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    ogata

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    ogata

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    2020 2冊目の風降本期間限定web再録。
    「Hello,again」のあとに出した本です。
    降谷さんが南の島から戻ってくる、南の島は特に話には関係ない。
    付き合ってないふたりがホテルでおしゃべりして、なんやかんやで初夜がうまくいかないお話。
    薄目でどうぞ。

    ##風降

    Zeroという名のStargazer 発端は、半年ほど前まで遡る。
     潜入に入って連絡がとれないことは珍しくもなかったが、徐々に定期報告が減り、前触れなく何日も行方がわからなくなることが増えた。
     まさか、と不審を感じた矢先、唐突に降谷の退職を知らされることとなった。
     潜入中の捜査員が行方不明になることは、多くはないが少なくもない。昨日まで一緒に働いていた同僚が命を落とすこともある、そういう可能性が高い職場であることは間違いない。
     けれど連絡は入らず、情報も無い。噂が立たないことが逆に真実味を帯びているように思われた。
     ここ数年の公安は、どの部署でも多忙を極める日々が続いていた。サミットやスポーツ祭典の予定、それにまつわる警備はもちろん、国際的な犯罪組織の首謀者死亡からの後始末などが山のように残っていたからだ。
     降谷は潜入捜査官ではあったが、警察組織の一員としての業務を持っていた。もちろん風見やそこから連なる各部署で実務を行っていたわけだが、ここ数年、降谷との直接のやりとりや業務が増えていたものの、着実に業務をシステム化し、必要に応じてリソースを割いていたため、実務において降谷の不在で困るということはなかった。
     ただ、数年苦楽を共にした人間が突然消えることは、さすがにやりきれない、ではすまない感情が伴った。
     困惑が焦燥へ、煩悶が諦観へ。
     そんな半年が過ぎた頃、知らない電話番号から「安室透の連絡先を知りたいか」とSMSを通じて送られてきた。
     不確実な情報が、どんな犯罪に通じていないとも限らない。他ならぬ彼——国の諜報の中枢を担い、黒の組織の一員でもあった——の情報を求めるのが、風見のような元部下だけであるはずもない。
     半年の間、どのような感情が生まれようとも公に彼を探すことはなかったが、風見は一晩考えて、相手と連絡を取ることにした。

       *

     待ち合わせ場所として指定されたのは、かつての安室透がアルバイト先として選んだ喫茶店だった。
     平日昼間、ランチタイムが終わって人がはけた午後二時半。誰とも視線の合いにくい奥の席に座って数分後、同じ入り口の扉を開いたのは若い男女だった。
     立っているだけで人目を引く二人である。
     女性の方は顔見知りだった。毛利蘭、探偵である毛利小五郎の一人娘。現在十八歳の都内国立大学生だ。初めて彼女を見たのは数年前のことだが、大学生になった彼女は銀幕で見る俳優と比べても遜色ない成長を遂げていた。
     統合型リゾート施設「エッジ・オブ・オーシャン」爆発事件の時、毛利小五郎を逮捕したのは風見だった。公安の意志で誤認逮捕された毛利の娘が、風見に良い印象を持っているはずもない。顔を隠して様子を伺っていると、カップルは話すことに夢中で、風見に気づく様子もなかった。
     二人はカウンターに座り、蘭が同行の青年をやり込めている。
    「まったく、帰ってくるなら帰ってくるって言ってくれればいいのに」
    「突然帰ってきて悪かったよ。難しい事件が続いてたからさ、予定が変わっちまったらガッカリするだろ」
     その声で、蘭の隣に座った背の高い青年が、風見の待ち合わせ相手なのだとわかった。以前は警視庁内でも彼の視点に一目置く捜査員がいたようだが、現在は日本に住んではいないらしい。
    「コナン君は元気なの?」
    「ああ、こっちにきてからは偶に会ってるし、元気そうだよ」
    「よかった。コナン君はしっかりしてるから安心してるんだけど」
    「だろ? 日本を離れるのは寂しいこともあるだろうけど、楽しくやってんじゃねえか」
     話題に上った江戸川少年は、風見の上司だった降谷の信頼も厚い、不思議な小学生だった。
     盗聴器を仕掛けられた疑惑をかけられたこともある風見としては少年に苦手意識を持っていたのだが、少年の方は何故か風見を見かけるたびに声をかけては雑談をしていった。小学生を邪険にもできず、彼の質問に適当な相づちを打っていただけなのだが、本人はそれでも満足そうだった。
     そして今年の春頃、警視庁のロビーで声を掛けられ、家庭の事情で留学すると伝えられた。資料に拠れば工藤家との遠縁にあたるらしい。
     別れの挨拶に、とハングアップを希望した小学生に応えて笑顔を作ると、小さな探偵は小さな拳で倍ほどもある風見の拳にコツリと当てた。
     風見と江戸川コナンの周辺人物との接点は、そこで一端途切れたのだった。

    「お待たせしました」
     とりとめない思考を遮断したのは、青年の声だった。いつの間にか毛利蘭が席を外している。どこか上の空で蘭の話を聞いていた新一に呆れ、自宅に戻ったからだろう。
    「……はじめまして」
     面識のないはずの新一が風見に目を留めた。大きな問題はないだろうが、何にしても油断していたことには変わりない。
     風見の方に近づきながら彼はこう言った。
    「どうも、突然すみませんでした。工藤です」
    「……ああ、存じている。君は一部で有名人だったから」
     工藤についての詳細は、公にされているプロフィール以上のことは警察に残されていない。かつては警視庁とのパイプがあったようだが、ある時期を境に情報が途絶えている。
     相手が工藤本人ではない可能性もある。
