いつもはそんなことないの。
少女は心の中で誰に言うわけでもなく、そう呟いた。
授業でやることは元の世界になかったことばかりで、何もかもが新鮮で、楽しくって、彼女の相棒なんかは「早く終われ~」なんて言うけど、彼女からすればもっと聞きたいことばかり。
魔法のある世界の歴史。知らない人たちばっかり出てくるけど、みんな違う魔法を得意としていて、それを活用して失敗したりしている。そんな方法で統率してしまうのか、やっぱり無理なのか、この戦争ではこんな魔法が使われ始めたのか。この世界の古い記憶は彼女にとってはいつでも新しかった。
魔法のある世界の飛行術。それは飛行機とかを使わずに、ほうき一本で舞う授業。彼女は魔法が使えないから眺めているだけだけど、みんながいろんな飛び方に挑戦して、失敗して、成功して、それらを繰り返しているのを見ているのは楽しくって、見てるだけで、彼女の心は舞っていた。
魔法のある世界の錬金術。それは草から薬を作ったり、金属を作ったり、宝石の時もある授業。薬とか金属とか宝石なんかは元の世界でもあるけれど、自分の手で作れるなんて、何かの体験教室に行かないとできないもので毎日が体験型施設に行くときみたい。ペアの人が鍋に魔法をかけて、そのときのちかちか光る魔法を見るのも夜景を眺めているようで毎回感動する。
彼女はそんな日々を過ごしている。
否、過ごしていた。昨日の夕方までは。
今日ばっかりは授業に出たくなかった。
昨日の夜から家族や元の世界の友達を思い出しては悲しくなる。
いつもはそのうち紛れるのに、なぜだか元の世界の記憶が頭にこびりついている。ねっとりと脳を包み込む。
こびりついて、包み込んでいるはずなのに、ここにいる時間が長すぎて顔を思い出せない人もいて、それがなんだか、とてつもなく悲しくて、寂しくて、相手に申し訳なくて、胸がざわつく。ざらつく。ざざざっとスノーノイズが少し前のアナログテレビで流れてしまうように、私の脳内にもノイズが鳴り響いて、雪が降り積もって、心が凍るように冷えている。
ざりざりとやすりでこすれる音が彼女の胸から聞こえるようだった。でも、そのやすりは全くと言っていいほど本来の効果を発揮しなくて、心はなめらかになることなく、むしろ悪化していくばかり。なくなるはずの心の棘がこすればこするほど、鋭さを増して、心から出たというのに、またそこに突き刺さる。
もう、やっていられない。そう思ったのは一限が終わったとき。
一限目は出た。
でも、頭には何も入って来なくって、いつもよりぼうっとしている彼女を見たエース、デュース、ついにはグリムまでもが大丈夫かと心配する始末。
いつも仲良くしているマブたちには悪いけれど、彼らではこの傷を癒すことは決してできない。
彼らだって親元を離れて暮らしている。ホームシックにもなるだろう。
でも、少女はこの世界に家族がいない。そもそも住人ですらない。
なにかのいたずらでここに連れられて、学園長は「優しいので」なんて言うけれど、その「優しさ」は元の世界に戻る方法を見つけるまでには未だ至らず、そしてこれまでの経験上、そこまできちんと探していないんだろうとなんとなく察しがついてしまうのがまた悲しい。
他の教師陣も同じく「優しく」接してくれるけれど、彼らは通常の業務で忙しい。それに、寝る時間を惜しんでまで少女の帰り道を探るほど無償の愛を与えることはなかった。
ひねくれものが集うナイトレイブンカレッジの教師陣もまた、そのひねくれものの一部なのだった。
「悲しい・寂しい」という感情が限界まで達すると、何もできなくなるんだとここに来て初めて知った。
それが現状。
聞いているだけでいい授業すら耐えられなくって、かといって、寝れば治るなんて人もいるだろうが、(というか普段なら少女もその一人なのだけど)それも今回は効果がなく、寝て起きても未だに正体がイマイチわからない魔法を使える獣が寮にいるのみで、その現状が寂しくって、落ち着く兆しが全くない。
彼女のマブたちには申し訳ないけれど、体調が悪いなんていうありきたりな理由を伝えて、二限目からはなにもしていない、というより、できていない。できないとわかっているから何もやる気がない。
