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    yukisane0804

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    yukisane0804

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    医者?×アンドロイド?というプチSFチックなパロディのフィガファウ小説です。いつかR-18になるかもしれない。ちょこちょこ加筆して本にできたら良いな。誤字を見つけたら教えてください。
    9/29 序章が書き終わりました。

    #フィガファウ
    Figafau

    AndL.(序)  一


    ───夢とは何と不思議なものだろう。肉体の五感なんてそっちのけで、温もりや暗さを信じ込ませるのだから。

     意識を浮上させ、目を開けるより先にふとそんなことを思った。夢の中では感じなかった冷たさを、自分の背中から感じたからだ。
     目覚めのとき、普段わざわざ意識しない哲学的・倫理的な論点が突然思考の中央に躍り出てきて僕の思考を鋭くさせることがある。夢の中で何かの学問のエキスパートになって呪文のように学術を諳んじる夢を時折見るが、その延長のようなものだろうか。聡明な気分を半ば引きずりながら現実へのトンネルを潜り抜けているなら、かえってぼんやりと鈍った思考の寝起きよりも寝惚けていると言えるかもしれない。

     寝惚けた思考を振り払って目を開けると、強い光に視界が白くなる。思わず顔をしかめると、光源と僕の間に割り込むように男が顔をのぞかせた。
    「どう、気が付いた?」
     横たわる僕を見下ろすその人は、帽子を脱いだ後みたいに髪を乱し、顔の下半分をマスクで覆っていた。白い額と涼しい目元からは叡知をひしひしと感じるが、見知らぬ男だ。怪訝な気持ちで男の肩越しに見るとそこには知らない天井があった。そういえばさっきから背中が冷たいが自室のベッドに寝ていて冷たいはずがない。それにソファのような固さがある。

    (ここはどこだ。目の前の男は誰だ。誘拐?この男から距離を取った方がいいのか、それとも刺激しないようじっとしていた方がいいのか……)

     僕の中にある動揺など気にも留めていないのか、男は「よかった。一先ず覚醒はクリアだね。話すことは可能?」と安堵の息をつきながらマスクを外す。
    「と言っても、何を話せばいいか分からないか。初めまして、俺はフィガロ・ガルシア。きみは?」
    「あなたは何者だ。これは一体どういう状況だ。誘拐?」
    「うん、素晴らしく知性を感じる回答だ。発声機能と思考回路の確認ができて何より。それで、きみの名前は?」
     男の口元は柔和は笑みを浮かべているが、どうやら僕が質問に答えなかったことが気に障ったらしく声の温度がわずかに下がった。誘拐犯にしろそうでないにしろ、機嫌を損ねると厄介そうだと判断し、僕は渋々ながら「ファウスト・ラウィーニア」と名乗った。
     すると、彼は目を細めて笑った。父性と神性を混ぜたような笑みだ。親しみと完璧なものを目にしたときに感じる緊張が僕の中に同居して、肩がこわばるのに胸が緩むような、おかしな気分がした。
    「ああ、名前も言えたね。それだけ意識がはっきりしているならきみの状況を説明してあげよう。理解できすぎると心には悪影響かもしれないけれどね」
     男…フィガロは照明を弱めるとベッド横にあるボタンを押した。ベッドからは機械の稼働音がし、滑らかに椅子に形を変えていく。歯医者のような設備だと感じたが、まず間違いなく歯医者ではないだろう。口をゆすぐための流しが傍らについていなかった。
    「あまり周囲を見ない方がいい。部屋自体に見られて困るものがあるわけじゃないけれど、何かに反射する自分の姿を見るときみ自身が大きなショックを受けると思う。フローリングでも綺麗になっていれば鏡のようになるからね」
     フィガロは言いながら壁に置かれた棚の引き出しを開けると薄くて小さな手帳を取り出して僕に寄こした。僕の学生証だ。
    「ファウスト・ラフィーニア、十九歳。フォルモーント大学二年生。保険証が財布の中にあるのに学生証も重ねて持ち歩くなんて、よほど真面目か学割目当てかな。家族旅行の行き先が美術館だった?」
     主旨の分からない警告と状況の説明をされているとは思えない口上に不快感を募らせ、自力で思い出せることがないかと思考を巡らせる。
     彼の言う通り、僕は家族旅行で美術館に向かう途中だった。大学進学以来一人暮らしをしている僕は夏季休暇を利用し、現地集合で家族と旅行を楽しんでいた。海添いの山道を母の運転するレンタカーに乗ってとある美術館に向かっていたのだ。僕は妹と後部座席に乗っていた。妹は美術館で見たものを自由研究にまとめるのだと意気込んでいた。きっと久々に会った兄である僕にしっかりしているとことを見せようとしたのだろう。僕は微笑ましく誇らしい気持ちで彼女と談笑していた。そして……──

    「きみの乗った車は不慮の事故に遭った」

     僕の思考を遮るようにフィガロの声が耳に入った。もしかして、彼が口を挟まなくても思考は立ち止まっていたかもしれないけれど。

    「俺は偶然そこに通りがかった。酷い有様だったけどできる限りのことをしたよ。ちょっとやりすぎてしまったかもしれないけどね」
    「酷い有様って何のことだ。僕はこうして……」

     僕は目覚めて初めて自分の手を見下ろした。見慣れた肌の色がそこにあったが、見逃すことのできない違和感がぞわりと背筋を駆け上がる。
     爪がなかった。指紋がなかった。血管の色が見当たらなかった。毛穴、ペンだこ、ささくれのあと…生きていれば何かしら残るはずの痕跡が一切ない、滑らかすぎる皮膚があった。

