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    しゃけ

    まいるま腐女

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    しゃけ

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    ロビン先生の悪周期のはなし。
    両片思い

    #ロビオリ
    robioli

    悪周期の話

     十一月三日 雨

    「あれ、ロビン先生は?」
     誰もいない厨房をのぞき込み、ツムルが素っ頓狂な声を出した。いつもならばそこで元気に夕飯を振る舞っているロビンの姿が、今日は見えなかったからだ。
    「悪周期、ですって」
     オリアスは、なるべく声を平淡に保つよう努めながらそう返した。食料棚の前に立ち、手元につかんだカップ麺の蓋を見る。視線はそこに記されている文字を追っているが、頭には一切入っていない。
     選ぶだけ無駄だ。どうせ、今日は食べられやしない。
     そう諦め、適当に一番手前のものを取り立ち上がる。
    「あれ、食べていかないんですか」
     そう尋ねてきたツムルに肩をすくめてみせる。〝いつも通り〟に。
    「やりかけのものがあるので」
     あぁ、ゲームか、とツムルは笑った。
    「お目付け役がいないからって」
     と揶揄されるが、それ以上の言及はなかった。
     それならば自分もとばかりに食料棚を漁り始めるツムルを横目に見つつ、オリアスはこっそりと息を吐く。
     食堂にはほかの教員たちの姿。それぞれ思い思いの夕食をとっている。いつもより人数が少ないが、オリアスと同様自室に引っ込んだ者がいるからだろう。いつも通りの風景だ。ロビンが悪周期になったときの、いつもの光景。
     悪周期なんてもの、この年になれば大して騒ぐほどのことでもない。まして他者の悪周期など、放っておくのが悪魔としての礼儀だ。ここに集うのはそんな常識を持ち合わせた悪魔たちだから、姿の見えないロビンに対して意識を向ける者はいなかった。
    ―オリアス以外は。
     こう見えて感覚の敏いツムルに、何か余計なことを気付かれる前にと、オリアスは食堂を後にする。形だけでもと手に持ってきていたカップ麺を落とさないよう、細心の注意を払う。そうして意識をほかに向けていなければ、歩むことすら忘れて〝この後〟のことに思いを馳せてしまいそうだった。





     窓を叩く雨音と、そこに交じって響く秒針の音を聞きながら、オリアスは膝を抱えなおした。少し古いベッドがギシリ、と音を立てる。その音が誰かに聞かれやしないかと、ひとり暗闇の中で耳をそばだてる。自室の外、廊下の先、食堂方面、…なんの気配もしない。ふぅ、と、詰めていた息を吐きだす。
     時刻は深夜零時を回ったところ。どの教員たちも自室に戻り、明日のために床に就いているであろう時間だ。オリアスは時計を確かめると、もう一度寮全体の物音に耳を傾ける。
     おそらく、もう、大丈夫。
     ようやくそう判断すると、ゆっくりとベッドから立ち上がる。手汗のにじむ掌をなでつけ、静かに深呼吸をする。ドクリドクリと早鐘を打つ心臓の音が耳に響く。いつもそうだ。何度経験しても、慣れない。慣れることはきっとないだろうな、と自嘲しながら、オリアスは家系能力を発動させた。念には念を、だ。これから自分がすることを、間違っても、誰かに見られるわけにはいかない。
     音が響かぬよう、ゆっくりと扉を開け、部屋の外に出た。日中の賑やかさが嘘のように、しんと静まり返った廊下を、ひたひたと歩く。
     向かう先は、二つ隣の部屋。
     オリアスはロビンの部屋の前で、しばし逡巡する。自分は一体、何をしているのか、と。〝何をしようとしているのか〟は十分わかっている。これが初めてではないのだ。でもその度、自問する。一体俺は、何を。
     そう思ったところで、自室に戻るという選択肢は端から無いのだから、
    (本当に、救えない)
     出るのは自嘲の笑みだけだ。
     こつ、こつ、と、小さく扉を叩く。いつものように、返事はない。
     オリアスは小さく息を吐くと、ゆっくりと扉を開けた。じっとりとした暗闇の中に、一歩踏み出す。後ろ手に扉を閉め、ベッドサイドへと近づく。ベッドの隅で丸くなっていた布団の塊が、もぞりと動いた。

    「やぁ、ロビン先生」

     暗闇の中で、獣のような緑の瞳がどろりと光った。







     ことの始まりは、半年ほど前だ。
     思えばあの日も雨だった。いつものように夜中までゲームにのめりこみ、空腹を抱えて部屋を出たところで、背後からロビンに腕をつかまれたのだ。またいつもの〝警察〟かと、うんざりした気持ちで振り返ったところで、普段の様子と違うことに気付いた。
     静かだ。
     いつもなら確保と同時にやんややんやと騒ぎ立てる場面なのに、黙りこくって表情すら見えない。掴まれた腕が少し痛む。何かがおかしい。普段のロビンならば、痛みがあるかないかくらいの力加減をしていたはずだ。
    「…ロビン先生?」
     囁くように呼び掛けると、ロビンの頭がピクリと揺れた。ゆっくりと顔をあげたロビンと、視線が合う。
    (あ、)
     まずい、と思ったときには手遅れだった。
     ほの暗く光る緑の瞳に、恍惚としたような表情。
     ―悪周期。

     即座に占星を発動したが、ロビンのほうが早かった。腕を引かれ、そのまま引き倒される。床にぶつかる衝撃を覚悟し眼を瞑ったが、意外にも痛みはなかった。とさり、と廊下に押し倒される。ロビンの手が衝撃を防いでくれたのだろうか。もしかするとまだ理性が残っているのかも―― そう期待を込めて見上げたオリアスは、瞬時にその考えを取り消す。
     暗く光る瞳、縦長で獣のような瞳孔、熱に浮かされたかのように焦点が合っていない。こちらを見ているが、みていない。平素のロビンの意識がそこにあるとは思えなかった。
    「…ロビン先生、……」
     静止や拒絶の言葉は逆効果。悪周期の対応を思い起こし、言葉が途切れる。ここまで沈んでしまっては、もう発散させるより他はない、のだが
    (暴力は勘弁…)
     ロビンの発散方法とは何なのだろうか。悪魔によってさまざまに異なるその方法、中には暴力衝動に身を任せるようなものもある。もし、万が一、ロビンの発散方法がそういったものだったら…
    (まぁでも ここなら)
     幸運にもここは廊下。夜中とはいえ、騒ぎが起これば誰かしら見に来てくれるだろう。占星を発動しておいてよかった。オリアスにとって不運なことが起こる前に、きっと助けが来るだろう。そう思い、肩の力を抜く。ゆっくりと息を吐き、星に身を任せることにした。ロビンはオリアスに馬乗りになったまま動かない。オリアスの肩口に顔をうずめたまま、浅く呼吸を繰り返しているようだ。
    (…なにがしたいんだろ)
     そう尋ねたいが、この薄い均衡が崩れてしまいそうで、思わず躊躇してしまう。
     体勢に動きのないまま、時間だけが過ぎていく。少なくとも数分は経過したはずだ。廊下にほかの悪魔の気配はない。助けはまだ来ないようだ。ロビンは相変わらず静かなまま。首筋に当たる吐息がくすぐったい。居心地の悪さに身じろぎをすると、動くなと言わんばかりに抑えつける力が強まった。逃がす気はないようだ。ただただ、時間ばかりが過ぎていく。背中に感じる床が冷たい。明日は風邪をひいているかもしれない。
     そんなことを考える余裕が生まれるほど、状況に慣れてきてしまったころ、
     ひたり
     と、首筋に何かが触れた。
    「え」
     思わず声を出すと、それが合図だったかのようにロビンが口を開く気配がした。首筋に牙が当たる。
    「ひ、」
     痛みと、ほんの少しの形容しがたい感覚に、声にならない声が漏れた。首筋の裏、皮膚の薄いところをかりりと甘く噛まれる。赤くなった噛み跡を、唇が食み、熱い舌がなぞる。繰り返し、繰り返し、愛撫するかのように。
     愛撫。そう、まるで愛撫だ。
    (なに、なんだ、これ)
     首筋、肩口、鎖骨、じわりじわりと場所を変えつつ繰り返される行為に、思考が追いついていかない。初めての感覚に体が跳ねる。熱い吐息が肌をなでる度、オリアスの思考も溶かされていくようだった。いったい何が起きているのか、なにもわからない、いや、何かがおかしいことだけはわかる。いくら悪周期とは言え、同僚同士ですることではない。
    (こんなの、まるで、)
     まるで、の先を考えることを理性が止める。とめる、そう、とめなければ、ロビンを止めなければ。
     ようやくそこまで思考がたどり着き、オリアスは口を開く。
    「ちょっと、ろ―…」
     静止の言葉は、音になる前にかき消えた。
     ロビンが体を起こし、オリアスの左手を取る。
     そして、オリアスの薬指に、ぷつりと牙を立てたのだ。
     
     それは、求愛と束縛の行為。

    「……は…?」
     すべての思考がショートし呆然と見つめるオリアスの目前で、ロビンはゆっくりと薬指の噛み跡に口づけをした。そうして、満足そうな表情を浮かべると、電池が切れたかのようにことりと眠りに落ちたのだった。
    「…え…? 」





