嬉しいこと貯金「一虎くん、嬉しいこと貯金をやりませんか?」
千冬の家に住むようになって半年近く経ったくらいの頃、突然提案してきた。
「嬉しいこと貯金?なにそれ?」
貯金ってことは金を貯めるんだろうけど、嬉しいこと貯金とは一体どう言う物なのか。
「ルールはひとつ。嬉しいことがあった時にメモを書いてお金と一緒に入れるだけ。書く内容は何でも良いんです。良い天気だったとか、お客さんの対応が上手く出来たとか、嬉しいと感じた時に書くだけ。毎日じゃなくても良いんです。」
千冬はなんだか嬉しそうに見える。楽しいことを思いついた!というような子どもみたいな表情だ。
「……へぇ」
俺は、そんな嬉しいこととか無いんじゃね?と思いながら曖昧な返事をした。
「金額はそうですね、嬉しい度合いによって変えても良いんですが、1回100円にしましょうか。もし毎日1回貯金したら1年でそれなりの金額になるわけですが、月に3千円ずつただ貯金するのとは訳が違います。」
ここからが大事なんだと言わんばかりの息巻いた様子に、ちょっと笑ってしまった。
100均で買ってきたという、金色と銀色の「10万円」とデカデカと書いてある円柱形の缶貯金箱を2つ出してきて、俺はトラ色の金で、千冬は金よりは冬を連想させるであろう銀を使うらしい。
ちょっとこじつけですけどね、なんてはにかむから、いいんじゃね?と返しておいた。
「来年のお正月になったらこの貯金箱を開けて、去年、というか今から数ヶ月間でどんな嬉しいことがあったのか思い出して、貯まったお金は自分へのお年玉にします。」
「面白そうじゃん。やってみる。」
とは言ったものの、嬉しいこと。なかなかに何を書けば良いのかわからない。千冬が経営するペットショップで働くようになって仕事はそこそこ慣れて来たけど、前に例えで千冬が言ってたみたいに接客が上手く出来たと思えるほどではまだないと思う。天気が良いったって、そんなの嬉しいかって聞かれたら、まぁな、くらいのもんだ。東卍の連中くらいしか連絡を取らない俺は頻繁に遊びに行くことは無く、仕事とこのマンションの往復が生活のほとんどなわけで。
「俺が嬉しいって思うことってなんだ?」
楽しいことじゃなくて嬉しいことなんだよなぁ。案外難しいな。こんな感じで2週間が過ぎてしまった。俺の貯金は0のまま。千冬はいくらか貯金できているのだろうか。なんとなく気になって銀色の貯金箱を持ち上げた。
カタカタ
少し振ってみると数百円入っているような音がした。
「まじかよ、千冬の嬉しいことってなんだ?」
千冬も俺と同じような生活リズムなのに、もう何個か嬉しいことがあったてことか。
「貯金、捗ってますか?」
千冬に声をかけられて肩が跳ねた。
振り向くと風呂上がりで髪をタオルで拭きながら近づいて来る。
「いや、何書いていいかわかんねぇからまだ1回も貯金してない。」
千冬の貯金箱を持ち上げたことを怒られるかと思ったけど、平気そうだ。俺は小さく胸を撫で下ろした。
「んーじゃあ今日のことを思い出して、何かありませんでしたか?」
「今日は仕事してただけだしな。あ、でも新顔の子猫がちゃんとミルクを飲めて少し安心したわ。」
今日1日の行動を思い返しても特に嬉しいことは無かったけど、印象深かった出来事といえばこれだ。
「ではそれを書きましょう。はい、メモ。できたら今日の日付も入れておくと良いですよ。」
千冬が一緒に考えてくれなかったら思い出さなかったかもしれない。なんだかんだ動物たちが快適に過ごしているのを見るのは好きだ。逆に調子が悪そうにしていると、今にも消えてしまうんじゃないかって心配になる。
『4月18日 新顔の子猫がミルクを飲んだ』
俺は千冬に言われた通り日付も書き込んでメモと100円玉を貯金箱に入れた。
コトン
「楽しみですね。これからどんどん貯金していきましょう。」
千冬は嬉しそうに笑っている。そんな千冬を見て俺は、嬉しかったことを考えるのは難しいけど千冬の機嫌が良いからまぁいいかと思った。
最初は動物たちのことが多かった。なかなか家族が決まらなかった子犬にお迎えが来たとか、俺を敵視していた猫が威嚇しなくなって来たとか。
『6月12日 千冬が作ったハンバーグが美味かった』
チャリン
何の気なしに千冬のことを書いた日があった。それからは千冬のことを書くことが増えた気がする。
『6月25日 雨に降られて帰ったら千冬がドライヤーしてくれた』
『7月7日 千冬が七夕の短冊に動物たちと俺の幸せを書いてた』
音楽番組を見ているとカウントダウンが始まって0時になった。
「あけましておめでとうございます。一虎くん、今年もよろしくお願いします。」
「千冬、あけましておめでとう。こちらこそ今年もよろしく。」
出所してから初めての新年の挨拶だ。こんな風に誰かと暖かい場所で年越しをするなんて想像してなかったから不思議な気持ちになった。千冬には感謝しかない。
