コンコン。
節くれだった拳で室長室の扉を叩く。
入っていいかという問いかけ、ではなく、入室する際の単なるくせと化していたので、松岡は返答を待たず、ノブを回して押した。
「よぉ。入るぜ」
刑事時代の部下で、現在直属の上司にあたる百貴船太郎が書斎机に向かって座っている。
「お前が寄越した捜査資料なんだが……っと」
松岡は咄嗟に声量を下げた。窓から射す夕陽が、短髪の頭頂部を照らしている。珍しいことに、平素は真面目で精勤に励む百貴が、腕を組んで居眠りをしていた。
松岡は足音をおさえて忍び寄り、スタンドミラー横のブラインドの紐を引いた。室内がうす暗くなり、松岡は彼の寝顔を凝視する。ニ年前と比べて明らかに目元の熊や皺が増えていた。
ただ眠っている時の眉間は起きている時より穏やかで、松岡は安堵してしまう。ジャケットを脱いだワイシャツの肩が規則正しく上下している。
昨日井戸端が解散したときは午後九時をまわっていたはずだ。ならばその後、室長たる百貴が捜査記録や報告書をまとめ終えたときには日付をまたいでいただろう。メディアやフィクションのせいで勘違いされがちだが、捜査官の仕事というのは、ハイライトされる華やかな捕物より、地味な書類仕事をしている時間の方が長いのだ。そして仕事馬鹿な彼のことだ、昨夜は帰宅せず仮眠室に泊まったのかもしれなかった。
急用ではないためそっと踵を返す。が、その前に、肌寒いと思った。エアコンのコントロールパネルを探したが見つからず、諦めて、自分のトレンチコートを百貴にかけた。
百貴は、「う」だか「む」だか、判然としない寝言を呟いたものの、切長の目を開けることはなく変わらず静かに眠っている。
部屋を出ると、遠くから羽二重が歩いてきた。
「松岡さん、こんにちは」
「おう。どうした」
「百貴さんってお手隙でしょうか」
「どうだろうな。なんでだ」
「質問したいことがあって。」
「急ぎか?」
「いえ。他に仕事があるのでその後また伺います」
「そうか。今は立て込んでるから、30分くらい経ったら訪ねてくれないか」
「分かりました。有難うございます」
一時間ほど経過して、松岡は帰宅する前に再度百貴へ会いに行くことにした。
例に漏れず、
コンコン
「俺だ」
上司の返答を待たず扉を開ける。
「あ、ちょっ」
ガチャッ
なにやら慌てた様子の元後輩。松岡は、彼と相対し、とりあえず、
「……聞きたいことがあるんだが、今大丈夫か?」
「……ええ」
用件を済ますことにした。
部屋の中央に、松岡のコートを着た百貴がバツの悪そうに立っていた。松岡は一部変更になった捜査方針と配布資料の確認をする。やがて二十分ほど経ったのち、
「なるほど。了解だ。明日西村とも調整する」
「よろしく。ほかには?」
「ないよ」
「いつでもどうぞ」
「おう。いや、あったわ」
「何です?」
「コート、もういいか」
「あ。ええ、有難うございました」
百貴がいそいそと脱いで松岡に渡す。
「寒かったのか」
「まぁ、はい」
「やろうか」
「えっ」
百貴が目を丸くする。松岡は苦笑して、
「冗談だよ」
と手を振ると、
「……そうですか」
とやや残念そうに切長の瞼を伏せた。
普段の仕事中、立場が上である百貴は松岡に丁寧語を省いて話す。百貴の意思ではなく、松岡がそうするよう命じたのだ。「おっさんだろうと元上司だろうと気を遣うな、尻の座りが悪い。堂々と顎で使え」と。
その反動か、人目がない時は、百貴はつい刑事時代に戻って、松岡へ敬語を使う。
「お前にはデカいから格好がつかねぇよ」
「ですね。せめて松岡さんみたく渋くなりたいんですけど」
「お前にはお前の路線があるよ」
はは、と百貴がからりと笑う。彼が屈託なく綻ぶのを、久方ぶりに目にした気がした。嬉しさと、ほのかな悲哀を覚える。松岡は視線を逸らし、
「けど、そういやお前に、室長就任祝い渡してなかったな」
「ああ、別に。むしろ俺があなたを引っ張ってきたんですから俺が贈るべきですよ」
「要らねぇよ。むずむずする」
「そうですか」
「そうだよ。あーじゃあ、これはどうだ?」
松岡は手首から腕時計を外し、百貴の掌に落とす。
「えっ」
「長いこと使ったが、良いやつだから頑丈だし水にも強いぜ。お前この前、受刑者と殴り合って自分の壊してただろ」
「殴ってませんよ。暴れたので取り押さえただけです」
「へーへー」
「この時計、俺が初めて会った時からしてましたよね」
「よく覚えてんな」
「四角いフレームに、文字盤がアナログ。航空機の計器を模してるんですよ。当時調べたらミリタリーウォッチのなかで一番高かったんです。すごく憧れました」
「はめてみろよ」
「いいんですか?」
「ああ」
百貴が慎重に白銀のベルトを巻く。骨張った手の甲を広げ、自分の手首をしげしげと観察している。松岡は茶化す口調で、本心から
「似合ってるよ。俺より馴染んでる」
「そんなことは。…でも、見合う男になります」
「んな気負うなよ」
松岡はなんとなく百貴の背後を眺める。いつの間にか外には黄昏が訪れていた。
「まだかかるのか?」
「ええ」
「じゃあ、先でるよ。お前も早く帰れよ」
「はい。お疲れ様でした」
職場から出ると一陣の木枯らしがコートの裾を翻した。松岡はポケットに手を突っ込み、今自分が退勤したばかりの建物を仰いだ。少し経ってから再び背を向け歩き出して、建物を後にした。
歩きだした。