     ただ、世間では失踪や死亡の噂があったが、それは公の場に出ることが無くなったというだけで、現実として考えにくかった。極めて細い糸ではあったが、風見自身が工藤と近しい人物との繋がりがあったため、工藤新一が生きているのではないかと予想していたからだ。
     おそらく警察内部においては、工藤新一の現在について風見の権限で知ることのできる情報が制限されている。詳しい理由まではわからないが、黒の組織絡みの司法取引が行われたか、相応の配慮をされている可能性がある。
    「俺、安室さんとは親しくさせてもらっていたんです。少しの間ですが、探偵の横の繋がりみたいなもので」
     そつのない物言いに、相手を萎縮させない朗らかな表情。こちらの疑問を先読みするかのように、会話相手のひとつ先の不安を消しながら会話を繋いでいく話術は、さながらプロの詐欺師だ。
     彼が『安室の知人』だというなら、風見の答えはひとつしかない。
    「……自分は、飛田です。彼がこの近くで事務所を開いていた頃に世話になっていたんだが、この店のアルバイトを辞めた頃からは連絡をとっていない」
    「びっくりですよね、突然辞めちゃって」
     昼のピークタイムを過ぎ、店内は客の会話を邪魔しない程度の音楽が流れている。ポアロの看板娘である榎本梓は休みのため不在で、かわりに店長を思しき人物がカウンターの中で丁寧に食器を拭いている。彼も安室を知っている一人だろうが、話に入ってくることはない。
    「自分のことは、安室から聞いていたのかな」
     自らを詐称することには慣れている。青年もこの程度の茶番は日常茶飯事だろう。
    「飛田さんのこと、大事な右腕だって言っていましたよ」
     だとしたら、使い途のなくなった右腕は切り落とされたのだが——自嘲気味に心の中で呟くと、聞こえていたかのように新一は続けた。
    「探偵って結構地味な事務作業とか資料検索も多いし、有能な助手は有り難いから」
     安室さんから連絡ないなら、俺のとこ来ます? あ、俺の拠点は日本じゃないけど、日本に居てもらって構わないし、などと、まるで立て板に水が流れるようにつらつらと嘯く。
    「有り難い申し出だが、自分が君の助手として果たして役に立つかな。君みたいな若くて優秀な人についていけるか不安だしね」
    「そっか、駄目かあ。まあでも確かに相性もあるからなあ。安室さんの助手なら、有能に違いないと思うんだけど」
    「気持ちだけ有り難くいただいておこう。場所を変えようか? 移動しながら話せれば有り難いのだけれど」
    「了解」
     会計をすませ、近場のパーキングまでの道すがらを青年と並んで歩く。長身の風見には届かないものの、すらりと背の高い青年は、主に若い女性の視線を集めているようだ。
     常より人目につくことを避けている身としては、若干の居心地の悪さを感じ、助手席に乗るよう促して風見は運転席のハンドルを握った。物珍しそうに風見の車に乗り込んだ工藤は、何故か嬉しそうにキョロキョロと車内を見回している。
    「君は目立つんだな」
    「そうかな。あまり気にしたことなかった」
    「君はご両親も有名人だし、幼い頃から人目につくことに慣れているんだろうな。あんな風に視線を投げかけられることに自分は慣れていない」
    「飛田さんは大きいし目立つと思うけど。安室さんも目立ちそうだな」
    「彼は情報収集を生業にしていたから、必要であれば人に紛れるのはお手の物だ」
    「それじゃ、探すのも大変そうだ」
    「まあね。ただ、自分は彼のことを表だって探しているわけではない。とにかく無事であればいいとは思うんだが」
     自分から危険に首を突っ込んで解決するタイプだから、と溜息交じりに呟くと、ばつが悪そうに新一は苦笑した。
    「耳が痛いなぁ」
    「探偵というのは、本当に子供のように後先考えず事件に頭から突っ込みたがるところがあるんだろうな。少しは自重してほしいと、君も周囲に言われるだろう」
    「でも探偵の助手をしていたんだから、あなたもじゃないですか」
     そう、自分達は確かに警察官だったが、同時にいつも同じ方向を見つめる共犯者でもあった。彼が見ていた景色を共有しているつもりで、彼の手足となって動くことに、何のためらいもなかった。理があれば信じることは容易い。
     今となっては、何もかもが夢のようにも思われるけれど。
    「ところで、どうして自分に連絡をくれたのか教えてくれるか」
    「ああ、彼がどうも東都を離れたらしいというのは聞いていたんだけど、帰国のついでがあったので。風見さんは探してるんじゃないかと……あっ」
     やべ、と片手で口を抑えた工藤へ、曖昧に首を振った。
    「君が自分のことを知っていることは何となくわかっていた。先程は『ポアロ』で他の人がいたからな。君と自分だけの秘密にしてくれればいい」
    「わーお、風見さんと二人だけの秘密ができちまった」
    「世の中には特殊メイク並の変装技術があるらしいから、君を完全に信用してもいいとは思っていない。だが君が毛利蘭さんと一緒だったのは、工藤新一であることを自分に信じさせるためだろう」
     工藤は、我が意を得たりと言わんばかりにニヤリとした。
    「彼は、生きているんだな」
    「多分。そこそこ元気だと思います」
     溜息と共に頭を抱えたくなった。無事であればいいと言ったそばから、感情が溢れそうになるのを堪える。
    「それにしても、俺相手にそんなに正直に話さなくてもいいのに」
    「むしろ君相手だからこそ、嘘をついても見抜かれそうだ。それに君になら、多少は必死の自分を見せても構わないだろう」
    「どういう意味?」
    「明日にも他人になれる」
    「なるほど」
     信号が赤に変わるのを見届けて車を停車させる。大通りの横断歩道は、授業が終わった学生や外出の会社員が右へ左へと飛び交うように歩き去って行く。
    「国内ではどうしても痕跡が残るだろうから、おそらく海外だろうと思っていたよ。生きているなら、ほとぼりが冷めれば連絡があるかと思っていたんだが」