     あの後が大変だったんだよなぁ、と、オリアスは天井を眺めながら思い起こす。半年前、あの頃はまだ暖かかった。今は秋口。半裸の身に、シーツが冷たい。ただ、火照った身と頭には、その冷たさが心地よかった。肩口に噛みつくロビンの頭をふわりと撫でる。そうすると、噛みつくのをやめて唇での愛撫に切り替わることを、オリアスはもう知っていた。どちらにせよ行為が止むことはないが、痛みがない分こちらの方がいい。くすぐったさと、腰骨に響くような感覚に息を漏らしながら、オリアスはシーツに頬を擦り付ける。必然、首筋をよりさらけ出す体勢になるが、断じて意図的ではない、ないのだ。
     もう数度目になるこの行為。二回目のときに人目を恐れて部屋の中に場所を移させて以来、ロビンの部屋で行うのが通例になっていた。夜、皆が寝静まった時間帯に部屋を訪れ、そして夜が明ける前に自室に戻る。誰にも、ロビン本人にすら悟られないように。
     ロビンには、悪周期中の記憶がなかった。
     初めての日の翌朝、普段と何ら変わらない様子で話しかけられたとき、それを悟った。あぁ、覚えていないのかと。悪周期で記憶がなくなるタイプは別に珍しいものではない。だからこそ、自室に引きこもるなどして事故を防ぐものなのだが……そう、事故。事故みたいなものだ。本人も覚えてすらいない、悪周期中に起きたことに、なんの意味もない。意味なんて、ないのだ。そう自分に言い聞かせるしかなかった。
     それから。それから、どうしてこうなったのだろう。ロビンの悪周期は、他者と比べて間隔が短いようだった。二回目のあの日、部屋の外に気配を感じた時に、なぜ扉を開けたのか。三回目のあの時、なぜ自分はロビンの部屋の前に立っていたのか。自分でもわからない。わからない、ふりをしている。


     ぼんやりと思考に沈んでいた自分を咎めるかのように、ロビンがひときわ強く鎖骨を噛んだ。相変わらず意思の疎通はできないのに、オリアスの反応だけはしっかりと見ているように思える。
    「ごめんって」
     話しかけたところで、言葉が返ってくるでもない。悪周期中のロビンは、まるで獣のようだ。ただ押し倒し、噛みつき、愛撫する。そうして満足すると、眠ってしまうのだ。行為を覚えているのは、オリアスだけ。何をしても、されても、何を伝えても、ロビンは覚えていない。オリアスがそれを平時のロビンに教えることもない。誰も知らない、オリアスだけの秘密だった。
     ロビンの牙が、オリアスの胸元を食む。回を重ねるごとに、ロビンが噛む場所は広がっていった。首筋から始まり、肩、鎖骨、手首、胸元、脇腹…下半身にはまだされたことがないが、時間の問題かもしれないと感じていた。抵抗する気もない。むしろ、もっと跡を残してくれてもいいとすら思う。悪周期が明けた翌朝、いつものようにからりと笑うあの顔を見る度に、自分しか知らないこの瞳の記憶をもっと刻み込んでおきたいと思ってしまう。
    (気持ち悪いよな)
     とうに、同僚に抱く感情を超えている。
     けれど、誰にも知られることのない想いだ。
     この気持ちも、この行為も、すべて夜に沈めてしまえばいい。
     左の薬指に立てられる牙を眺めながら、オリアスは暗く笑った。
     こちらを見つめるロビンの瞳に、けれど自分は映っていない。見つめあっても、眼は合わない。名を呼ばれることもない。ロビンが誰を想って、誰と間違えて、こんなことをしているのかなんて、考えたくもなかった。








     一月十日 氷雨

     ―だから、勘違いをするなと。あれほど思っていたのに。

     その日は冷たい雨が降っていた。
    「お見合いぃ⁉」
     夕食後の談話室に、ツムルの大声が響き渡る。オリアスはびくっと体を震わせ、騒ぎのもとを見た。何事だとわらわら集まっていく悪魔たち。その中心に、なんとも気まずそうな顔をしたロビンがいた。
     ひやりと、心臓が冷える。
     見合い、と。先ほどツムルはそう言っただろうか。
     見合い。だれが。―ロビンが?
     頭の芯が痺れていくような、嫌な感覚がオリアスを襲う。発された言葉の意味がよく分からなかった。ツムルやほかの教員が何やら騒がし気にロビンに詰め寄っているのが見える。しかし、彼らの声はオリアスの意識の表層を撫でるだけで、何を言っているのか理解ができない。それに答えるロビンの声も、まるで水中にいるかのように不鮮明だ。
    (――おみあい、)
     指先がしんと冷えていくのを感じる。
     ロビンの家系を考えれば、別段驚くようなことでもない。一流の弓使いで、名門校の教師という有望な青年。見合いの相手としては願ってもない有望株だろう。少々性格がストレートすぎるが、それもきっと付き合いが深くなるにつれて、素直さや誠実さという評価に変わっていくのだろう。そして、―そして、きっとそのまま。

     呆然と見つめるオリアスの視線に気が付いたのか、緑の目がふとこちらを見た。ロビンは一瞬眼を見開いた後、へらり、と照れたように笑った。
     オリアスの視界がぐらりと揺れる。喉元に渦巻く感情に耐え切れず、不自然なほどに勢いよく視線を切った。ロビンは再びツムルたちに揉まれ始めているようだったが、オリアスにはもうそちらを見ることができなかった。
     かたり、と席を立つ。騒ぎの輪を背に、誰にも気取られぬように、そっと談話室を後にする。ぐなりぐなりと、雲の上を歩くような感覚。全身の血が、どこかへ行ってしまったようだ。
    (ばかだ)
     動揺している自分を、どこかでひどく冷静に観察する自分がいる。
    (はじめから、分かっていたことじゃないか)
     自嘲の笑みすらも出てこない。誰もいない廊下をひとり歩く。背後から響いてくる騒がしい声は、ぱたりと自室の扉を閉じると聞こえなくなった。薄闇の中でオリアスは座り込む。床の感触が冷たかった。右の手でそっと、首筋に残された噛み跡をなぞる。数カ月前につけられた傷跡は、すでに場所も分からないほどに薄くなっていた。傷跡があったはずのそこへ、きり、と爪を立てる。
    (はやく、つぎの悪周期になればいい)
     オリアスは机の上に置かれている暦を見やる。これまでの間隔からいくと、そろそろロビンは悪周期に堕ちる。
     ふ、と暗い笑みが浮かんだ。
     せめて。

     二度と消えないような、そんな傷跡が欲しかった。









     一月二五日 雪

     最近、オリアス先生の様子がおかしい。
     ロビンは厨房でひとりため息をついた。
     違和感に気付いたのは、月越の雰囲気も落ち着いた一月中旬のころ。ロビンの悪周期が明けてすぐのことだった。以前から露出を避けた格好をしてはいるが、この頃のオリアスは特にそれが顕著だ。寮の中でも手袋をし、フードを脱ぐこともしない。食事中に一度それを指摘したら、しばらく食事の時間に現れなくなってしまった。それ以降、言及しないようにしているが、
    (やっぱり、変だ)
     何かを隠そうとしているような、そんな気配がする。それに気づいているのは恐らくロビンだけではないだろうが、そこは他者への関心が低い悪魔、誰もあえて暴こうとはしなかった。自分だけが、オリアスに執着していることはわかっている。それでも、気になってしまう。知りたくなってしまう。心配してしまう。
    (怪我、してるとか)
     鍋をかき回しながら、オリアスの言動を反芻する。肌を隠そうとするのは、いつものこと。大浴場を利用しないのも、いつものこと。ロビンを避けるようにこっそり食料を取りに来るのも、わりといつものこと、だが―。先日それを捕まえた時、びくりと大げさに反応していたことを思い出す。
    (びっくりした、っていうよりは)
     傷口に触れられたときのような反応だった。
    (見られたくない怪我、とか…?)
     しかしオリアスが怪我をするようなタイミングがあっただろうか。どちらかというと頭脳派で、外では常に家系能力で身を守っている隙のない彼。寮では一転してインドアになり行動範囲も減るから、逆に怪我をするようなことにもならないだろうし。それに、全身をくまなく隠そうとするほどの怪我とはいったい何だろうか。手袋も外さないなんて、相当だ。その割に日常の体の動きに支障はないように見える。
    (気にしすぎかなぁ)

     オリアスのこととなると、自分が冷静な判断ができなくなるというのは自覚している。放っておけばいいことも、放っておけない。気になって気になって、そしてつい口にしてしまうのだ。オリアスの姿を眼で追ってしまうし、その表情の変化はどんな些細なものでも見逃したくない。構いたくなるし、笑わせたくなるし、そばにいたい。自分だけのものにしたい。それが恋だと気付いたのは、わりと最近だった。あぁなるほど、と、すんなり納得できた。だからこんなにも執着しているのか、と。
     オリアスの気持ちは分からない。憎からず思ってくれているということは、なんとなく分かる。そばにいても嫌がらないし、スキンシップにも怒りはしない。よく話す方だと思うし、ふとした時に眼も合う。そして何より、時たま、すごくきれいに笑う。きっかけはいつも分からないけれど、嬉しそうな幸せそうな、そして少しだけ切なそうな表情でふっと笑むのだ。
    (あのかおで、すきだなぁって思ったんだよなぁ)
     恋心を自覚したきっかけを思い出し、口元が緩む。誰かに見られていたら不審がられるだろうが、幸い今は周囲に誰もいない。ロビンは鍋の火を止めると、冷蔵庫へ向かった。よく冷えた野菜を取り出す。サラダにしたいが、今日はとてもよく冷える一日だった。生野菜よりはお浸しにした方が体に優しいかもしれない。メニューを考えるとき、いつも脳裏に浮かぶのはオリアスの姿。自分でも浮かれすぎだとは思っているが、こればっかりはしょうがない。恋を自覚する前からの習慣なのだ。
    (今日はちゃんと食べに来てくれるかな)

