指先からこぼれる その場所に膝を突いて、何度何度、繰り返したか。白くきらめく雪の粒は、まるで細かく砕いた水晶のようにも見えた。果てなくひろがるきらめきを、手のひらで何度何度かき分けても、その先へは辿り着けない。指の隙間からこぼれゆく雪、容赦なくすべてを呑みつくした白。悴むくちびるで呪文を唱えて、白へと放つけれどもやはり。ふわっ、と自らの周囲にゆるくきらめきが舞い上がるのみ。荘厳に輝く細氷のように舞い散った雪の粒、それが音もなく頬に落ちる。つめたい、と思う感覚はとうになくなっているのに、吐く息はわずかな熱を帯びてくちびるからこぼれる。どうして、自分だけがまだあたたかいのか。人も、建物も、動物も、わずかに実った作物も、暖を取るために起こした頼りなげな炎も。幸福そうな笑い声も、ささやかな諍いの喧噪も、無垢な泣き声も、恋人たちの睦言も。すべてすべて、このきらめきの下でつめたく凍えているのに。
* * *
ぱちぱちと、暖炉の火が爆ぜる音がする。ステンドグラスの窓の向こう、しんと静まり返った夜に雪が落ちてゆく。
頁を捲る音は、しばらく前から聞こえなくなっていた。暖炉脇の肘掛け椅子に腰掛けていたフィガロは、ワイングラスをサイドテーブルに置くと、デスクで書物に向き合っているはずの弟子を振り返った。弟子の姿を認めて、フィガロは僅かに目を見ひらく。たったひとりで雪原に打ち捨てられたときでも、弟子はそんな顔をしなかった。かたちの整った眉をぎゅっと寄せ、紫の瞳を微かに揺らす。室内用のローブをまとった背中こそぴんと伸びているものの、おそらくは無意識に胸の前で組まれた手は、込み上げてくる不安を押し止めるかのように。
「ファウスト、おいで」
声を掛ければ、弟子はすぐに表情を引き締める。はい、と凛とした声で返事をして立ち上がると、木目の床を慌てたように歩きフィガロのもとへ。フィガロは弟子に微笑を漏らし、指先を振って肘掛け椅子とサイドテーブルをもう一組用意する。銀を基調にした刺繡の施された布張りの肘掛け椅子、そこへ腰掛けるよう促すと、弟子は恐縮しながら腰を下ろした。フィガロは魔法で、陶器のマグにあたためたエバーミルクを用意する。指先で作ったシュガーをマグに落とし、弟子へ差し出す。弟子はまた恐縮しながらマグを受け取った。
「スノウ様とホワイト様が騒がしかったからね。疲れただろう?」
フィガロちゃんの初弟子じゃ、フィガロちゃんの初弟子じゃ、と弟子の周りをぐるぐる回っていた双子の様子を思い浮かべ、フィガロは口元に微苦笑を浮かべる。フィガロちゃんの誕生日を祝いに来たのじゃ、と双子は上等なワインを寄越してきたけれども、来訪の一番の目的はおそらく弟子の顔を見ることだ。
「いえっ、決してそのようなわけでは」
生真面目な声で弟子は否定するけれども、普段より声に力がない。
「申し訳ありません。フィガロ様の御誕生日だというのに」
弟子は眼差しを伏せた。その眼差しの弱々しさが意味するところに、フィガロは見当がついていた。
「構わないさ。長く生きていれば、生まれた日にそれほどの執着はないよ」
フィガロは穏やかに笑んでそう言ったけれども、それとは対照に弟子は表情を硬くする。マグを握る両手にも力が籠っている。ミルクを飲んだら、とフィガロは声を掛けた。
迷うような素振りを見せたあとに、失礼致しますと律儀に断って、弟子はマグに口をつける。こくん、と彼の喉が小さく動いた。
「フィガロ様」
マグから顔を上げて、弟子がフィガロを呼んだ。
「何だい?」
フィガロは穏やかな眼差しで応じる。弟子は迷い子のように紫の瞳を揺らめかせた。
「とても……、とても情けないことを申し上げるのですが」
声をも揺らめかせた弟子は、けれどもすぐに自分が放った言葉を後悔する表情をする。フィガロはおもむろに手を伸ばす。灰茶色の柔らかな癖毛に指を通すと、その頭を優しく撫でる。
「何でも話して。全部俺が受け止めてあげるよ」
微笑めば、弟子の瞳がわずかに力を帯びる。フィガロ様、と彼は泣く寸前のような顔をして、意を決して話し始めた。
「魔法使いは、魔力が成熟した時の姿で肉体の時が止まってしまうのですよね」