     半年経とうとしている今も、降谷からの連絡は途絶えたままだ。
     初対面の青年にどこまで話すつもりだと思いながら、心に留めていた言葉が関も切らず溢れた。
    「どこかで命を落としたのか、もしそうなら上が何か隠しているのかと思ったが、自分には何の情報もなかったからな。だが、黒の組織絡みの潜入が一段落したところでもあったし、安室を消すタイミングでもあったから、準備していたようにも見えた。何も言わずに消えたい、もしくは姿を消す必要があるというのが彼の意志なら、探すのは本意では無い」
    「俺は彼に直接聞いたわけじゃないから、単なる想像だけどさ。何も言わずにいなくなったのは、何か風見さんに伝えられない理由があったんじゃないか」
    「それはまあ、そうだろうとは思うが」
    「それに、あの人は風見さんのことを褒めていた。だから俺は風見さんのこと知ってたくらいだから。理由もなく風見さんに秘密にするってのが考えにくいんだよな」
    「初耳だな。褒められたことなんか数えるほどしかない。それに安室なら、人を褒めるのも親切にするのも、どちらかといえば得意分野だろう?」
     冗談まじりで答えると、青年は表情を崩して風見の席に近づいた。
    「俺は、どっちかというと安室さんと話すことのほうが多かったからさ。降谷さんのことは、風見さんのほうがきっと知ってる」
     外から聞こえていた電子音の音楽が止まり、人の流れがまばらになった。ひとときの静寂の後、信号が青に変わる。
     アクセルを踏み込んで、車を発車させた。
    「見落としていたことがあるのかもしれないな」
    「そう。近くで見ていても気づかないことなんて、いくらでもあるんだ」



       *





     時刻を腕時計で確認し、ウインドウを半分ほど開くと、湿度の高い潮風がすり抜けてきた。
     夜半を過ぎた都会の埠頭は、人の気配のかき消された闇の中にも光が瞬いていた。見ようによれば退廃的なサイエンスフィクションの世界のようでもある。
     だが実際には二十四時間営業のホテルやコンビニエンスストアがあり、不法営業のバカラ賭博が行われ、性風俗店も休まず営業を続けている。だからこれも、視界に広がる範囲の出来事へ思考を巡らせているに過ぎない。
     胸ポケットから煙草を取り出し、そのうち一本に火を点ける。
     紫煙は風にあおられて見る間に溶けてしまう。その様子をただ眺めていると、背後の物音に気づくのが、ほんの少し遅れた。
    「すまない、遅くなった」
     彼は既にそこにいた。ほんの少しだが息が上がっている。海風と波音に掻き消され、声をかけられるまで風見の耳には足音も届かなかった。
     おそらく購入したてのグレーのシャツに白いパンツ。羽織っていたのだろうジャケットを手にしているのは、走ったために体温調節をしたのだろう。頭にはダークグレーのキャップが乗っている。
     再度時計を確認すると、ちょうど二十四時半を示していた。
    「いえ、時間通りです。ご無沙汰しております」
    「呼び出してすまない。明日は久しぶりの非番なんだろう」
     当然のように風見の明日の予定について言及される。東都から離れたとはいえ、情報収集において彼より優れた者もそうはいないだろう。ほんの数秒、風見が返答に窮したのを見て取って、降谷は話し出した。
    「君の予定を少し調べさせてもらった」
    「ええ、丸一日の休みは三週間ぶりです。このタイミングで良かった」
     彼が風見に今日の予定について打診があったのは三日ほど前のことだった。驚いたといえば驚いたのだが、降谷に会うのが嬉しくないといえば嘘になる。
     半年も風見の前から姿を消していた彼が、やっと姿を現すというのだから。
     開いたままになっていた車のウインドウから、褐色の細長い指に挟まれた真鍮の小筒が滑り込んできた。
    「ありがとうございます」
     吸ってもいないのに半分ほど灰になった煙草の火を消し、燃え残ったフィルターを筒の中に落とした。
     この場で降谷を待ちながら煙草に火を点けたことに、さして意味はなかった。
     昼間に空き時間を作って墓参りへ行ったのに、線香もあげられなかったことがどこか心に残っていたのだ。
    「この銘柄は、昔、人と会うときに持っていたものと同じものです。恥ずかしながら、当時は会話のきっかけづくりが苦手でして」
    「君はまあ強面だからな。不器用そうなのを好ましく思う人もいるだろうが」
    「おかげさまで今でも組対にはよく勧誘されます」
     はは、と声を出して降谷が笑う。
     風見の方は、内心でほっとしていた。今日降谷に会うのは嬉しくもあったが、どうしても気まずかったからだ。見越したように降谷が窘める。
    「風見。顔に出ているぞ」
    「申し訳ありません」
     聡い彼に、風見の心の動きが伝わらないはずもない。
     さらに言うなら、警察官で、探偵で、情報屋だ。今は「元」と言うべきか。
    「煙草はもういいのか」
    「吸うつもりではなかったので。後部座席へどうぞ」
    「ありがとう」
     後部座席の扉をあけて、運転席の斜め後ろに降谷が座った。彼を人目から避けることが習慣になっている。
     湾岸から高速に乗り、予約していたホテルへと車を走らせた。
     ベイサイド近隣で最もハイクラスなのはベルツリーホテルだったが、鈴木財閥の関連企業では既知の人物に出会う可能性が高い。それならと、念の為に外資が入っておらず、かつ夜景の見えるホテルを選択した。
    「湾岸近くにある新しいシティホテルです。滅多なことはないと思いますが、念のため足のつかない名義でチェックインを済ませました」
    「いや助かるよ。通信は繋がる環境だったんだが、必要最低限にしていたから」
    「旅館も良いかと思いましたが、目的をお伺いしていなかったので」
     彼が誰と宿泊する理由の想定は幾通りも可能だが、目的があって宿泊を決めたのだろうし、風見に宿泊先を選ばせたのも理由があるのだろうと思っていた。用途によっては風見に選ばせることすらしないはずだから、プライベートの可能性は低いと考えていた。