     最近のオリアスは、まるでロビンから身を隠すかのように姿を見せない。避けられているような気もするが、ロビンにはその原因に思い当たる節がない。先週のはじめ、悪周期から明けて戻ってみたら、そうなっていたのだ。一見振る舞いに変わりはない、けれど確かに距離を感じる。これまで少しずつ詰めてきた距離が、一気に引き離されたように感じるのだ。嫌われたわけではなさそうだが……何かを隠している、そんな空気が強い。もしかして悪周期中に自分が何かしてしまったのだろうかと思い尋ねたが、違うと一蹴されてしまった。ロビン先生が気にすることじゃないよ、と言われてしまえば、それ以上食い下がることもできない。
    (嫉妬…って感じでもないんだよね)
     月越のすぐあと、悪周期に入る直前。降って湧いたロビンの見合い話に教員寮が揺れたとき。あのとき確かに、そういう目をオリアスはしていた、と、思う。ツムルたちが向けてきた驚愕とも羨望とも違う、嫉妬の瞳。
    (もしかして両思いなのかもとか、)
     歓喜に沸いたのもつかの間、今はこの距離感である。
    (念子みたい)
     ふっと寄ってきては、気ままに去っていく。そんな念子のようだ。まったく思い通りになってくれない。そんなところに惹かれてもいるし、もどかしくもある。
     ロビンのことをどう思っているのか、オリアスに尋ねたことはない。訊いてみたいという気持ちと、確実に落とすまで待つべきだという気持ちとがないまぜになって、今日まで来てしまった。このまま手をこまねいていて距離が一層空いてしまうのは避けたいところ。けれど、無理に詰めようとして逆に決定的な溝が開いてしまったら。
     柄にもなく慎重になってしまう自分を笑いつつ、コンロの火を止める。それだけ、逃がしたくないのだ、彼を。しかし、動かないことには始まらない。ロビンはふっと短く息を吐いた。
     逃げるのならば、追うだけだ。

     食事の香りを嗅ぎつけて、食堂にぱらぱらと教師たちが集まってくる。その中にオリアスの姿は見えない。
    (まずは食事から、だよね)
     ロビンはキリリと顔を上げ、エプロンを解くと、オリアスの部屋へと向かった。

     そして、見つけてしまった。
     オリアスが隠していた、〝傷跡〟を。




     どさり、と、屋根から雪の塊が落ちる音が室内に響いた。
     黙りこくるオリアスの腕を、音がしそうなほど握りしめる。空いた手で必死に隠そうとする首筋には、赤黒い噛み跡がはっきりと見て取れる。心臓が嫌な音を立てて軋んだ。
     いったい、だれが。
     食事の時間だと呼びに来たロビンに、固い顔をしながらも頷いたオリアス。その顔を、表情を確認しようとしてうつむいたフードの中を覗き込み、そして、そうして、今に至る。
    「もういちど、ききます」
     ロビンの声は、自分で意識したよりも低かった。
    「だれに、されたんですか」
     オリアスは答えない。ただ深く深く俯き、全身から拒絶の色を漂わせるのみ。言いたくないのか。どうして。庇っているのか、相手を。なぜ。なぜ。
     怒りで神経が焼き切れそうになる。オリアスが小さく呻いた。はっとして手の力を緩める。オリアスに怒りをぶつけても仕方がない。
    「…ブエル先生のところに、行きましょう」
     まずは治療を、と腕を軽く引くが、
    「いい、いらない」
     返ってきたのは拒絶の声だった。ただそれはロビンの想定の範囲内。天邪鬼な彼のことだ、まあまずはそう言うだろうな、とため息をつく。
    「…ちゃんと治療しないと、傷跡残っちゃいますよ。まずは綺麗にしてから、ゆっくり…」
    「いいんだよ」
     残っても、いいんだ、と。
     そうオリアスは続けた。

    「残したいんだよ」

     きぃん、と、耳鳴りの音が聞こえた気がした。








     二月二〇日 曇り

    「ロビン先生、ちょっといいかな」
     背後からかけられた声に振り向くと、そこには大柄な悪魔が、真剣さと心配の入り混じった目をして自分を手招きしていた。
    「バラム先生」
     どうしたんですか、と駆け寄る。身長の差がかなりあるのに、見上げるのが苦じゃないのは、この悪魔がいつも少し屈んで応対してくれるからだろう。外見に似合わず、優しいひとだ。そのバラムの瞳が、遠慮がちに揺れた。
    「ここじゃあれだから」
     と、準備室へと通される。ロビンが普段はなかなか立ち入ることのない場所だ。物珍しさにきょろきょろと周囲を見渡していると、ロビンの背丈にあった小さめの椅子をすすめられた。同時に魔茶も手渡される。どうやら、〝ちょっと〟の話ではなさそうだ。
     居住まいを正して、バラムを見る。
     バラムは少し逡巡したのち、口を開いた。
    「最近、ロビン先生の悪周期の頻度が高まってる、って聞いてね」
     あぁ、その話か。ロビンの瞳が暗く沈む。そんなロビンの様子を注意深く眺めつつ、
    「今月に入って二回目だって聞いたけど」
     バラムはそう続けた。
     ロビンはこくりと頷いた。悪周期の頻度は悪魔によって異なる。月に一度の間隔で来る者もいれば、数年単位で来ない者もいる。個人差の大きいものとはいえ、それでも隔週で悪周期に入るロビンの現状は異常だった。幸い週休日にかぶって発生しているため業務に支障は出ていないが、それも時間の問題かもしれない。マグカップを握る手が、ジワリと痺れた。
    「ストレスチェックでも高い値が続いてるよね」
     バラムの言うストレスチェックとは、毎日教職員を対象に行われる簡易検査のことだ。体調管理は職員の義務とはいえ、中には気付かず悪周期に近づいてしまうパターンもある。万が一の事故を防ぐためには、必須のものだった。その検査で、ロビンは最近非常に高い数値を出し続けている。悪周期明けの今日ですら、通常平均よりもはるかに高い。
     あまり個人的なことに口出しをするつもりはないんだけれど、と前置きをしたうえで、
    「何か、原因に心当たりはあるかな?」
     と、遠慮がちにバラムは尋ねた。
    ―原因。
     そんなものは、痛いほどわかっている。ロビンは気付かれないように静かに唇を噛んだ。

     あの日、オリアスは手早く傷を隠すと、呆然とするロビンを部屋の外へと追いやった。そしてその後、何度呼びかけようと、扉が開かれることはなかった。オリアスが個人的にブエルのところへ行った様子もない。つまり、誰のものとも知れぬ噛み跡が、まだオリアスの肌に残っているということだ。
    (いったい、だれが)
     あの傷のことを思う度、そしてそれをまるで大切なものかのように隠そうとするオリアスの表情を思う度、ロビンの頭は嫉妬で焼き切れそうになる。
     ぎしり、と奥歯が鳴る。
     オリアスの肌は、あの日以降もしっかりと隠されたままだ。あの張り付いた笑みの下、その服の下に誰かの牙が触れたのだと思うと、そいつの臓物を引きずり出してやりたくなる。
     いったいいつから、どこで、―どこまで。

     握りしめていたマグカップからみしりと不穏な音がして、はっとロビンは我に返った。慌てて顔を上げると、バラムが複雑そうな表情でこちらをうかがっていた。
    「あ…すみません!」
    「いや、こちらこそ不躾にごめんね。」
     ひびの入ったマグカップをロビンから取り上げ、バラムは新しい魔茶を淹れなおす。新しく渡されたマグカップを、今度は壊すことのないように慎重に受け取る。落ち着かなければ。ロビンは深く息を吐き、魔茶に口をつけた。
     ぎしり、とバラムが腰かける音がする。
    「どうかな、新しく仕入れた茶葉なんだけど」
    「…おいしいです」
    「よかった」
     バラムはにこりと眼を細めると、口元を覆うマスクに指をかけた。バラムが研究者としての顔をするときの癖だ。ロビンは顔を上げ、バラムの目を見る。
    「原因に関しては、無理に聞き出すつもりはないよ。…ただ、このままだと、事故につながる可能性もある。」
     それは理解しているね、と低く聞かれ、ジワリと冷や汗がにじむ。事故。その言葉に背筋が凍る。現状、かろうじて薄氷一枚の上で均衡を保てていることはロビンにも分かっている。もしなにかのきっかけで、先ほどのように理性を飛ばすことがあったら。ましてそのまま悪周期に堕ちてしまったら。守るべき生徒を危険にさらすことになるかもしれない。もしかしたら、オリアスをも―。

