戸惑う狐と余裕な狼 それなりの高校を出て、順当に大学を出て、将来はそこそこの企業に勤められればいい。
石田三成は幼い頃から全く夢のない将来像を語る子どもだった。
三成を育ててくれた実業家の養父母は、三成の整った容姿を見ては勿体ないと何度も漏らしていた。
一方、三成とともに育った加藤清正は小学生の頃からモデルとして活動し、福島正則は高校生で俳優デビューした。清正はスラリと背が高く、硬派な性格が女性に受けている。正則にくる仕事はもっぱらヤンキー高校生役ばかりだったが、徐々に役の幅を広げていた。
三成が大学二年生の頃、養父の秀吉はとある芸能事務所を買収した。いや、買収したというより運営資金が尽きた知り合いの社長に泣きつかれたというのが正しい。
息子の清正と正則を移籍させて事務所は再出発となった……。のだったが、潰れかけの芸能事務所は秀吉の経営手腕を持ってしても中々業績は上向かなかった。
言動が事務的で冷たく思われがちな三成だが、本来は情に厚く家族思いだ。夜遅くまでマネージャー業務をこなして疲れ切った養母のねねの姿を見て見ぬふりなどできなかった。
「おねね様、俺になにかできることがあれば……」
このとき三成は、ねねのマネージャー業務や会社の経理などで手伝えることがないかと申し出たつもりだった。しかし、ねねはそうはとらなかったようだ。
「本当かい⁉ やっとその気になってくれたんだね‼」
その気ってなんだろう?
三成は疑問符を浮かべたまま、あれよあれよという間に俳優デビューすることにになってしまった。
勉強ばかりで映画も殆ど見ないし、演技経験も皆無な三成がいきなり真っ当な演技などできるはずもない。ほんの一言二言しかセリフのない役なのに何度もNGを出してしまったこともあった。
しかし、生来の負けず嫌いと努力家の性格が幸いしてか、三成は若手俳優として少しずつ注目されるようになっていった。
その後、卒業論文に集中するために一年ほど俳優業は休んだが、一般企業に就職することはせず、大学の卒業と同時に俳優に復帰した。
三成が事務所に顔を出すと、ねねが満面の笑みで三成に近づいてきた。
「三成、復帰一本目の作品が決まったよ! しかも映画の主演だよ!」
「はい?」
想像もしなかったねねの一言が理解できずに、三成は何度もまばたきを繰り返した。
「あの、誰と間違っているんですか?」
事務所に所属している他の俳優の仕事と間違っているのではないかと三成は訝しんだが、ねねが差し出した台本の未定稿の出演者の欄には間違いなく主演のところに三成の名前が書かれていた。
「……同姓同名の誰かと間違っているのでは?」
まだ信じられない三成がそう口にすると、ねねは腰に手を当てて「しょうがない子だね」と首を横に振った。
「間違ってなんかいないよ。これは三成に来た仕事なの。はい、これが原作小説だよ」
三成は一冊の文庫本を手渡された。いわゆる女性向けのライトノベルだ。その表紙イラストの青年は、三成によく似ていた。
「分かったかい? 原作者の先生が、主役のイメージが三成にぴったりだって推薦してくれたんだって」
三成は「はぁ……」と気の無い返事をしながらパラパラとページを捲った。
どうやらこの物語は刑事物らしい。三成の役はプライドの高いキャリア警察官。そしてバディを組む年上のノンキャリア警察官とのコメディありシリアスありの展開が繰り広げられる。所々にある挿絵に目を留めながら続けてページを捲っていた三成の指が不意に止まった。
そのページの挿絵は、男同士がキスしているイラストだったのだ。前後の文章を読んでみれば、それは紛れもなく主役の二人。つまり、演技とはいえ三成は男とキスすることになる。
「あの、おねね様……、これはどういう?」
ねねは三成の手元を見て「あー」と気の抜けた声を出した。
「この原作はね、今流行りのびボーイズラブものなんだよ。始めは上手く行かないでこぼこコンビが次第に打ち解けあって、お互いへの信頼がだんだん愛に変わっていくっていう定番の展開だね」
初主演映画が男同士の恋愛物だなんて。
できることなら断りたい。しかし、これから本格的に売り出そうとしている三成が、一度受けた主演作品のオファーを蹴ったとあらば業界に悪い噂がたちかねない。辛うじて黒字になったこの事務所にも、悪い影響があるかもしれない。
たかが芝居だ。撮影期間だけ我慢すればいいこと。
三成は他の出演者も確認しようと台本の方を手に取った。
三成の隣に書かれている俳優の名は島左近。この名は三成も知っている。海外の映画からも出演オファーが来るアクション俳優だ。
「この映画、刑事物で主軸は主役二人の関係なんだけどね、派手なアクションも売りにしたいんだって。そこで、アクション俳優さんがキャスティングされたわけ。もっとも、原作者さんが島さんのファンで、島さんをモデルにキャラクターを作ったって噂だけどね」
それでこの挿絵の男は長髪なのかと三成は合点がいった。確か、長い黒髪を翻してのアクションが格好いいと女性人気も高いと聞いたことがある。
そこでふと三成の頭に疑問が浮かんだ。
三成は今年二十三歳になる。相手の島左近は、正確なところは分からないが、少なくとも三成より十歳以上年上のはず。
「二十代と三十代の恋愛ってボーイズラブっていうんですか?」
「んー? どうなんだろうねぇ? メンズラブっていうのかねぇ? とにかく、台本の決定稿は顔合わせのときに渡すそうだから、三成はちゃんと原作読んどくんだよ」
ねねはさらに文庫本を追加で二冊三成に渡した。
それから三週間後……。
三成は原作をしっかりと読みこんだ。
プライドが高くて素直になれず、何かと周囲とぶつかってしまうキャリア「一ノ瀬恭介(いちのせきょうすけ)」警部と、格闘も射撃も卓越した技術を持っているのにおっとりしていて気が優しい「真柴暁斗(ましばあきと)」警部補のコンビは、主に暁斗の大きすぎる度量と包容力に恭介が次第に心を開いていくという展開で、三成が気になったキスシーンは恭介の方から仕掛けたものだった。
しかし、どこか自分に似ているところがある恭介が暁斗に惹かれていくさまには妙に共感し、二人が恋人同士になる展開にも違和感はなかった。
ネット上の評判も探ってみたのだが、三成が思っていた以上に作品のファンは多く、実写映画化については賛否両論だった。しかし、原作者の好みはファンの間では常識だったようで、「真柴暁斗役が島左近なら文句言わない」といった書き込みを沢山見た。恭介役の方は某アイドル事務所のタレントの名前が何人も出てきていたが、三成の名前は一度も見なかった。
期待されていない。少々傷ついたが、ある意味気楽ではある。
顔合わせ場所にと取られたスタジオの前で三成は一つ大きく息をついて表情を引き締めた。
集合時間まではまだ十五分ほどあったが、用意されていた席は半分ほどが埋まっている。
ロの字形に十二台の長机が組まれ、奥と左手にメインスタッフ、手前と右手にキャスト、メインキャストの後ろの方にはパイプ椅子だけが置かれ、端役のキャストとその他のスタッフがそこに座る。
入り口のスタッフに名を告げると、手前の机の中央を示された。周囲に軽く頭を下げて挨拶しながらその場所に行けば、隣にはもうパートナー役の島左近が座っていた。
「あの、お世話になります、石田三成です。よろしくお願いします」
ねねから口酸っぱく「挨拶は一番大事だよ!」と教えられていた三成は、左近に向かって深く腰を折った。
「こちらこそ、恋愛ものの当事者は初めてなのでよろしくお願いしますね」
低く優しい声がそれに答える。
三成が今まで見た映画の中では、左近は悪役のボスだったり、用心棒だったり、はたまたパーティーの中の武闘派だったりといった役ばかりだった。総じて声は粗暴だったり力強かったりしていた。
――普段はこんなふうに話すのか……。
原作小説で読んだ暁斗のセリフが、今聞いたばかりの声で再生される。
ぴったりだと思った。
まだ少し時間があると思ったのか、今度は左近の方から三成に話しかけてきた。
「すみません、実は貴方の出演作は見たことがなくて……。今までどんな役をしてこられたんです?」
眉尻を下げた顔が本当に申し訳無さそうで、三成は軽く吹き出してしまった。
左近が見たことがないというのも当然だ。過去の出演作は十作を超えているとはいっても、映画のワンシーンしか出番のない端役か、ドラマで一話限りのゲストキャラだ。あとはモデルの仕事が少しとプロモーションビデオくらいしかやっていない。
「そうですか。それじゃあこの仕事は大抜擢ですね。俺は下積みが長かったんですよ。やっぱり顔が綺麗だと得ですね」
左近の言葉からはほんの少しの皮肉が感じられ、三成は思わず左近を睨みつけていた。
「顔だけだと言われないように精進します」
「おっと、失礼。三流俳優の僻みです。気にしないでください」