「うん、そうだね」
それは彼を弟子として預かって、最初の頃に教えたことだった。魔法使いは魔力が成熟すれば肉体の時が止まる。だから魔法使いはとても長命だ。今日やってきたフィガロの師匠である双子も、子供の姿をしているけれども実際には数千年の時を生きている。
弟子はぎゅっと眉を寄せ、頼りなげな声でフィガロに問いかけた。
「千年を生きるというのは、とても孤独なことではないのですか」
ミルクのマグをサイドテーブルに置き、弟子はおそらくまた無意識に、胸の前で両手を握り締める。
「母にも、妹にも、友人にも――周りのすべてに取り残され、自分だけが生き続けるというのは、とても孤独なことではないのですか」
すべてを呑みつくした雪崩、眼前を埋め尽くしたつめたい白銀。脳裏によみがえったその光景に一瞬目を見ひらいたフィガロは、すぐにはっと我に返って、ひとつそっとまばたきをした。瞳が取り戻した現在の光景。まるで神に祈るような眼差しで、弟子が自分をひたと見上げている。
「……ひとりは、孤独だよ」
フィガロのくちびるから落ちた言葉。それに怯え慄くように、弟子は睫毛をふるわせた。そうですよね、と次の瞬間に弟子は眼差しを伏せるだろう。だからそれより早く、フィガロは胸の前で固く組まれた弟子の手に自分の両手を重ねた。
「でも、きみには俺がいるだろう?」
フィガロは弟子に微笑んだ。弟子はひとのぬくもりにたった今気づいて安堵したのだというように、ふっ、と両手に籠っていた力を抜いた。フィガロ様、と呆然と師匠の名を呼びながら。
「俺はきみと同じ、長寿の魔法使いだ」
軽やかに、雪があたたかな肌に触れて溶けてゆくという至極当たり前の事象を語るように、ごく気軽にフィガロは続けた。
「ひとりが孤独なら、誰かと共に生きればいい。心をつなげて生きていけばいい」
フィガロは、彼が初めて受け入れた弟子の瞳を見つめた。
「俺と一緒に生きていこう、ファウスト」
見下ろす先の紫が微かに潤む。はい、と小さな口が歓喜の声をこぼしたとき、フィガロの心も静かに歓喜した。我らはいつでも一緒じゃ、と睦まじく囁きあう双子の姿に絶望しながら、漂うように生きてきた人生。乞われるままに優しくして、気まぐれのようにひどくして、心の奥底から希求したのはきっと。
弟子に向かって微笑みかけながら、弟子がやってきた夜のことを思い出した。こちらをひたむきに見上げる、清純で高潔な紫の瞳。首の後ろで結わえられた灰茶色の髪が吹き荒ぶ風に翻るなか、きみの後ろで星が降った。飛来する星は旅人。旅人が世界を変える。
手のひらからこぼれた真っ白な雪。果てなくひろがるきらめく白。つめたい世界にたったひとり、ぬくもりを宿して立ち尽くすフィガロの手のひらに星が降った。光を放つそれは熱い。自分以外の熱に触れて、フィガロがはっと顔を上げれば、星のかたちをしていた光が眩く弾け、ひろがり、蜃気楼のようにゆらゆらと佇むひとのかたちになる。
「フィガロ様」
呼ばれて、フィガロは間近で向きあう弟子に眼差しで応じる。
「ありがとうございます」
紫の瞳をきらめかせる弟子は、フィガロの両手に自分の手を委ねている。あどけなさを残した小さな手のひらはあたたかかった。不意にそれに気づいたとき、フィガロは瞳を揺らす刹那で幻影を見た。果てなくつめたい白の世界で、手を握り合うフィガロと弟子。組み合った指の隙間からあたたかな光があふれて、白を包み込む。そうして白が霧散してゆく。
世界が変わったのだとフィガロは思った。漂うように生きてきたこれまでで、心の奥底から希求したのはきっとこの瞬間。誰かの望みが自分の望みになって、自分の望みが誰かの望みになる世界。
フィガロは弟子の手をゆっくりと手離した。そうして身を屈め、自分をひたと見つめる弟子の額にキスを落とす。目を丸くして慌てふためく弟子を宥めるように、灰茶色の髪を撫でながら甘やかに囁く。
「俺たちは魔法使いだ。約束や契約はできないけれど、今日という日のささやかな証として」
* * *
革命軍は先の戦いでも勝利を収めた。弟子が目指す世界は――人と魔法使いが共に生きる世界は、きっと遠くない未来に現実となる。