    「…悪周期を止める薬とか、ありませんか」
    「あるよ」
    「え」
     駄目元で聞いた質問に即答され、ロビンは眼を白黒させる。あるのか。そういえば前に弟子からそんな話を聞いたことがあるような。ならば、
    「でも、駄目。」
    ガタリと立ち上がったロビンを、バラムは片手で制した。
    「普通の悪周期なら処方したかもしれないけど、今のロビン先生にこの薬は逆効果でしかないよ。爆発寸前のものを無理に押し込めたところで、もっと酷い結果になるのは目に見えてる。」
    「…それは、」
     確かに、そうであろう。抑えて抑えて、そしてその薬の効果が切れた時、何が起こるのか。ロビンにも容易に想像がついた。
     しんなりと椅子に座りこむロビンの頭を、バラムの大きな掌が撫でる。
    「やっぱり、ちゃんと発散するのが一番いいんだけど…いつも悪周期中はどうやって発散してる?」
     そう問うた後に、バラムは慌てて手を振った。
    「ごめん! デリカシーがなかったね…!」
    「あ、いえ!」
     ロビンは大きく首を振った。悪周期の発散方法は、いうなれば個人の性癖に当たる部分でもある。大っぴらに公言する者もいれば、ひた隠しにする者もいる、そんなデリケートな問題だった。それを尋ねようとしたバラムの行為は、決して褒められたものではない、が。
    「大丈夫です。…僕、覚えていないので」
    「覚えてない?」
     まぁ、そういうこともあるか、とバラムは口枷を撫ぜた。悪周期中の記憶がなくなる悪魔は別に珍しいものでもない。その場合はたいてい、家族やそれに近しい悪魔から悪周期中の様子を教えられるものだが、ロビンはこれまで誰からも自分の悪周期中の言動について聞いたことがなかった。いつも、悪周期になる予兆を感じて部屋にこもり、そして気が付くと夜が明けている、その繰り返し。そもそも去年までは、こんなに悪周期に悩まされることもなかったのだ。あって数年に一度のものだったはずなのに。
     そう伝えると、バラムは難しそうな顔をして唸った。
    「発散方法が自分で分かっていれば、こまめに発散することで悪周期に堕ちるのを防ぐことができるんだけどね……」
    「発散方法……」
     ロビンはここ数度の悪周期について思いを馳せる。たいていは昼前後から劇的に調子が悪くなり、夕方から夜にかけて部屋にこもる。そうして、翌朝には意識が戻っている。悪周期明けの朝に見る自室は、いつもと何ら変わったところはない。暴れた跡も、何かに熱中した跡も、自慰の形跡もない。幼いころは、山野を駆け回ったような小傷が体についていたことがあったが、最近はそれもない。近隣の部屋から騒音などの苦情が来ることも、ない。
     悪周期中の自分は一体、何をしているのだろうか。ただただ静かに寝ているだけ、なのだろうか。それで発散できているのだろうか。〝悪いこと〟をしたくなる悪周期、自分にとっての〝悪いこと〟とは、いったい……


    「―はい、これ。一日一粒だからね。」
     思考の渦に沈むロビンに、バラムは飴玉の詰まった小瓶を手渡した。薄桃色の大きめの飴が、からりと音を立てる。
    「これは?」
    「悪周期を薄める抑制剤ってところかな」
    「抑制剤」
    「あくまで薄めるだけだから、悪周期そのものがなくなるわけじゃないよ。」
     過信しちゃだめ、とバラムは釘を刺した。薄めるとは、どういう意味だろうか。さっき自分が所望した抑制剤と、何が違うというのか。そう言外に尋ねる視線を向けると、バラムはまるで生徒に授業をするときのように人差し指を立て、説明しだした。
    「さっき言ってた〝悪周期を強制的に抑制する薬〟の副産物でね、そんなに効果が強いものじゃないんだ。だから悪周期自体は通常通りに来るはず。だけど、〝沈む〟のをある程度抑えてくれる効果があるはずだから、ロビン先生が悪周期中に何をしているのか、その記憶の保持に役立つかなって」
    「なるほど…」
     悪周期を止めるものでないならば、ロビンが暴発する危険もない。さらに悪周期中の記憶をとどめておけるならば、自分の発散方法も分かるはず。もし効果が限定的であったとしても、次回以降の悪周期予防に役立つ何らかが得られるかもしれない。
    「ありがとうございます!」
     ロビンは小瓶を握りしめ、深々と頭を下げる。もしかしたらバラムは最初から、この薬を渡すために自分に声をかけたのかもしれない。教師統括でも指導教諭でもないバラムがこの話を持ち掛けてきた理由が分かった気がした。きっと、あの一見厳しそうな指導教諭が気を利かせてくれたのだろう。上司に恵まれているな、とロビンは瞑目する。
    「繰り返しになるけど、頼りすぎないこと。一番は、原因を何とかすることだからね。」
     バラムはそう言うと、話は終わりとばかりに立ち上がった。タイミングよく、終業のベルが鳴る。教室からあふれ出る生徒たちの声が廊下に響き始めた。ロビンは再度お礼を告げると、準備室を後にする。賑やかな廊下を歩きながら、小瓶から飴玉を取り出し、口に含んだ。次の悪周期がいつ訪れるかは分からないが、まずは一日一粒、試してみるところから始めよう。バラムが作った薬品だ、きっと、効果があるはず。
     口の中でころころと飴玉を転がしながら、ロビンは別れ際にバラムの言った台詞を反芻する。
    (原因をなんとか、かぁ…)

     オリアスにとって、噛み跡の主はどういう存在なのだろうか。本人に聞いてみたところで、きっと答えてはくれないのだろう。あの日と同じように、ただ拒絶されるだけ。
     ロビンの胸が、つきりと傷んだ。
     こいびと、なのだろうか。だとしたら、なぜあんなにも酷い傷跡を残すようなことができるのか。暴力をふるわれているのか。それとも、同意の上での行為なのか。オリアスはその悪魔を、―あいしているのか。

     口の中の抑制剤をがりりと噛む。
    (僕だったら、ぜったいに、傷つけたりしないのに)
     飴の中からどろりと漏れ出した薬剤は、ひどく苦い味がした。








     三月八日 春嵐

     食堂に入ってきたツムルが、室内をざっと見渡してため息をついた。
    「ロビン先生、また悪周期?」
    「だってさ」
     イチョウが出前のメニュー表をにらみながらそう答える。そのやり取りに、オリアスはピクリと耳を傾けた。
    「最近多いよなぁ」
    「ストレスたまってるんじゃない?」
     まあいつもすぐ戻るし大丈夫でしょ、と気のない返事をするエイト。彼らの関心はロビンの悪周期云々よりも、今晩の夕飯をどうするかの方に比重が傾いているようだった。ロビンの料理をことのほか気に入っていたツムルは、ひとり口をとがらせる。
    「すぐ戻っても、またすぐ悪周期になってるしさぁ。発散方法合ってないんじゃない?」
     その言葉に、オリアスの胸はズキリと傷んだ。
    (…わかってるよ)
     ロビンの悪周期に問題が発生していることは、オリアスが一番よくわかっていた。ロビンの前回の悪周期は二週間ほど前。その前はさらに半月前だ。いくら何でも周期が短すぎる。ツムルの言う通り、…発散方法が、合っていないのだろう。
    (わかってる。)
     被っているパーカーのフードのふちを引きつつ、オリアスはもう一度心中で呟いた。悪周期中のロビンを思い起こす。見つめあっていても、けして合うことのない瞳を。きゅう、と、喉の奥が締め付けられるような感覚がオリアスを襲う。そう、分かっている、十分に分かっている。ロビンはオリアスを見てなどいない。たまたま目の前にいた存在に、欲望を擦り付けているだけだ。きっと、相手は誰でもいいのだろう。あの手も、牙も、唇も、熱も。本当に向けるべき相手がいるのだろうと、分かっている。たとえば、先日話題に上がっていた見合いの相手とか。
    (勘違いするな)
     自分にそう言い聞かせる。何度も、何度も。あれは、自分に向けられた欲ではないのだ。自分はただの代理に過ぎない。ロビンの胸の内の誰かの影を、かぶせられているだけなのだ。
     別に自己憐憫に浸っているわけではない。オリアスには、そう確信するだけの論拠があるのだ。ロビンの悪周期の頻度がその最たるもの。もし、オリアスをロビンが求めていたならば、こんなに頻繁に悪周期に陥るはずがない。ツムルの言う通り、発散方法が合っていないのだ。ロビンの求めるものは別にあり、自分はその代理に過ぎず、そしてだからこそ、発散しきれずに再び悪周期に堕ちる。そういう流れなのだろうと、理解している。わきまえている。たとえ悪周期中のロビンが何度、求愛と束縛の儀式をしてこようが、そんなものはなんら救いにはならない。ロビンに、オリアスは見えていないのだから。
     いっそやめてしまえばいい。オリアスが悪周期中のロビンの部屋を訪れなければ、きっとこの不毛な関係も終わるだろう。ロビンの悪周期は長引くかもしれないが、やがて正しく発散され、そして安定化するはず。そうするのが、ロビンにとっても、自分にとっても一番の解決策である。そう、分かってはいるのに。

     どうして、この足はまたあの部屋に向かっているのだろうか。
    (本当に、救いようがない)