優しい声と柔和な笑顔。しかし、その目は少しも笑っていない。貼り付けた微笑の裏にある毒を垣間見て、三成は耐えきれずに視線をそらした。
メインスタッフとキャストが自己紹介をし、決定稿の台本を渡され、その場で一度目の読み合わせが行われた。
キャストの中では子役を除けば三成が一番経験が浅く、読み合わせは芳しくなかった。芳しくないどころか散々だった。女性監督の顔を盗み見れば、あからさまに困ったような表情をしている。
「次回の読み合わせまで役のイメージを掴んでおいてください。その後はリハーサル、衣装合わせ。クランクインは二週間後です」
監督のお疲れ様でしたの一言で集まったキャスト・スタッフは席を立ち三々五々帰っていく。
「このあと、時間ありますか?」
暗澹たる気持ちで席を立とうとした三成は、左近に呼び止められた。
あまりにも不甲斐ない相棒役にに文句の一つでも言いたくなったのだろうか。
「はい」
三成はポツリと呟くように返事をし、「じゃあ行きましょうか」という左近の後ろについてとぼとぼと歩き出した。
てっきり人気のない路地裏にでも連れ込まれるのだと思っていた三成は、左近が入ったのが普通のダイニングカフェだったことに拍子抜けした。
「なんて顔してるんです? 路地裏で殴られるとでも思いました?」
図星を指されて三成はバツが悪そうに俯いた。
「俺のせいですよね。読み合わせの前にあんな嫌味ったらしいこと言ってすいませんでした」
三成が顔を上げれば、左近は先程よりもずっと優しい顔をしていた。なにより、その目元がふんわりと微笑んでいる。
「腹減ってません? お詫びにここはおごりますよ。好きなもの頼んでください」
メニューを差し出され、緊張の糸が切れて急に空腹を覚えた三成は、カルボナーラの大盛りとオニオングラタンスープと、食後にキャラメルバナナパフェを。一方の左近はエビのトマトクリームパスタをオーダーした。
「主演どころか台詞の多い役自体初めてなんですよね。最初なんてみんなあんなもんですよ」
どうやら左近は見るからに落ち込んでいる三成を励まそうとこうして連れ出してくれたようだった。
「本番の撮影では、迷惑をかけないように頑張りますので!」
三成が勢い込んでそう言うと、左近は「そう肩肘張らずに」と軽く笑った。
「隣で本読み聞いてて思いましたよ。真面目な人なんだなぁって。でも、ちょっと不器用かな」
「あ、その……演技の幅が広くないことは自覚してます」
「それは慣れですよ。演技の引き出しは少しずつ増やしていけばいいんです」
俺みたいにね。
左近はそう言って右手で頬杖をついた。
どんな仕草も様になる男だと三成は羨ましく思う。
「三成さん、と呼んでもいいですか?」
「は、はい」
「じゃあ俺のことも気安く左近って呼んでくださいね。
原作読みました? 三成さん、恭介のイメージにぴったりだから、あんまり役として作り込まないほうがいいかもしれません。あとはリハで監督と擦り合わせていきましょ。大丈夫ですよ。俺もできる限りサポートしますから」
左近から力強くそう諭され、沈んでいた気持ちが浮上してくる。
「左近さんは面倒見がいいんですね」
「真面目に頑張ってる人って応援したくなるじゃないですか。不器用そうな人なら尚の事支えたくなるんですよ。どんなに見た目が良くても、演技が上手でも、適当に仕事してるようなヤツは嫌いですよ」
それが読み合わせ前の冷たい視線の原因だったのか。
「一緒に頑張りましょう、ね?」
眼の前でとびきり優しい笑顔を向けられて、三成は顔が熱くなっていくのを感じていた。
二度目の読みあわせでだいぶ持ち直した三成は、隣で左近が小さな声で「今日は良かったですよ。頑張りましたね」と言ってくれたことでようやく笑顔になれた。
その後衣装合わせを行えば、だんだんと気分も乗ってくる。
その日のスケジュールが終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「左近さん、よかったらこのあと……」
今度は三成から食事に誘ってみる。今後のことを考えても、できるだけコミュニケーションは取っておきたい。相手の思考や癖を知ることはきっと撮影の役にも立つはずだ。
左近は三成の誘いを二つ返事で受けてくれた。
仕事の話もしたくて、気兼ねなく会話できる個室のある居酒屋をスマホで探してそこに向かう。
たどり着いた居酒屋は個室ではあるものの非常ににぎやかで、三成は失敗したかと頭を抱えたくなった。メニューも全体的に安っぽい。
「普段酒を飲みに行くのはバーが多いので、こういうところは久しぶりですよ」
しかし左近は気にした風でもなく、楽しそうにメニューをめくっては「三成さんはこれ大丈夫ですか? 今夜は肌寒いですし、鍋食べませんか?」などと聞きながら備え付けのオーダー用タブレットに入力していく。
「すいません。左近さんに店は任せればよかったですね」
「いえいえ。俺はどこでも全然構いませんって」
酔いたくなかった三成は烏龍茶、左近はハイボールを注文してから三成は本題に入った。
「左近さんは恋愛ものは初めてだって仰ってましたけど……」
「この顔でこのガタイでしょ? 恋愛ものには呼ばれませんって」
確かに左近は背が高くて筋肉質だ。顔は十分男前の部類だと思うが、少々厳つい。
「三成さんはこれからそういう方面のお声が沢山かかりそうですね」
一方の三成は絵に描いたようなアイドル顔のイケメン。しかし、三成は恋愛映画はあまり好きではなかった。
「俺は、左近さんが出演されるようなハードボイルドなアクション映画に出たいです」
三成が素直な感想を口にすると、左近は少し困ったように目を泳がせた。
「そうなんですか……うーん……、こう見えてもアクション俳優って結構大変なんですよ。俺は子どもの頃から剣道と空手やってたし、アクション俳優を目指すようになってからは中国拳法とかキックボクシングとかも習いましたし、パフォーマンスが落ちないようにトレーニングも欠かせませんし」
「あ、いや、左近さんの仕事が簡単そうだとか、俺にもできそうとか思ったんじゃなくて」
三成はしどろもどろになった。決して左近の仕事を誰にでもできそうなどと軽んじたわけではないのだ。
「謝らないでください。別に気を悪くしたわけじゃありませんよ。ただ、この道だけで食べていくのは容易じゃないんです。それに、怪我も……ね」
左近は自分の左頬、目の下辺りを撫でた。
「ここね、普段はメイクで隠してますけど、傷があるんですよ。まだ駆け出しだった頃に相手との間合いを見誤ってジェラルミン製の模造刀の切っ先でざっくりやっちまいましてね。模造刀とはいえ、思い切り振られれば危ないんです」
顔に怪我というのはあまり聞かないケースだが、骨折まではいかなくても打撲や捻挫は日常茶飯事だと左近は笑った。相手の俳優が不慣れだと特に多いとも。
「頑丈なのが取り柄なんで平気ですけどね」
左近はなんでもないことのように言うが、きっと痛みを堪えて無理をしたことや、疼痛に眠れない夜だってあっただろう。
「三成さんは優しい人ですね」
いつの間にか、三成のほうが怪我をしたように顔を歪めていた。
「そんな顔しないでくださいよ。今の映画業界は演者の安全対策はしっかりしてくれます。でも、ほんの少しの油断で大怪我することもありますから、そこは常に気を張ってないとね。今回の映画にもアクションシーンがありますから、お互い十分気をつけていきましょう」
そこでちょうどオーダーしていたものが届き始めたので、会話は一旦中断する。
テーブルの真ん中にカセットコンロと大きな土鍋が置かれ、左近がそこから小鉢によそって三成に渡してくれた。それぞれジョッキを持って乾杯し、熱々の鶏ちゃんこ鍋を頬張る。
「来週はいよいよクランクインですね」
鍋の中身が半分ほどになった頃、左近が口を開いた。
「そうですね。公開まではまだ十ヶ月近くあるっていうのに」
ドラマは放送の数ヶ月前にクランクインして放送と撮影を並行して行うことも多いが、映画は撮り終わってからの編集作業や公開までの準備が長い。実際、今回の映画でも撮影期間は約一ヶ月間となっている。
「映画の場合だと、役者は映画を撮り終わってからも色々仕事があるんですよ。この映画も制作発表はクランクアップのあとですし、それに合わせてキービジュアルとかの撮影もありますし、公開が近くなると宣伝のためのメディア出演も増えますから」
情報番組にバラエティ番組、雑誌の取材。
映画が公開されてからも、以前は初日だけだった舞台挨拶を、興行が好評だと追加で行うこともある。
作品の性格上、二人セットで出ることになるだろうことは容易に想像がついた。
「バラエティなんかだと、恋人同士扱いされそうで微妙ですね」
困ったように言う三成に、左近は余裕の顔で笑いかけた。