日当たりのいい場所で足をだらりと延ばして座って、ぼうっとして、なにも考えないよう努力をする。
ああ、こんなとき座禅とかしたことがあれば無の境地に至るのだろうか。
そんなどうでもいいことばかりに頭を使っていた。
三限目が始まる予鈴が鳴る。
ああ、一時間も無駄にしてしまったのか、私は。
そんな風に考えるから、さらに思考はネガティブになって、ブルーになって、青空の元で暗くうつむいてしまうんだ。
ただ、わかっていてもどうしようもない。そういう思考回路から抜け出すのって意外と難しい。
遠くから声が聞こえる。
ふと、声のする方を見ると二年生の先輩たちが飛行術をやっていた。
「アズールちゃんとやりなよぉ」
「やっているんです!」
そう高い位置にいるフロイド先輩と立った方が高いであろう位置にいるアズール先輩の声が聞こえる。
どうやら合同でやっているらしい。
確か一年のクラスにも時間割変更があったから、その影響で二年生も合同なんだろう。
遠くでジャミル先輩が軽々と飛んで見せて、アズール先輩がぐぬぬとでもいうような顔でそれを見て、また挑戦して失敗して、フロイド先輩に茶化されている。
ああ、私も飛んでみたかったな。
ある程度飛べるようになって、遠くに旅をしてみたい。
そうしたら、今日だって海辺に行けたかもしれないのに。
元の世界でそんな感じのアニメーション映画があったなあ。
あの少女は自ら自立したわけだけど、それにしたって強い少女が描かれていたなあ。
それに比べて、彼女より年齢が上のはずなのに、私はこんなにも弱い。
ああ、またこの思考回路。嫌になってしまう。
少女は目立たないように木の近くによって、膝を抱えて座り、膝に頭をのせる。うつむいたり、顔を上げて授業を眺めたり、落ち着かない。きっとまだ授業が始まってから十分も経っていないというのに。
近くに生えている花を眺める。それはいわゆる雑草だけど、力強く咲いていて、今の私より断然強いんだろうなと考える。
突然、その花に影が差す。それは大きくて、木が揺れた、とかじゃないことがわかった。その影は一向に動かず、ただじっとしている。
少女は影を辿って影の先端を見ると、人であることが分かった。
ただ、耳は元の世界にないタイプのもので、ぴるぴると動いているのがわかる。
さっきとは逆方向に影を辿ると大きな赤い靴があった。
彼女がそこからさらに辿って上を見ると体操服を着たラギーだった。
ああ、三組合同でB・C・D組なのか。
なんでそんなにじっと見てくるのだろう。なにか悪いことしたっけ?
彼女が頭をフル回転させてもその答えは出てこなくった。
「あ、えーっと、お邪魔でしたか?」
そう今にも消え入りそうな声を発する。
「いや?」
「じゃあ、なんで…?」
「飛行術の練習してたら上から監督生くんが見えたから」
「それだけ、ですか?」
「そッスね、それだけッス」
「はあ、」
「いやなに、珍しくアンタがサボってるから気になって」
「まあ、確かに、珍しい、かも?
先輩は授業受けているんですよね」
「まあ、見ての通り」
――受けている。そうでなければ運動着には着替えないだろう。
「ここにいていいんですか?」
「まあ、今日は別に対したことやってないし」
「そうですか」
沈黙が流れる。
え、なにしに来たの、ラギー先輩。監督生は不思議に思う。
遠くから聞こえる二年生の声、木が揺れる音、鳥が鳴く声。
――そして、隣に先輩が座る音。
沈黙を破ったのは意外にも先輩だった。いや、まあ、私が話すことなんて何もないから、ある意味当然なのかもしれないけど…
「アンタ、なんか溜め込んでるでしょ」
「へ?」
我ながらからマヌケな声が出た。
なんでバレるのか。いや、グリムにさえバレたのだから、この察しのいい獣人にバレないわけがないのか。
いやいやいや、そんなに普段から一緒じゃないんだからわかるわけなくない?いや、実際にバレてるんだけどさぁ。くるくると頭の中で考えてみる。
「なんでわかるか教えようか?」
「ひぇ」
エスパー?魔法か?心が読める魔法なの?チートじゃん!
