ろくでなしたちの恋唄 どうしたの?
そう問われ、神田はかけてきた声の主へと振り返った。
これから車で家に戻るだけの彼女は、会った時ほど凝ったものではないけれど、それでも十分に艶やかにメイクされた顔でちらりと神田を横目で伺った。手にハンドルを握りながら。
(普通こういう《・・・・》時は男のほうが運転して送ってやるもんだろうけど)
そんなことを一瞬だけ考えたが、こういうのをアンコンシャス・バイアスって言うんだな、とすぐに我に返る。そして残念なことに神田が免許を取れるであろう頃には助手席に彼女を招く時間の余裕はないだろう。
「ううん、なんでもない。知った顔を見たような気がして」
「こんなところで? 六頴館高校の優等生くんたちもあなたみたいに結構遊んでるものだこと」
彼女からうっすらと漂うボディシャンプーの華やかな香り。おそらくは神田自身もまとわらせているはずで。
「んー、ちょっと違うし。同学年だけど同窓じゃないって言い方でいいかな」
「どのみち未成年、と。悪い大人としては耳が痛いかも」
と彼女はいっそ無邪気にすら見える顔で笑って、ゆっくりとアクセルを踏み込んで、二時間の休憩時間を愉しんだホテルの駐車場から発車させた。
あの日見た肩を抱かれてホテルのエントランスへと入っていく姿。彼が身を置く三門市高の学ランでもなく、まして自らが隊長を務める部隊の黒づくめの隊服であるはずもなかったが、ちらりと見ただけの横顔は確かによく見知った顔だった気がする。
「こっちはきみだったか、カンダタ」
その人物はいままさに神田が行く手を塞ぐかたちで応戦している相手でもあった。その手に携えていると、トリオンのかたしろを断つ武器であるスコーピオンがいっそヴァイオリンの弓のようにすら見える優美さで神田へと迫る。
「弓場さんじゃなくって残念だったな! 遊んで《・・・》るせいで読みが甘いんじゃないか、王子!」
利き手の空きスロットに気まぐれに入れているかもしれないトリガーに警戒しながら、斬撃から距離を取って応射。彼の中距離武器であるハウンドはいまだスコーピオンから切り替えられることはない。
「そっちこそぼくに夢中で後ろがガラ空きだよ?」
王子の右手が弧月を抜く。旋空警戒。
だが。
「知ってる」
揶揄る神田の応えるかのような王子の挑発に先んじて、背中にシールドを発生させる。追いついた蔵内が放ったハウンドの着弾が堰き止められてはじけて散るのはほぼ同時。
『ふふん、きみこそ年上彼女に色ボケしてるかと思ったけどそうでもなかったね!』
(言ってくれるっ!)
スリング《負いヒモ》に任せてショットガン型の銃トリガーを手放し、抜き放った弧月を、内部通話で甘く冷ややかに囁く彼に向かって振りかざした。
神田の携帯端末に王子からの連絡が入ったのは、試合を終え、弓場隊らしい短く簡潔な反省会の後に本部を出ようとした時だった。
『きみのそのすました顔にロゼベージュの口紅が残ってないか確認したいんだけど、時間はあるかい?』
そのメッセージを見て、は、と神田は笑う。
「歩きスマホたァ行儀が悪ィな。どうしかしたか?」
隣を歩いていた弓場がちらりとそんな神田を見やって訊ねる。
「すみません、王子からです。ツラ貸せって言われたんで俺はここで」
「そうか、また明後日」
ッス、と下げた頭をもたげた神田は、その頼もしく揺らがない背中を、もうすっかり日は落ち、それに合わせて少しだけ照明も落とされているというのに眩しそうに目を細めて見送ると踵を返した。
神田が王子隊の作戦室の扉を開けると、王子はミーティングテーブルに肘をついて、冊子をめくっていた。その傍らには駒が並べられたチェスボード。初期配置ではなかったが、白と黒、双方のビショップがまだ両方とも残っていて、中盤状態のようだった。
「やあ、カンダタ」
王子は顔を上げると、手にしていた冊子を閉じて卓上に置く。
「?」
表紙には、中学生の道徳―未来へと続く道―のタイトル。
向けられた神田の視線に、王子はにこりと笑う。
「カシオの忘れ物。懐かしいかい?」
王子の問いに神田は、いや、と首を横に振る。
「蔵内や犬飼と違って、俺は中学は二中だったからこれじゃなかったな」
「ああ、そうだったっけ。もっとも教科書は四年ごとに改訂するらしいから六頴中でも違ってるかもしれないね。弓場さんは中高六頴館だったよね、確かめてみる?」
樫尾の教科書を差し出す王子に神田は苦笑いする。
「そんなことそれこそ蔵内に聞けばいいだろうに。だいいち他人の持ち物を勝手に貸し出すなよ。授業で使う時に困るだろ」