「左近に本気で惚れちゃってもいいですよ」
「……遠慮しておきます」
「おや、それは残念」
色を含んだ視線に一瞬ドキリと心臓が高鳴る。三成はそれに気づかなかったふりをして鍋をかきこんだ。
映画のタイトルは原作小説と同じ『強気な狐と弱気な狼』に決まった。通称は『キツカミ』だそうだ。
一応警察ものなのだが、リアリティよりも二人の恋愛模様を重視しているので、地名は全て架空のものだし、組織の描写も割とご都合主義的なところがある。「日本とよく似たどこかの世界の警察に似た組織でのお話」ということだ。
原作小説の中の一ノ瀬恭介は、本来なら警察庁勤務になるところをあまりの協調性のなさから所轄署での研修を申し渡された、ある意味落ちこぼれキャリアだ。すこぶる優秀で頭の回転が速いゆえに周囲が馬鹿に見え、それを口に出してしまうという面倒くさい性格だった。聞き込みに行っては相手を怒らせ、犯人の説得にも失敗し、その度にパートナーにフォローされてはプライドを傷つけられて勝手に落ち込むということを繰り返している。
真柴暁斗は、所轄署勤務。刑事課の強行犯係長で、本庁から押し付けられてきた恭介の面倒を見ることになるが、お手本になるような人のいいお巡りさんのようで、どこか不穏な影を感じさせるシーンも有る。
映画でもドラマでもそうだが、撮影するシーンは台本の流れ通りとは限らない。
映画自体は恭介が暁斗のいる署に赴任してくるところから始まるが、三成と左近のクランクインは、事件の聞き込みに殺人事件現場近くの家々を回る場面だった。
ピンストライプが入った濃紺の細身のスーツに身を包んだ三成は、グレーのチェスターコートの襟元を直していた。左近の方は黒に近い深緑のスーツに黒のロングトレンチコートを羽織っている。
撮影は、ドライリハーサル(機材を回さない、通し稽古的リハーサル)、テストと二回のリハーサルを済ませてから本番だ。
目撃情報を集めるためにアパートを一部屋一部屋回って聞き込みをするシーン。
「昨夜の十時から十二時の間辺り、なにか不審なことはありませんでしたか?」
慇懃無礼な三成演じる恭介のセリフ。それに住人役が「さあ……わかりませんね」と寝ぼけ顔で面倒くさそうに答える。
「分かりませんじゃなくて、何か見たり聞いたりしてませんか」
苛つく恭介が更に続けると、住人の機嫌が悪くなり、恭介も眉を吊り上げる。しまいには「知らねえって言ってんだろうが!」「そんなわけがあるか!」と口論になってしまった。そこにやんわりと左近演じる暁斗が入ってくる。
「目撃情報が少なくて焦ってしまって。申し訳ありません。どんな些細なことでもいいんです。人の言い争う声なんかじゃなくて、例えば……、野良猫がやたらと鳴いてたとか、何か物を落とした音がしたとか」
暁斗が深々と頭を下げると、住人は渋々というように「こっちも怒鳴って悪かったよ」と言い、そう言えばと、時間は定かではないが、日付が変わる前ぐらいの時間に何かを叩くような音を聞いたと話してくれた。
カットの声がかかり、三成は不満げに歪めていた顔をほっと緩めた。スタッフは撮ったばかりの映像を確認している。特に演技のミスはなかったが、監督が気に入らなければ撮り直しだ。
「カメラの位置を変えてもう一度お願いします」
アングルの都合上、欲しいカットは一度では撮りきれない。先程とできる限り同じ演技をしたつもりだったが、前半部分のみリテイクがかかってもう一度撮り直した。
同じような聞き込みシーンを三ヶ所で撮って、場面は公園に切り替わる。エキストラの親子連れが公園で遊んでいて、その片隅のベンチで二人で会話するシーンの撮影だ。
ベンチに座って項垂れている恭介のところに、コンビニで飲み物を買ってきた暁斗がやってくる。
「一ノ瀬警部、歩き回って疲れたでしょう? 甘いもの食べると元気出ますよ」
恭介が聞き込みが上手くできずに落ち込んでいるのを、暁斗はあえて歩き疲れたのだと曲解したのだ。
はい、と暁斗が袋から取り出して恭介に差し出したのは、ホカホカのあんまんだった。
暁斗は恭介の隣に座ると、自分の分のあんまんを手にしてぱくりと頬張る。
「一ノ瀬警部は責任感が強いんですね」
恭介が顔を上げて隣を見ると、暁斗がこちらを見て笑っていた。
「なんとか情報を集めないとって必死でしたもんね。でも、まだ焦るような段階じゃないですよ。気持ちにゆとりを持っていきましょう」
一言一言、優しく言い聞かせるようにセリフが紡がれる。それは勿論台本に書かれたセリフではあるのだが、左近から三成へのメッセージのように思えた。「気持ちにゆとりを持って」それは、今のいっぱいいっぱいになっている三成に一番必要なものかもしれない。
「……余計な世話だ」
恭介は憎々しげに吐き捨てて、顔をそらしてあんまんに齧りつく。
そこでこのシーンは終わりだ。
左近のセリフを噛み締めて聴いてしまったために、最後の一言を言うまでにだいぶ間が空いてしまった。これは予定外だ。
スタッフが映像をチェックしているのを遠目で見つつ、ベンチに座ったままの三成は隣の左近に頭を下げた。
「すいません。あんまん、もう一個食べてもらうことになりそうです」
「今のシーンがNGだと?」
三成が頷くと、左近は不意に三成の肩をぽんと叩いた。
「最後のとこの間ですよね。俺は良かったと思いますよ。まあ、追加の撮りはありそうですけど。大丈夫ですから、肩の力抜いて、ね?」
リテイクなんて何回だって付き合いますから。
「あれが偶然じゃなくて演技でできるようになったら三成さんも一流ですよ」
左近がくすりと笑う。そして左近が言った通り、そのシーンはそのままOKとなり、三成の表情のアップが追加撮影されることになったのだった。
撮影はスケジュール通りに順調に進んでいた。一週目は外でのロケがメインで、二週目は警察署内のシーンの撮り。人付き合いが得意ではない三成が共演者とすぐに打ち解けられたのは、やはり左近のさり気ない気遣いがあったからだろう。
午前中の撮影が終わり、各々好きな場所でロケ弁を開く。弁当だけでなくケータリングのちょっとした軽食や温かい汁物もあり、晩秋の撮影ではありがたい限りだ。
今日も一緒に昼食をと思った三成が左近を探していると、スタジオの隅で姿を見つける。しかし、左近は一人ではなく別の俳優と一緒だった。
今日の撮影から合流した三成と同い年の若手俳優は、どうやら熱狂的な左近のファンらしかった。アクションのコツなどを真剣に聞いては、文字通り手取り足取り指導してもらっている。
「僕、島さんみたいなアクション俳優になるのが目標なんです!」
目を輝かせてそう告げる彼に、左近はいつもの笑顔で答える。
「きっとなれますよ。がんばってくださいね」
三成は思わず拳を握りしめていた。
三成には遠回しに「やめておけ」と言ってきたのに。
「お昼、時間無くなってしまいますよ。左近さん」
ツカツカと近づいて二人の間に割って入り、わざとらしく左近のことを名前で呼べば、何かを察したのか左近が面白そうに笑う。
「食いっぱぐれると午後に響きますからね。じゃ、また」
左近はまだ興奮冷めやらぬ相手に軽く手を振って三成の隣に来た。
「嫉妬してもらえるなんて嬉しいですよ」
三成を肩を並べて歩きながら左近はそっと囁く。
「そんなんじゃありません。本当に時間がなくなるから呼びに行っただけです」
気持ちのざわざわが収まらないままに出た言葉は刺々しい。
「……現場じゃなんなんで、後で話しますね」
左近はため息混じりにそう言った。
撮影終わりに連れ立って食事に行くのは、今や二人にとって当たり前の日常になっていた。その日の反省や明日の演技に役立ちそうなアドバイスなど、会話の内容は至って真面目なものだが、二人ともその時間を楽しみに日々の撮影をこなしているようなものだった。
結局もやもやした気持ちが晴れぬままにその日の撮影をなんとか及第点というレベルで終え、二人はもう夕食時はすっかり過ぎた街に繰り出した。
「三成さんはなにか食べたいものありますか? 俺は中華がいいなーって思うんですけど」
「俺はどこでも……」
相変わらずあまり元気のない三成を気にかけつつ、左近はお目当ての中華ダイニングに向かって歩いていく。
「中華の店に行くのは初めてですよね。何が好き……あれ?」
返事がないことに左近が足を止めて振り返ると、いつの間にか三成との距離は十メートル近くになっていた。左近が早足だったわけではない。三成がぼんやりしていただけだ。
左近は大股で戻ると、三成の手を掴んだ。
「迷子になりますよ。もうすぐだから、ちゃんとついてきてください」
「えっ、ちょ、あの……」
左近に手を引かれて三成は歩き出す。
誰かに見られたらどうしようというという焦りはあったが、繋がれた手を解きたくないと思ってしまった。大きくて温かい手にほっとする。
