未来を語ってキスをして やっほー、と言う軽やかで華やかな聞き覚えのある声に振り返った北添は、学校からの帰路にある公園に立っているろくえいかん高校の制服に、ちょっとだけ驚いて目を見開いた。
「待ち伏せ成功~」
「なんでこんなところにいるの。六頴館は今日卒業式じゃなかったっけ?」
「うん。さっき終わったところ」
卒業証書は親に渡したから手ぶら、と言う彼だったが、その手には公園入口にあった自販機で買ったとおぼしき二本のペットボトルが握られていた。
「だったらなんで?」
「逢いたかったから以外の理由、いる」
「いらない」
にっこりと笑った犬飼はベンチを指さして、座ろ、と誘う。北添は彼に従って、三門一高技術工作部寄贈と書かれたベンチに腰かける。そう言えばクラスメイトが公園にもっと休める場所があるといいから、って部活動で作ったと言っていたことを思い出す。
ありがとね~とベンチの腰掛け部分を撫でながら座る北添に、犬飼は分からないなりに微笑ましそうに見つめながら、隣に腰掛ける。
「はいゾエの分」
犬飼が両手に持っていたペットボトルの片方を差し出す。北添の好みを心得たイチゴミルクだった。
「本当にゾエさんを待ってたんだね」
少し温くなっていたけれど、まだ春浅いこの季節ではちょうど良かった。イチゴの香りをともなった甘い味が口の中いっぱいに広がる。
「もし気まぐれで違う道通ったりしてたらどうするの」
「その時はゾエの家まで押しかけるかなー」
「メールでもLINEでも入れてくれれば待たせなかったのに」
「おれ待たせられちゃってたの?」
「うん、教室でやる最後のボドゲ対決だって言って、隣のクラスでオージが水上くんとなんか変なチェスしてたからトーマくんと観戦してた」
「変なチェス? どんなの?」
「うん、罠マスとかあってそこを通過するとボッシュートされちゃうけど味方の駒があると無事だったりとか」
「へえ、ふたりとも得意そう」
「水上くんは『こういうのは犬飼がうまくやれそうや』って言ってたよ?」
「そんなことないけどな~」
とは言うものの、その豊富なトリオンゆえにA級時代はそれに頼みがちだった二宮をフルに生かすべく立ち回っていたのは、この傍らにいる青年だということを、同じくトップで争っていた部隊の副官だった北添ほど分かっているものはいないのではないかと、こっそりと自負している。
自慢の恋人で、ライバルで、仲間。
「でもさ、ゾエが三年ここを通って三門一高に行ってたんだなって眺めてるのも楽しかったな。おれも三門にすれば良かったかなー」
「スミくんはその制服似合うから、ダメ」
「ダメ」
「そうダメ」
わざとらしくすましてそう忠告する恋人に、犬飼はくすくすと喉を鳴らして笑った。今日でおしまいなのに、と。
「だから今日見せてくれてありがとうねー。結構ボロボロだけど」
「むしられまくったからね」
上着のボタンどころかカフスまで奪われた姿はなかなかのモテっぷりを示していて、それも当然だと北添は満足そうにうなずいた。
「ね、スミくん、もうすぐ遠征試験だけど、カゲのことよろしくね」
ザキさんにもののさんにも頼んでおくけど、と北添がぽつりと呟くと、犬飼はふふと笑みを含んだ。
「ゾエもそんなこと言うんだ」
「嫉妬した?」
「まさか」
と犬飼は翠色の瞳を丸くする。
「おれはゾエのそういうところも好きなんだから」
いい機会だからおれなりに歩み寄ってみるつもりだけど、と犬飼は視線を春空に投げうちながら告げ、
「それよりも十日以上一緒に過ごす一年たちがゾエにめろめろになったらどうしようっていう心配はしてるって言ったらどうする?」
「どうしようって? ゾエさんの気持ちを疑うの?」
北添は困ったように唇を尖らせる。だが犬飼は違うよ、といつもの少し癖のある笑いを浮かべる。「おれの素敵なゾエに」