    「きみは頭部以外ぐちゃぐちゃだったよ。だから俺が所有しているアンドロイドに脳を移植した。まあアンドロイドっていうのは語弊があるけど詳しく説明する気はない」

     驚いて見上げる僕を無視してフィガロは言葉を続ける。

    「今はありあわせのシリコーン樹脂で皮膚っぽいものをきみの機体にかぶせてある。だからまじまじと見ない分には何とか正気でいられるだろう。でも顔はまだ無機質で無表情なアンドロイドだ。だから鏡を見ないで。きみがよっぽど愚鈍じゃない限り、正気じゃいられないだろう」
     先程からことごとく僕の反応を無視する男だと思っていたら、どうやら僕には表情がないらしい。なるほどと思うと同時に、アンドロイドに移植するって一体何なんだと根本から理解できない気持ちがない混ぜになる。やっぱりフィガロはそんな僕に気づくことなく、言葉を重ねた。
    「そんな状態で起こすなって?いや、造形を作り込む前に動作確認をしたかったんだよ。でも大丈夫、俺は世界一の名医だ。ゆくゆくは網膜認証もすり抜けるくらい元通りの顔にしてあげるよ」
     名医?アンドロイドに脳移植するのは医者の仕事か?
     僕の育ちがあと少し悪かったら大声で叫んでいただろう。しかしそれよりも一つ、震える声が溢れた。フィガロはそれに気づくと、大切なものに触れるように両手で僕の頬を包み込んだ。
    「それに関しては、今は忘れなさい。表情の機能をつけたときに教えてあげるから」
     悲しめないのは、涙をこぼせないのは辛いだろうと、彼なりの気遣いが滲んだ言葉だった。ただそれは、僕の「家族は?」という言葉に対して、十分すぎる回答だった。

     彼は敢えてなのか、それともやっぱり僕に表情がないからなのか、マイペースに会話を続けた。
    「きみには先述の通り、これから人らしい肉体を与えたり、詳細な機能の確認をしていく予定だ。必然的にここで暮らしてもらうことになる。そんな中、きみをアンドロイドとして扱うのは本意ではないけれど、そうも言っていられないことがいくつかある。そうだね、例えば……」
     フィガロはつらつらと指を折りながらいくつかの事象を並べ立てたが、そもそも自分の肉体がアンドロイドになったことを現実として受け入れられない僕は、彼の顔をじっと観察していた。

     フィガロは三十代に見えた。(言動や体の細やかな癖を見るともっと年上のような感じもしたが。)皴や染みのない肌は白く透き通っていて化粧水の広告にでも出られそうなほどだが、いわゆる若々しいハリがあるという感じではない。かといって、長い睫毛の影が頬に落ちているのを含めても、顔色が悪かったり不健康さを抱えているようには見えなかった。
     癖のある髪は少しくすんだ青で、毛先に向けて淡い色になっていくのが冬の空を見上げるみたいだ。瞳の緑は寒さを生き延びるしたたかさと賢さを抱いた樹木のようで、彼自身が纏う聡明で涼しい雰囲気も相まって冬の美しい景色を集めて擬人化したように感じた。
     帽子を脱いだ後みたいに髪が乱れているのがもったいないが、恐らく医療ドラマの手術よろしく帽子をかぶって僕への「施術」をした後なのだろうと思うと、指摘するのも不躾な感じがして口ごもる。
     これまで人の美醜など頓着せずに生きてきたのに、その僕がこうまで思うのだ。肉体だけでなく心までも作り替えられてしまったような違和感がある。

     緑の瞳が指先を離れて僕を向く。
    「聞いているかい、ファウスト?」
    「あ、いや……」
    「見とれていた?なんてね。ぼんやりしているみたいだ。その機体での活動には慣れないだろうし、もう横になる?」

     彼は微笑んだまま僕の目を覗き込んだ。見つめ返しそうになって顔をそらす。フィガロの瞳にうつった自分の姿を見てしまったらと思うと恐ろしかったからだ。不愛想な仕草が後ろめたく、しかし釈明するのもどうかと思って、意図して気遣いの言葉を返す。
    「僕は平気だ。あなたこそ、まさかアンドロイドに脳移植することに慣れているとは言わないだろう?」
    「あはは、そうだね。こんなに骨の折れる患者は初めてだ」
     フィガロは気を悪くした様子もなく、肩を揺らして笑った。何が面白いのかは分からないが、無意識にこわばっていた肩の力が少し抜ける。