     ロビンはいつもと同じように、ベッドの隅に丸くなっていた。オリアスがベッドのふちに腰かけると、のそりと緩慢な動きで顔を上げた。緑の瞳が暗闇に光る。オリアスは目線をそらし、ロビンの手がその肌に伸ばされるのを待った。熱い指先が、頬をなぞる。しばらくされるがままにじっとしていると、ぽふり、と肩口にロビンの頭がのせられた。なんだか今日はずいぶんと、穏やかだ。いつもならばオリアスを視認するや否や押し倒し、牙を立てるというのに。少し調子が狂う。こういうのは、できればやめてほしい。自分の中にある浅ましい心が、余計な期待を抱いてしまうから。
    「なに、今日は噛まないの」
     冷静に尋ねたつもりが、なんだか拗ねたような、ねだるような声色になってしまった。下唇を噛み、顔をそらす。やるなら早くしてほしい。中途半端に焦らされた心が、オリアスを突き動かした。
    「ほら、」
     パーカーのチャックを胸半ばまでおろし、肩口を露出させる。
    「どうぞ」
     そう口に出したのと、ベッドに引き倒されたのは同時だった。首筋に熱く荒い息がかかる。ぷつりと肌に走る牙の感覚に、オリアスは昏い愉悦の笑みを漏らした。
     ざまあみろ。
     そんな気持ちがあふれ出す。今、彼が牙を立てているのは、俺だ。ロビンが想っているであろう誰かではない。この俺なのだ。
     ロビンは荒い息遣いのまま、オリアスにつけた傷口を舐め上げる。その感触に小さく息を漏らしながら、オリアスはロビンの頭にしがみつく。
     ざまあみろ。
     ロビンが誰をどれだけ想っていようが関係ない。たとえ誰と見合いをしようが、婚約者ができようが。いまの彼のこの姿を、この瞳を知っているのは、俺だけなのだ。
     熱に浮かされたような、どろりとした緑の瞳でこちらを見るロビンの頬を撫ぜる。もっと跡を残せばいい。いっそこの関係を明るみに出してしまおうか。ロビンがつけた傷を、欲を向けられた証を、ロビンの想い人に見せつけてやりたい。
     再び首筋に吸い付くロビンを眺めながら、オリアスはできもしない妄想に取りつかれる。もしかすると、自分も悪周期が近いのかもしれない。冷静な頭の一部がそう警告した。馬鹿な考えを振り払うように軽く頭を振る。緑の瞳がこちらをのぞき込んだ。
    「なんでもないよ」
     そう言って苦笑してみせると、ロビンは再びオリアスの体に沈み込んだ。パーカーを脱がされ、半裸になる。肌寒さにふるりと震えたオリアスを、ロビンの熱いからだが抱きすくめた。
    (……、 ?)
     なんだか、先ほどから、なにかがおかしい。これまでにない違和感が、オリアスの脳を刺激する。なんだろうか、なにか―
     ロビンの唇が鎖骨に触れた。そのままへその上まで、撫でるように口づけの雨が落とされる。くすぐったさに身をよじると、顔を上げたロビンと目が合った。いつも通りの、獣のような瞳。縦長に伸びた瞳孔に、理性は感じられない。気のせいだろうか。眉根を寄せて見つめるオリアスの耳朶を、ロビンの牙が穿つ。
    「っ」
     慣れない刺激に思わず声を漏らすと、こちらをうかがうように獣の瞳が動いた。そのまま眼が合う。
    「―――ぁ」
     オリアスは、違和感の正体に気付いた。
     眼が、合うのだ。相変わらず熱に浮かされたような、どろりとした獣の瞳。だが確実にこちらを、オリアスを捉えている。
     ひゅっと、喉笛が鳴った。
     まさか、まさか。
    「……、ろびんせんせい…? 」
     恐る恐る、声をかける。
     と、緑の獣が口を開いた。

    「――お、りあすせん、せい?」


     ざぁ、と血の気が引く音がした。
     いまだぼんやりとこちらを見つめるロビンを力任せに押しのけ、部屋を飛び出す。ロビンが追ってくる気配はなかった。そのまま廊下を走り抜け、自室のドアを勢い良く開ける。周囲へ音が響くであろうことなど頭から抜け落ちていた。勢いのまま扉を閉め、その場にへたり込む。心臓の鼓動がうるさい。どぐりどぐりと、耳元で嫌な音が鳴る。呼吸がうまくできない。考えなければいけないことは山ほどあるだろうに、雪崩のような感情が押し寄せて思考がまとまらない。

    ―逃げなければ。

     絶望が、オリアスの視界を塗りつぶした。







     三月九日 霞

     あれは、夢だったのだろうか。
     朝の日差しを浴びながら、ロビンはぼんやりと昨夜の出来事を思い起こす。唇には確かに、昨夜触れたオリアスの肌の感触が残っていた。
    (夢じゃ、ない…?)
     さらり、と指先で唇をなぞる。このベッドに押し倒した手応えも、首筋に噛みついた感覚も、オリアスの驚愕に見開かれた瞳も、すべて覚えている。オリアスが自ら首筋を差し出したことも。
     あまりにも煽情的すぎるその記憶に、ぐらりと眩暈がした。これは、いったい。なぜ、こんなことに。どうして。いつから。
     答えを探すように室内を見渡すと、机上に置いてあったはずの抑制剤の小瓶が、床に転がっていた。昨夜、オリアスが逃げるように去っていったときに倒したのかもしれない。それが、ロビンの記憶をさらに確かなものにした。
    「やっぱり、夢じゃない。」
     ロビンは頭を一振りすると、ベッドから起き上がった。ぱちりと頬を叩く。混乱している場合ではない。ひとつひとつ、状況を整理しなくては。
     カーテンをひき、窓を開けると、早朝の空気が室内に流れ込んできた。湿度の高い風をゆっくりと吸い込み、深呼吸をすると、ほんの少しだけ頭のもやが晴れるような気がした。
     床に落ちた小瓶を手に取る。バラムはこれを、抑制剤だと言った。悪周期に沈みすぎるのを抑え、記憶の保持に役立つものだと。昨夜の記憶があるのは、これのおかげで間違いないだろう。まずはそう結論付けて、小瓶を窓辺に置く。続いて、乱れたベッドを振り返る。昨晩、ここに確かに、オリアスはいた。悪周期の気配を感じ、いつものように布団に篭り、眼を瞑り……そして、気が付くとそこにいたのだ。
    「〝今日は〟って、言ったよね」
     今日は噛まないのか、と。
     つまり、昨日が初めてではないということだ。オリアスはずいぶんと、あの状況に慣れている様子だった。少なくとも最後に逃げ出そうとするまでは、抵抗するそぶりもなかった。むしろ、自ら――。
    (つまり。)
     そこから導き出される結論は、一つしかないように思えた。以前ロビンが見つけたあの噛み跡。ロビンを嫉妬に狂わせ、悪周期に陥れていたあの噛み跡。それを刻んだのは、ロビン自身。そういうことなのだろう。
     へたりと床に座り込む。安堵と、驚愕と、歓喜と、戸惑いと、焦燥と。様々な感情が一気に押し寄せ、視界が揺れる。オリアスに傷をつけたのが自分であった喜びと、自分であった絶望に、ロビンは息を震わせた。
    (なんてことを)
     ロビンはぎゅっと眼を瞑り、歓喜に打ち震えようとする自分を押し込める。喜ぶな。喜んではいけない。何よりも大切にしたかったオリアスに、傷をつけてしまったのは自分なのだから。オリアスの肌に刻まれていた赤黒い傷跡を思い起こす。ぎり、と血が出そうなほど唇を嚙み締めた。
    (何が、僕なら傷つけない、だ)
     あんなに酷い傷になるくらいだ。きっと、きっと痛かっただろうに。

    「…謝らなくちゃ…」
     そう、まずはそこからだ。あの愛しい悪魔に誠心誠意謝罪をし、傷を癒し、そして、許されるならば、弁明を―。ロビンはぱっと立ち上がり、オリアスの部屋へと走る。ノックもそこそこにドアを開いて中へ飛び込んだ。

     しかし、そこにオリアスの姿はなかった。







    「オリアス先生見てませんか」
     朝食の時間。食堂に顔を出す教員たちに端から尋ねまわるが、誰一人としてオリアスの姿を見た者はいなかった。
    「先に出たんじゃない?」
     と、マルバスがのほほんと言った。確かに、その可能性はある。オリアスが朝食を抜いて仕事に行くことなんて、普段からよくあることだ。昨日の今日ならなおさら、ロビンと顔を合わせないようにオリアスが行動するであろうことも、容易に想像がつく。それならば、ロビンも早めに出勤すれば話ができるだろうか。職場で話す内容ではないのでは、と少し気も引けたが、一言だけでも声を交わしたい。生徒たちが登校する前に、少しだけでも。
     ロビンは手早く朝食の後片付けを済ませると、寮を飛び出した。春靄の中を突っ切って低く飛ぶ。はやく、はやく。謝りたい、顔が見たい、抱きしめたい。昇降口に降り立ち、廊下を駆ける。職員室の窓に、オリアスの影が見えた。ほっと息をつく。
    「オリア――」
    「あれ、ロビン先生じゃん」
     真横からふいにかけられた声に驚いて振り向くと、そこにはリードの姿があった。
    「―リードくん? どうして、」
     こんな早くに。そう尋ねると、たまたま早起きしてしまったのだ、とにこやかに答えが返ってきた。
    「たまには、早く登校してみるのもありかなーって」
     後頭部で腕を組みながら、リードは笑う。いつも遅刻するか否かのぎりぎりで登校するリードなのに、よりによって、今日に限って。内心苦く思いながら、ちらりと横目で職員室を見ると、そこにもうオリアスの姿はなかった。
     ロビンは小さく嘆息する。たとえ今オリアスに会えたとて、生徒が近くにいるこの状況で、話をすることはできまい。
    (せめて傷の様子だけでも見たかったけど)
     しょうがない。始業時刻になれば確実に顔を合わせることにはなるだろうし、今日は二人とも一限目が空きのはず。ちゃんとした話は夜に寮でするとして、その約束だけでも取り付けよう。そう気持ちを切り替え、ロビンはリードの他愛もない話に相槌を打った。 