     深読みを知ってか知らずか、降谷はこう返した。
    「でも温泉か、それはいいな。今回は到着時間が遅かったから、ベイサイドのホテルでちょうどよかったけれどね。次があったら鄙びた温泉にしよう」
    「ええ。おすすめを探しておきます」
     駐車場に車を停め、周囲を確認してから後方を映すミラーに降谷の顔を確認して目礼した。
    「それでは、自分はここで失礼いたします」
    「えっ、帰るのか?」
    「必要があれば近くで待機しますが。何か不都合でもありましたか」
     振り返って目を見合わせると、一瞬アーモンドのような瞳がクヌギの団栗くらいまで成長していたように見えたが、はっきり確認する前に表情がストンと抜け落ちた。今や薄い唇をへの字に結び、眉などは吊り上がり気味の定位置でその形の良さを主張している。
    「用があるからとりあえず君も一緒に来てくれ」
    「承知しました」
     風見の察しの悪さに機嫌を損ねたようにも思われる。降谷は目も合わせずに颯爽と車を降りていった。怒ると怖いからな、と一瞬雑念が横切った瞬間「風見!」と名を呼ばれた。
    「はい!」 
     呼んだはいいが振り向きもしない。
     経験から言えば、おそらく降谷は本気で怒っているわけではない。いま不用意に軽口を叩けば心臓を凍り付かせるような言葉が返ってくる可能性もあるが、彼の激怒は生易しいものではない。これまで数々の経験に比べれば、先程一瞬目にした珍しい団栗のような瞳にも、音を立ててドアを閉める音にも、まだささやかな手心が感じられる。
     車を降りて、海辺の公園を一望しながらホテルの入り口までを歩いた。
     さすがに深夜ともなるとひやりとした外気に自然と身体が引き締まる。ホテルの入り口から園庭をそぞろ歩き、入り口が見えてくると深夜にも関わらず従業員が待機していた。
     ホテル内へは別々に入り、ベルパーソンの案内は遠慮して、エレベータホールで無言のまま合流した。
     瞬く間に高速で階数のボタンが光りながら昇っていく。東都の夜景など飽きるほど見ているはずなのに、ガラス張りのエレベータから見る景色には相応の趣がある。
    「スイートにエスコートしてもらうのは初めてだな」
    「いつもはエスコートする側ですからね」
     二十八階で降りてから部屋の扉の前で先んじてカードキーを差し、室内のライトを点灯してから降谷を通した。
     降谷は部屋の奥まで歩いて行き、閉められていたカーテンを開いた。
    「いい夜景だ。このホテルは確か和室のスイートもあるんだな」
    「ああ、気が利かなくて申し訳ありません」
    「いや、風見に選んで欲しかったんだ。初めての部屋だし、ここで良い」
     満足げな顔に一安心していると、ソファに座るよう促される。
    「喜んでいただけて良かったです。二人で泊まるには広い部屋ですね」
    「君は入ったことがなかったのか?」
    「本日、事前に来るまではありませんでした。職務上、予約をしたことが何度かあるくらいで」
    「そうだな、僕もプライベートでは今日が初めてだ」
     その言葉から、やはり今日はプライベートのつもりだったのかと認識を新たにする。
     とはいえ、降谷と風見とではプライベートの概念が違う可能性も十分にある。彼の右腕として機能した日々、彼の大切なものをひととき預けられ、おそらく降谷が風見に気を許していたであろうことは理解していた。だが、降谷が風見に見せている顔が、彼のすべてだと言い切れる自信はとてもない。
    「なあ、風見。酒を飲みたいんだが、久しぶりに付き合ってくれないか」
    「え、いいんですか? ただ、車で帰れないとなると自分も宿泊が必要なんですが」
     降谷は風見をちらりと見やってから、室内のミニバーに視線を走らせた。洗練された室内の一角に、小さなキッチンとバーが併設されている。昼間チェックインした時にいくらか手を加え、室内でも快適に過ごせるように準備を整えていた。この程度ならホテル側の準備でも可能だが、情報漏洩を防ぐ意味でも、中の準備は自分で行うようにしている。
    「実は、初めから君と飲みたいと思って部屋の予約を頼んだんだ。話しておかないといけないことがある」
    「ああ、自分しか泊まらないのでしたら、こんな豪華な部屋でなくてもよかったですね。そういうことでしたら、ご相伴に預かるということでいいんでしょうか」
    「ああ。君も、僕に言いたいことが溜まっているだろうしな」
     言われて一瞬考えていると、降谷が続けた。
    「図星か? 何でも言ってくれて構わないぞ。無礼講だ」
    「あ、そういうわけでは……」
     彼はフハッと声をあげた。先程の不機嫌はどこへやら、ほんのり上気して笑っている。
     先日電話が繋がった時にある程度はすっきりしてしまったのだが、この会わない半年の間、確かに酒でも飲まねばやっていられない、もし次にあったらどんな罵倒をしてやろうかと想像したこともあった。
    「では、ホテル内のバーへ? 室内にミニバーもありますが」
    「二人きりのほうがいいな。僕は誰かと飲むのは本当に久しぶりなんだが、室内の飲食物などは君の手でチェック済みなんだろう」
    「はい、それは。降谷さんのお好きなウィスキーなどを入れてあります。ここ最近は一緒に飲む相手もいませんでしたから、自分も飲酒自体が久しぶりです」
     ミニバーから酒瓶とグラス、用意されていた氷にツマミを持ってソファへと移動する。
    「実はツマミで置いたチョコレートは自分が用意したものです。ウィスキーに合いますし、美味しいんですよ」
     また君はチョコレートを食事代わりにしてるんじゃないだろうな、と睨まれるのを目をそらして躱しながら、アルコールとチョコの他、準備していたつまみを手際よく並べる。ふたつの酒を作って降谷に差し出し、二人は軽くグラスを掲げてどちらからともなく飲み始めた。
    「そういうわけではないんです。最近、よくもらうんですよ。お菓子の引き出しを持っているという課員から。チョコの味がわかるようになってきました」
