姑蘇で道侶になるくらいのやつだろう」
口を尖らせながら呟かれるそれは確かに恋愛だが些か万人にはハードルが高いのではなかろうか。普通は顔を見ると心が晴れやかになるとか口移しで酒を飲まされても不快じゃないとか…。いや、ぴったりなことがつい先程この身に起こったような?
「阿澄。阿澄も誰かと道侶になりたいのか?どこの汕子だ?言ってみろ。羨哥哥はそいつが阿澄に相応しいか阿澄を傷付けないかよく調べないとならないからな」
魏無羨もまた酔っているらしい。弟の肩をガクガクと揺さぶっている。江晩吟は兄に揺らされながらも酒を呑もうとするので酒が溢れているがそんなことを気にした様子もなくただこちらを見る濡れた瞳。これは、期待しても良いのだろうか。
「江晩吟!」
向こうから走ってきたのは私の弟の藍忘機。家規はどうしたのだ弟よ。道侶の魏無羨を抱き締めて江澄を睨み付ける。嫉妬してるんだね忘機。可愛い弟よ。だが他所様の宗主を睨むのは姑蘇藍氏としても仙督としてもどうかな。
「これはこれは兄の道侶の含光君じゃないか。ご機嫌麗しく、はなさそうだな」
すわ一触即発かと江澄の腕の中の金凌と忘機の腕の中の魏無羨が体を固くする、がそれは徒労だった。
「せっかく良い気分だからついでに言っておこうか。昔から何でもかんでも上手く出来る上に雲夢江氏の大師兄を掻っ攫い恥知らずエピソードをそこかしこで繰り広げていることには苛立ちしかないが兄が幸せならそれで良いんだ。それでいい。それがいい。魏嬰の弟として兄の夫君の藍忘機殿に感謝申し上げる。末永く貴方達が穏やかな時を過ごせるように雲夢江氏の祠堂から朝に夕に祈っている。忘機義兄上、これからも兄魏嬰をよろしく」
酔っ払いにしては滑らかな口上を唄い上げた。金凌は勿論魏無羨は泣いてるし、忘機は末っ子だったからこそ“あに”の響きに打ち震えている。いつもと変わらぬ顔だが嬉しいのは君の兄にはわかるよ。ずっと君を見ていたからね。2人の想いが通じたとはいっても残った家族に祝われないことには無羨が心から慶ぶことはないと理解しているからね。本当に君達は良い道侶だ。
金凌も魏無羨も泣いてしまっている。弟は仏頂面だ。それを見回して不満げな江澄の顔は可愛い。
「せっかく月が綺麗で花も綺麗で酒は美味いのに泣き顔は仏頂面に囲まれていては興醒めだ」
そこでこちらを見る。
「藍曦臣!貴方の顔!いいな!その能天気な顔を見ていると全てが馬鹿らしくなってくる!今日は貴方の誕生日らしいし…そうだ!酒をやるからその顔をずっと見せてくれ!ずっと笑って。誕生祝いとして貴方を酒を飲めるし俺は貴方の顔を見ていられる。良い考えだ!な!そうだろう!美しい月!美しい花!美しい人!こんな豪華な夜があるか⁈ないな!最高だ!」
豪快に笑う彼を見ながらこの人がいる今この瞬間にいられること自体が誕生日おめでとうなのではないかと気付いた。
生まれて生きてきたからこそ彼の生に出会えた。遠い人達に感謝を伝えながら彼の手を握る。
「ずっと笑っていますからいつでもお酒をご一緒させてください」
彼は訝しげにこちらを見る。
「貴方はまたそうやって八方美人なことを……」
「違うんです!私が江晩吟殿と一緒に笑顔でお酒のお供をしたいのです。さっきみたいに飲ませてもらったり……貴方の恋愛の話も聞きたいですし」
頬が酒のせいではなく赤く色付いた彼はそっぽを向きながら小さく頷いた。
彼に抱き締められたままの金凌がこちらを射殺さんばかりの勢いで見ていたが貴方のことも蔑ろにはしませんよという意味で片目を瞑って見せると彼は片目を瞑り舌を出してみせた。
可愛い甥離れをしてもらってこちらの恋愛にどうやって持ち込もうか、いやこれは脈アリだろうなと確信を持ちつつ蔵書閣の恋愛指南本をひっくり返すか我々を放って既にイチャつき始めている弟夫婦に聞くかどちらがいいだろうか。
喜ばしい悩みに心が高く鼓動を鳴らし始めた。