     その認識が甘かったとロビンが理解したのは、それから二日ほど経ってからのことだった。まったくと言っていいほど、オリアスに接触できない。日中、姿は見かける。けれどロビンがその後ろ姿に追いつく前に、必ず、何らかの邪魔が入った。他の教員や生徒に呼ばれたり、荷物の搬入で道をふさがれたり、生徒の使い魔が暴走したり、なんてこともあった。そのたびにオリアスを見失い、声をかけることすらままならない。夜は夜で、同じ建物内にいるはずなのに姿すら見えない。
    (これは、もしかして…)
     何度目かの〝間の悪さ〟でオリアスを見失ってようやく、ロビンは彼の家系能力に思い至った。
     占星。すべての事象がオリアスにとって有利に働く、絶対運。それが発動しているとしか思えなかった。つまりそれほどまでに、
    (本気で、避けられてる)
     ロビンは呆然と、オリアスが消えたあとの廊下に佇んだ。怒りとも悲しみとも言えない感情が胸を襲う。そんなにも、自分から逃げたいのか。なぜ。いや、自分が彼にしてきたことを思えば、それも当然なのかもしれない。ロビンはぎゅ、とこぶしを握り締めた。
     いつから自分は、彼にあんなことをしていたのだろう。首筋や肩口につけられていた噛み跡を思い出す。オリアスを我が物にせんとする、ロビンの執着を如実に表していた傷跡。ロビンがオリアスに執着し始めた時期を思えば、もう少なくとも半年は経過しているはず。まさか半年以上、自分は彼にあんなことをし続けていたのだろうか。
    (どうして、)
     逃げなかったのか。抵抗しなかったのか。ロビンに何も言わなかったのか。傷口を隠したのか。傷跡を残そうとしたのか。
    (どうして…)
     ロビンに気付かれた今になって、こんなにも逃げ回るのか。
     それを考える度に、もしかして、と自分に都合の良すぎる妄想が頭をもたげる。
    (ききたい)
     オリアス本人の口から、直接。
     そのためにも、オリアスを捕まえなければならない。なのに、幸運という名の壁がロビンの前に立ちはだかっている。どうしたらいいのか、ロビンには分からなかった。
     もしかしたら食事をとりに、夜中に食堂に現れるかもしれないと思い、ずっと待ってみもした。しかし、徹夜して待っても、オリアスは現れなかった。
     寮での恒例の会議が終わると同時に呼び止めようとしてもみた。勢いよく立ち上がりすぎて椅子を倒し、そちらに気を取られた隙にオリアスは姿を消した。
     深夜にオリアスの部屋を訪ねてもみた。そのたびに、なぜか誰かしらが廊下を通りがかり、強引に深夜の見回りに連れ出された。
     手紙を書いてオリアスの机上に置こうともした。どこかから念子が紛れ込み、ロビンの手紙ごと書類を奪っていった。
    (手ごわい)
     改めてオリアスの家系能力の強さを思い知る。ロビンは誰もいない深夜の食堂で一人深くため息をついた。きっと今夜もオリアスは現れないだろう。それでも、万が一を祈ってここで待っている。もう一週間、オリアスは食堂に現れていない。食事はどうしているのだろうか。ちゃんと栄養はとれているのだろうか。会いたい気持ちよりも、心配する気持ちの方が徐々に強くなってくる。彼は、いつ家系能力を切っているのだろう。もしかして、あれからずっと発動し続けているのだろうか。魔力の残量は大丈夫なのか。きちんと眠れているのか。会議中に盗み見た横顔は、どことなく顔色が悪くなってはいなかったか。もしかして、こうして自分が彼に会おう会おうとすればするほど、オリアスの負担が増えているのではないだろうか。また自分が、オリアスを傷つけてしまっているのでは――
    「……っ」
     ロビンは固い椅子の上で膝を抱え込む。
     どうしたらいいのか、わからなかった。
     オリアスに会いたかった。会って、謝罪がしたかった。そうして、好きだと、ずっとずっと好きだったのだと、伝えたかった。









     三月十八日 花曇り のち、

     春の日差しが、寝不足の目にまぶしい。
     誰もいない渡り廊下で一人、オリアスはため息をついた。もう幾日も能力を切っていない。いい加減、限界が来ているのは分かっていた。痛むこめかみを指で押さえる。いつまでもこうやって逃げ回ることはできないと、分かってはいる。ロビンがずっと自分を追っていることも、このままではいつか必ず捕まるということも。
    (それでも、今は、会いたくない)
     自分は一体、何から逃げているのだろうか。逃げすぎて逃げすぎて、もはや会ってどんな顔をすればいいのかすら分からない。何を言えばいいのかも、分からない。謝罪だろうか、言い訳だろうか、懺悔だろうか。謝ったところで、ロビンはきっと、許すというだろう。そういう男だ。許されて、慰められて、そして―、そこで関係は終わるのだ。
     オリアスの喉奥がギシリと傷んだ。
     なぜあの時、ロビンが意識を保っていたのか、それは分からない。けれど、事実を知ったからには、ロビンは二度と自分を噛むことはないだろう。二度と、あの欲にまみれた瞳を向けることは、ないだろう。
    (いいんじゃないか、それで)
     そもそもが間違っていたのだ。ただの事故を真に受けて、気持ちを乱されて、惹かれて、ひとり舞い上がって。悪周期に付け込んで自分の欲をロビンに擦り付けていただけ。ただの最低な自慰行為。
    (…不毛だ)
     際限なく沈んでいこうとする思考を振り払うよう、オリアスは小さく頭を振った。
     睡眠と魔力の足りない今の頭が、まともな思考をできているとは思えない。今何かを考えたところで、建設的な方向に行くわけはない。そう、判断するだけの冷静さは残っていた。まずは、落ち着いて気持ちの整理ができる環境が必要だった。幸い明日は週休日だ。そして週が明ければすぐに終業式となり、春の休業期間が待っている。普段であれば新年度に向けた準備に忙殺される時期であるが、
    (年休、使うか…)
     せめて、数日だけでも。バビルスを離れ、どこか遠くへ。そしてそこでゆっくりと、今後の身の振り方について考えたかった。能力を切って、睡眠をとって、落ち着いた頭で考えれば。そうすればきっと、ロビンへの気持ちも、整理できるに違いない。オリアスは再び嘆息する。きっと、大丈夫だ。このまま、あと少しだけ耐えられれば。

     そう思ったオリアスの視界の端に、星がちらついた。占星が力を発揮しようとしている前兆。この場合、ロビンがこちらに近づいてきている証だ。
    (なんてタイミングだ)
     少しだけ取り戻していたはずの落ち着きは瞬く間に霧散し、言いようのない焦燥感がオリアスを襲う。逃げなければ。それだけが再び思考を埋め尽くした。今はまだ、まだ、捕まるわけにはいかない。せめてこの気持ちに区切りをつけてからでないと、自分がどんな醜態を晒してしまうか分からなかった。
     渡り廊下を足早に通り過ぎ、手近な空き教室に身を隠そうとする。が、
    「あ!オリアス先生!」
     ちょうどその教室から出てきた生徒に声をかけられてしまった。なんて、不運な。酷使しすぎた家系能力が、限界だと悲鳴を上げている気がした。
    「やぁ、ちょっとごめんね」
     話続けようとする生徒を躱し、早急にその場を立ち去ろうとする。背後の曲がり角から、ロビンの声が聞こえてきた。もうこんなにも、近い。オリアスは走り出していた。
    (もっと、もっと)
     ありったけの魔力を練り上げ、星に託す。脂汗がこめかみをつたった。頭痛がひどい。背後から何か大きな音が聞こえた。きっと、ロビンを引き留めるような何かが起きたのだろう。それでもオリアスは足を止めない。できる限り、離れなければ。軋む心臓の音に耳を背けて、無人の廊下をひた走る。角を曲がった先に、鍵のかかる資料室を見つけた。
    (ラッキー)
     急いでドアを開け、中に飛び込む。あとは鍵をかけてしまえばいい。
     ほっと肩の力が抜けた――瞬間。