左近の言った通り、二分ほどでその手は解かれた。目的の中華ダイニングは深夜まで営業していて、バーのような雰囲気もある上品な店だった。
追加料金を取られてしまうが、左近は迷わず個室をとった。八人まで入れる広めの個室に二人というのはなんだか落ち着かない。
定番の中華の大皿料理を数品頼んで、いつもはノンアルコールを頼む三成が今日はアルコールをオーダーした。
左近はビール、三成は杏露酒で乾杯して、次々届く大皿料理を取り分けつつ空腹を満たしていく。
その大皿が殆ど空になって、ドリンクも三杯目に入った頃に、左近は昼のことを話しだした。
「現場の休憩時間にああやって話しかけられることってよくあるんですよ。誰にでもあんなふうに返してます」
軽く相手をして、頑張ってねと励ましの声をかけて。
「俺には、言ってくれませんでした」
酒に弱い三成は、すっかり酔ってしまっていた。普段は理性で抑えている本音が思わず出てしまう。
「ええ、三成さんにはそんな適当なことを言いたくないんでね」
三成がハッとしたように左近を見ると、今まで見たことがないような真剣な視線とぶつかった。
「頑張れなんて言うのは簡単です。ですがね……、三成さんはいい役者になりますよ。だから、俺とは違う正統派な俳優を目指してほしいんです」
「でも……俺は……」
「本音を言うとね、貴方に怪我してほしくないんですよ」
「それは……俺のことを特別だと思ってくれているから、ですか?」
左近の視線がふっと反らされた。
「それはまだ、秘密です」
否定も肯定もしない左近の思わせぶりな言葉に、三成の胸がチクリと傷んだ。
撮影三週目は地方ロケがメインになった。
犯人グループの痕跡を求めて地方に捜査に行く二人だが、原作では架空の地名になっていて、どうやらモデルになっている場所もないようだったが、ロケハンの結果金沢市周辺での撮影となった。
ここでは犯人を追いかけたり階段の手摺を乗り越えたりと、体を動かすシーンが増えてくる。
しかし、雨の中を全力疾走させられたのは流石に堪えた。十二月の冷たい雨の中を走り、そのまま犯人グループの一人を取り押さえるシーン。三成はただ走るだけで、取り押さえるのは左近の役目だ。
事前に室内でアクションシーンのリハーサルは済ませていたので、現場ではカメラリハーサルの後に即本番となる。 走るシーンはアングルを変えて三回取り、取り押さえるシーンも二回撮れば外でのロケは終了だ。特に怪我もなくそのシーンは撮り終わったが、キャストはずぶ濡れで、雨具を着ているスタッフも寒さに震えている。
しかし、そのずぶ濡れのままで次のシーンの撮影となるのだ。ロケにはすぐ側のホテルを取っている。
これから撮るのは、二人の距離がまた一歩縮まるシーンだ。
「はははっ。もうパンツまでびっちゃびちゃですねぇ」
濡れて重くなったトレンチコートもそのままに左近は笑うが、三成は冷え切った身体で少し震えていた。
「三成さん? もうすぐシャワー使えますから、もう少し我慢してくださいね」
「はい……大丈夫です……」
三成の肩を抱くように左近が腕を回して二人はエレベーターに乗った。ロケ用とそのままスタッフの宿泊用にと、ホテルの五階のフロアすべてを貸切り、その一室のツインルームで撮影が始まる。
ずぶ濡れになった二人は、その場で地元の警察に容疑者を引き渡し、それから近場のホテルに適当に入ってそのままそこで一泊というストーリーだ。
一足先にカメラのセッティングが済んだ室内に入り、続いて監督他のスタッフも揃って、簡単な打ち合わせをしてから早速撮影に入る。
監督の合図でカメラが回った。
「一ノ瀬警部、先にシャワー浴びてください。震えてますよ」
いつもなら「うるさい」「余計な世話だ」と答えるところだが、三成演じる恭介も体の芯まで冷えていたので、素直に頷いた。
備え付けのバスタオルとナイトウェアを手にして三成はバスルームに入った。バスルームにカメラは入らない。
三成がシャワーを浴びている間の左近のシーンを撮るからと、三成は普通にシャワーを浴びていいと言われていた。バスとトイレが別になっているので、ゆったりとシャワーが浴びられるのがありがたい。
少し熱めに設定したシャワーは冷え切った身体には痛いくらいだが、それが次第に心地よくなってくる。すっかり温まったところでのぼせる前にシャワーを止め、バスタオルで身体を拭って新しい下着を着けてからナイトウェアを羽織った。膝丈くらいのナイトウェアはなんだか気恥ずかしい。
髪を拭いていると、バスルームのドアがノックされた。向こうの撮影が終わったようだ。
三成はドアを開け、次のシーンの段取りを確認する。 もう一度ドアを締め、カメラが回った合図を確認してからドアを開ける。
「先に温まらせてもらった。真柴警部補も早く入ってくるといい」
「ええ、そうさせてもらいます」
左近演じる暁斗は、コートとスーツのジャケットを脱いで、恭介のコートも一緒にハンガーにかけてくれていた。水を吸ったワイシャツが肌に張り付いて、たくましい体のラインが浮き出している。
暁斗がバスルームに入ると、恭介は部屋に備え付けのドライヤーで髪を乾かした。そうしながら雨の降る街並みを窓から眺める。そんな何気ないシーンが映されていく。髪が乾いてからはアドリブでなにかしてくれということだったので、ハンガーに掛けたスーツの内ポケットからスマホと手帳を取り出してこれからのことを確認するような演技を続けると、左近のシャワーが終わったタイミングで一度カットがかかった。
カメラの位置を変えてすぐに次の撮影に入る。
三成はうっかり忘れていた。てっきり左近も自分と同じような格好で出てくると思い込んでいたのだ。
しかし……。バスルームのドアを開けて出てきた左近は、バスタオルを腰に巻いただけの半裸の姿だった。いつもは項で一つに結ばれている長い黒髪が、濡れたまま無造作に肩に落ちかかっている。
「なっ、おまっ、なんて格好……」
「え? だって、備え付けのナイトウェアじゃ小さくて膝上ミニスカートみたいでみっともなかったんですよー」
そんなふうに言いながら、鍛えられた逞しい肢体を惜しげもなくさらけ出す。厚い胸に見事に割れた腹筋、引き締まった腰のラインまで羨ましいほどに見事に作り上げられた身体だった。その身体には、所々に薄い傷がある。特殊メイクで傷を描いていた様子はないので、全て本物の傷ということなのだろう。
「いいからさっさと髪を拭いて服を着ろ! ナイトウェアが小さいのなら、その上からバスタオルを巻けばいいだろう」
三成は顔を反らして自分が使っていたバスタオルを左近の方に投げる。
「あれ? 一ノ瀬警部、顔赤くなってます? 俺の裸ってそんなにセクシー?」
面白がってポーズを取る暁斗を見ることもなく、恭介は自分のベッドに入って背を向けた。
「馬鹿か。男の裸になど興味はない」
「そりゃそうでしょうけどね」
背中から苦笑交じりの暁斗の声がする。
「それじゃあどっちかと言うと傷が多いことにびっくりしちゃいましたか?」
恭介は何も答えない。暁斗は恭介が投げてきたバスタオルで髪を拭きながら続けた。
「俺ね、ちょっと複雑な生い立ちをしてまして。両親とも日本人なんですけど、育ちは海外なんですよ。子供の頃に色々あって、傷だらけになっちゃって」
「そうか……」
恭介は一言だけ呟くように言った。
「聞かないんですね。詳しいこと」
「話し好きのお前がぼかして言うんだから詮索されたくないのだろう? 言いたければ言えばいい。俺からは聞かない」
「…………いつか、話せたらいいですね」
いつも朗らかな暁斗の声が憂いを帯びた。
そこでカットがかかった。
「確認しまーす」
スタッフが映像を確認してる間に、左近は三成が横になっているベッドに腰掛けた。リテイクがかかるかもしれないので、髪はまだ乾かせない。
三成はベッドに寝そべったまま左近を見上げた。ホテルのベッドに横になって、視線の先には半裸のいい男。ドキドキする胸の鼓動を必死で抑えつつ平静を装って話しかける。
「その傷、全部撮影で?」
「古傷ですよ。お恥ずかしい。もう十五年以上前ですけど、海外の映画に出た時に大怪我しまして、一度入院したことがあるんですよね。ほとんどその時のです」
三成は思わず指を伸ばしてその傷の一つに触れた。
「痛みますか?」
「まさか。もうこんなに薄くなってるんですよ? 痛くも痒くもありませんって」
左近は自身の脇腹に触れている三成の手に自分の手を重ねた。
「でも、ありがとうございます。三成さんは優しい人ですね」
優しいのは左近の方だ。
二人の視線が絡み合う。
――ああ、この人が好きだ。
自覚せざるを得ない。この収まらない胸の高鳴りも、熱くなる顔も、心地よく感じる空気も。全部左近が好きだからだ。
口を開きかけたところで監督から声がかかり、三成は現実に引き戻された。
――俺は今何を言おうとしていた?
