馬鹿な恋人「ただいまぁ」
「さ〜とるっ」
仕事終わり、月曜の二十二時。玄関でのことだ。
「悟〜! 随分遅かったじゃないか」
「うっわ、酒くさ!」
「え〜、臭くないよ〜」
祓ったれ本舗という漫才コンビを組んで数年。「漫才界のシンデレラ」と呼ばれた俺たちはデビューしてからトントン拍子で売れっ子になっていき、お笑いの仕事はもちろんのこと、容姿や言動も相まってかラジオ、雑誌、ニュース番組と、朝から晩まで引っ張りだこだった。
そんなわけで、ピンでの仕事もかなり増えてきた昨今だが、比較的真面目な印象を売りにしている傑と違い、俺は深夜のバラエティやラジオに呼ばれることが多かった。
朝はニュース番組でコメンテーターとして出演する傑、昼間は二人で生放送、夜はゴールデンタイムの番組にゲストで呼ばれる俺、といった調子で、俺たちが会えるのは大抵昼間だけ。それも現場でようやく顔を合わせて収録して即別行動、といった具合だから、なかなかゆっくりと会うことも難しい。
そんな多忙を極める日々が続いた、ある日のことだった。
マネージャーである伊地知との定期ミーティングで、傑がこう言ったのだ。
「私たち、火曜は働かないことにするから」
「……へ?」
資料から顔を上げて、素っ頓狂な声を上げたのは伊地知。
「これ以上悟と会えないのは耐えられない」
「とは言いましても……」
伊地知は困った顔で傑と俺の顔を交互に見る。
困るのも当然だ。こんな大切な時期に仕事に穴を開ける意味を、わかっていないはずはない。
「でも、もう正直しんどいよ」
「夏油さん……」
「ねえ、なんとかならないかい?」
珍しい傑の懇願に、伊地知は困惑するばかりだった。
というのも、傑と俺は恋人同士。
それは以前とある番組に休日密着されたときに、あまりにも露骨な俺たちの態度にファンは感づいて、「じゃあもう言ってしまおうか」とカミングアウトしたこともあり、芸能界含め周知の事実となっている。
しかし、それを抜きにしても俺たち個人での人気は上々で、なかなか二人揃って番組に出るというのも難しくなってきたのもまた事実だった。
「仕事は仕事、悟は悟だからさ」
「夏油さん、お気持ちはわかりますけど」
「スケジュール的に無理って言いたいんだろう?」
「ええ、まあ……。今が頑張り時と言いますか、せっかくオファーが来ているのを断るわけにはいかないと言いますか……」
伊地知はデビュー前から俺たちとは知古であり、もちろん俺たちの関係性を誰よりも深く知っている。だからこそ、傑の気持ちは痛いほどわかるだろうが、マネージャーとして黙って首を縦に触れる問題でもない。
「そこを、なんとかならないかな」
それでも傑は食い下がった。まあ、俺も最近全然傑とゆっくりできていないし、定期的に休みがもらえるなら嬉しい限りだが、実現不可能だろうと思って口にしていなかった。それを、まさか傑の方から提案してくるとは、ちょっと驚きだ。
「検討、してみます」
「ありがとう伊地知! さすが、頼りになるね」
しばらく沈黙が続いて、色々なものを天秤にかけた末に、伊地知はそう答えた。
もしこの我儘が叶うのなら、彼には大変な苦労をかけてしまうだろう。俺は日頃の行いもあって、柄にもなく少し申し訳なくなってしまう。
「伊地知、マジでいいの?」
「あくまで検討、です。実現できるとは言っていませんからね」
「いいよ、それだけで十分さ! 本当に恩にきるよ」
眼鏡を上げながら伊地知は気まずそうにするが、傑は満面の笑みで伊地知の手を取って礼を言う。
◆
それから、一ヶ月後のことだ。ついに傑の願いが叶うこととなった。
<あくまで七月の間だけですが、毎週火曜日におふたりの休暇を合わせました。どうぞゆっくり過ごしてください>
しばらく会えていなかった伊地知から、俺たち宛にメールが届いたのだ。
<追伸、あくまで七月だけです>
と、念を押されていたが傑は生放送の合間にメールを見た途端、俺のことを思い切り抱きしめた。
「やった! 悟、明日は一緒にいようね」
「おお、でも本当にいいんかな」
「伊地知がいいって言っているんだからここは甘えようじゃないか」
「ん〜、まあそうだな!」
休憩時間に突然抱き合っている俺たちを見て、他の共演者からは「お熱いですねぇ」「さすがお笑い界一のバカップル!」などと揶揄されたが、傑はそんなガヤも気にせずに俺を抱く力を強くする。
「ちょ、苦しいって」
「ああごめん、つい嬉しくてさ」
「お前、そんなに寂しかったの?」
「それはもう。兎だったら死んでいたかも」
「傑がウサギって似合わねぇ〜」
そんな会話をしていたら休憩時間も終わって、その日は傑のツッコミがいつも以上に冴えわたり、無事生放送の収録を終えた。
その後の俺たちは別行動。雑誌の撮影へと向かった傑とラジオ収録の準備に取り掛かる俺は、夜に家で再会できることを楽しみに一時の別れを告げた。