     オリアスの視界はぐらりと歪んだ。




     次に目を開けた時、自分がどこにいるのか、オリアスには一瞬分からなかった。周囲が暗い。あのまま資料室で夜になってしまったのだろうか。ぴくりと指を動かすと、そこには柔らかなシーツの感触があった。ゆっくりと頭を動かす。慣れ親しんだ枕の感覚。どうやら、寮の自室に運ばれたらしい。オリアスは眼を閉じ、もぞりと寝返りを打つ。誰が運んでくれたのか、なんて、考えるだけ無駄だった。ベッドサイドに置かれた椅子の上で、こくりこくりと眠る緑髪の悪魔を見る。サイドボードには、水差しと手拭いがおかれていた。視線だけを動かし、窓を見やる。少し欠け始めた月の光が、ほんのりと室内を照らしていた。どうやら倒れてからそう時間はたっていないらしい。何日も眠りこけていた、なんてことにはなっていなさそうだ。オリアスはほっと息を吐く。と、その音に反応してか、ロビンがぱっと眼を開けた。
    「ぁ……」
    「オリアス先生…! よかった…!」
     泣きそうな目で転がり寄ってくるロビンに、オリアスは思わずびくりと身構える。思ったよりも大きな反応に、伸ばされていたロビンの手がぴたりと止まった。そのまま、微妙な沈黙が場を支配する。
    「……、あ、えっと、」
     何か言わなければ、と焦る気落ちばかりがはやり、喉がどんどんと強張っていく。ロビンの表情を見るのが怖い。怒らせただろうか、それとも、呆れさせただろうか。オリアスが身動きできないでいると、
    「…ごめんなさい」
     と、苦し気な声が聞こえた。ぱっと顔を上げると、今にも泣きそうな顔をしたロビンと目が合った。
    「え…? なに、が?」
     ロビンが謝ることなんて、あっただろうか。
     思わず訝し気にそう尋ねたオリアスの眼前で、ロビンの顔がくしゃりと歪んだ。
    「僕が追いかけ続けたから、オリアス先生、こんな、魔力切れになって、倒れて、」
     普段の様子からは想像もできないほど、小さくかすれた声でロビンは言う。膝上で握りしめられたこぶしが、白く震えている。
    「それに、」
     ぎゅっと、ロビンの眉根が寄せられた。視線が、オリアスの首元に落とされる。
    「…僕、なんですよね?」
     噛んでいたの、と、ロビンは苦しげに言った。
    「………それは、」
     沈黙は肯定でしかない。そんなことは分かっているが、返す言葉が見当たらない。否定するべきなんだろうか。ロビンの尋ね方は、確証のあるものではなかった。ならば、ひとこと違うと言ってしまえば。そうすれば、決定的な関係性の崩壊を免れることができるのではないか。でもだとしたら、あの夜のことをなんと説明すればいいのか。たまたま? 捕まってしまって? びっくりしたよ、もうするなよ、無かったことにするから、…そう、言えば。そうすれば、
    (…馬鹿だ)
     この期に及んでまだ逃げようとする自分に、嫌気がさす。誤魔化したところで、この気持ちに区切りがつけられるわけでもない。それに、ロビンのやったことではないと、そう白を切るには無言の時間が長すぎた。きっとロビンはもう、沈黙の意味に気付いてしまっているだろう。
    「…やっぱり、そうなんですね」
     ぽそりと、ロビンが呟いた。
    「ごめんなさい、僕…覚えてなくて」
    「いいよ、べつに…」
     悪周期なんてそんなものでしょ、と口角を上げてみせた。苦しそうに、絞り出すように言葉を紡ぐロビンに、胸が締め付けられる。そんなにも、悔いているのか、自分に欲を向けたことを。オリアスは震える息を整える。
    「でも、」
    「気にしてないから」
     ぴしゃりと遮ると、ロビンは押し黙った。
     なにが気にしていない、だ。オリアスはひっそりと唇を噛む。本当は、謝るのは自分の方だ。ロビンの記憶がないのをいいことに、好き勝手に振る舞った挙句、こうして要らぬ負い目を感じさせてしまっている。けれどそれを言葉に出して訂正することもできない。口にしてしまえば、自分のロビンに対する思いも一緒に伝わってしまう。
    (卑怯者)
     ぐるぐると渦巻く感情に無理やり蓋をし、オリアスは顔を上げた。
    「事故だと思って、お互い忘れない?」
     これ以上、この話題を長引かせたくはなかった。なぜオリアスが悪周期のことをロビンに伝えなかったのか、なぜ自ら噛まれるような状況に踏み込んでいったのか、なぜ抵抗しなかったのか、そう尋ねられることが怖かった。それを聞かれたが最後、なんとか細い針に引っ掛かって止まったこの関係性が、奈落の底へと落ちて行ってしまいそうだったから。
    「…事故…」
     ロビンはそう呟き、何かを考え込む様子を見せた。
    (もう、終わってくれ)
     そう、心中で願うことしかできない。占星を使うだけの力は、今のオリアスに残っていなかった。
    「あの、」
     ためらいがちにかけられた声に、ぎくりと身を固める。
    「…なに」
     頼む。訊くな。訊かないでくれ。シーツを握る手が汗ばむ。ぎゅっと、拒むように眼を瞑った。すると、
    「傷、触ってもいいですか」
    「――は?」
     思ってもみなかった台詞に、拍子抜けした声が漏れた。思わずまじまじとロビンを見る。真剣な瞳に、含みは無いように感じた。
    「なんで、そんなもの」
    「自分がしてしまったこと、ちゃんと確認したくて」
    「だから、気にしてないってば」
    「僕が気になるんです」
     そう静かに強く言われ、今度はオリアスが押し黙る。ロビンの意図が分からなかった。傷跡なんて、見たいものだろうか。ロビンのことだから、本気で自省のために言っている可能性が高い。けれど、これ以上この話題には――
    「…僕には触られたく、ない?」
    「いや別に、そういうわけじゃ」
     とっさにそう答えた後で、しまったと口を抑える。渋い顔でロビンを睨む。どうせしてやったりとした顔で笑っているのだろう。そう思って見たロビンの顔は、まるで懇願するような表情をしていた。
    「なら、…おねがい」
     そっと、肩口に手を添えられる。

    「……、ちょっと、だけなら」
     熱を帯びた頬を隠すように、オリアスはそっぽを向いた。



     どうしてこんな状況になっているのだろうか。オリアスは羞恥で茹りそうな頭で考える。すでにパーカーは袖から抜かれ、上半身には何も纏っていない。晒された肌とその上に残る傷跡に、ロビンの視線が落とされる。その瞳には、理性の光があった。
    (…っ)
     悪周期ではない、平静時のロビンの前で肌を晒していることに、ぶるりと震えが走る。肩口の噛み跡に、そっと指が添えられた。
    「んっ」
     思わず漏らした小さな声に、ロビンははっと手を離す。窺うような視線で、オリアスをのぞき込んだ。
    「痛い…?」
    「べつに、平気」
     強がりではない。かさぶたになったそこは、実際今は痛みを訴えてはいなかった。
    「ごめんね…」
     それでも、ロビンは痛まし気な顔をして謝罪を口にした。傷跡から離れた指は、肩先にそっと添えられている。
    「いい、ってば」
     それより、くすぐったい、と呟く。触れられている部分から、全身に熱が広がっていくようだ。顔が熱い。明かりのついていない部屋だ、赤みがバレることはないだろうが、それでも少しでも隠したくて、オリアスは体を捻った。きしり、とベッドが鳴る。
    「―――」
     ロビンが、大きく息を吸う音が聞こえた。ぐ、と肩に触れていた指が強張る気配がする。
    「…?」
     窺うように顔を上げると、ぽすり、と、肩口にロビンの頭が乗せられた。
    「ちょ、なに」
    「…ちょっとだけ、すみません」
     囁く吐息が首筋に当たる。くすぐったい。そう伝えるが、ロビンは動こうとしない。
    (やめてくれ)
     早鐘を打つ心臓がうるさい。呼吸が乱れる。それを悟られないように息を止めるものだから、より呼気が震えた。
    (やめて、くれ)
     期待をしてしまう。勘違いをしてしまう。夢を見てしまう。―愚かな夢を。オリアスは奥歯を噛み締める。やめてほしかった。けれど、それを口に出すことも、ロビンを引きはがすことも、できなかった。
     さらりと、緑の髪がオリアスの首筋を撫でる。ひゅ、と、口の端から呼吸が漏れた。ロビンがピクリと肩を震わせる。しかしその顔はオリアスの肩にうずめられたまま、表情を伺い知ることはできない。
    「っろび――」
    「もうひとつ、確認いいですか」
     耐えきれずに呼びかけた声を遮るように、低い声が響いた。
    「…なに、」
     思わず囁くように尋ねると、すり、と額を肩に擦り付けられた。
    「僕、ほかに、何かしました?」
    「…ほか?」
     オリアスは気もそぞろに聞き返す。なんでもいいから肩口で話すのをやめてほしい。ロビンが言葉を紡ぐたびに、振動がびりりと腰まで伝わるようだった。思わず顔を大きく背ける。自然、首筋をさらけ出す姿勢になることは、今回は本当に、意識していなかった。
     首筋に、すり、と乾いた感触が滑る。柔らかなそれは傷跡を撫でた後、そっと離れた。
    「…噛みつく以外に、なにか、ひどいこと」
     そのまま顔を上げたロビンの、熱っぽい瞳に捉えられる。その瞳孔は縦に伸び、まるで悪周期の時のような獰猛さを感じさせた。ぞくり、と背筋が震える。