「真面目な生徒会長くんもたまには忘れ物をして、隣のクラスに借りに行くなんていう青春のイベントのひとつを経験するのも青春のスパイスになると思うんだけどな」
「で、樫尾はどうしたんだ? それこそ忘れ物か」
「そう。保育園の妹ちゃんが熱が出夜の宝石の女王ちゃったみたいでね、お父さんは出張中で、お母さんも出先からすぐに戻れないとかで、由多嘉お兄ちゃんにお鉢が回ってきたわけ。この通り、教科書ばかりかチェスも指しかけで飛び出していったよ」
王子は優しい笑みを含んで告げる。
「ぼくもクラウチも兄弟がいないからそういうの、なんとなく羨ましいね」
そうだな、と神田もこくりと頷く。
「弓場さんのパウンドケーキも、小さい頃に弟さんや妹さんにおやつをせがまれて何か作れないか考えたのがきっかけだって言ってたな」
ほんと羨ましい、と神田は唇のかたちだけで続けた。
ねえ、カンダタ、と王子は上目遣いで神田を見上げる。その角度で神田はようやく椅子に腰かけることを思い出した。
きみは、と告げて、神田は盤上の白の僧正を摘まみ上げて軽く口づける。
英語ではビショップと呼ばれるその駒が、イタリア語ではalfiere――副官iの意味だということを思い出す。
「弓場さんを追いかけて六頴館高校にしたのかい?」
「まさか」
神田は即答する。
「まがりなりにも進学校の六頴館のほうが、将来へ向けての選択肢が増える。それだけさ」
それだけ、と王子は輪唱めいてどこか口ずさむように繰り返し、ふうん、とだけ付け加える。
キスを授けた僧正を盤上に戻してから、王子は腕を伸ばして真正面の神田の唇に指先を近づけた。あえて避けなかった神田の吻に王子の温度が触れる。
「ローズベージュの君、小林さんだったっけ。中央オペ室の」
「就活もあってもう辞めたって言ってたけどな」
「ふうんそういう理由で辞めたんだ。ボーダーは組織内恋愛は禁止されてないけど、やっぱり私情が絡むし上がいい顔しないからだとか思った」
「そんな理由だったら去年のうちに辞表出してるんじゃないかな」
神田の含んだ意を悟って、王子はなるほどとばかりに軽く肩をすくめた。
「それに俺とのは恋愛じゃないさ。期間限定の割り切った付き合い。来年の春にはここを出ていく同士の、な」
(そうさ、割り切れないのはむしろ)
王子の、夜の宝石の女王色の瞳が楽し気にそんな神田を映す。
「そういうおまえはどうなんだ?」
「ぼく?」
「そ。身長180センチオーバーのメガネをかけた、シュっとした感じの彼氏には見えなかったけどって話」
背丈は王子と変わらず、ちらりと見ただけだったが、こう言っては失礼だろうが人が好さそうなだけが取り柄のような三十路そこそこの男だった。
「そこまで分かりやすかったらつまらないだろう」
「つまるつまらないの問題かよ」
「須藤さんは優しい人だよ。ぼくが嫌がるようなことは絶対にしないから」
だが、どこか色のない笑いがその花のようなかんばせに添えられる。愛らしいさまでありながら、毒を帯びた鈴蘭のような。
だから。
「だからこそつまらないんじゃないか?」
「言ってくれる。それでこそぼくの見込んだカンダタだ」
わざとらしく大げさに王子は掌を上にしながら両腕を軽くもたげる。道徳を説く一冊を前にむしろ誇るように。
「そんなきみに免じてもうひとつ教えてあげる。須藤さんの下の名前、拓也さんて言うんだよ」
「たくや」
「例えば、ベッドで夢中になって呼び間違えても誤魔化せる。どう、これなら満足かな?」
囁く声は甘く、蜜にも似ていて。
だが可憐な花の下にも影は落ちる。その湖水よりも蒼穹よりも澄んだ瞳の底にも。
いっそ、気がつかない程度に愚鈍だったら嘲笑うだけで事足りた。いや、それともあえて気づかさせているのかもしれないとしたら。
「……ろくでなしだな、王子」
だから、これは神田が彼に捧げる賛辞だった。
「ありがとう。でもきみには負けるかもしれないね」
本当にしょうがない人だね、神田くん。
ローズベージュの唇で紡いだ彼女の顔が一瞬だけ王子に重なる。かつて、弓場の恋人であった彼女の。
「ね、カンダタ。いつか弓場さんに抱いてもらえたら、ぼくを抱いてもいいよ?」
はは、と神田は乾いた声で、しかし高らかに笑い。
「やなこった」
一言そう言い放ち、席を立った。そして盤の黒のポーンを動かして、ビショップの利きを通す。白のキングを逃がさなければチェックメイトだ。
王子はためらうことなくクイーンを犠牲にする場所へと動かした。
「残念。きっとぼくらはお似合いだと思ったんだけどね。ろくでなし同士で」
神田へと微笑む唇は朱など引いていないのに、呆れるくらいに艶やかだった。