    「ああ、確かに。しかも君は他の課員よりもお菓子をもらっていると聞いた」
    「それは、自分がチョコ好きだからだと思いますが。……そういうの、誰から聞くんですか」
    「風の噂さ。君が最近モテているようだと」
    「その風、どこに吹いてるんですかね」
     目の前のこの人がいなくなってから、風見はあれほどやきもきしていたのに、彼は抜け目なく此方の様子を伺っていたのだ。誰が情報を流したのか知らないが、判明したらただではおくまいと心の中で恨み節を吐く。
    「三十路も半ばでもうすぐ警部になる、強面だがそこそこ清潔感があって真面目な男を放っておけない人は多いんじゃないかな。世間ではエリートの部類だろう」
    「見合いの話なら何度かありましたが、ご存じのように自分は器用な人間ではありません。決まった相手がいることにして断っていますが、そろそろバレつつある気がします。降谷さんはどうやって断っておられたんですか」
    「僕のところにはそういう話が来なかったから、断ったこともないよ」
     返答は意外なものだった。敵が少ないといえば嘘になるだろうが、引く手数多でないはずがない。
    「僕はあちこちに潜入していたが、どこへ行っても半分はみ出し者だ。ちょっかいをかけたがる人間は多くても、人生を共にしたいのとは違うのさ」
     おそらくは、降谷がそのように仕向けているからであろう。彼にかかれば、人の心を思いのままに動かすことなど実に容易いということを、側で見ていた風見は知っている。質問しておきながら、おおよそ自分で答えを見つけてしまった。
    「さあ、何でも聞いてくれ。君には随分苦労をかけただろうからな」
    「そもそも、どうして何も言わずに退職されたんですか。潜られるなら、一言いただけると思っていました。ご無事で何よりですが」
    「君はさ、見た目よりだいぶ良いやつだから、モテるのも僕はわかるな。人が善い」
    「そんな誤魔化し方で騙されませんよ」
    「まあ、冗談だ。あっ、勘違いされては困るが、僕だって騙されやすそうな人間をわざわざ連絡係に選んだりはしない」
     つまりそれは公安に向いていないと言われているも同じだ。
     降谷にしてはフォローがぎこちない。君なら僕の言いたいことくらいわかってくれるだろ、と続けられたが、正直なところ少しはわかるだけに複雑でもある。 
    「正直に言って、ちょっとゆっくりしたかったんだ」
     あの組織の結末を見届けて、と降谷は続けた。
    「長い間潜入して多くを成すこともできたが、個人的に失ったものも数え切れないほどあった。いい加減に少し休めと言われたのもある」
    「それは、上からですか?」
    「そうだな。退職扱いになっているが、裏の管理官からの指示のようなものだ。物理的に休むように仕向けられた」
     何となく、想像はしていたから驚かなかった。
    「……そうでしたか。ゆっくりできましたか」
    「できた。ほとんど誰とも会わなかった。一部、プライベートセスナを持っている人間なんかが来たりはしたが」
    「南の島まで」
    「南の島まで。警察組織の人間には情報を漏らさないように言われていたから、一部の人間しか僕の居場所は伝えていない。工藤君は、その一部だな」
    「羨ましいです、本当に」
     どちらが、とは言わなかった。
     可能性を考えなかったわけではない。降谷が無責任に仕事を放り投げるはずもないし、実際ほとんどの仕事はうまく回るようにいつの間にか片付けられていた。安室の存在意義の終了とも重なっていたから、ポアロでそれとなく聞いたところによれば、突然ではあったものの送別会や別れの挨拶も行われていて、安室を知る人間のほとんどは彼が姿を消すことに疑問を感じていなかった。
     取り残されていたのは、むしろ本当に風見の感情くらいのものだ。
     がっかりではない。何故なら彼が生きて元気でいてくれたから。それだけで、本当に何もかも、どうでもいいような気がしてしまった。
    「でも、君と電話で話したとき、随分怒っていたからさ。謝りたかったんだ。半分は自分の意志ではないとはいえ、ゆっくりしたかったのも事実だし」
    「ご多忙でしたから、ゆっくりできたのは本当に良かったと思いますよ。島で何をされていたんですか」
    「自給自足で野菜を育てて、本を読んで暮らしていた。たまに来る客が、足りなくなりそうなものを持ってきてくれたりもしたからね」
    「他に誰か人はいたんですか?」
    「いや、基本的には無人島だね。厳密には僕の土地ではないんだが、書類上は今は僕のものになっている場所だ。詳しく話すと長くなるんだが、過去の潜入中に手に入れた、というか、土地転がしの結果、暫定的に僕の名義になっている」
     きちんと説明を聞いてみれば、疑問を差し挟む余地もない。上から言われたのであれば、おそらくいずれかのタイミングでその島を手放し、復帰するのだろう。潜入で姿を消したり死を偽装したりするだけでなく、警察組織において立場や所属を変えて復帰することはままある。
     伝えておいて欲しかったという気持ちがなくはない、けれど、やはり。
    「ご無事でよかったです」
     改めて、降谷が消えたと気づいた日の、胸から下が冷たくなるような、息が苦しくなるような気持ちを思いだしていた。
    「すまない。君には伝えておきたいとは思ったんだがな」
     その言葉が聞けただけで、 あんなに怒っていたはずなのに、すべてがどうでもよくなってしまいそうだった。
    「理解が及ばず感情的になってしまって、申し訳ありませんでした」
    「いいや。ちょっと嬉しかった」
    「嬉しかった?」
     思わぬ感想に首を傾げる。
    「風見がは人が善い上に真面目だよな。その人の善さがマイナスに作用しにくいのは、外見のアドバンテージも考慮されるよなあ」
    「外見、ですか」
     褒められているのには違いないらしいが、あまり嬉しくはない。
    「君は、死なない僕との連絡係として丁度良い人間だった。真面目で強くて頑丈だ」