犬飼は改めて彼に向き直ると、胸の前に手でハートのかたちを形作る。
「恋しちゃっても可能性はほとんどないよって。……どうしたの」
だが北添はまだ唇を不満そうに突き出したままで、さらにちょっとだけ眉をひそめた。
「ほとんどって酷いなー。ゾエさんがスミくん以外を好きになると思うの?」
「だってさー、何でも絶対はないでしょ」
ふわとまだ浅い春の、少しだけ冷たさを残した風がふたりの髪を揺らす。
「例えば、あの日まであの鳩ちゃんがあんな大胆なことをするとは思わなかったし」
「家出、したって聞いたけど」
かすかな間を置いて、そ、と犬飼は頷いた。
鳩原の「例の件」に触れると、犬飼の態度にはいつも少しだけためらいが含まれることに気づいたのはいつだったか。
もう一年が経つのだ、と隣のクラスの、おとなしげな少女の姿を思い浮かべる。制服姿も、ボーダーの隊服姿も。高いところに上って、標的を待つ彼女の横顔はいつもどこか遠くの何かを探しているように北添にも思えた。
彼女にまつわる事情には、自分たちが聞いている以上の、以外のこともあるのではないかとも。
だが二宮隊や師匠の東くらいには近しい自隊の狙撃手の少年だって、北添の知っている以上のことを知らない。
犬飼に詳しいことを聞き出そうとしてないのは、そうすればきっと困らせてしまうからではあったが、実のところそれは優しさからではなく臆病さゆえなのかもしれない、とも思ってはいた。
少しばかりの予測も実のところなくはないけれど。
「ね、影浦隊は遠征希望してるの?」
「ユズルが行きたいみたいだからね。ほら、雨取ちゃんのいる玉狛第二は遠征確定したから。隊単位で選抜するなら、近界の食べ物がどんなのか興味あるし、ゾエさんは行ってもいいよ。たぶんカゲも。ヒカリちゃんも好奇心旺盛だから行きたがるんじゃないかな」
「はは、やっぱ影浦隊はみんなお人好しで優しいね」
犬飼が言葉とともにぽんと投げた空のペットボトルは綺麗に、少し離れたゴミ箱の中に収まった。 その横顔は淋しくて、綺麗で。
だから。
「もしかしたら、向こうにいるかもね、鳩原さん」
北添の言葉にびくりと犬飼の肩が一瞬だけ波打ち、振り返る。
「だって向こうから来れるなら行けたっておかしくない。鳩原さんは弟さんをずっと諦めてなかったから」
「……そうだね。もしそうだったら、おれも鳩ちゃんをひっぱたく為に行きたいかな。辻ちゃんも氷見ちゃんも見えないところで泣いてたからね」
「……そうなんだ」
「うん、たぶん悔し泣き。何も話さないで勝手なことしたあの子にね。だからおれが叩いてあげるんだ。きっとふたりにはできないし、二宮さんはしないから。それがおれの役回り」
(たぶん、鳩原さんはそうされたほうが楽になるんじゃないかな)
「損だね」
「かもね」
「そんで優しい」
「そう?」
「でもゾエさんはそういうスミくんも好き」
「もっと言ってよ、ゾエ」
これから会えなくなる時間の分だけ、と犬飼は囁く。おれに勇気が出るように、と。
「好きだよ、スミくん」
「おれも好き。ね、キスして」
答えを待たず、二宮隊の銃手はちゅっと北添の、ボディ同様ふわふわとして柔らかい唇に自らの唇を押し当てた。
公園に人影はめずらしく見当たらない。でも通りか覗けば目についてしまうかもしれない。
でも。
北添は離れようとする犬飼の唇を追うように、深く重ねてやった。
まずは初日の分のキスだね、と心も体も大きくて寛い恋人はちょっと照れくさそうに微笑んだ。
ゾエから犬飼の呼び方はまだ出てきてないんだけど、「蔵っち」「カシオ」「オッキー」なあたりに王子やみんぐや小南からのもの+親しい当真や王子はカタカナ呼びなので、そこから王子が呼ぶ「スミくん」にしてみました。