ラギーはにやにやと顔の筋肉を持ち上げ監督生の顔を覗き込んだ。
そのうちにラギーの手が彼女の頬に近づいてきた。
「アンタ、顔に出過ぎッス。そんなの、わかるに決まってるじゃないッスか~」
そう言ってラギーは監督生の頬を緩くつまむ。
「ふぇえ…ほうなんでふか?」
「そッスよ」と言ってラギーは手を放す。
「そっか…」
再び沈黙。
横にいる先輩を盗み見ると、同時に先輩もこちらを見てきて、ぱちりと目が合う。
「それで?オレが話、聞いてあげましょうか?話すだけでも楽になるでしょ。」
沈黙を破ったのは意外にも、いや、やはりと言うべきか、またしてもラギーだった。
「…なにを企んでいるんですか?」
「いやだなあ、監督生くん。オレは後輩の相談に乗ろうとしているだけなのに。しくしく」
前、ジェイドもシクシクとか言ってたけど、二年生の間で胡散臭いウソ泣きが流行っているのだろうか。
監督生が黙っていると「まあ、話したくなければいいんスけど、もし話したくって、でも対価とかの心配してんならレオナさんの身の回りの雑用手伝うとかでいいからさ」とラギーが言った。
――私はこの暗い感情を話したいのだろうか。
マブたちは優しいから話したら心配かけちゃうし、なんか接しづらくなったら嫌だと思って話さなかった。
でも、ラギー先輩は?
彼は一体なんだろう。いや、なんだろうというのもおかしいのだけど。
話したらまた明日から普通に授業が受けられるかな?
どうだろうか。わからない。
わからない。わからない。わからない。
何をすればいいの?話していいの?
話して根本の問題が解決するわけがない。
だからわからない。
こんな重い想い話をラギー先輩に話していいのだろうか。
わからない。
先輩の時間を無駄にしない?
わからない。
時は金なり。そう言ってお金を大切にするラギー先輩のポリシーを裏切ってしまう。
ああ、本当にわからない。私はどうすればいいんだろう。
「だから、そうやって無駄なこと考えるの、やめた方がいいッスよ、アンタ」
横からの明るい声。普段より優しい声。
それにつられて顔を上げる。
「オレから聞いてやるって言ってんだから、話したくない場合以外は話せばいいの。無駄な遠慮は時に迷惑なんだから。わかったッスか?」
私と違って先輩はなんでもわかってしまうようだった。
ラギー先輩の灰色がかった青い瞳に全てを見透かされているようで目を逸らす。
「…じゃあ、聞いてくれますか?雑用の手伝いはします。」
「ん、よく言えました。」
そう言うとラギーは手を監督生の方に伸ばして頭をがしがしと撫でる。
大きな手が私の頭をぐらぐらと揺らして、本来心地悪いと思われるその揺れがなんだか、とても安心した。
* * *
ぽつぽつと監督生は話し始めた。
家族に会えない寂しさ、友人の顔を忘れる悲しさ。
どれも異世界から来た人間ならではだと思う。ラギーだって、スラムにいた友人が死んじまったり、出かけたきり帰って来なかったりもあるけれど、それでも写真として残っていて、写真がいくら色褪せても顔を思い出せなくなるとかはなかった。
相槌を打つ度に、監督生の中にある色褪せたブルーな感情が出ていって空気中に溶け込む。
― ―
最初、上から見つけたときは監督生くんだとは思わなかった。
また誰かサボってるのか、くらいで。それ自体はよくあることだった。
そしたら、たまたま近くにいたジャミルくんが監督生くんのいる方をじっと見たあと物珍しいものを見るような表情をするから、オレもつられてそちらを見た。(アズールくんはその間ホウキにつられていたんだけれど。)
ジャミルくんは最近、前よりも表情が豊かになったように思う。
で、今回はその表情にすくわれた、というか、オレがジャミルくんの感情をすくって、最終的には監督生くんの感情までこうしてすくっているわけなんだけど。
オレは目がいいから遠くからでも監督生くんの表情まで読み取れた。
「アレ、監督生くんッスか?」
「そうだな。珍しいことがあったものだな。」
そうジャミルくんは一言残して地上に降りて行った。
しばらく監督生を見ているとうつむいたり、顔を上げたり、落ち着かない様子だった。
表情的になにか悩みがあるんだろうとラギーは察する。いつも真面目な監督生が授業をサボるくらいの悩みってなんなんだろう。
彼はふと気になってしまった。
それをきっかけに違う感情と混じって彼の中に疑問が浮かんでくる。
――授業をサボるほどの悩み。
――お人好しすぎる学園唯一の女の子の悩み。
――みんなから愛される彼女が抱える悩み。
それはきっといつも彼女の近くにいる二人のトランプ兵も知らない。彼女がほいほいと悩みを明かすタイプにも見えないし。
ましてや、彼女の周りでいつも問題ばかり、いや、問題しか起こさないモンスターが知るわけもないだろう。
オレがそれを聞き出せたら?