青い空から明るい光が降り注ぎ、乾いた風が土埃を吹き上げるなか。地面に座り込んで束の間の談笑を楽しむ兵士たちの向こう。フィガロの眼差しの先で、ふたりは何かを語り合っている。声が届かない距離だから何を話しているのか正確なところは分からないけれども、これから先の未来について生き生きと討論をしているのだろうと容易に推測ができた。大仰な身振り手振りを的確に使いこなし、銀の髪を風になびかせながら彼が――弟子の親友が何かを言った。それを聞いた弟子が、怒った様子で何かを返した。まったくおまえはいつも、という呆れを含んだ怒鳴り声が、風に乗ってフィガロまで届いた。大方、親友がまた自分の身を顧みない無茶な提案をしたのだろう。
フィガロは彼らから眼差しを外し、高く澄み切った空を見上げた。そこには、ぽつりぽつりと白い雲が浮かんでいる。瞳に、白がやけに眩く映った。フィガロは鈍く目を眇め、おもむろにまばたきをした。そのとき、視界の端で、弟子と親友のもとにひとりの兵士が近づいたのが見えた。地面をつかつかと踏みしめる重々しい様子に、フィガロは違和感を覚えた。
ぎらりと刃が光った。フィガロは兵士に向かって手をかざす。詠唱は破棄した。手のひらから放たれた不可視のスカルペルが耳の裏側の急所を刺し、兵士の身体が麻痺しようとしたまさにその寸前。
兵士が短剣を投げた。それを見た弟子が親友を突き飛ばす。呪文を唱えたようだったけれども魔法は間に合わず、短剣が弟子の肩を掠めた。
フィガロは目を見ひらいた。革命軍の兵士たちが動けなくなった刺客を取り押さえるなか、フィガロは箒を使わずに空間を飛び、弟子のもとへ急いだ。どよめく兵士たちの真ん中で、弟子は地面に手足を投げ出し、ぐったりと力なく目を瞑っていた。半端にひらいたくちびるがかたかたとふるえていて、その隙間から漏れる息は細く頼りない。肩の傷は大したことがないようなのにこの症状は――刃に毒が塗られていたのか。
「フィガロ様。ファウストの容態を見てもらえますか」
弟子の横に膝を突いた親友がフィガロを見上げる。一切取り乱さず、冷静にフィガロの助力を乞うその態度はさすがのものだ。もちろんだ、と彼に応じ、弟子の肩に手をかざす。
「《ポッシデオ》」
短く呪文を唱え、弟子の身体の中で蠢く毒を浄化する。途端に地面の上で、弟子の指先がぴくりと動く。次の瞬間には瞼がふるえて、紫の瞳が虚空を見つめる。はっ、と息を吸う音がした。
「アレクは……っ」
がばっと身体を起こした弟子は、その勢いで立ち上がろうとする。
「ファウスト」
親友が痛みを堪える顔で、弟子の腕を押さえる。
「無事だ」
親友を認め、弟子は安堵のため息を吐いた。
「まったく、無茶をするな」
親友の言葉に、それをおまえに言われるなんて、と弟子が苦い顔で笑う。そうして弟子は、はっとフィガロに気づいたようだった。大きく目を見ひらき、肩に治癒魔法の痕跡を感じ取ると、弟子は師匠に向かって深く深く頭を下げた。
「フィガロ様、申し訳ございません。僕が未熟なばかりにお手を煩わせてしまいました」
声には悔しさがにじんでいる。師の面に泥を塗ってしまった、と考えていることが手に取るように分かる。まったく真面目だなあ、と以前までなら弟子の髪を撫でていただろう。口元に微苦笑を浮かべながら。けれども今、フィガロの口元は僅かとも笑みのかたちにはならなかった。それを自覚したフィガロは微かに目を眇める。それでも誰にも悟られぬよう、意識して口端を持ち上げた。
「構わないよ。俺の魔法だって間に合わなかった。きみを守ってあげられなくてごめんね」
「そんなこと……」
弟子はふるふると首を振る。
「まだ傷は完全に癒えたわけじゃないから、しばらく安静にしておきなさい」
そう言い置いて、フィガロは弟子から眼差しを外そうとする。弟子はぎゅっと手を握って、
「フィガロ様」
思わずといったふうに呼び止めた。フィガロの視線は気怠げに、止むを得ずといった動きで弟子に留まる。紫の瞳が大きく揺らぐ。
「その……、申し訳ございませんでした」
「あはは。もういいって」
フィガロが声を出して笑ったことに、弟子はほっと安堵したようだった。
