たとえばこんな話へらへらとだらしなく笑う男が目の前にいる。
分霊体は失ったものの、まあとっととここから脱出するのは容易いだろう。
だから俺は椅子にふんぞり返って、名前を聞いてやった。
「あ、えと、僕は神在月といいます。本来は吸隊所属なんだけど、出向でVRCに来てて」
耐吸血鬼用強化ガラスの向こうで、やはりふにゃんとした顔をする。
「じゃあ事情聴取、はじめて良いかな、辻斬りナギリさん?」
どれだけ尋ねられても、斬った相手の事など覚えていない。
あれは恐ろしい吸血鬼、辻斬りナギリだと叫ぶ声があるだけで。
斬って吸った血よりも、その恐怖の声こそが、俺を俺たらしめる畏怖だ。
「じゃあ一番最近は、小学生の子供三名を斬った〇〇日の件かな?」
「知らん」
遊び半分で頬をほんのひと撫でずつ。それだけだ。
「すっごく怖かったって言ってたよ」
こんな怖いなら、退治人なんてなれないなあって。夢だったんだけど諦めるって。
「退治人が減ったのたら俺には幸いだな」
ヒヒッと笑ってやる。
「吸血鬼のひとにはそうだろうねえ」
なんでこいつは笑いながら相槌を打っているんだ。
キーボードがカタカタと音を立てる。
「あ、最後に一つだけ」
「なんだ」
最初にこのシンヨコに来て、斬ったの誰だったか覚えてる?
覚えてる筈がないだろうと言いかけて、ふと思い出す。
……ああ、俺の名がまだこの街に轟いていない頃だったから、ひたすら怯えて震えていた男だったか。
一緒に抱えていた紙の束もバサバサとカッ斬って、気分が良くなった記憶がうっすらとある。
「あ、覚えててくれたんだあ」
それ、僕です、と。嬉しそうに、心の底から嬉しそうに、男は笑った。
なんだと?
「ええとね僕は漫画家志望ででもいい加減アラサーだからこれがダメならきっぱり諦めようかと思ってたんだけどあの日見てもらった原稿がいいんじゃないかっていわれてひゃっほうデビューも間近って抱えて帰るところで君と出会って原稿ごと斬られて君は左手だぞう助かったなって笑ってたけれど僕は実は左利きでけど元々ダンピールだったんで救急で父さんが駆けつけてくれて間一髪命は助かったんだけど損傷は回復できなくてああ某大先生とお揃いだなあとか不謹慎にも思ったけどだからこの手は義手です君に落とされたからほら恥ずかしいから手袋してるけどそれでね斬られた時に君の血の影響を受けたらしくて僕もこれを出せるようになったんだよ。」
ほらね?
義手だという握りこぶし、指の付け根の関節から五本の血の刃が出る。
いや刃ではなく細くて棒状の…?
「こっちの端から僕の愛用してたGペン丸ペンロットリングにベタ用の筆ペンにそうそう親指はホワイトの為の修正液最先端極細!でもこれ手の甲がわだから」
描けないんだ。
描けないんだ。
描けないんだ。
笑ったまま俺を見つめる瞳の片方が、ゆっくりと金色から真紅へと変わってゆく。
「だからねえ、ぼくはいまのじぶんでもかけるまんがをかきたくて」
瞳からゆっくりと、ペンと言っていたのに良く似たモノが出てくる。
「ぼくはむかしっからあきらめがわるくてゆめをすてられないんだなあってこんなふうになってじっかんしましただからうごかないでくれるとうれしいなあ」
顔が近づいてくる。何故だ、動けない。
ビシリと、ガラスにペンが付き刺さり、ヒビが、入った。