    「……してないよ」
     ひどいことは、と、心の中で付け足した。









     それきり黙り込んでしまったオリアスの肌を、ロビンはじっと眺めた。首筋を中心に肩口まで、ひどい噛み跡が広がっている。白い肌に赤い傷口が痛ましい。さらに視線を下に移すと、胸元や腹のほうにまで赤い跡が見て取れた。オリアスの腕によって大半が隠されているが、きっとそこにもロビンの残した跡があるのだろう。
     ロビンはくらりと、何度目かわからない眩暈を覚えた。血流がはやくなっているのを感じる。衝動的に押し倒しそうになるのを、わずかに残った理性が押し止めた。
    (だめだ)
     今、欲に飲まれてしまえば、オリアスを一層傷つける結果になる。ロビンは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。落ち着いて、再度傷の様子を確認する。古い傷跡から察するに、少なくとも数カ月以上前からこの行為は行われていたようだ。最初に首から始まって、回数を重ねるごとに徐々に噛む場所が広がっていったのだろう。思い出せはしないが、手に取るようにわかる。悪周期中の自分がどんな思いでこの跡を刻んでいたのか。オリアスの肌に散る赤い所有印に、ぞくりと羽管が震えた。
     噛む以外のことを、本当にしていないのだろうか。オリアスはしていないと言った。しかし、本当に? 平静時の今ですら、こんなにも魅了されているのに、悪周期の自分が我慢できているとは到底思えなかった。
     さすがに情事に及んではいないと思いたい。たとえ自分自身だとしても、それだけは許せそうになかった。
     何かの痕跡を探るように、注意深く傷口を診る。と、傷の周辺に、赤くうっ血したような跡が混じっているのを見つけた。
    「これは?」
     強く吸われたような跡。つけたのは恐らく、自分だろう。やはり、噛むだけではなかったようだ。
    「キスマーク、だよね」
    「………」
     オリアスは答えない。ロビンの視線から逃れるように、身をよじるだけ。
    「これも、僕がつけたんだよね?」
     確認のためにそう問うが、
    「……」
     顔をそむけたまま反応はない。まさかとは思うが、
    「僕じゃない?」
     誰か、別の、悪魔のものなのか。ぎゅっと指先に力を込めると、オリアスはふるり、と小さく首を振った。肯定か、否定か。判別がつきにくい。
    「僕が、つけた?」
     再度静かに尋ねると、オリアスは観念したかのようにこくりと力なく頷いた。ほ、と息を吐くと、おずおずと向けられた金の瞳と目が合う。すぐさま逸らされるその瞳と、赤く染まった耳元を見て、ロビンはこくりと喉を震わせた。
     オリアスのこの反応は、何なのだろうか。そういうことだと、期待をしてもいいのだろうか。そもそも、噛まれるとなったときに、どうして逃げなかったのだろうか。純粋な筋力で言うなら、自分に軍配が上がるのは分かっている。だが、それこそ家系能力や魔術を使えば、悪周期で我を失っているロビンなど容易く抑え込めただろうに。逃げられなかったのか、それとも、…逃げなかったのか。
     どくり、と心臓が脈打つ。
    (訊きたい)
    ――けど。
     喉元まで出かかった台詞を飲みこむ。万が一、ロビンの期待した通りではなかった場合。逃げたくても逃げられないような何かがあった場合。それを尋ねることは、再びオリアスを傷つけることにはならないだろうか。自分が、らしくもなく臆病になっていることを感じる。なんと言葉を発するべきか思いあぐねていると、手の中でオリアスが小さく身震いするのを感じた。寒さか、それ以外か。なんにせよ、乱れた着衣を戻してやらねば。ずいぶんと長い時間、肌をさらけ出させてしまった。ロビンは慌ててオリアスのジャージをとり、羽織らせる。
    「ごめん」
     そのまま、そっと抱きしめると、オリアスはふるりと震えた。拒絶される気配は、ない。
    「ごめんね」
     再度そう呟くと、
    「だから、いいって…、べつに、」
     もぞもぞと決まり悪そうに、オリアスは口にした。べつに、の後に続く言葉は何だろうか。ロビンはふと考える。別に怒ってない? 別に気にしてない? 別に、いやじゃない?
     一度気になるとどうしても知りたくなるのは、ロビンの悪い癖だった。自覚はしているが、どうにも止められない。
    「べつに、…なに?」
     すり、とオリアスの頬を指の背でなぞる。嫌がられたらすぐにやめよう、そう決意して。
    「ん…」
     オリアスはくすぐったそうに、気まずそうに、戸惑うように、目線を逸らすだけ。眉間にも、瞳にも、声にも、嫌悪や拒絶の色はなかった。心臓が高鳴る。
    「触られるの、嫌じゃない?」
     囁くように尋ねると、
    「…べつに」
     と、小さく小さく答えが返された。
    (いやじゃない、んだ)
     ロビンの羽管がぶるりと歓喜に震えた。指先から伝わるオリアスの頬の熱さが、ロビンを後押しする。
    「…噛まれるの、嫌だった?」
    「………」
     返答はない。拒絶も、ない。
    「これ、付けられるのは?」
     噛み跡の周辺に散る、赤いうっ血跡を指でなぞる。
    「………」
     オリアスは無言のまま、顔を背けている。その目元が赤く潤み、頼りなげに揺れるのを、ロビンは見逃さなかった。じわりと、掌に熱が集まっていくのを感じる。言葉が出てこない。昂る感情を抑えようと、オリアスの肩口に顔をうずめる。
    「っ」
     オリアスは固まったまま動かない。それでも、どくりどくりと早鐘を打つ音が、薄い皮膚越しに聞こえてきた。その音が耳に届くたび、ロビンの鼓動も早くなる。震える手でそっと、オリアスの掌に触れてみた。振りほどかれるかもと思った手は、少し震えたまま動かなかった。そのまま、指を絡める。オリアスが小さく息を吸うのが聞こえた。指先でするりと、オリアスの指をなぞる。なめらかな肌触りに、一部、少しだけ引っ掛かりを感じた。手を取り目線の近くまで持ち上げてまじまじと見る。左手の薬指の付け根に、小さな噛み跡があった。
    「――これ、」
     ロビンが思わず声を漏らすと、オリアスはびくりと体を震わせた。逃れようとする左手を、ぎゅっと握りしめる。
    「これも、ぼく?」
     呆然と問うと、オリアスは
    「…そう、だけど、」
     と、か細く答えた。
    「―なんで、」
     左手の薬指を噛む意味を、オリアスが知らないわけがない。ロビンの目の奥が、ずくりと熱を帯びた。なぜ、拒まなかったのか。なぜ、これを、この跡を、残しているのか。その答えに思い至り、思わず呼吸も忘れる。あまりに都合の良すぎる想像だろうか。でも。
     自分の眼前、ふるりと肩を震わせながら必死で顔を逸らそうとする悪魔を見つめる。耳から首筋にかけて、暗がりでもわかるほど赤く染まっている。
     そういうことで、いいのだろうか。
     歓喜とも驚愕とも興奮とも言い表せない感情が沸き上がる。突き動かされるように、オリアスの左手を口元へ運んだ。
    「いやだったら、とめて」
    「え、」
     つ、と、薬指に口づける。
    「っ」
     ちらりと上目でオリアスの様子をうかがう。戸惑いはあれど、拒絶の色はない。そのまま、カリ、と指の付け根に牙を立てた。求愛と、束縛と、―懇願の意味を込めて。
    「―――ぇ」
     小さく上がった声に、そろりと様子を伺うと、驚いたような信じられないような、そんな表情をした瞳と目が合った。じわりじわりとその瞳に涙の膜が張っていくのが見える。ぽろりと、しずくがオリアスの頬をつたった。
     ロビンもつられて泣きそうになりながら、へなりと笑って言った。

    「オリアス先生、あなたが、すきです」










     これは、夢なんだろうか。
     唇に触れるあたたかな感触を追いながら、オリアスはぼんやりとそんなことを思う。それとも、また悪周期に入った、とか。ロビンの唇は最後に小さくついばむように触れた後、ゆっくりと離れていった。緑の瞳と目が合う。その瞳は、熱を帯び潤んではいるものの、しっかりと正気の光を宿していた。
    (あくしゅうきじゃ、ない…)
     ロビンが告げた先ほどの言葉が、じんわりとオリアスの意識に浸透していく。
     すき?
     すきって、すき…?
     言葉の意味を反芻する。やはり夢なのだろうか。どこからが夢なのだろうか。夢とはこんなにも、感触がしっかりとあるものなのだろうか。
     熱に浮かされたようなぼんやりとした思考に沈むオリアスを咎めるように、ロビンが軽く薬指を噛む。チクリとした感覚に、オリアスははっとしてロビンを見た。ロビンは薬指に牙をあてたまま、じっと、待つような視線をオリアスに向ける。何を待っているのだろう、そう考えたところで、返事、という言葉が脳裏に浮かんだ。
    (返事、…へんじ?)
     好きだと言われた。求愛の儀式をされた。それに対する返答を、オリアスはまだ行っていない。
    「あ、…え、」
     ロビンは何も言わない。ただじっと、オリアスの言葉を待っている。
     すきだと、返していいのだろうか。自分もずっと、ずっと想いを抱えていたんだと、そう吐露してもいいのだろうか。ぐるぐると頭の中が回る。そもそも本気なのだろうか、いや冗談でこんなことをする男ではない、誰か求める相手がいたのでは、それが自分だったということなのか、そんな都合のいいことが起きていいのか、何か答えを返さなければ、なんて言えば、何から言えば。
     混乱するオリアスの頬に、そっと手が添えられた。導かれるようにして顔を上げると、不安そうに揺れる緑の瞳が目に飛び込んできた。きゅう、と胸が鳴る。ロビンはただじっと、待っている。
    (ほんき、なんだ)
     再び、じわりと目の奥が熱くなる。
     オリアスは、震える唇をそっと開いた。

    「―おれも、」

     すきだと、漏れた言葉は最後まで音にならず、ロビンの口内にかき消えた。











     エピローグ


     あたたかな雨音と、そこに交じって響く秒針の音を聞きながら、オリアスは膝を抱えなおした。少し古いベッドがギシリ、と音を立てる。
     時刻は深夜零時を回ったところ。年度末の宴が終わり、どの教員たちも自室で床に就いているであろう時間だ。オリアスは時計を確かめると、もう一度寮全体の物音に耳を傾ける。
     おそらくもう、大丈夫だろう。
     そう判断すると、ゆっくりとベッドから立ち上がる。とくりとくりと早鐘を打つ心臓の音に耳を傾けながら、ゆっくりと深呼吸をする。はやる気持ちをなだめつつ、家系能力を発動させた。念には念を、だ。これから自分たちがすることを、間違っても誰かに邪魔されたくはなかった。
     音が響かぬよう、ゆっくりと扉を開け、部屋の外に出た。先ほどまでの賑やかさが嘘のように、しんと静まり返った廊下を、ゆっくりと歩く。
     向かう先は、二つ隣の部屋。
     オリアスはロビンの部屋の前で、しばし物思いにふける。これまでの日々と、これからの日々について。じわりと温かくなった胸に手を当てると、ふっと笑みが浮かんだ。
     こん、こん、と、小さく扉を叩く。
     部屋の中から、明るい声が返事をした。
     オリアスは小さく息を吐くと、ゆっくりと扉を開ける。

    「いらっしゃい、オリアス先生」

     月明りの中で、暖かな熱を帯びた緑の瞳が、ふわりと笑った。



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