    「疲労……というと本当は語弊があるんだけど、それがないなら何よりだよ。何かしたいことはある?動作確認の延長みたいなものだから、できるだけ細やかなことがいいな」
     彼は僕の腰かける椅子の手すりにもたれるようにすると気安く、親しげに言った。僕は少し悩むと、彼に手を伸ばす。やはり視界に入ると強烈な違和感が襲い来るが、アンドロイドの手で僕はフィガロの乱れた髪を直した。フィガロは目を丸くした。そうするとあどけなく見えて、三十代どころか二十代後半にも見えて不思議な気持ちになる。
    「やたら見つめられるなとは思っていたんだよ。そんなにひどい乱れ方だった?」
    「いや、これ以外には思いつかなくて」
     余計なことは考えまいと、心が感覚を閉ざそうとしているのだろう。そう考えていると、フィガロも同じことを言った。
    「今の君の状況を思えばそれも健全な反応かもしれないね。しなくてはいけないことは俺から提示してあげるから、しばらくは心を空っぽにして過ごしなさい。それか……そうだな、美しい景色を見るとか映画を見るとか、楽しいことを心に詰めていくのもいいかもしれない。ファウストの好きなものは?」
     例えば同世代の友人だとか、バイト先の先輩だとかに告げるなら普段はもっと躊躇ったり言わなかったりするものなのだが、心を空っぽにと言われると今その隙間に入れたいものは猫だった。躊躇いなく僕は彼に告げる。フィガロは変に微笑ましいそぶりを見せたり揶揄ったりはせず、真面目な顔で数秒沈黙した。猫アレルギーか猫嫌いだろうかと考えていると「万が一猫の毛が絡んで機体に不都合が出ると困るから、しばらく実物と触れ合うのは保留でいい?猫が出てくる動画をピックアップしておいてあげるよ」と言った。エアコンやお掃除ロボットが猫の毛で動かなくなったという話はそうそう聞かないから心配のし過ぎではないかと思ったが、(こういう僕自身も大概そうだが)目の前の彼はあんまり動物に触れあうのが好きそうなタイプには見えない。
     脳をアンドロイドに移植できるような並外れた知識を持つ人物が、猫に対して「毛が付く」というふんわりして偏ったイメージを持っているのかと思うと、返って僕の方が微笑ましい気持ちをわずかに抱いた。

     フィガロは僕が提案に了承するとにっこりと微笑んだ。
    「猫の動画探しは俺の知り合いの子たちに頼もうかな。可愛いものが好きな子たちがいるんだよ。いいものがあれば起こしに来るから、それまで寝ていたらどう?」
     僕は緩慢にうなずいた。目覚めてから様々なことに緊張と弛緩を繰り返していて、いよいよ疲労に自覚的になっていた。
    「俺が訪ねるより先に目が覚めたら俺の名前を呼んで。できるだけ早く駆け付けるから。絶対に一人で部屋の外に出ないこと」
     できるだけというのがどれくらいのものかは分からないが、医者と言っていたのでそれなりに忙しいのだろう。僕もしばらくはアンドロイドになった僕自身を見たくなかったので、何時間でも待つ覚悟でそれに頷いた。しかし彼は不思議と眉を下げて首肯を返す。
    「外から起こすことはできるけど、寝かしつけることは難しいんだ。悪いけど自力で眠る努力をしてね。邪魔にならないよう、俺はもう行くから」
     彼が椅子を操作すると、稼働音と一緒に椅子はベッドになっていく。先ほどの逆再生だ。フィガロはベッドの形になったそれが完全に停止したのを確認すると、「おやすみ」と一言告げて部屋から出て行った。椅子だかベッドだかはハイテクだし、僕が彼を呼べば彼が来るというのも恐らく技術的な仕組みがあるし、何より僕の体はアンドロイドなのにその扉は鍵のない木製で、何だかアンバランスさがおかしかった。





     あんたって意外と図太いよね。そういうところも好きだけどさ。

     目が覚めてそんな友人の言葉を思い出した。確かに、もしかしてその友人ならこの状況下で眠りにつくということはできなかったかもしれない。だが彼の繊細さならこの状況の僕に向かって「図太い」とは言わないだろうなとすぐに思った。彼の声と言葉を借りて、僕が僕自身に図太いと思っただけのことだ。

