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    itoujohan

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    本三/賀来夢/退き口後の話

    煙立ち去らでのみ香に火をつける。一筋白い煙が立ちのぼる。

    あの人の部屋は本棚から溢れるくらいたくさんの本があったのに、それすら整然と並べられていていて、いつも紙の匂いとうっすら香と煙草の匂いがした。
    人通りのある場所に住まいは構えられていて、外はがやがやとしているのに、壁一枚隔てたその部屋には何か静謐な膜が張られているようで好きだった。

    いつまでもその居心地のいい場所にいられると思っていたから、今になってその香の名前すら聞いていなかったことに気がついて、探し出すのに苦労した。このつまらない部屋の中でも、この香りがする間は、あの風が吹き入れれば紙同士が擦れ合ってかさかさと鳴る音も思い出すことができた。

    「又方士をして霊薬を合し、玉釜に煎錬し金炉に焚かしむ。九華の帳深きところ夜悄悄たり」

    金の炉はここには無いけれど。そう言って、香に火をつけながら反魂香という香の話をしてくれたことがあった。

    漢の武帝は寵愛した李夫人が亡くなった時、その悲しみから方士を呼んで死者の魂を呼び寄せる香を焚いた。煙の中、李夫人と思しき女性は現れたが、ほんの束の間だけ煙のようにたゆたうと消えてしまった。

    その話を聞いて、再会したい人がいるのか、と私は聞いた。珍しく困ったような曖昧な笑みが返ってきて、日々戦場に身を置いている人に聞いていい内容ではなかったと自分の思慮の浅さを恥じた。

    「ぎょうさんおるよ」

    あたふたと次の言葉を継げずにいる私にその人はそう言って、香炉の縁を指先で撫でた。

    「私が死んだら香を焚いてくれへん?」

    大きく息を吸うと、香りが肺に満ちた。天井に向かって薄いベールのような煙が広がっては消えている。

    初めから、煙のような人だった。国を守る職務に就く彼は常に多忙だったし、遠征で数ヶ月会えないなんてこともざらにあった。そんな中で私に会う時間を割いてくれていることをありがたいとさえ思っていた。

    「私みたいな男に入れ込まん方がええ」

    言葉に似合わない優しい笑顔を浮かべながら、似たようなことは幾度となく言われた。私はそれを聞く度になんてひどい人だと思った。

    暗い部屋でたばこの煙にまかれている姿を見ると、そのまま存在も曖昧に消えてしまうのではないかと不安になって手を伸ばす。「何?」といつもの人懐っこい笑みを見せながら手を握ってもらって、私はそこでやっと安心するのが常だった。

    「白居易は遇わざるに如かずって書いてはるけど、いつか失って苦しむことになっても、私はその人と出会わない方がよかったとは思わへん。結果がどうあったとしても、それまでにあったことが無うなる訳やない」

    そう言われたとき、私はどう返事をしたのだったか。そうだね、とか、そうかな、とかきっと真面目に受け止めずに適当な返事をしたのだろう。今考えれば、もっと気の利いたことを言えればよかったのに、と後悔している。

    愛する人を失って、声を聞くことも触れることもできずに、ほんの一時煙の中に見ることしか許されない。その嘆きを、それでもいいと言えるほど私は強くはなかった。それどころか、こうして香を焚いても姿を見ることすらできない私はなんなのだろう。出会ってこれまでにあったことが無くならないから、だからこそこんなにも苦しいのはどうしたらいいのか、聞けなかったことを悔いても、もう遅い。

    「泰明さん」

    ゆらゆら揺れる煙に手を伸ばして、その名前を呼ぶ。煙の中に面影を探しても見つかりはしないし、名を呼ばれたときの気の緩んだ間延びした声も返ってこない。

    いつの間にか香の火は消え、煙は立ち消えていた。
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