「刺客は王軍の間者かな。俺は向こうの様子を見てくるよ」
「はい……っ、お手数をおかけします」
手振りで返事をして、フィガロは弟子に背を向けた。「私も行きます」と弟子の親友がフィガロの隣に並んだ。
そのとき、風が吹いて、土埃が一層強く舞い上がった。
紫の瞳に映る、偉大な魔法使いの影がうやむやになる。
風が雲を押し流した。冴えた月影がガラスのない窓枠から差し込む。どこか遠くから虫の鳴く涼やかな声が聞こえてくる。革命軍の今夜の寝床となる石造りの廃墟、そこの奥まった一室にフィガロと弟子がいた。かろうじてかたちを保っている、壁と同じ素材でできた寝台に、フィガロと弟子が隣り合って座っている。袖をたくし上げた弟子の肩を、フィガロの指先が辿るようになぞる。
「服を整えて。おめでとう、完治だ」
弟子は袖を戻すと、師匠に向かって大きく頭を下げる。
「フィガロ様、この度は本当にありがとうございました」
「いいよ、そんなに畏まらなくっても」
鷹揚に手を振りながら、フィガロは笑った。その表情のまま、
「でも、無茶はほどほどにね。きみはこの革命を指導する立場。重要人物だ」
言い聞かせる声音で言う。
「いえ、僕など……」
弟子は恐縮しきった顔で緩く首を振る。
「アレクがいなければ、僕は何も成せない村人のままでした。アレクの勇敢さ、決断の早さ、智謀と戦略……それらがあるから、僕たちはこの革命を走り抜けていけているのです」
こちらを見上げる紫の瞳はまさに貴石の輝き。いつだって弟子は、彼の親友のことをこの瞳で語る。だから弟子は、親友を庇い毒刃に肩を差し出したのだ。親友が起こした革命に命を賭す覚悟のもとで。
まばたきをしたほんの一瞬に、果てのない白が瞼の裏に閃いた。指の隙間からこぼれた白いきらめき。すべてを呑み込んだ真っ白な雪。
そう、とフィガロは短い相槌を打った。それと同時に、兵士が部屋に入ってきてファウストに声を掛ける。アレク様がお呼びです、と。
「分かった、今行こう」
弟子は、フィガロに挨拶を残して親友のもとへ行こうとする。それを穏やかに見守るつもりだった。けれども、
「ファウスト」
自分の声が耳に届いて、は、とフィガロは息を呑む。
はい、と弟子はフィガロを振り返った。彼の身体の動きを追うように、灰茶色の癖毛がふわりと揺れる。
「フィガロ様?」
紫の瞳がフィガロを見つめる。その虹彩の中心に映ったぼんやりとした影が自分のものだと気付いたとき、フィガロは誘われるように手を伸ばしていた。指先に、柔らかな髪の感触。あのときも、きみの髪に触れた。小さな迷い子のような顔をして長寿の運命に怯えていたきみと話したあのときも。一緒に生きていこうと言った。それを、きみは受け入れてくれたはずだけど。
フィガロは目を眇めた。まるで憎らしいものを睨め付けるように鋭く、けれどもまるで愛しいものを渇望するように切なげに。心が揺らめく。心が理知を凌駕して溢れだす。それは魔法となって指先に灯り、灰茶色の髪を伝って――
はっ、と目を見ひらいた。自分が今何をしようとしていたかに気づいて愕然とする。
「ああごめんね、髪にごみがついていたから」
どくどくと逸る自分の心音を聞きながら、フィガロは指先を握り込む。揺らぐ瞳の奥の奥に、心からそなたを思うておる、と手を握りあう双子の姿が思い浮かぶ。片割れが自分から離れていくことに絶望して、そなたを殺して自分も死ぬと殺し合ったお師匠様。離れていく相手を魔法でねじ伏せようだなんて――俺は、そんな愚かなことはしませんよ。
ありがとうございます、と弟子は何も疑わずにフィガロへ笑いかける。フィガロも笑った。そうして、
「――行ってらっしゃい」
せめて最後に祝福を願いながら、弟子の後ろ姿に呟いた。
* * *
自らが流した鮮血よりも、自らが流させた鮮血よりも。残酷に煌めいた紅蓮の炎。人間たちの怒声と罵声を呑み込んで、激しく燃え上がった灼熱の炎。
月影だけが静かに佇む澄み切った夜、はあ、はあ、とひどく上ずった息遣いが耳障りだ。足の裏が、石か何か、とがったものを踏みつけた感触をとらえた。焼け爛れた足では痛みなど感じなかったけれども、辛うじて保っていた足元の釣り合いが崩れ、上体から草むらに倒れ込む。月影をはじく草の匂いが血の臭いに染まってゆく。