     瞼を持ち上げるとやはり知らない天井や壁があった。傍らに人の気配がある。彼だろうと思って首だけで向けば、やはりフィガロが長い脚を組んで椅子に腰かけていた。手元では何かタブレットを操作している。事務的な感じではなく、親しみを持った眼差しを画面に向けているから、猫の動画を探してくれた知り合いと連絡を取っているのかもしれないと思った。
     彼は別に驚いた様子はなく、ゆったりと僕に顔を向け「起きた?」と改めて微笑んだ。
    「ああ、すっかり寝ていた。起こしてくれてよかったのに……」
    「猫の動画だよって?急かすことじゃないだろう」
     フィガロはおかしそうに笑った。忙しいだろう医者の身の上を思って言ったのだが、同も伝わっていないらしい。改めて伝えることでもないが代わりに返す言葉もないから少し戸惑う。お互いに何が悪いということはないのだが、もしかしたら会話のテンポの噛み合いが少しずれているのかもしれない。彼はずれを大して気にもしていないのか、タブレットを小脇に抱えたまま、部屋の隅から何かの機械をキャスター付きの小さなラックに乗せて持ってきた。就寝前にはなかったものだから、僕が眠っている間に持ってきたのだろう。
    「僕はどれくらい寝ていたんだ?」
    「さあ、俺が部屋を出てからどれくらいの時間をかけて眠りについたか分からないから何とも。俺が部屋を空けていたのは4時間くらいだよ。ちなみに今は22時」
     フィガロはタブレットがあるにも関わらず、わざわざ腕時計を確認して時間を告げた。尤も、僕自信もスマホを持ちながら腕時計を使う人間ではあるが、周りには珍しいので少し気になった。
    「もう深夜じゃないか」
    「君が学生にしては健全なタイムスケジュールで生きてきたのがよく分かる発言だ。サークルで飲み会なんかはしなかった?」 
    「今のは一般的な感覚の話だ。ちゃんと夜更かしくらいできる」
    「ちゃんと、ね。まあ深夜にしろそうじゃないにしろ、さっきまでぐっすり寝ていたんだ。朝までおとなしく寝ていられるなら猫の動画は明日にするけど、どうする?」
    「あなたは僕に付き合うんだろう?」
     僕は彼の持つタブレットを指さした。
     彼が持ってきた機械は近づいてみるとプロジェクターだった。タブレットの画面は暗転すると鏡のように姿を映す。だからタブレットでは僕に動画を見せられず、彼がタブレットでプロジェクターに流す映像を選ばないといけないのだろう。フィガロは眉を下げて笑うと「正解」と茶化すように言った。
    「でも大した夜更かしにはならないよ。俺は結構遅くまで酒を飲むことがよくあるし、そうじゃなくても夜の過ごし方には詳しい方さ」
     遠慮したほうがいいんだか、悪いんだか。わずかに悩みながら彼の瞳を見ると、誤魔化すようにそれはタブレットの画面へと伏せられた。
    「まあいいじゃない。夜更かしするかどうか、猫の動画を見ながら考えれば」
     端末を操作するとプロジェクターはパッと壁を一面明るく照らした。タブレットとの通信が始まったらしい読み込み画面の後には、SNSのグループ会話の画面が映った。
     会話やスタンプに紛れて動画サイトへのリンクがいくつも送られてきている。会話を盗み見るのは忍びないと思い顔をそむけるが、フィガロはまるで気にしていないようで寧ろ「どのタイトルのリンクが気になる?」と尋ねてくる始末だ。リンクの下についたサムネイルだけに努めて意識を向けて見てみれば、子猫の動画が多い。可愛い。
     フィガロは僕があまりに返事をしなくて焦れたのか知らないが「そんなに悩むならやっぱり夜更かしして全部見よう」と言った。ベッドを操作し椅子にすることなく、僕の手を引っ張り上げて横たわっていた僕を座らせる。間に一人くらい座れそうな距離を空けて彼も僕の隣に座ると、いよいよ動画を流し始めた。
    「座っているのが辛くなったら横になってもいいよ。でもベッドに勢いよくぶつかると故障してしまうかもしれないから気を付けて。ゆっくり横になる方法が分からなかったら俺にもたれていいから」
     動画の中の猫に遠慮しているのか、彼はそれまでよりも少し声を小さくして告げた。

     動画の中の子猫たちは可愛かった。サムネイルは子猫でも、親猫が一緒に写る動画もいくつかあった。僕は嘘みたいな現実を忘れてとても嬉しい気持ちになった。とても嬉しい気持ちになりながらふと隣を見ると、フィガロが僕を見ていた。驚いて、思わず見つめ合ったままで固まってしまう。プロジェクターの映像を損なわないよう部屋は十分に暗くなっているから、彼の瞳に写る僕がどんな姿形をしているのかは見えない。口元が薄く微笑んでいるのは分かるが、思えばずっと微笑んでいる人物なので、微笑みに何か感情があるのかは不明だ。
    「猫、見ないの?」
     それほど長い時間、見つめていたとは思わないが、フィガロが促すように動画へ視線を向けた。「見る」とつぶやいた声が変に大きく自分の耳に届いた。きっと人の体であれば、喉が渇いてかすれたような声が出ただろうなと思う。そういう経験をしたことがあるわけではないが、妙な高揚と緊張がこの人の前ではあるのだ。促されるまま、再び猫を見る。親猫を真似た子猫たちが体を舐めあっている光景で、やはり心がくつろぐ。
     フィガロは僕の様子を見ているのか、合間合間に質問をした。
    「人見知りするタイプ?」
    「そうでもないが、人付き合いが好きな方でもない」
    「親しい友人は?」
    「何人かいる」
    「誰かが君の裸の写真を持っていない?」
     あまりに突拍子もない質問でベッドから転げ落ちるかと思った。「は?」と勢いよく振り返ると、きょとんとしたフィガロがいる。当然の質問に対して何故そんな反応をするんだという態度だ。僕はとても丁寧に「質問の意図が分からないんだけど」と口にした。フィガロはあごに手を当てて言った。笑ってはいなかった。
    「君の体をファウストらしくしたいんだよ。薄着の写真でもいいけど、ペンだこやほくろの位置、痣の有無…そういうものが分かる方がいい。半袖を着たことがないとか、誰とも公衆浴場に行ったことがないとか、君の体に違和感を抱く人物がいないのならそんなに再現しなくていいかもしれないけど」
     公衆浴場なんて行っても他人の体を覚えているもんかと思うが、どうだろうか。僕自身よりも僕にできた怪我によく気付く奴なら生憎何人か心当たりがあるので、僕が思っているよりも人は人を見ているのかもしれない。
     それにしてもやっぱり、僕の裸の写真を持っている友人には心当たりがないし、裸の写真を取り合う友情というものは僕には縁遠かった。
    「念のため聞いておくか、友人同士で裸の写真を撮り合うというのは一般的か?」
    「俺はやったことがないかな」
    「お前もないんじゃないか」
    「若者の方が写真に馴染みがあるし、あるかなと思ったんだよ。俺はフィルムカメラ世代だからね」
     フィルムカメラを使ったことがないので「だから」というのがどの程度根拠足りうるのか分からないが、深く尋ねることはやめた。ジェネレーションギャップの話で双方が一切傷を負わずに済むことはめったにない。家庭教師をしている高校生相手にですらそれを感じることがあるのだから、彼と僕の間にあると思しき年の差を考えれば、我ながら賢明な判断と言えるだろう。
    「あ、でも……」
     それは意図して口に出した言葉でなく、ポロリとこぼれ出た言葉だった。けれどフィガロはまた僕を見ている。言葉を待っている。僕は続きの言葉を紡いだ。
    「再現できるなら……肉体の見掛けも失った家族との繋がりだからできればしてほしいけど、服を着ていれば見えないから気にしている奴はいないと思うし、大して重要じゃない。でも背中に痣があったことを覚えている。肩甲骨のあたりで、結構大きかった」
     フィガロはゆっくりと優しい手のひらで僕の背中に触れた。「このあたりじゃない?」と探るようにひそめた声は、まるで初めから答えを知っているようだった。
    「重要じゃないなんてことはないよ。君が『できればしてほしい』と願うこと、全部が重要なことだ」
     僕は驚いて彼を見つめたけど、彼はまるで「朝顔は朝開くんだよ」と当たり前のことを言ったような顔をしていた。僕がなぜ驚いているかも分からないのだろう。
    「俺は名医だよ。心配しなくても大丈夫」
     そんな風にウィンクとして僕を安心させようとする。
     僕は何も心配していなかった。彼がウィンクするより先に安心していた。