そう考えると血の気が引いた。
「はい、このシーンはOKです。島さん、できたらシャワーシーンいただきたいんですけど、事務所的にNGとかあります?」
左近があまりにもいい身体をしていたので、監督が予定にはないシャワーシーンを入れたいと言ってきた。
左近は振り向いて即答する。
「いいえ。大丈夫ですよ。前貼りします?」
「上半身しか撮らないので、下は下着穿いてください。水着持ってきてないのですいませんが」
「いえいえ。じゃあ、えっと……勝手に演技しつつシャワー浴びちゃっていいんですかね?」
「はい。適宜指示しつつこちらは好きに撮らせてもらいますので」
ベッドから腰を上げた左近は、そのままバスルームに入って先ほど脱いだボクサーパンツを履いてシャワーを浴び始めた。
音は後で差し替えるので、監督が様々なポーズをその場で指示していく。撮影は二十分ほどかかり、結局最後は男性カメラマン一人と左近の二人だけがバスルームに残って、下着を脱いで全裸になった左近の見えそうで見えない際どいアングルの撮影も行って終了となった。
「お疲れさまでした。三十分休憩して、次のシーンに行きます」
「はい」
左近はバスタオルで体を拭くと、あらかじめ用意してもらっていた一番大きいサイズのナイトウェアに袖を通した。
「あ、ミニスカートじゃないんですね」
バスルームから出てきた左近の普通の出で立ちに、三成はつまらなそうにそう言った。
「えー? やめてくださいよ。本当に太ももの真ん中ぐらいまで出ちゃうんですよ。おっさんの毛だらけ生足のミニスカなんて、三成さんの目が潰れますよ」
左近は髪を乾かすと、もう一つの空いているベッドに横になった。 次はベッドの中で二人が話すシーンだ。 まだ外は明るいので、窓に目張りをしてカーテンを閉める。真っ暗になった室内にベッドサイドのスタンドライトの明かりだけが灯った。
合図がかかってカメラが回る。
二人はまず今追いかけている犯罪組織のことについて、捜査資料を思い出しつつ互いの意見を述べていく。お互いの考えをすり合わせたところで、恭介がふと呟いた。
「……お前には助けられてばかりだな。今日も、俺は何の役にも立たなかった」
いつも強気な恭介の思いもよらない独白にも、暁斗は動じない。
「そんなことはないですよ。少なくとも、俺はいつも貴方に支えられています」
「世辞はいらない。自分が一番良く分かっている。お前は優秀だ。どうして所轄の係長で燻っているのか分からないくらいにな。それに比べて俺は……」
「お世辞じゃないですよ。本当に、俺には貴方が必要なんです」
恭介が暁斗の方に顔を向けると、暁斗の愛しさのこもった優しい視線とぶつかる。
「本気にするぞ」
「ええ、本気にしてください」
恭介はムスッとした顔をして暁斗に背を向け、暁斗は苦笑いしつつ明かりを消したのだった。
「カット! OKです」
監督は映像を確認すること無くOKを出してきた。
この雰囲気は一度きりのものだと直感的に感じたからだろう。
「今日の撮影はこれで終わりです。お疲れさまでした。明日は朝イチでこの部屋で朝のシーンを撮ります。六時集合でお願いします」
カーテンが開けられ、窓の目張りが剥がされる。
「さて、外は雨ですけど……、三成さん、お寿司食べに行きましょうか?」
「あ、はい」
恭介は間違いなく暁斗に恋している。三成もまた……。
映画の撮影で相手役に本気で恋してしまうこともあるとは聞くし、それがきっかけで結婚までいくケースもあるとは聞くが、相手が同性では不毛なだけだ。
左近は独身だが、こんないい男がモテないわけがない。本当に、全く目が無い恋というのはこんなにも苦しいものなのか。
左近が優しすぎるのがいけないのだ。いつも惑わせるようなことを言うから……。
「苦手なネタはありますか? 無ければお任せで頼んじゃっていいですよね。ここは俺がおごりますから、好きなネタがあったらどんどん追加で注文しちゃってください」
左近に連れて行かれた値段は時価の寿司屋のカウンターで、三成はまた左近に甘やかされていた。 甘やかしてくれるなら徹底的に甘えてやろう。三成は腹立たしさに任せて思う存分寿司を頬張った。
「このあと、俺の部屋に来ませんか?」
そう誘おうと思った三成だったが、結局は言えずじまいだった。
「明日は早いですから、今日はもう帰って寝ましょう。寝不足はいい仕事の敵ですよ」
仕事には至極真面目な左近の邪魔をするわけにもいかず、三成は一人で眠れぬ夜を過ごすのだった。
撮影最終の四週目は都内に戻ってきてクライマックスシーンの撮影になる。
先週の地方ロケでは作中の二人の距離も縮まったが、演じている三成と左近の距離も縮まった……と、三成は感じている。
映画は、犯罪組織を追い詰めた恭介と暁斗だが、つまらないプライドが邪魔をして暁斗につっかかってしまった恭介が、暁斗を見返すべく単独で組織のアジトに忍び込んで捕まってしまうという展開になる。
恭介は後ろ手に手を縛られた状態で椅子に座らされている。両足もそれぞれ椅子の脚に括り付けられ、身動きが取れない。
「こんな綺麗な顔して、本当に警官か?」
犯人の一人が恭介から奪った警察手帳を開いてニヤリと笑った。
「ああ、しかもキャリアだ」
「顔も良くてお勉強もできるエリート様かぁ……それはいたぶり甲斐があるぜ」
恭介を囲んだ五人組が口々に下卑た言葉を投げつける。恭介はそんな連中をキッと睨みつけた。
そこでカットがかかる。すべて台本通りなのだが、やはり芝居とはいえ悪意を向けられるのは慣れない。
一度拘束のロープを解かれた三成は、手首を回しながら軽く伸びをする。この先は暁斗が恭介を助けに来るシーン、この映画で一番盛り上がる場面だ。三成は縛られているだけなのでたいした演技はないのだが、左近の方はここにいる五人に加えて武装した組織の殺し屋三人を相手に大立ち回りを演じるのだ。
三成が休憩している間に、左近の方はアクションの手順の最終確認をしている。
二十分ほどしてリハーサルも終了し、三成は再び椅子に縛られた。
「こんなところで何してるんです?」
埃っぽい倉庫の中に、高い靴音とのんびりした声がこだまする。暗闇から出てきたのは暁斗だ。
「あ? てめぇ何だよ。殺すぞ」
犯人グループの一人が拳銃をちらつかせるが、暁斗の歩みは止まらない。
「その人を返してほしいんですよね。それから、手荒なことはしたくないので大人しく出頭してください」
「こいつの仲間かよ。返してほしけりゃ自力でなんとかすりゃいいだろ」
別の犯人の一人が恭介の顎に手をかけて無理やりそちらを向かせる。
「男でもこれだけの美人なら高く売れるんでな。タダで返すわけねぇだろ」
「下衆が」
恭介は汚物を見るような目で犯人を見る。それが気に障ったのだろう。犯人は持っていた銃を恭介のこめかみに押し付けた。
「いい気になってんじゃねぇぞ!」
犯人がそう叫ぶのと、別の男の悲鳴はほぼ同時だった。
一気に間合いを詰めた暁斗が自分に銃を向けていた犯人の懐に入り込んで鳩尾に一発入れると、相手は一撃で崩折れた。続いて恭介に銃を向けていた相手を上段回し蹴りで吹き飛ばす。続けてナイフを構えて突っ込んできた敵をいなして首に手刀を入れて昏倒させると、背後から鉄パイプを持って殴りかかろうとしていた相手の手を掴んで投げ飛ばした。
流れるような動作で四人を叩き伏せた暁斗は逃げようとしていた残りの一人は放っておいて、犯人の一人が持っていたナイフを拾うと縛られていた恭介のロープを切る。
「一人で動くのは危ないんですよ。これに懲りたら単独行動は控えて……」
恭介の前に膝をついて視線を合わせてそこまで言ったところで、暁斗は突然恭介の手を引いて走り出す。恭介が先程まで座っていた椅子は、木っ端微塵になっていた。
ここで場面が変わるので一旦カットになる。
「すごかったです、アクション」
三成は左近に素直な感想を伝えた。
絶体絶命のピンチに颯爽と助けに来てあっという間に敵を伸してしまった暁斗。恭介が惚れるのも頷ける。
「俺に惚れちゃいました?」