肩で息をしながら、無残に焼け焦げた足に手を当てる。呪文を唱えてみたけれども、足元の草をそよと揺らすことすら叶わなかった。魔法は心で使うもの。師と仰いだ偉大な魔法使いが教えてくれた。心を消耗しきった今、不思議の力は自らに伴わない。
ぎり、とくちびるを噛みしめる。いったいどこで、自分は間違ったのだろうか。
人間と魔法使いが共に生きる世界を目指して、ひたむきに駆け抜けてきたはずだった。けれども最後は、自分を信じてついてきた魔法使いたちを地獄に落とす結果となった。――僕が、あいつを信じたりしたから。信じたいと思ってしまったから。
僕は馬鹿だ。僕は愚かだ。だからあの方にも見限られたのだ、とようやく理解した。
視界が揺らぐ。霞んでゆく。雪原に投げ出されたように、身体がひどく冷え切ってきた。じきに自分は死ぬのだろう。そう悟ったときになって今さら、長寿の運命に怯えたあの日を思い出すのは何故だろう。
――ひとりが孤独なら、誰かと共に生きればいい。心をつなげて生きていけばいい。
ひりつくような叡智をまとった偉大な声。ひどく優しくあたたかな声。
「……フィガロ様、」
かたかたとふるえる歯の根の隙間から、まるであの日のぬくもりを乞うようにその名を口にしてしまっていた。どうか力をお貸しください、などと喚くことは決して許されない。だって僕はもう、あの方の弟子ではない。それでもあの日、あたたかなぬくもりをくれたその名を。僕に希望をもたらしてくれたその名を。
名を呼ばれたような気がした。ほんの一瞬、目を見ひらくものの、すぐにまた酒の入ったグラスを傾けた。それは自分の望みが聞かせた幻聴でしかないのだから。勝利と栄光が約束されたあの子には、自分の力など必要ないのだから。
フィガロは自嘲するように小さく笑った。すると隣で勝手に何かを話していた魔女が睫毛を瞬かせる。
「あら、今の話面白いところありました?」
「ああ、まあ、それなりにね」
おざなりな返事に気を良くした魔女は、また何かをぺらぺらと話し出す。それに適当に相槌を挟みながら、フィガロはグラスの酒をあおった。そろそろ店を出ようかと思ったところで、「そういえば中央の国でも、」と魔女が首を傾げた。カラン、とグラスの中で氷が鳴る。その音が合図になったように、頭の中心がすっと冷える。
「その話は聞きたくないな」
ひどく低い声が出た。魔女は途端に表情を強張らせ、申し訳ありません、と声をも硬くした。与えられる畏怖の眼差しに辟易しながら、
「ああ違うよ。他の話を聞きたいと思ってね」
フィガロは魔女に笑んでみせる。
「たとえば、きみの話とか」
軽薄な声で続ければ、魔女はそっと頬を染める。ああ、どうしてこうもつまらないのだろう――そう思ったとき、フィガロは魔女の髪が灰茶色であることに気づいた。
月影がカーテンの隙間からひそやかに入り込む。それは白いシーツに細い筋を描く。まるで、つめたい海に伸びる青銀のムーンロードのように、静かに厳かに。
フィガロ様、と魔女がフィガロを呼ぶ。子猫が戯れるような甘えた声で。フィガロは月影から眼差しを外し、今ようやく思い出したというように魔女を見た。魔女は長い睫毛で縁取った鳶色の瞳を瞬かせて、艶美に脚を組み替え、フィガロに手を伸ばす。
ぎし、と寝台が軋んだ。
魔女の頬を撫でてやりながら、目を瞑って、とフィガロは囁く。鳶色の瞳が瞼に隠れる。それを見届けて目を閉じた、フィガロの瞼の裏にはあの日の。
はい、と歓喜をこぼした安堵の口元。微かに潤んだ紫の瞳。そうして耳の奥に、自らを呼ぶあの子の声までが。
――いい加減にしろ。勝利と栄光が約束されたあの子に、俺は必要ないんだよ。
滑稽な未練を引きずる自分に内心で吐き捨てて、魔女の灰茶色の髪に指先を通した。
この手で掴んだと思った、けれども指先からこぼれ落ちた、世界を変える旅人、光を放つ熱い流星。
星を失った今、眼前にひろがるのはつめたく凍えた白の世界。
どこまでも、どこまでも、果てなく続く眩い白。