     フィガロは僕が存外落ち着いていることに安堵しながら今度の「治療方針」について話した。

     彼は、まず何より顔の造形をあらかた元通りにすることからだと言った。マスク・サングラスをしてでも人前に出ることができれば、僕自身から掛け合って知り合いたちへ画像の提供を依頼できるからだ。
    「医者を名乗ったとしても、ファウストの写真をくれと俺が言えば訝しまれるだろう。楽しくないことだろうけど、協力してほしいな」
     フィガロは眉を少し寄せて、極めて真摯な顔でそのように言った。僕にとっては既に信頼のおける人物だが、確かに同じ大学の友人や、家庭教師をしている高校生からは訝しまれるだろう。僕の周りには慎重派が多かった。僕だって見知らぬ人物から「君の友人の写真をくれ」と言われたら警戒する。
     自分の写真をくれということに対して、普段であれば決まりの悪さのようなものを覚えるかもしれないが、経った今の僕は先ほどの会話の通りの考えから、僕は自分の外見を元通りにすることにかなり意欲的だ。多少の決まりの悪さはいとわない。
    「もちろん、僕はあなたの患者だ。医者の言うことには従うよ」
    「それは良かった。幸運なことに学生証に顔写真が付いていたからおおよその人相についてはすぐに再現できるだろう。ついでにちょっとした整形ならできるけど、していく?」
     多分、センスがないなりに僕の気を緩ませようとした冗句なんだろう。丁重に断った。

     第二段階は、知人たちからかき集めた情報を元に機体を人間の肉体に近づけることだ。シリコーンの皮膚をかぶせているとはいえ視界に入れば違和感を否めない四肢は、リハビリへの気力を削ぐだろうと彼は言った。
     服を着たときに露出する部分さえ再現できればリハビリにおいては困らないだろう。但し、服で機体を覆う面積が増えると機体が熱をもちやすくなるため長時間のリハビリはできない。外見の出来の精度は、リハビリの見込み時間の長短に直結していると言っても過言ではないということだ。
    「まあそんなに身構えなくて大丈夫だよ。気が付いたらいつの間にか痣ができていた、なんてことよくあるだろう案外自分の体に起きている異変に対して、違和感なんて抱かないものさ」
     よくあるかはさておき、身に覚えがないわけではなかったので首肯した。それにこれからの予定に対して、自分ではどうにもならないことを気負うのは避けたかった。写真を提供してくれるのは知人だし、それに近付けて僕の機体を「治療」するのはフィガロだ。改めて考えると僕にできることはここまでの段階ではほとんど皆無だった。
    「第三段階はいよいよリハビリだ。まずは物をつかむ練習。次は手すりにつかまって立ち、歩く練習。次は物を持ち運ぶ練習。ゆくゆくは走れるようになるといいけど、
    君がよほどせっかちじゃない限り急いで行うことじゃないな」