茶目っ気たっぷりに左近が言うので、三成はそれに乗ってみることにした。
「ええ。そうですね」
本音だって、こんな状況で言えば冗談だと取ってもらえるだろう。
しかし、左近は一瞬で真剣な表情になった。
「三成さん、俺は……」
左近が続きを告げる前に、後ろからヘアメイクの担当が換えの衣装を持ってやってきた。
「島さん、着替えお願いします」
「ああ、そうでしたね」
左近は三成に背を向けると、スーツの上着とトレンチコートを脱いでスタッフが持ってきたものに着替えた。全く同じデザインのものだが、右肩のあたりに穴が空いていて、その周囲が血糊でべっとりと汚れている。
準備が整ったところで再びスタートの合図がかかった。
「他にも敵がいたみたいですね」
相手の死角になるだろう障害物の後ろに恭介を押し込んで暁斗が苦笑する。その右肩がぐっしょりと濡れているのに恭介は気づいた。
「お前、撃たれたのか?」
「え? ああ、大丈夫ですよ、このくらい。俺は頑丈ですから」
本当に痛みを感じていないふうに暁斗は答える。
暁斗が物陰から倉庫の中央部を伺うと、先程までいた五人とは別の三人が立っていた。左の一人はサブマシンガンを構え、右の一人と真ん中のリーダーらしき男は日本刀を持っていた。
「手練って感じですね。一ノ瀬警部、射撃に自信は?」
「……人並みだ」
暁斗は苦笑すると、先程の犯人の一人が落とした銃を恭介に渡した。
「俺が飛び出して撹乱しますから、一ノ瀬警部はサブマシンガン持ってるやつを撃ってください。刀を持ってる二人は俺がなんとかします」
「なんとかって、お前は利き手を撃たれているんだぞ!」
敵の動きに目をやっている暁斗は、恭介の方に目を向けることはなかった。
「頼みますよ、信じてますから。じゃ、行きます」
一瞬だけ恭介に視線をやってから暁斗が飛び出し、乱射されるサブマシンガンの銃弾を避けて反対側の物陰まで走る。恭介は手が震えるのを必死に堪えて狙いをすまして引き金を引いた。
弾は見事にサブマシンガンを撃っていた男の太ももに当たった。痛みに顔を歪めた男は思わず体勢を崩し、日本刀を持った二人も恭介の方に気を取られてそちらに一歩踏み出したところで背後から暁斗が走ってきて一人に当身を食らわせて倒すと、手から離れた日本刀を奪う。
そのまま利き手ではない左手で日本刀を握ると、サブマシンガンを持っていた男の右の二の腕に素早く刀を突き刺す。痛みに耐えきれず取り落としたマシンガンを遠くに蹴飛ばし、倒れている日本刀の持ち主の右手の甲に刀を突き立てて戦闘意欲を失わせると、無傷で残っている一人に向き直った。
「貴様、普通の警官ではないな?」
「さあね。ただ……、血を見ると」
暁斗は相手に向かって大きく踏み込んで刀を振った。
「人を殺したくなる性分でね」
そこには常に穏やかで優しかった真柴暁斗の姿はなかった。感情のない低い声。表情のない顔で平然と刀を振り相手を追い詰める。相手も刀を抜いて応戦するのだが、暁斗はものともしない。
暁斗の刀の切っ先が相手の右手の甲を切り裂き、敵は刀を取り落とす。
「終わりだ。死ね」
敵の喉元に刀を突きつけて暁斗は酷薄な笑みを浮かべた。そのまま突けば敵は死ぬ。
その時だった。
「真柴、もうやめろ!」
一発の銃声とともに恭介の声が響き渡った。恭介の銃は天井に向けられていた。その声は、暁斗を正気に戻すのに十分だったらしく、暁斗の瞳に生気が戻る。
暁斗は突きつけていた刀を軽く振ると、刀の峰で敵の首の側面を打って昏倒させた。
「すみません、一ノ瀬警部。俺は……」
暁斗が俯いて視線を彷徨わせる。そんな暁斗を恭介が怒鳴りつけた。
「やりすぎだ! 俺はお前が人を殺すところなど見たくはない!」
「……一ノ瀬警部」
「……とにかく、お前が無事で良かった」
恭介は暁斗のネクタイを乱暴に掴んで引いた。
「あ、あの……」
「黙れ……」
二人の唇が静かに重なった……。
カットがかかって、三成はハッとしたように口元をおさえた。
ずっとどうしようか悩んでいたキスシーンだったのだが、意外にも自然にできてしまった。
完全に恭介の気持ちに乗っかってしまっていたとしか言いようがない。
恐る恐る顔を上げれば、にっこり微笑んだ左近の顔がそこにあった。
「いい演技でしたね、三成さん」
そして、おもむろに三成の耳元に顔を寄せてきた。
「俺のほうが貴方に惚れそうです」
「えっ?」
三成が聞き返したときには、左近はすでに監督の方に向き直ってシーンの確認をしていた。
――左近さんが、俺のことを? からかわれただけか?
台本では、もう一度、今度はもっと落ち着いてキスするシーンがある。それを想像して、三成は顔が熱くなった。
「アングル変えて撮りまーす」
監督の声がかかって、三成は必死に冷静になろうと呼吸を整えるのだった。
意外なほどに自然とできた初めてのキスシーン。
しかし、それから意識しすぎてしまったせいか、アングルを変えての撮り直しで三成はNGを連発してしまった。
「三成さん、固くなりすぎですって。俺まで緊張が移りそうですよ」
左近は機嫌を悪くすることは無かったが、少し困ったように笑っている。
「す、すいません……」
三成は小さくなって何度も頭を下げる。
結局この日は、演技とはいえ左近と六回キスをする羽目になったのだった。
撮影終了後、いつものように左近に誘われて二人で遅い夕食に行く。ほぼ毎日のことで、訪れた撮影所近くのダイニングはもう四度目だというのに、三成は身を固くしていた。
「三成さん、厳しいことを言うようですが、ラブシーンのたびに相手を意識しているようでは役者としてやってていけませんよ」
テーブルについて最初のドリンクが届くなり、左近は率直にそう言った。
「すみません。初めてのことだったので……。明日はちゃんとします」
三成は俯いたまま小さな声で答えるのが精一杯だった。
自分と同じような想いを向けてもらえることがないとしても、嫌われたくはない。
初めて恋した相手だから。
三成は膝の上でぎゅっと拳を握った。
「あー、あのですね……、同性相手のキスシーンで微妙な気持ちになるのは分かるんですけどね、そこは割り切ってもらわないと」
左近は言葉を探るように顎に手を当てた。それは考え事をするときの左近の癖でもある。
「撮影もあと二日ですから、もう一山ありますけど気持ち切らさずに頑張りましょう」
左近の言うもう一山とは、明日の撮影のことだ。怪我の見舞いに暁斗のアパートに行き、そこで恭介は暁斗の過去を聞く。そしてもう一度キスシーンがある。今度は今日のような触れるだけのキスではない。
左近はどうやら三成が左近とのキスを嫌がって芝居が上手くできなくなったと思い込んでいるようだが、実際は逆なのだ。
恋した相手とのキスだから、あんなに緊張してしまう。
「けど、せっかくの主演映画で初めてのキスの相手がこんなオジサンだなんて、三成さんもとんだ貧乏くじでしたね」
ずっと俯いたままの三成の気持ちを解そうと思ったのだろうか、左近が苦笑しながら言った。いつの間にか三成の手は、手のひらに爪が食い込むほどにきつく握られていた。
「左近さんの方こそ、男とのキスシーンなんて本当は嫌なんじゃないですか」
「いいえ。仕事ですから」
三成の懊悩など知らぬとばかりに左近は即答する。こんなことで一々嫌がっていたら俳優なんて商売は勤まらない。そんなことは三成にも分かっているのだ。感情を取り繕うことのできない自分が嫌になる。それでも……。
三成の前に置かれた手のつけられていないグラスのビールの泡は、すっかり消えている。左近の顔を直視できずに俯いたまま動けないでいる三成の耳に左近の大きなため息が聞こえて、三成はびくりと肩を震わせた。
「三成さん、たった一ヶ月ですけど、この撮影の間に俺は結構貴方との距離を縮められたと思っていたんですよね。お互いの呼吸も合わせられるし、考えてることも何となく分かってきたし」
左近は手を伸ばすと、俯いている三成の前髪にそっと触れた。
「悩んでることがあるなら何でも言ってほしいんですよね。それに、俺はあなたとのキスシーンは嫌じゃないですよ」
