【さこ+みつ】ぬいさこん 朝、登校前に見た天気予報では夜には雪になるかもしれないと言っていた。そんな、今シーズン一番の寒さを記録した冬の日。
小学二年生の三成は、いつもの通学路を外れて大きく遠回りして帰っていた。時折、家に帰りたくない日はこうやって遠回りする。
昼過ぎから降り出した雨は、下校時刻に合わせるようにみぞれ混じりになっていた。三成は傘をさしてうつむきかげんにとぼとぼと歩いていく。
遠回りしたところで、いつかは家にはついてしまう。あと5分くらいだろうか。
気が重くなった三成の視線の端に、不意に動くものが入ってきた。気になって顔を上げると、目に写ったのはゴミ捨て場と、そこに群がる数羽のカラス。
ゴミ出しルールを破って出された生ゴミでも漁っているのだろう。そう考えつつ三成が歩いていくと、近付いてきた人間を警戒してかカラスが飛び立つ。その羽音につられるように何気なくカラスがいた場所をちらりと見て、三成は足を止めた。
てっきり食い散らかされた生ゴミがあるのだろうばかりと思っていたのだが、予想に反して、そこにあったのはぬいぐるみだった。
大きさは20センチないくらいで、泥にまみれてひどく汚れている。
三成は引き寄せられるように汚れたぬいぐるみに近付いて、何の戸惑いもなく手に取った。カラスに突かれたせいでボロボロになった着物と袴を身に着けているそのぬいぐるみは、後ろ髪が長いようなデザインなのに、眉が太くて目が吊り気味だった。左頬の部分が裂けて綿がはみ出しているのが痛々しい。
「……お前も一人ぼっちなんだな。俺と一緒だ」
三成はそう呟くと、みぞれにぐっしょりと濡れて冷たくなったぬいぐるみを大事に抱えて帰り道を急いだ。
「ただいま帰りました」
「おかえり。寄り道はほどほどにするんだよ」
何かを察してくれているのだろうか、リビングでテレビを見ていた母親のねねは帰りが遅かった三成を叱ることはなかった。
「三成もこっちにおいで。貰い物のお菓子があるよ。今お茶入れてあげるから、ランドセル置いておいで」
三成はこくんと頷くと、リビングを抜けて自室に行こうとする。それを、三成が手に持ったものに目を止めたねねが引き留めた。
「それ、どうしたんだい?」
「え? ああ……帰り道で拾いました」
三成は手の中の汚れたぬいぐるみを見た。このまま部屋に持っていこうと思っていたのだが……。
「あの……おねね様、これ、直せますか?」
三成はねねの前に汚れたぬいぐるみを差し出した。
「ありゃ、ボロボロじゃない。顔も裂けちゃって可哀想に。うん、私に任せて。お裁縫は得意だもん」
ねねは笑顔で差し出されたぬいぐるみを受け取る。
三成はホッとしたように微笑んだ。
「よろしくおねがいします」
「三成のお友達だもんね。ちゃーんときれいに直してあげるよ」
お友達……。
ぬいぐるみが少し笑った気がした。
それから4日後。きれいになったぬいぐるみが三成のもとに戻ってきた。ねねに優しく丁寧に洗われ、ボア生地の肌はふわふわだ。裂けた左頬はきれいに縫い合わせてあったが、縫い跡が傷のように残ってる。
「ごめんね。どうしても傷になっちゃって」
そう謝るねねに、三成は心から礼を言った。頬の傷だって、個性と思えば全く気にならなし、このぬいぐるみには不思議と似合っているように思えた。
「ありがとうございます、おねね様。こんなにきれいにしてもらって、きっとぬいぐるみも喜んでいると思います」
新しくねねが作ってくれた深緑の小袖と黒い袴を身に着けたぬいぐるみは、侍といった風情だった。
「そうかい? ならいいんだけど。それにしても、何のキャラクターだろうね?」
「……さあ? それは俺にもわからないです」
でも、そんなことはどうでもいいのだ。三成はそのぬいぐるみをベッドサイドのテーブルの上に置いた。なんだか見守られているような気がして、心強い気持ちになれた。
明日から春休みという修了式の日、三成は小学校から帰ってくるなり自分の部屋に飛び込んだ。
今日、クラスメイトと喧嘩した。
始まりは些細な口論だったのだが、三成は小学二年生とはとても思えないほどに大人びた子どもだったので、そういった口喧嘩で負けたことはない。しかし、言い負かされたのがよほど悔しかったのだろう。クラスメイトは三成の心を一番えぐる言葉を言ってきたのだ。
「お前なんて親に捨てられたいらない子のくせに!」
その場では平然と「言いたいことはそれだけか?」と返せたが、心中穏やかではなかった。
三成が今世話になっているこの家は、確かに三成の実家ではない。両親の秀吉とねねも、実の親ではない。二人は三成に「三成の両親はどうしようもない事情があってわしらにお前を預けたんじゃ」と言っていた。いらないから捨てられたわけではない。
……と信じたかった。
三成はベッドサイドのテーブルに乗せていたぬいぐるみを手に取ると、ギュッと抱きしめた。このぬいぐるみが来てから、三成は辛いことがあるとこうやって心を落ち着けるようになっていた。
秀吉にもねねにも本当に可愛がってもらっていると思う。何不自由ない暮らしをさせてもらっている。だから、二人が気に病むようなことを言いたくない。
三成は必死に涙をこらえようとしたが、こらえきれない雫がポロポロとこぼれ落ちてぬいぐるみの頭が濡れていく。
「俺は……ひっく、いらない子……」
三成が耐えきれないようにそう呟いたとき、三成の頬にふわふわしたものが触れた。
三成が顔を上げれば、抱いていたぬいぐるみの手が上がって揺れていた。
『殿、ここに左近がいますよ。もう泣かないで』
低く優しく響くその男の声は、腕の中のぬいぐるみから聞こえてきた。
『ね、もう泣かないで』
ぬいぐるみの顔は刺繍で作られていて動くはずはないのに、まるで微笑んでいるように見えた。
「お前、生きてるのか?」
少しびっくりした三成だが、不思議と恐ろしいとも気味悪いとも思わなかった。
『お前じゃなくて左近ですよ』
「さこん?」
『そう。左に近いと書いて左近です』
ぬいぐるみは短い手をぱたぱた振った。
『左近は殿の家臣なんですよ。なんでも話してくださいね』
「殿? 家臣?」
『そうです。三成さんは俺の殿なんです。左近はいつでも、何があっても殿の味方です』
その時、三成の頭の中にぼんやりとした風景が浮かんだ。目の前には背が高くて髪の長い男。その背を見ているとひどく安心する。
「左近、ずっと一緒にいてくれるか?」
『勿論ですよ。今度こそ、ずっと一緒ですよ』
たまらなくなって、三成は左近をもう一度抱きしめた。