    「あの……すみません、もう一度お願いします」
    「褒めているんだよ」
    「だって、真面目で頑丈な、都合のいい男ですよ」
    「あ、本当だ。随分だなこれは」
     わざとなのかうっかりなのか、降谷が声を出して笑った。とはいえ、降谷が酒の力を借りてまで、真剣に自分の思いを語ろうとしているのも珍しい。業務伝達時であれば、用がすんだら風見が話している途中でもいなくなるような人なのだ。
    「それに、君はおそらくこれまでに片手ではきかないくらい命を危険にさらされたことがあったが、大きな怪我もなく生き残っただろう」
     警備の現場で大きな爆破事件にも立ち会い、犯罪者と撃ち合ったこともある。刑事部ほど日々凶悪犯とのやりとりをするわけではないが、降谷の連絡係となったこともあって怪我をすることもあったが、かなりの数の修羅場を概ね無傷でくぐり抜けていたと言ってもよい。
    「人が命を喪うのは一瞬だ。そうした場面で幸運を引き寄せるのも、チャンスは準備された心にのみ降り立つ、というやつだな。意図しようがするまいが、生き残る者が偉い」
     パスツールの言葉にこの美しい訳をつけたのは研究者だったか作家だったか。風見も大学生の頃、原文を目にしたような気がする。
    「自分には勿体ないですね……、ストイックな降谷さんにこそ相応しい言葉だと思います」
     そこで、降谷は顔を上げる。
    「ああ、まあ、僕も生き残りだ。そうだな。僕だって、そうでも思わなければ」
     降谷はその続きを消え入りそうに小さな声で零し、気を取り直した。
    「持って生まれる外見の半分は運だが、外見の半分は君の努力と選択の賜物だ。これを言ったことがあるかどうか忘れてしまったが、僕は君の外見が好きなんだ」
    「それは……ありがとうございます。自分は正直に言えば、降谷さんの外見のほうが羨ましいですが」
     こんな整った顔立ちの人間に、面と向かって好きだと言われると、何だか尻が落ち着かないなと、風見はどこか冷静に自分の感情を俯瞰していた。常日頃から自分への好意すらも業務として推し量ってしまうから、未だに恋愛から遠のいているのかもしれない。
    「どう言葉にすれば伝わるかわからないんだが……僕にとって、君より信頼できる人間はこの世にいない、と言えばいいだろうか」
     嬉しいのは嬉しいし面映ゆいが、なかなか誤解しか生まない台詞だろうなとも思う。風見も羞恥を忘れて本音を言ってしまう。
    「有り難いです。自分は降谷さんに出会えたことで人生が変わりました。生きる速度も、起こる出来事の密度も」
    「それらは僕を媒介しているだけで、きっかけに過ぎない。君が持っている素養を引き出せる人間は他にもいる。いや、多分君は」
    「それでも自分は、降谷さんでよかったです」
     手元のグラスを見つめながら、普段はなかなか言えないことを言葉にする。
     これまでこんな他愛ない話を聞いてもらう機会もなかった。
     彼は風見を少なからず大切に思っているということのようだが、風見が自己申告しない限り、風見のことを振り返って状況確認もしなかったし、それができるほど暇でもなかった。
     半年近くも音信不通だった上、どういう風の吹き回しでこんな機会を設けられたのだろうかと思ったが、多分これは降谷の罪滅ぼしのようなものなのだろう。
    「あの」
    「君は今、恋人は?」
     何か聞こうと思う前に、質問される。
    「最近はめっきり縁がありません。上から吹いてくる風の噂でご存知なのでは」
    「でも君モテるんだろ。風の噂がそう言ってる」
     そういえばつい最近、似たような話をしたことを思いだす。工藤新一が、唐突に風見の恋愛について聞いてきた時だ。殺伐とした事件と向き合うのが趣味とすら見える彼らも、恋愛話に花を咲かせたりするのかと新鮮な驚きがあった。彼の場合はまだ十代だろうから、恋愛に一番興味を持つ時期なのだろうが。
    「おかげさまで忙しいんです。降谷さんが置いていかれた仕事も含めて」
    「ああ、それは悪かった。でも、何とかなってるだろう」
    「ええ、申し分ないですよ。引き継ぎがなくても問題ないほど成長させていただきました。本庁との連携も今のところスムーズです」
    「だろ? ここ数年で見違えるほど頼りがいのある男になったなあ、風見」
     あまりに当然のことのように言われて苦笑する。
     降谷が本庁に出入りしていた頃には、現場へ同行した後、ごくたまには二人で飲むこともあり、そのまたたまには恋愛の話をしたこともあった。職場の、知り合いの、潜入先の、その先にいる誰かの話に似せた自分の話をしたこともあった。
     だが、降谷自身の過去について尋ねることはなかった。彼の地雷を踏み抜いたら最後のような気がしていたのだ。
     風見がそんな過去を思い返していると、降谷が口を開いた。
    「実は、僕は好きな人と寝たことがないんだが」
     風見は、口に含んだ酒を吹き出しそうになるのを必死で堪えた。無礼講と言われたとはいえ、さすがに返答に気を遣う。
      空気を読んだのか意図的に読まなかったのか、降谷は時々ぽいと爆弾を放り投げてくる。零された一言に対して驚愕を隠すのが必死の風見をよそに、彼は大きな窓から見える夜の東都湾を眺めながらグラスに口をつけ、一口含んで飲み下した。
    「僕はおそらく君より性体験が多いと思うが、恋愛経験は君の方が多いんじゃないかな」
    「……そうですか。降谷さんは交際の機会が多そうなので驚きました。自分もそれほど多い方ではありません」
    「僕は真面目過ぎるとか堅物だとか言われるし、人を疲れさせてしまうみたいだ」
     それはわかります、と思ったが口には出さなかった。
    「知っていると思うが、僕にプライベートはほとんどなかっただろう。喜ばせるようなことをしてあげるのも難しい。僕のすべてを話してあげることもできない。だから一緒にいてもあんまり楽しい人間ではないんじゃないかな」
    「『安室透』は、話す相手にそういうことを感じさせないのが得意だと思っていましたよ。何でもできるんだな、と拝察していました」