ハッとしたように三成が顔を上げると、いつも以上に優しい左近の眼差しがそこにあった。
「好きですよ、三成さんのこと。だから、嫌じゃないです」
「す……き?」
三成の声が震える。
伊達にこの業界に長くいるわけではない。海外でも活動する左近は、言葉にしないような人の感情の機微にも敏感だった。
三成の好意にも早くから気付いていた。今までそのことについて何も言わなかったのは、演じている恭介の感情に引っ張られているせいだと思っていたからだ。
「……本気に、しますよ」
「あれ、本当に俺に惚れちゃいました?」
口調こそ茶化したようだが、三成をからかって言っているわけではないことは、その目を見ればわかる。
「本気にしてください。そもそも、いくらパートナー役だからって俺が毎日夕食に誘った相手なんて貴方が初めてなんですから」
まだ三成の前髪をさらさらといじっている左近の手を三成は両手で捉えた。
「じゃあ、本気にします。後で『あれは冗談で』なんて言っても遅いですから」
「いいですよ。俺は冗談で同性を口説く趣味はないんでね」
左近の手がすっと引かれる。
「そんな可愛い顔しないで」
寂しいと思ったのが顔に出てしまったのだろう、左近がクスクスと笑った。
「明日はいい演技ができそうですね」
「そうなるように頑張ります」
左近はもうほとんど空になったビールグラスを掲げる。三成もまたすっかり気の抜けたそれを手に持った。
「撮影もラストスパート、明日もよろしくお願いします」
「はい、お願いします」
テーブルの真ん中で二つののグラスがカチンと鳴った。
「三成さん、それ、役作り……ですか?」
翌朝、昨日のこともあってあまり眠れなかった三成は、寝不足丸出しの顔で撮影現場に現れた。
左近は笑いをこらえきれないような顔で三成の顔を指差す。
今日撮るシーンは、怪我の療養で仕事を休んでいる暁斗のアパートに恭介が見舞いに行く場面。恭介も、暁斗のことが気になって眠れなくなった末の突撃という場面なので、疲れた寝不足顔はぴったりだ。
「分かってるくせに……」
左近にしか聞こえない声量で三成がぼやけば、ついに左近は我慢できずに吹き出す。
「ほんと、貴方は真面目で可愛いですね」
撮影中は常時スーツ姿だったが、今日は自宅の設定なので左近は濃紺の浴衣姿だった。それがスーツ以上に似合っている。原作の「暁斗の部屋着は浴衣」という設定に、三成は心から感謝した。三成の方は仕事帰りなのでいつものスーツにコートだ。
まずは、アパートの外のシーンから撮りに入る。
恭介は、見舞いの品と称したコンビニスイーツが入ったビニール袋を下げて暁斗の住むアパートの前に来た。築年数は新しそうなきれいなアパート。その一階の一番奥まで歩いていき、ドアの前で一度深呼吸をしてからインターホンを鳴らす。
程なくバタバタと音がしてドアが開いた。
「はい、どちら様……、一ノ瀬警部⁉」
「インターホンで確認もせず、チェーンもかけずにドアを開けるとは、お前、無用心だぞ」
「あのー、何かありました?」
「見舞いだ。入れてくれ。寒いんだ」
仏頂面の恭介に、「もう、来るなら連絡くださいよ」とブツブツ言いながら暁斗は大きくドアを開けた。
ここで一度カットがかかる。いつものようにアングルを変えてもう一テイク。その後はいよいいよ室内の撮影だ。カメラ、ライト、マイクをセッティングして再びカメラが回る。
右肩を撃たれた暁斗は、そのあと病院で銃創の縫合手術を受け、二日間の入院を経て自宅療養となった。まだ抜糸前で、右腕を三角巾で吊っている。
恭介が招き入れられた暁斗の部屋は、殺風景な1Kだった。八帖の部屋にはセミダブルベッドと壁掛けのテレビ、折りたたみテーブルの上にはパソコン。あとはゴミ箱。それくらいしかなかった。衣類は全て二帖のウォークインクローゼットに入れているらしい。
「何もないにも程がある」
「すいません。物欲とかなくって」
暁斗はパソコンをベッドの上に移してテーブルの上をきれいにする。
「お茶でいいですか?」
一つだけある大きなビーズクッションを座布団代わりに恭介に勧めて暁斗はキッチンに行こうとするが、恭介は無言で持参したビニール袋からミルクティーのペットボトルを二本取り出してテーブルに並べた。
「お前は怪我をしてるんだ。気は使わなくていい」
そして、袋の中身を次々とテーブルに出していく。プリンにクレープに生チョコ、ロールケーキなど。テーブルに十品のスイーツが並んだ。
「遠慮なく食べてくれ」
「……わ、わぁい。全部洋生菓子だぁ」
甘いものもコンビニスイーツも好きだが、ずらっと並んだ賞味期限の短い甘いものに、すでに口の中が甘くなったような気がする。
恭介は暁斗の分のペットボトルの蓋を開けると、「どれにする?」と可愛らしく首を傾げた。
「えっと、それじゃあ……、エクレアを」
恭介は頷いてエクレアのパッケージを開けて暁斗の前に置いた。
「ありがとうございます。ところで、本当は何の用なんです?」
「……見舞いだ」
「それはただの口実ですよね? 言いたくないっていうのなら、無理に聞きはしませんが」
恭介は、膝を抱えるようにしてビーズクッションに深く沈み込んだ。
「考えていた」
「はい」
「あのとき、どうしてお前にキスしたのか」
「はい」
「考えすぎて眠れなくなって、だから来た」
「貴方なりの答えは出ましたか?」
恭介は膝を抱えたまま小さくなった。
「いくら考えても、お前が好きだからという結論になる」
それを聞いた暁斗は、小さく息を吐いてどこか悲しげに微笑んだ。
「聞いてくれますか、俺の生い立ち」
いつか話せたらいいですねと以前に言った、誰も知らない暁斗の過去。恭介は身じろぎもせずその話を聞いていた。
「俺の父は商社勤めで、俺が五歳のときに仕事で中東のある国に一家で引っ越したんです。その一年後くらいだったかな。現地の部族抗争に巻き込まれて、俺の目の前で両親は殺されました。両親を殺した部族と対立している別の部族の族長に俺は助けられて、あとは本当に映画みたいな人生でしたよ」
暁斗は苦々しい笑みを浮かべた。
「幼い俺は両親の仇を取ることだけを考えて、部族の兵士に戦闘術を教えてもらいました。銃の撃ち方から白兵戦での人の殺し方。携行ロケットランチャーなんかも扱えるんですよ、俺」
暁斗は視線を落として、手元のエクレアを指でつつく。
「たくさん殺しました。対立部族の兵士も、老人も女性も子供も、命乞いする人も、たくさん。
今でもそうですよ。血を見ると、人を殺したくなる衝動に駆られることがあって」
暁斗の手が、エクレアを握り潰した。
「俺はまともじゃないんです。必死に隠しているだけで、殺人願望のある異常者なんです」
暁斗の独白はそこで止まり、部屋に静寂が訪れる。
「だからなんだというんだ?」
恭介の呟きは、囁くように小さかった。
「お前を好きになると後悔すると言っているのか?」
「そう、聞こえませんでしたか?」
「……俺に惚れると火傷するぜ、というやつか?」
「はい?」
今までのシリアスな雰囲気をぶち壊すような恭介のセリフに暁斗は間の抜けた声を出した。
「いや、そんな軽い話じゃなくてなくてですね」
「お前と一緒にいたら、俺はお前に殺されるのか?」
「そんなことは……ないと思いますけど……」
「ならば問題ないな。お前の過去など関係ない。とは言わないが、俺の選択に影響を与えるものではない。真柴暁斗、お前が好きだ。俺と付き合ってくれ」
顔を上げた恭介は、断ることなどあり得ないといった自信に満ちた表情だった。
「なんで俺なんです? 一ノ瀬警部だったら美男美女選り取り見取りでしょう?」
「かもしれないな。だが、俺はお前がいい」
恭介はビーズクッションから立ち上がると、暁斗の左隣に並んで座った。
「暁斗は? 俺が嫌いか?」
無意識の行動だろうが、恭介が甘えるように首を傾げる。先程までの強気で居丈高な態度、時折見せる弱さ、そして信頼を寄せた相手への甘え。コロコロと変わる表情に、魅せられない者などいるだろうか?
