NAI.盧笙が帰宅すれば、リビングの電気が点いていた。
アレ、と思って、電気消し忘れてたか?と思ってドアを開けると手を上げた緑髪と目が合った。
「や!」
「お前、今週全ロケ言うてたやん、明後日まで、」
「早まった。サプライーズ」
盧笙はなんだか簓に合うのは久しぶりな気がした。
期間的にはたった一週間とちょっと、会わなかっただけである。
ちなみに簓が来ないと、零も来ない。だから今週盧笙は一人だった。
『盧笙の家に上がる際は緊急時以外、簓の許可が出ないと行かない』と零が決めてるからかもしれない。
この一週間、一人ながらも盧笙は相変わらずどたばたと仕事に追われていた。まぁ普通に。それなりに充実している。不満はない。
うん、なのに。
アレ。
と盧笙は思った。
なんか一瞬、変な気持ち、なった。
と、盧笙は思った。
ぺち、と軽く音が耳元で聞こえたと思い、両頬がじんわりと温かく、目線を下げれば真顔の簓がいた。
「盧笙?」
「うん」
「どないしたん」
どないしたんやろ、と盧笙は思った。
g(x)=b n x n + b 1x +b 0
気分に合わせて、アイゼンシュタインの定理を選んだ。あんまり広くない背中に、手元の本を横目に問題を解いていく。
因数分解は因数分解をしてやれば因数分解できるかどうか分かる。アイゼンシュタインの定理にまつわる問題はそれができるかどうかの問題だ。
今自分がしているものは花占いに近い行為だと盧笙は思う。占い自体は自分のことをよく知らない誰かが偉そうに誰にでも当てはまるあやふやなことを言ってこちら側を一喜一憂させてくるので嫌いだが、こういうものは好きだ。単純明快。ハッキリそうかどうか答えが出る。
ちょっと、なんだか答えが出そうな気がしたのだ。さっきあの時。簓の顔を1週間ぶりに見た時。
だから、今盧笙は簓の背中で数式を解いている。難易度低めのものだからノートは不要。
簓も最初、わーわーと言っていた。
まず「どうしたん」からだった。
どうしたと言われても、盧笙もわからないので困る。
どうしたものか、と悩んでいたら白膠木簓の賢い脳は何かを察したのか”ぬるさら”の演技を始めたが、それもキャンセルした。
「や、すまんちょっと時間くれ」
「嫌や、一緒居たい」
「じゃあおってええから」
「時間どれぐらい」
「一時間ぐらい」
「何すんの」
「なにか掴めそうな気分やから数式解きたい」
「…意味がわからん」
「俺はわかる」
「いやわからん」
「…お前が土産話を俺にしたいのは分かる」
「うん、したい」
「けど見えた気がしたから」
「何が」
「……お前の話聞いてツッコむ俺はいつでも見れるけど、考え込んで変な事する俺はレアやで。ええんかお前」
──10x 2 + 10x + 5
思い返すとなんだか今日は妙に冴えている気がする。あの言い回しは普段の俺では思いつかんヤツやった。と、〝f〟や〝x〟や〝=〟を書きながら盧笙は思い返す。
『それはレアや』と簓が返して、結局今こうやってこたつに座る簓の後ろに盧笙は寝転びその背中に数式を書いている。
簓は早々に自分の背中に書かれている文字を当てることは辞めた。なにそのK、何個K出んの!?と騒いでいたがノットイコールを書いた辺りから黙り、簓自身も鞄からノートを取り出して何かを書き始めた。
さああと1問。最後のは手強いとのこと。
盧笙は〝恋愛感情〟というものがわからないのだ。
知識としては知っている。
どうやらそれは脳天を突き動かしてそれさえあれば生きていけることもしばしば、
その気持ちだけで良いことも悪いことも無茶なことも無謀なこともなんでも出来たりするすごいものらしい。
…と簓は言った、気がする。
『って、言ってたんやけど、なにそれ』『アイツ見事に体現してるな』と盧笙の問いに零もそう返した。
ちなみに盧笙は〝友情〟というものもわからない。
知識としては知っている。
『それでもいいねん』と、簓は言う。
『そういう次元は越えてるから、とうに、』と、簓は言う。
『隣、おれば、それで』
と言いつつ、ガンガン手出してくるお前は一体何やねん。俺の知っとる〝恋愛感情〟とも〝友情〟ともだいぶ違うみたいやけど。
と盧笙は思う。
でもそれに対して盧笙は強く言えない。知識はあるが経験がないから。
『あの子は駄目、あの子と友達になりなさい』と言った母は、三ヶ月後には『もうあの子とは遊んじゃだめよ』と言った。
『その代わりあの子を。』、『もう同じクラスの子は駄目、塾のあの子と』、『もう誰とも遊んじゃ駄目』。
だから盧笙は友情の経験がない。
17の頃、話しかけてきた誰かの顔ももうあやふやで。
今は日々目の前で色とりどり、十人十色の思春期に包まれた子らと接して、知識を深めるばかりで、皆一様にそれぞれの形があって、喜怒哀楽を惜しみなく盧笙に見せる。
彼ら、いや大半は彼女ら、は、〝恋〟というものも盧笙に見せる。
中には盧笙にソレを向ける子もいる。その子達はかつて盧笙に『付き合って』と言いお付き合いした女性達と最初のアプローチの方法がそっくりだ。
生徒とソレをする気持ちは全く無い。法律とかそういうのももちろんあるが、それより何よりきっといつも通りに最後は『思ってたのと違った』と大事な生徒が盧笙に失望してしまう。それが嫌だから。怖いのではなく、嫌だから。
10代の子どもたちは可能性の塊だ。だから自分なんかで歪ませてしまったら申し訳ない。
で、
いたのに、ドカンと、
ある日突然、眩しいキラキラとしたものが、また、現れ、
好き、だと
盧笙の知らない、知識にもない〝恋〟をドカンと落としてきた。
= −3。
「出来た。」
「さん」
「分解できたほうやった」
「ふぅん」
えっと…確か解いた5問のうち、できた、できない、できた、できた、できた。
「出来るやつばっかやんけ!」
「はぁ。まあようわからんけど出来たならええやん」
簓が振り返ってにこ〜と笑う。
盧笙はその顔をじぃっと見る。
簓は楽しそうに見える。おそらくその〝楽しい〟という気持ちは自分が引き出したやつだと、思われる。
それに対して盧笙は、
うれしい。
と、思った。
「簓」
「はいはい〜」
「キスせえ」
「はぁっ!?」
すごい勢いで簓が体を盧笙の方に回転させた。
あ、このままやとしにくいか、と盧笙はよっと起き上がる。
「はよ、わからんくなる前に」
「わ、」
「はよ」
盧笙が眉間に力を入れると、2秒後には唇がくっついていた。
簓からは ちょっと苦く、甘い味がした。
この間『冬やから乾燥するやん。喉大事にせんとな〜〝乾燥しても完走!〟」と言いまるまる1袋渡してきたのど飴の味だった。
ファーストキスはレモン味と聞いたことあるけど、はちみつとハーブ味やったら何キスになるんや。と盧笙は思ったが、分かることもある。ハーブが入っていても飴は甘い。
甘いなら、いいのか。
甘いんやし。
盧笙が口をゆるく開くと最初はためらいがちに、それでもそのうち大胆に舌が入ってくる。
ちゃっかりしてるやつや。ほんと、こんな人間見たこと無い。知識にもない。
ないなら知るしか無い。
嬉しいと思ったなら、多分コレが〝恋〟だ。