    「僕も、安室を演じることが辛いわけじゃない。『彼』は人が好きだから。空元気でも笑っていれば元気になるというのは間違いじゃない。だけど時々は、自分を知っていて欲しくなる」
     職務柄、自分のアイデンティティを殺すことに躊躇いはない。降谷ほどでなくとも、風見ですら『作業』に入れば偽りの自分を演じることを生業の一部としているからだ。
     だが、降谷の場合は物理的に「降谷零」である時間が限られている。
     降谷があまりに特別な人間であるせいで、自分を消すことの苦しみを持っていることを忘れていたかといえば、風見は気づいていたし、理解していながら気づかないふりをしていた。むしろ、どうして声に出さないのかと思いながら。
     盲目に信じることを是としなければ、眠りから覚めることすら辛い日があることを、言葉でなく伝わる空気から察していた。
    「君はいつの間にか人に好かれることがあるだろう。例えば職場だとか、協力者だとか」
     言葉にはしないが、風見の胸のあたりを見ながら話す降谷に風見も頷く。
    「そういうこともありましたね。過去の話ではありますが……おそらく降谷さんはご存知なのでしょう。できれば、降谷さんのお話を伺っても構いませんか」
    「そうだな。僕は、子供の時は近くの病院の先生が好きだったんだ。綺麗で強くて優しかったな。あと、仲のいい友達を好きになったこともあった。長い付き合いだったし、お互いに憎からず思っていたと思うけれど、恋人同士とかそういうのではなかった。一緒にいるのが当たり前で、その居心地の良さが好きだった」
     随分とシンプルな、けれどおそらく誠実な答えが返ってきた。
    「じゃあ、その頃はプライベートがまだあった感じがしますね」
    「そうだな。やっぱり潜る任務が増えてからかな」
     彼は周囲が思うよりずっと孤独が深いとは思う。風見の立場で聞けることもそれほど多くない。彼が話したいと思うのなら、今までにももっと聞いてみてもよかったのかもしれない。
     「身体を繋ぐのは作業の一部だ。人間の精神はそうした根源的な欲求に支えられているから、そういう作業に心が痛むことはない。相手と自分のためにやることは変わらないから」
     返答に迷う告白の連続に、適切な言葉が見つからない、彼と話せばよく陥ることだ。あまりに自分とは立場も能力も違うので、彼が同じ人だということを思い出せなくなる時がある。
     だがきっと正解などない。相手を労る言葉を探すことは、幸せを願う祈りのようなものだ。
    「自分は、降谷さんがそういう、身体を使った作業をしないですむと良いと思っています」
    「最近はさすがにやってないよ。僕も三十を過ぎた」
    「年齢は関係ありませんよ。降谷さんが納得してされている業務に口を挟む権利はありませんが、身体を大事にしてほしいです」
    「病気のチェックはしているぞ」
    「そういうことではなくて。こういう考え方は古いのかもしれませんが、傷つけられているわけではないとしても、楽しんでいるのでないのなら、そういうことは好きな人として欲しいんですよ。あくまで自分の主観ですので、差し出がましくて申し訳ありません」
     降谷は、絞り出すように話した風見をじっと見つめていた。まるで、予想外の話を聞いたかのように呆けたような顔をしている。
    「どうして、そんなに意外そうな顔をされるんですか」
    「いや、そんな風に言われるとは思っていなかったんだ。好きでやっているわけではないが」
     落ち着かないのか、酒瓶を取って手酌で追加している。どうだ、と示されたので、風見もありがたくもう一杯受けることにする。
    「好きな人かあ……難しいことを言うな、君は」
    「ちっとも難しいことではないと思います。でも、今はそういう人がいないなら、相手を知る意味でのセックスに反対もしませんが」
     ふは、と降谷が笑う。
    「頑固親父みたいな顔してる割に、結構柔軟だな」
     グラスを掲げて眺めながら、姿勢を崩して足を組む降谷を、風見は久しぶりに見た。多忙で疲れ果てて気が抜けた時くらいしか、こんなに油断した姿を見せたりしない。
     今なら少しは突っ込んで聞けるかもしれない、と思う。
    「じゃあ、ずっともう好きな人はいないんですか」
    「そうだな、いないこともないんだが」
    「あの、もしかしたらと思うんですが」
    「うん?」
    「降谷さん、もしかしてあまり人に好かれていないと思っていませんか?」
    「ううん……そうでもない、とは思うが。上辺の好意を避ける癖があるせいか、人と深く交わることが少ないんだ」
    「それはそうだと思いますが。応援しているんですよ、あなたを。切り捨てずともそばに置く方法が、あなたなら見ようとすれば見えるはずです」
    「フォロワー……?」
     訝しげに首を傾げる仕草が、いつになく力が抜けて頼りなげに見えるのは何故だろう。全力で戦っても勝てる相手ではないのだけれど。 
    「なんだそれは。じゃあ、君も僕を応援してくれるのか」
    「それはしていますよ。いつでも。ご承知だと思っていました」
     嬉しいとも嬉しくないとも言わず、どこか見慣れない表情ではにかんでいる。
     ダメ押しで顔を覗き込んでみようとしたら、降谷の手が、持っていた自分のグラスをテーブルに置いて、代わりに風見が手にしていたグラスを奪い取っていった。
    「あ、」
     取り上げたグラスにたゆたう金色の液体を、喉を鳴らして一気に飲み干している。
    「それ、そんなに一気に飲むと回りませんか」
    「慣れている。ただ、しばらく禁酒していたから、少しは」
     まわったかも、という降谷は一般的に見れば酒にはかなり強いほうだが、今日は普段より多めに飲んでいる。職業柄、上司や部下と酒を酌み交わすような場面はなかなかない。降谷が飲んでいるのを見ることも滅多にないのだが、少し酔っているというのが更にレアである。
     そもそも、まだ瓶には酒が残っていたのに、わざわざ風見のグラスを取り上げたのもまったく脈絡がない。