で、帰ってきたらこの有様だ。
「さとるぅ、遅かったじゃないかぁ」
「酔っ払いは寝てくれ〜」
「やだ! 今日は朝まで悟と過ごすんだから」
「絶対寝落ちするだろ、お前」
玄関を開けるや否や、酒臭い傑に出迎えられ顔面に無数のキスを浴びせられて今に至る。
酔っ払った傑に抱きしめられたままズルズルとリビングまで引き摺っていき、その巨体をなんとかソファに放り投げた。そこでようやく荷物を置いて、とんでもない光景を目にすることになる。
目に入ったのはローテーブルに無造作に置かれたビール缶の山。ワインなんて空瓶が置かれている始末だった。
「お前! どんだけ飲んでんだよ」
「だってぇ、悟と一緒は嬉しいからねぇ」
「つっても限度があるだろうよ」
「ふふっ、私に限界はないよ」
傑は上機嫌なようで、ソファに身を預けたまま人差し指でナンバーワンを作り、天井に掲げている。
「十分限界だろ。なに、なんかあったか?」
傑がこんなに酒を飲むことなんて滅多にない。むしろ普段は下戸の俺に合わせて、多少は口にしてもほろ酔い程度。そもそも酒にはかなり強いようで、こんなに酔ったのを見るのは年末のお笑いグランプリで優勝して以来のことだった。
こんなときは、機嫌に反して大体なにか抱え込んでいる時だ。俺は傑が寝転がるソファの端に腰掛けて、そう問うた。
「別に〜、なにもないけど」
「嘘だな、絶対何かあっただろ」
「……」
傑は宙で円を描いていた指をゆっくり下ろして、その腕を瞼を覆うように顔に乗せた。
「なあ、言ってみ?」
「うーん。ほら、悟は関係ないことだから」
「関係ないことねぇだろ。俺たちコンビだろ?」
「コンビ、だけ?」
「ああもう面倒クセェな! コンビで親友で恋人だろ?」
「ふふ、恋人だね」
「あ〜もうどうしたよ、お前」
腕が邪魔で表情が伺えないが、ソファに寝転がる傑の髪を撫でてやる。すると、まるで猫が甘えるように傑は己の頬を俺の手に擦り寄せてきた。
「悟、笑わないかい?」
「笑わねぇよ」
「絶対?」
「絶対」
しばらく沈黙が走って、傑は大きく深呼吸すると、やがてこう続けた。
「悟、この間ジュジュテレビの局アナと歩いてたろ」
「へ?」
「夜、見たんだよ。新宿で」
初めは何のことかさっぱり分からなかったが、傑の言葉にようやく記憶が掘り起こされる。
「ああ〜! 打ち上げの日な」
「彼女とタクシーでどこ行ったの」
傑の声音が拗ねたものに変わる。あ、これ絶対勘違いしてるな。
「あのなぁ、お前が思ってるようなことはないって」
「そんなのわかってるよ。悪酔いした彼女をタクシーまで連れて行ってあげていただけだろう?」
「めっちゃ知ってんじゃん」
「あとで本人を問いただしたから」
「うわぁ、怖かっただろうな」
そのアナウンサーとはバラエティで共演しており、その番組の打ち上げという体の飲み会に、俺はひとりで参加していた。もちろん酒は飲まなかったが場は勝手に盛り上がり、飲みすぎた連中の介助をする羽目になった俺は、その一環として彼女を送り届けただけのことだ。彼女とは朝のニュース番組で傑も共演しているはずだが、どういう形相で問いかけたのだろうか。なんというか、普通に怖い絵面しか浮かばなくて気の毒になる。
「悟、私はさ……」
俺が思案していると、傑が不安げな声で続ける。
「不安で、堪らなくなってしまったんだ」
言いながら髪を撫ぜる俺の手を取って、ようやく傑の表情を覗き見ることができた。それは今にも泣きそうで、その顔に俺は胸が詰まるような心地になる。
「すぐる、」
「私には悟だけなんだ。悟を世界で一番幸せにしたい。でも、この世界は広くて、もしかしたら私のほかにも悟を想う人が現れて、そしたらーー」
傑の声が、徐々に涙まじりのそれに変わる。そしてついに、濡れ羽色の瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。
「私のッ、そばから悟がいなくなったらどうしようって、そればかり考えてしまって……ッ」
「傑……」
「悟、どうか、こんな情けない私を置いていかないで」
ああ、馬鹿だな傑は。
コンビを結成した時から、いやもっと前からーーずっと、ずっと前から俺の唯一はお前だって決まっているのに、まだ気づかないんだから。
「バーカ、そんなんで伊地知困らせるなよ」
「ッ、うぅ、だって」
「だってじゃねぇって。俺がお前以外のやつに惚れた試しがあったか?」
「……ない」
「だろ? 俺にはお前だけ、お前には俺だけ。それで十分じゃん」
「ぅ、さとるぅ〜ッ」
「はいはい、泣き虫さん」
身を起こして俺を懸命に抱きしめる傑。それを受け入れて、ポンポンと背中を叩いてやる。
傑、本当に馬鹿だな。お前は安心してていいのに。だってーー
いつだって先に離れるのはお前の方だろうに。