オレが彼女の秘密の共有者になったら?
彼女はこれからもオレに悩みを打ち明けてくれる?
オレにだけ頼ってくれる?
オレだけに、その感情を向けてくれる?
――独占欲にも近い感情がふつふつと湧いてくる。
なんでこんな風に思うのだろう。そんな疑問さえも忘れるくらい、ラギーの中では黒い感情が渦巻いていた。
監督生に近づいてみても全くラギーの様子には気がつく気配がなかった。
空(くう)を見ている。いや、実際に見ている、のは土や雑草なんだろうけど。
監督生の視界に入るあたりにラギーの影が入るよう彼が移動すると、そこでようやく監督生の目が何かをきちんと捉えた。
目線はゆっくりとラギーの影を辿って、瞳に彼の頭の影を映す。ラギーは耳をぴるぴると動かしてみる。特にこれといった反応は見られないけれど、監督生の目線はまた元の位置に戻り、そこからさらに移動し、オレの足元までたどり着いた。そこからゆっくりと監督生は顔を上げた。
しばしの沈黙。そして
「あ、えーっと、お邪魔でしたか?」
そう監督生は小さく声を発した。
その顔には「心、ここにあらず」と書かれていた。
実際、彼女の存在は異世界からのもので魂はこの地にないのか、不安定な存在だとは思う。いや、今の状況はそういう話ではなく、彼女はどこか虚ろな感じであった。
――どうしたものか。
ラギーは頭を回転させる。
これがレオナさんだったり、ヴィルさんであったり、はたまた、カリムくんであったりしたのなら、今後の人脈づくり、基、弱みを握ることが出来たのだろうが、あいにく、監督生はそんな大それたものを持ってはおらず、むしろトラブルメイカー(実際は彼女の周りにいる人間がトラブルメイカー)で関わればラギーにとっては利益とならないことばかりなのは目に見えていた。
しかし、それがどうした。
オレは彼女を放っておけなかった。
悲しい顔をしてほしくなかった。
いつものように笑っていればいいのに、と思う。
どうすれば彼女が話してくれるだろう。
どうすればみんなの知らない彼女の暗い感情を引き出せるだろう。
ハイエナは頭を回転させる。
彼女についての情報を嚙み砕く。骨さえも嚙み砕けるのだから、そんなことは難しいことではないと信じて。
「話すだけでも楽になるでしょ。」
そう喉が震えた。それは思っていたよりも優しい音となって監督生の耳に届く。
――ラギーが自分から提案することは何かを企んでいるとき。
そう考えた少女は「何を企んでいるのか」と聞いてきた。
ふむ。口では適当に答えたけれど、いざその質問にキチンと答えようとすると難しかった。
何も企んではいない。ただ、彼女の抱える悩みを共有してほしかった。そしてそれがオレにだけ明かされるものだといいと思った。
果たして彼女はそれで納得するのだろうか。とはいえ、今では答える必要のないことだけれど。
監督生はまたうつむき始めた。
その直前に見えた表情から話していいかどうか悩んでいるのだろうな、ということをラギーは察した。
どうしてオレはここまで監督生の考えることがわかるのだろう、と自分でも不思議だった。けれど、それに答えられる者がいないのもわかるので、それはそっと胸の奥に閉じ込めた。隠すように。考えなくてもいいように。
察しのいいオレはこの感情が監督生くんにとっては迷惑なものであると悟ってしまうから。
何も答えてくれない時間がもどかしい。答えを急かすように誘導する。
誘導するための言葉なのに、オレから出た声は思ったより優しくって落ち着いていて、自分でも驚く。
「じゃあ、聞いてくれますか?」と悲しげな顔を膝に乗せたままこちらに向ける彼女は今にも消えちまいそうで、その存在を確認するようにオレはがしがしと頭を撫でた。
こんな雑な撫で方なのに、安心したのか、じゃれつくようにゆるゆると笑う彼女の本日最初の笑顔はオレだけに向けられたもので、とてもかわいくって、どうかしちまうかと思った。
* * *
絡まった糸がラギーによって解かれるように監督生は感じた。
彼は存外、聞き上手で、気が付いていたらあれもこれも話していた。