     なんだか今日の降谷さんは少し可愛いのかもしれない、とは心の中だけで呟いたはずの声がうっかり口から漏れ出てしまい、間髪入れずに腹を殴られた。
    「酷いですよ……降谷さんの拳を腹で受けるのはキツいです」
    「僕はもう駄目だな。こんな無様な姿を君に晒してしまった」
     無様どころか、力強いパンチの威力もまったく衰えていない。
     けれど多分やっぱりいつもより、少しだけ、可愛げを感じるかもしれない。
    「どこがですか。降谷さんは、外見も内面も申し分なく、自慢の上司だったんです。察庁の抱かれたい男ナンバーワン殿堂入りらしいですよ」
    「何だそれは……抱かれたい男ナンバーワン……?」
    「噂ですよ。自分にとっても降谷さんは憧れでした。隙がないのが玉に瑕ですが」
    「風見、もしかしてお前酔ってるのか?」
    「記憶を飛ばす程ではありませんが」
     室内のミラーに視線を投げると、二人とも驚くほど赤い顔をしていた。酔いなのか感情の昂ぶりなのかわからないが、どちらにしろ酔っていないはずがない。なぜなら二人とも、そのつもりでこの場に臨んだからだ。
    「これは公安失格だ」
    「辞めた人に言われたくないですよ」
    「お前も僕に抱かれたいのか?」
    「いえ、それはないんですが」
    「よかった。僕はお前みたいなでかい男を抱きたくはないからな」
    「心外です」
     見合わせて、何だかすごく可笑しくなってクスクスと笑い始めると、どうしようもなく笑いのツボに入ってしまい、二人で爆笑する。紛う方もない酔っ払いである。
    「でも僕は君のこと好きだよ、風見」
    「はい、自分もです」
    「これは冗談じゃないぞ、本当だ」
    「理解しています。何年あなたの右腕だったとお思いですか」
     告白をするのに、酒を飲んで、かつて好きだった人の話から始めてしまうあたりが不器用の極みだが、その過去こそは、現在の降谷零を形作るものなのだろう。
     手を伸ばして降谷の頬に触れてみると、全身を強ばらせたのがわかった。右手で頬に触れ、薄くて小さな耳朶をそっと摘まんでみる。瞳が不安と期待で潤んでいて、風見の心がじわりと濡れて温もるのがわかった。
    「技術にはあまり自信がないんです」
    「いい。別にそこまで無理する必要はないぞ」
     どこまで行っても上司と部下でしかない会話に、色気が不足するのは否めない。
     きっと意を決した言葉であるはずなのに、先程の笑いがまだ腹の中に残っていてどうにも締まらない。
     背中から、なでるように腰に手を回す。女性の身体と比べようもないが、細身とはいえ毎日鍛錬を欠かさない、よく作られた身体だ。彼の造形は男の風見から見ても美しいと思う。
     良い意味でも悪い意味でも、他人に目をつけられやすい。好かれることも多いが敵も多い。人との距離を保つことは、そうした性質を持つ自分が身につけた最低限の保身なのだ、と降谷は言った。風見にも最近、その気持ちがわからなくもない。
     降谷零にも、素直になれなくて酒の力を借りることがあるのだなと思う。安室で居るときならどうとでもうまく取り繕うことができるだろうに、風見が触れると迷子の子供のような心許ない顔で、小さく震える。これは風見のことを想ってなのだという。
     こんなにも才気に溢れ何でもできる能力を持ちながら、他の多くの人が容易く手にするものを持ち合わせていない。
     不器用な本質が露わになるたびに、愛おしい人だと思う。
     手を伸ばして、堅くしなやかさのある身体を引き寄せる。全身がバネのようにしなやかな筋肉に覆われた屈強な男の身体だが、風見の体躯に比べれば少し小さい。抱かれるのは考えにくかったが、抱くことならできそうな気がする。
     脇のあたりから指で腰へむけて曲線をなぞると、少し鼻にかかった甘い声が漏れた。

       *

     二人で寝室のベッドに寝転がったまま天井を見上げて、降谷が言った。
     結論からいうとうまくはいかなかった。
    「勢いだけだとやっぱり難しいんだな。僕のせいでもあるんだから、そんなに落ち込まないでくれないか」
    「申し訳ありません……」
     失敗は成功の母でもあるのだと降谷は説いたが、穴があったら入りたいと思った風見は、上質な布団を頭から被りながら、辛うじて降谷の左手を握っていた。降谷はといえば、その手を振り払うこともなく、ベッドサイドに置いていたスマートフォンを手に取って、何やら片手でさくさくと操作した。
     事後にスマホをいじられると、さらにいたたまれない。
    「なあ、風見。覚えているか」
     スマートフォンの画面が、一枚のスナップを映し出した。夜の公園、満開の桜の下で機嫌よさげに笑っているのは、風見だ。
    「家の近所の公園で花見をしながら、初対面の男とビールを飲んでいた。その時、男はふざけて君の写真を撮った」
    「覚えています。これは、この間の」
    「そう、この前、工藤新一君が君に頼んで送らせた写真」
     スイ、と画面をスワイプして、写真を入れ替える。次に写っていたのは、スッキリとした切れ長の目の、少し童顔に見える若い男だった。
    「その写真を撮った男は、こんな奴だったんじゃないか」
    「ああ、そうですね。物知りで面白い男でした。近くに住んでいたのか、この写真を撮った後に何度か顔を合わせたんですが、そうですか。知り合いだったんですね」
    「君を僕の右腕にと、最後のひと押しをした男だ」
     画面を眺める横顔はあくまでポーカーフェイスを崩さないのに、薄い青の瞳が寂しげに揺れた。
    「降谷さん、次の桜は一緒に見られますか」
    「ああ、その頃までには戻れるだろうが」
    「それまでに自分も、降谷さんが住んでいた島に行ってみたいです」
     降谷は破顔して、じゃあ頑張って休みをとらないとな、と風見のふとんを剥ぎ取った。


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