     細かいことは追々と微笑むフィガロは、手元を盗み見ると最後に再生した猫の動画の関連動画一覧をスワイプしていた。何か流すものを探している手つきではないので、頭の中に描いているのは治療方針のことで間違いなさそうだが、カルテを見て話したりはしないんだなと思った。本当に細かいところまでは考えていない、大まかな道筋なのだろう。
     よくよく考えてみれば、アンドロイドへのリハビリなんて医者でもどうしたらよいか分からないものだろう。というかそれはアンドロイドの研究者の仕事ではないのか。気になると、失礼かもしれないがどうしても尋ねてみたくなった。
    「この治療の一連は全部あなたが行うの?」
    「そうだよ。知り合いにアンドロイドに詳しい人物がいるから多少の知恵を借りるかもしれないけど、それもアンドロイド部分の構造についてのみだ」
     フィガロはその人物のことを考えているのか視線を右のように泳がせると「研究者としては確かなんだけど、人格面というか口の堅さには一抹の不安があるからなぁ」と乾いた笑みを見せた。
    「人の脳をアンドロイドに移植したなんて話はできない。学会でポロリとでも漏らされたら、倫理への抵触だと糾弾されないかって一抹の不安がある」
     まったく専攻外のことなので一抹の不安というのが妥当かどうかは判断つきかねるが、確かに聞いたことのない話ではある。前代未聞の技術というのは、何であれ多少は揉めるものだ。
    「もしかして僕はあなたに何か莫大な責任を背負わせてしまっているのか?」
     僕が尋ねると、彼は一度大きく目を見開いてから、声をあげて笑った。
    「君は気にしなくていいんだよ。大なり小なり医者は患者に責任を持つものさ。おまけに君は勝手に俺の患者にされたんだから」
     「勝手に」という割に悪びれる様子もないが、だったらそんな言葉を使わなくてもいいのにと思う。勝手だろうが何だろうが、持ちうる技術を持って人の命を救うことが悪いことだと僕には思えない。
     アンドロイドの無表情なりに態度が憮然としてしまったのだろうか、フィガロは押し黙った僕を見て気を遣ったような笑みを浮かべた。真意のよく分からない笑みだ。
    「治療方針に異論がないなら明日は顔を作っていくよ。学生証は一晩借りていくけど、悪用しないから安心して」
    「一晩それを持っていって、明日までに準備が整うのか?あなたはいつ睡眠をとるんだ」
    「心配しなくて大丈夫。最終的な確認だけだよ。君が眠っている間にパーツの準備や配置の確認なんかは全部終わっている」
     事故から今日まで、一体どれだけ経っているんだろう。
     その間、僕の家族の亡骸はいったいどのような風に扱われているのだろう。
     そういえば訪ねていなかった一連のことに今更思い至る自分の薄情さに寒気すら感じながら、僕は一連の疑問をどのように、どこまで尋ねるか悩んだ。

     フィガロは今までの時点で、必要なことを話してくれる人物だと思う。家族のことについては、泣けるようになれば話してくれると言った。もしも彼が重要なことでありながら話してくれていないことがあるとするなら、それは僕自身が無意識に尋ねることを避けているような、僕の心を大きく損なうことなのだ。そう信じたい気持ちがある。
     けれど、自力で思いつけるような尋ねるべきことには限界があるのも分かる。心を守るためではなく、単純に盲点だから尋ねないというものだ。僕は全知全能ではないし、こんな状況では余計に聞くべきことも見落とすだろう。そうなら、せめて思いついたことは全て尋ねるべきだろうか。

     悶々とする僕に気づくことはなく、フィガロはパッドの電源を落とし、立ち上がった。
    「とはいえ、十分な睡眠をとることも準備の一つだからね。俺は行くよ。君は眠れそう?何なら猫の動画をループ再生の設定にしておくけど」
     パッドの電源を切っている今、プロジェクターは壁に空しい青を映し出している。原色とまではいかなくても、一面の鮮やかな青には視界がチカチカした。
    「眠れる眠れないにかかわらず、猫の動画が流れていたら嬉しい?」
    「それはそうだろう」
    「あはは、それは良かった。明日顔を整えている間、きみにはぐっすり寝ていてもらわないといけない。麻酔は打つけど生身の部分が少ないからほんの僅かなんだ。夜更かしして眠気を蓄えておいて」
     僕は神妙な顔をしようとして、動かそうとした表情筋が空振りに終わるという稀有な体験をした。これも今夜限りなのだろう。
    「あなたが腕のいい医者で助かった。僕は不自由する時間がとても少ない気がする。ありがとう」
     素直に感謝を告げると、彼は今までで一番変な顔をした。左右の均整が取れた顔の配置をしているのに、こんなに崩した唇の線になるのかと驚く。お礼を言ったから喜ばれたいというわけではないが、だからと言って怒っているとも悲しんでいるとも違う……苦いものを噛んだのを隠そうとしているような顔をされるとは思っていなかったのだ。
     僕が表情に言及するよりも早く、フィガロはパッドと学生証をもって部屋から出て行った。おやすみの一言もなしに、そそくさと言った様子で。彼らしくないそっけない態度に、僕は何かよほどよくないことを言ったのだろうかと考えたが、答えが出ることはなかった。
     そんな宵の淵でも、やっぱり猫は可愛かった。

     僕の過ごす部屋に窓はないため、その晩の時間の流れについてはよく把握できなかった。
     猫の動画は自動再生機能ではなくどうやらフィガロが作成したプレイリストをループしていたようで、同じ子猫が仰向けに転がるところを一晩の間に何十回見たか分からない。言うまでもなく何十回見ても可愛いものは可愛いのだが、同時に考え事もしていたので動画の仔細を思い出せと言われても難しいだろうと思う。
    ただ、考え事というのも対して真面目に頭を抱えているわけでなく、漫然と結局はどうにもならないことに対していろんな想像を巡らせていただけだ。

     スマートフォンは無事だろうか。友人たちの連絡先を覚えているわけではないから、あれがお釈迦になっていたら学校に出向いて本人を探す必要がある。本人が見つかればいいが、僕がものすごく長い時間を眠っていたのでなければ生憎今は夏季休暇の真っ最中だ。ゼミやサークルに熱心に顔を出すものには会えるかもしれないが、果たしてどうだろうか。
     脳裏に大学内で知り合ったものたちの顔を順に思い浮かべていくと、ネロという男で引っかかった。気だるげであまり勉学に熱心でなく、暇があれば料理店のバイトを入れていそうな(というか本人もそうだと言っていた)友人のことをが考えると、僕は多少、現実が厳しいような感じを覚えた。
     お互いの写真を撮りあった記憶はないが、そういった助力という観点を除いても僕は彼といるときの独特の雰囲気を気に入っており、もしも彼としばらく話せなかったらと思うと少し寂しい。かといって、バイト先にまで押しかけて連絡先を教えてくれというのも違う気がした。恐らくだがアンドロイドのこの機体では空腹を感じないし、仮に空腹を感じるとしてもそれを補うのは食事ではないだろう。つまり彼のバイト先に行く口実として、食事という手札を僕は失っている。事務に出向いて連絡先を尋ねたとして、たとえ学生間でも連絡先を教えてくれるのだろうか。昨今はストーカー被害を未然に防ごうという意識が高まっているから、大学側に強く要望しても難しいだろう。(僕は女系家族育ちのため、どうやらそういう意識が他の男性より少し高いらしかった。)