「早速、あれ開けましょうか!」
キラキラした目で俺を見てから、棚の上に移った視線を辿ると貯金箱が目に入った。
「え、いきなりかよ。なに千冬楽しみにしてたん?」
平静を装い聞いてみる。実は俺も数日前からソワソワしていた。金額的にはそんなに入っていないはずなのに、ちょっとしたタイムカプセルを開けるような気分になっていたのだ。
「はい。早く0時にならないかなって。開けてもいいですか?」
いいですか?と聞きながらすでに貯金箱をこちらに持って来ている。
「いいよ、俺も楽しみにしてた。どっちのから開ける?千冬のは結構貯まってそうだったよな。」
「そうですね、じゃあ少なそうな一虎くんのからにしましょうか。」
キッチンから一緒に持って来ていた缶切りを俺に渡そうとしてくるから、千冬に開けてと頼むと「よーし!」と言いながら腕まくりしてる。気合い入ってんなぁ。
ガリガリガリガリ
金色の缶の上部分が開いたと同時に千冬は貯金箱をひっくり返した。
数えると47枚の100円玉とメモが出て来た。
「おお、結構ありますね。まずは日付順にしちゃいましょう。4月、5月」
メモを順番に整理していき、綺麗なひとかたまりに纏めている。
「読んでいいですか?」
読む気満々なくせに一応許可を取ってくる。頷くと大切そうにメモに目を落とす。
「4月18日 新顔の子猫がミルクを飲んだ。4月30日 なかなか売れなかった子犬に家族ができた。」
ひとつひとつ丁寧に読み上げていく千冬の横顔をぼうっと眺めていた。そう言えばそんなことがあったなと思い出しながら。
「6月12日 千冬が作ったハンバーグが美味かった。おっ、俺が出て来た、ありがとうございます。ハンバーグ気に入ってましたよね。近いうちにまた作りましょうね。」
「やった!」
感想を伝えたり、この時はさ~なんて思い出話をしたりしながらあっという間に47枚を読み上げてしまった。
「次は千冬の番だな。」
この嬉しいこと貯金を始めてから、千冬が何を嬉しいと感じるのか気になるようになっていた。
「はい、俺のも開けますね。」
「4月4日 一虎くんが嬉しいこと貯金をOKしてくれた。4月10日 棚卸しの効率の良い方法を思いついた。4月18日 一虎くんが初めて貯金をした。」
72枚あったメモを順番に読み上げていく。さっきと同じように思い出話しをしながら。聞いていると半分以上、俺のことのような気がするからだんだん恥ずかしくなって来た。
「お前さぁ…」
「9月16日 一虎くんの誕生日。喜んでくれた。」
俺の言葉を遮って千冬が読み上げを続ける。そう、誕生日にケーキ食ったのなんていつぶりだっただろうか。誰かに祝ってもらえるなんて思ってなかった。ましてや千冬に。
72枚全てを読み終えると千冬がゆっくりこちらを向いた。
「一虎くん、気づいてますか?一虎くんのメモ、4月より5月、5月より6月、だんだん数が増えてるんです。嬉しいと思うこと、ちょっとずつ自然に意識できるようになっていると思いませんか?」
そういえば。いつの間にか今日は何かあったかなって考える癖がついていた。
「俺はね、一虎くんが楽しいこと、嬉しいこと、素直に喜んで良いと思うんですよ。もう罪は償った。もちろんやったことが消えるわけではないから一生背負って行くって思ってるんだろうけど、俺はこれからの一虎くんには楽しいことや嬉しいこと、幸せをちゃんと感じて欲しい。」
千冬はじっと俺の目を見つめている。その表情はとても柔らかくて、その瞳に吸い込まれてしまいそうになる。心臓がぎゅっとなった。なんだこれ。
「でも、俺は、」
「少しずつで良いんです。こんな風に小さな出来事を素直に喜ぶこと。受け入れること。一緒にやっていきたいです。」
なんだよ、新年早々泣きそうじゃねぇか。何も言えなくて俯いてしまう。
「一虎くん?」
「ありがとう千冬。俺、いいのかな。」
千冬の顔を見た時には涙が溜まっていた。溢れないようにするので精一杯だ。
「いいんですよ。今年もやりますか!嬉しいこと貯金!」
そう言って立ち上がった千冬は自室に行き、金色と銀色の10万円貯金箱を抱えて戻って来た。
「なんだよ!用意してたのかよ!」
二人で笑い合う。ああ、なんて幸せなんだろう。
「一虎くん、このお年玉は何に使いたいですか?」
「そうだな、なんか美味いもん食いたいな。」
何がしたいとか何が欲しいとかあまりない俺は、迷わずに答えた。
「じゃあ、俺のと合わせてカニ買いましょうか!鍋しましょうよ。」
両手でカニの真似してピースサインを作る千冬を見ながら、思わず両手を万歳しながら喜んでしまった。それから二人で飲み明かし、明日は店の様子を見に行った後は寝正月になるんだろうなと思いながらゆっくり目を閉じた。
『1月1日 千冬にありがとうを言えた』
『1月1日 一虎くんがありがとうと笑った』