     それに学外の知人であるヒースクリフとシノ……家庭教師をしている子供たちへの連絡は一層困難だろう。家庭教師をしているから家には伺ったことがあるものの、事故に遭って連絡先が分からなくなったから直接伺ったと言えば、言われた方が仰天して気を遣うことが容易に分かった。ヒースクリフは引っ込み思案で遠慮しがちなところがある。僕が家庭教師を辞めたからと言って学業を怠ったり成績不振になる人物ではないが、僕なんかをと思うことはあるものの、せっかく慕ってくれているのに気を遣って疎遠になるという世渡りらしいことを子供に経験させるのは忍びないと思う。
     シノもずけずけ言うところはあるが、元はと言えばヒースクリフが受けているからと僕からの授業を受けているのだ。ヒースクリフが遠慮するならシノも同じようにするだろう。彼らは仲のいい幼馴染ではあるのだが、お互いへの気遣いがきっかけで衝突することがままある。僕は彼らの友情を微笑ましく思っている部分もあり、よりにもよって僕自身が火種となることは避けたかった。
     そう考え始めると、やはり僕はどれだけの時間眠っていたのだろう。家族旅行を避けて夏季休暇中に何度か家庭教師として二人のもとを訪問する日を決めていたのだ。無断欠勤で、しかも連絡がつかないのでは二人もさぞ心配だろうと思う。

     ……と概ねこのようなことを考えていると、網膜の上で猫たちがじゃれついていても中々それに集中できないものだ。猫好きとはいえ、流石に友人たちへの憂慮があればそれが勝る。
     フィガロは僕が余計なことを考えなくていいように猫の動画を流してくれているのだから、せめて目の前の動画に飽きてしまったのなら思い出の中の猫のことを考えようと思ったが、思い出とは他の思い出とも紐づいているものだ。猫を思えば、その猫と出会った街並みを思い出す。街並みを思えば、隣にいた友人のことを思い出す。隣にいた友人を思い出せば、他の思い出にまで遡って「アンドロイドの体になってもまたあのような思い出を作ることはできるのだろうか」と不安になる。一人で生きていけない性質ではないと思うが、大切なものを手放すことに躊躇がないかと言われるとそれは全くの別問題だった。


     フィガロはついに、僕が睡眠に逃避する前にこの部屋を訪れた。恐らく、ついにというほどもない早朝だ。プロジェクターの電源を落とすと「ずっと起きてた?それならちょうど眠くなるころじゃない?」と僕の顔を覗き込む。横たわったままの僕の肩をぽんぽんと寝かしつけるように撫でると、がちゃがちゃとよく分からない器具を陳列し始めた。室内は相変わらず薄暗い。僕は努めてその器具を見ないようにした。
    「怖いよね。でも首から下に比べたら首から上は面積が狭いからすぐ終わるよ。何度も頭の中でシミュレーションしたんだ。必ず痛くないうちに終わらせるから」
     彼の医者としての腕前に疑うことなど何もなくとも、顔面をナイフが走るというのはどうしようもない恐怖だ。
    「目を閉じて。花の名前でしりとりをしてごらん。花の名前が分からなければ果物でもいいよ。ファウストの『ト』から始めて」
     僕の祖母は家庭菜園を作っていた。年を召してからは手が回り切らなくなったから規模を縮小して少しの花壇を営むようになったけれど、僕が幼い頃はビニールハウスを庭において、趣味にしてはかなりの規模の植物たちの世話を見ていたことを覚えている。彼女は僕と妹と散歩に連れるとき、いつも畦道に咲く花の名前を唱えていた。懐かしい日々のことを思い出す。

     トケイソウ、ウサギアオイ、イリマ、マリーゴールド…

     眠りに落ちるのにさほど時間はかからなかった。僕の頭の中はだんだん季節を無視した、しりとりにも使わない花も混ざった花畑で満たされていった。朝露や雨に濡れた土の匂いが僕の鼻孔を擽った気がした。





     不思議な夢を見た。

     天井の電灯は切られているようで十分に明るいとは言えないが、大きな窓があって薄暗いわけでもなかった。木材と漆喰の組み合わせでできた家は、清潔だがどこか古めかしい雰囲気を帯びていた気がする。その中で僕は植物を乾かしたものを磨り潰したり、大雑把に切った植物から汁を煮出したり、昔の人が薬を作るような所作を行っていた。時折、背後からフィガロが僕の手元を覗き込んで
    「うん、慣れたものだね」と微笑む。
    「うるさい。茶化すなら何処かへ行け」
    「茶化してなんかいないよ。君の成長を嬉しく思っているんだ」
    「本当だろうな」
    「本当だよ。あ、でもこの花を煮るならめしべは取った方が効果が出るかも」
    「ほら、何かあるんじゃないか。でも参考になったよ。ありがとう」
     ずいぶん棘のある態度を向けられているのに、フィガロは気にした様子もなく「どういたしまして」と笑っていた。
     僕は小皿を取ってきて煮えている鍋の前に立つ。フィガロの言うとおり、めしべを取り除こうとしているのだ。夢の中の僕は、「熱く煮えた花を一輪一輪どう処理していこうか」と悩みはしなかった。

    《サティルクナート・ムルクリード》

     呪文を唱えると、鍋の中の花たちは見上げるように僕へ顔を向ける。演奏を止める指揮者のようにくるりと手を回せば、めしべは抵抗なく花から抜けて小皿の上に収まった。
    「今更かもしれないけれど、何もしないよりはましだろう」
    「俺と君の運命みたいにね」
    「うるさい。余計なことを言わずにいられないのか」
     僕の態度にはやはり棘があったが、夢の中で僕本人として過ごした所感として、僕はとても深く彼を愛していた。





    「おはよう、ファウスト」
    「……おはよう、フィガロ」

     僕は自分の見た夢の内容よりも、大してそれに驚いていない自分に結構驚きつつ、目を覚ました。
     この空間での目覚めも三度目だ。そこにフィガロが立ち会っているのも三度目だ。些か慣れが生じている。それに夢のせいで妙な錯誤をしているのか、眠りにつく前よりも彼に親しみを覚えている気がした。
     フィガロはこれまでになく近い距離で僕の瞳を覗き込んだ。アンドロイドの無機質な顔が彼の瞳に写ると思って目をそらしたが、僕が眠っていたのは顔を変えるためだったと寝ぼけた頭が思い出す。恐る恐る、
    僕は彼を見つめ返した。
    「痛いところはない?」
    「どこにも」
    「かゆいところはない?」
    「どこにも」
    「俺の瞳の色が分かる?」
     僕はこくんと頷いた。「みどりだ」と声に出そうとしたが、吐息だけが漏れたかもしれない。彼の緑の瞳の中の、紫の目の僕と目があった。
    「鏡を見たいかな」
    「少し」
     フィガロは僕の答えが少しという意図まで含めて分かっていたように、くすんだ鏡を取り出した。いきなりはっきりと自分の正体を見るのは怖かったので、それくらいが調度いい。くすんだ鏡には覚えている通りの僕の顔があった。学生証の写真一つで良くここまで……と、僕は鏡とフィガロを交互に見る。
    「魔法を使って時間を巻き戻したみたいだ」
    「時間を巻き戻す魔法なんか使えないよ」
    「分かっている。けれど……」
     どんな言葉を紡いだらこの感動が伝わるのか変わらなかった。僕は頭の中にいくつもの言葉を浮かべては、あれも違う、これも違うと棄却を繰り返す。
     フィガロはそんな僕を横目に器具をカチャカチャと仕舞い込んでいた。僕は彼が部屋を出ていくのではないかと思い、慌てて袖を引いて引き留める。
    「あなたの技術を称える言葉が見つからない。でも、とにかくありがとう。……僕は母似なんだ。あなたが僕の顔に母の面影を取り戻してくれたことは、代えがたい喜びだよ」
     家族のことはとても悲しいと思う。彼が完全な仕事をしてくれたから、感情につられて視界に水膜が張ったとき特有のぼやけが生じる。けれど僕は努めて気丈に微笑んだ。眉間に妙な力が入ってしまったのを自分でも感じるけれど、それでも患者たる僕に最善を尽くしてくれた医者に見せるべき姿は喜びだろうと、そう思った。
     フィガロは薄く微笑むと僕の横髪を掬って頬を撫でた。
    「君が喜んでくれてよかった。でも誰に似ていても、誰の面影を残していても、君は誰かの遺品じゃなくファウスト・ラウィーニアだよ」
     少しかさついた指の感触を残したまま、彼は部屋を出て行った。僕は彼が戻ってくるまでの長くはないが決して短くもない時間、どこか置き去りのような寂しさを覚えていた。医者が患者を置いて部屋を出ていくことの何がそんなにもの寂しかろうか。
     僕の方こそ、まだ夢に心を置き去っているのかもしれなかった。
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    DONEほしきてにて展示していた小説です。

    「一緒に生きていこう」から、フィガロがファウストのもとを去ったあとまでの話。
    ※フィガロがモブの魔女と関係を結ぶ描写があります
    ※ハッピーな終わり方ではありません

    以前、短期間だけpixivに上げていた殴り書きみたいな小説に加筆・修正を行ったものです。
    指先からこぼれる その場所に膝を突いて、何度何度、繰り返したか。白くきらめく雪の粒は、まるで細かく砕いた水晶のようにも見えた。果てなくひろがるきらめきを、手のひらで何度何度かき分けても、その先へは辿り着けない。指の隙間からこぼれゆく雪、容赦なくすべてを呑みつくした白。悴むくちびるで呪文を唱えて、白へと放つけれどもやはり。ふわっ、と自らの周囲にゆるくきらめきが舞い上がるのみ。荘厳に輝く細氷のように舞い散った雪の粒、それが音もなく頬に落ちる。つめたい、と思う感覚はとうになくなっているのに、吐く息はわずかな熱を帯びてくちびるからこぼれる。どうして、自分だけがまだあたたかいのか。人も、建物も、動物も、わずかに実った作物も、暖を取るために起こした頼りなげな炎も。幸福そうな笑い声も、ささやかな諍いの喧噪も、無垢な泣き声も、恋人たちの睦言も。すべてすべて、このきらめきの下でつめたく凍えているのに。
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