「嫌いじゃないから、困ってるんですよ」
暁斗は、握り潰したエクレアのクリーム塗れになっている手をおしぼりで拭いながら悔しげに呟くと、綺麗になった指を恭介の顎にかけて掬い上げる。
「好きです、恭介さん……」
暁斗の唇が恭介のそれに重なる。恭介の腕が上がって暁斗の体を抱き、一度離れた唇はさらに深く重なる。
「カット!」
監督の声がかかって、左近と三成は体を離した。
「ちゃんと、できてましたか?」
「ええ、良かったと思いますよ? ほら」
左近に促されて三成が監督の方を振り向けば、監督は台本を握りしめて頬を紅潮させながらモニターチェックをしている。
三成はホッとしたように左近の顔を見る。そんな三成の耳元に左近が顔を寄せてきた。
「三成さん、キス、上手なんですね」
今まで聞いたことのない色を含んだ声に、三成は思わず仰け反る。
「かっ、からかわないでください」
「ふふっ。かーわいいですねぇ。まあ、またNG続きになったら困りますから、お楽しみは明日の夜に取っておきますか」
面白がってそう言う左近の目は、これまで以上に優しく三成を包み込んでいた。
ついに迎えたクランクアップの日。
この日は撮影も最終日であるが、撮る場面も映画の最後のシーンになる。
舞台は昨日撮影したキスシーンから約半年後。一ノ瀬恭介は研修を終えて三ヶ月前に警察庁に戻り、この春新設された広域凶悪事案専門の捜査組織の配属となった。そして、上司にワガママを言って、バディを組む相手に真柴暁斗を指名し、今日は暁斗の着任日という設定だ。シーン自体は五分程度。撮影も、一時間かからずに終わるはずだ。
三成演じる恭介はいつものようにスーツ姿だが、辞令を受ける暁斗は警察官の制服姿となる。
「おはようございます。昨日の浴衣もそうでしたが、左近さんはなんでも似合うんですね」
まるで普段から着慣れているかのように制服を着こなしている左近に近づいて、三成はそう声をかけた。
「おはようございます、三成さん。まあ、撮影で軍服は着慣れているので、その延長線って感じですかね」
左近はネクタイを軽く直し、白手袋の入れ口を引っ張って整え、最後に制帽を目深に被りなおす。
「今日もよろしくお願いします」
「ええ。短い時間ですが、ラストシーンも気合い入れていきましょう」
三成は少し戸惑いながら手のひらを左近に向けて掲げる。左近はそれにハイタッチというには優しすぎる力加減で手を合わせたのだった。
制服を着た暁斗が警察庁の玄関ホールを抜けて正面階段を見上げると、階段の踊り場に見慣れた姿がある。
「待っていたぞ」
自信に満ちた声と表情で恭介が上から暁斗を見下ろしていた。
まさに支配者の風格だと暁斗は思う。
物騒な過去を持ち、今でも時折凶暴な一面を隠せない自分を認め、支配してくれる唯一の人。
暁斗は静かに階段を上がっていった。
「貴方が俺を?」
「勿論だ。俺のパートナーはお前以外考えられない。よろしく頼む」
恭介は握手を求めて手を差し出す。暁斗はその手に触れると、恭介の目の前に跪いた。
「貴方に、俺のすべてを捧げます」
誓いのようにそう告げて、暁斗は恭介の指先に口付けを落とす。
「公私共にこれからもよろしくお願いしますね、恭介さん」
顔を上げた暁斗が微笑む。
「ああ。頼りにしている、暁斗」
恭介は眩しいほどの笑顔で応えた。
差し込む外光が、二人を神々しく照らして……。
「カット! 確認しまーす」
ラストシーンの複数カットを撮り終え、最後のカットの確認を終えた監督からOKが出る。
「一ノ瀬京介役石田三成さん、真柴暁斗役島左近さん、オールアップです!」
助監督が大声で告げると、階段の踊り場にいた二人に、階段の下にいたスタッフ達から大きな拍手が送られた。
二人はこれをもって撮影終了だ。二人並んで階段を降りていけば、監督から二人に大きな花束が渡される。三成にはオレンジとレッド、左近にはイエローとブルーの色違いで同じデザインの花束が渡された。
不安だらけだった読み合わせ。
うまく演技ができなくて不眠になりかけた撮影開始当初。
左近に支えられて撮影が楽しくなってきた中盤。
左近を意識し過ぎて苦しかった日々。
恋が実った今。
辛かったことも、幸せだったことも、色々なことが思い出されて、胸が苦しくなる。目頭が熱くなる。
「三成さん、お疲れ様でした。この一ヶ月、よく頑張りましたね」
感極まっているところに隣の左近がそんな言葉をかけるものだから、三成の涙腺はあっさりと崩壊してしまった。
このあと主演から一言挨拶をしなくてはならないのに、涙が止まらなくてそれどころではない。
「あー、ほら、泣かない泣かない」
左近が笑いながら花束ごと三成を抱きしめて、子供にするように頭を撫でてくれる。
声もなくぽろぽろと涙をこぼし続ける三成を抱いたままで左近は挨拶をし、スタッフは微笑ましい顔で二人を眺めていたのだった。
この日の撮影は昼頃で終了し、夜六時からは都内のダイニングバーで打ち上げパーティーがある。
撮影が終わった二人は、一旦自宅に戻って着替えてからパーティー会場に集合することになった。
服装は自由ということだったが、あまりラフでもいけないと思った結果、ニットにジャケットという無難な格好になってしまった三成だった。
少し早めに家を出たつもりが、だいぶ早くに会場近くに着いてしまった三成は、たまたま目についたカフェに入って時間を潰すことにした。
注文したカフェモカが届いて五分ほどした頃だろうか、窓に面したカウンターに腰掛けた三成の隣に知った気配がやってきた。
「早いんですね」
囁く様な声で話しかけてきたその人に、三成はほっとしたように笑いかける。
「遅刻するよりはいいでしょう?」
「そうですね」
ウールのロングコートを脱いで隣りに座った左近は、白シャツに黒のジレというセミフォーマルな格好をしていた。いつも項で一つに結んでいた髪は赤と黒の組紐で高い位置でポニーテールにされていて、黒のチタンフレームのメガネを掛けている。
窓の外から三成が見えたので、声をかけようと思ったようだった。
「俺、服装間違ったでしょうか? もっときっちりした……」
三成が言うと、左近はゆるく首を振った。
「大丈夫ですよ。俺の方が浮いてるかもしれないですし」
左近はエスプレッソを注文すると三成に向き直った。
「三成さん、今夜は何時までいる予定です?」
「え……っと、打ち上げって結構長くなるって聞いてたので、最悪明日の始発で帰ってもいいかなと」
今まで大した役に恵まれなかった三成にとって、こういった映画の打ち上げパーティーは初めての体験だ。勝手が全く分からないが、とりあえず主演が一次会で帰るのはまずいんじゃないかということぐらいは分かる。
「そうですね。一次会は二時間の予定ですけど、その後二次会三次会と続きますからね。
三成さんさえよかったらなんですけど、二次会が終わったら俺と二人で飲み直しません?」
メガネのレンズ越しに、左近の妖しい視線が三成を誘う。
「二人きりで、ですか?」
「実はもう知り合いのバーの個室が予約済みだったりして」
左近は小さく肩をすくめた。
バーの個室で二人きり。そういう想像をするなという方がどうかしている。しかし、三成に断るなどという選択肢は元から無い。
「し、仕方ないですね。当日の予約キャンセルなんて迷惑でしょうし」
喜んで、と言えないのは三成の性分だ。
「よかった。断られたらどうしようかと思いましたよ」
おどけたように返す左近は、きっと少しもそんなことは思っていない。
届いたエスプレッソをさっと飲んでしまうと、左近は席を立った。
「まだだいぶ時間がありますけど?」
ここでギリギリまで時間を潰していこうと思っていた三成は、コートを羽織った左近を見上げる。
「あんまり詮索されたくないでしょう? 入と出は別々でね」
左近はコートの内ポケットから財布を取り出すと一枚の名刺サイズのカードを取り出した。
「予約した店のショップカードです。二次会終わったらここで落ち合いましょう。先に着いたら俺の名前を出してもらえれば、奥の個室に案内してくれるはずです」
三成にカードを渡すと、左近は会計を済ませてそのまま店を出て行ってしまった。
――詮索されるのは……、やはり迷惑なのだろうか。いくらお互い独身とはいえ、男同士で付き合っているなどと思われたくないのだろう。
少しぬるくなったカフェモカをすすりながら、三成は寒々しい曇り空を見上げた。
時間になって打ち上げ会場のバーに行けば、殆どの参加者はもう集まっていた。スタッフとキャスト、総勢七十名強のパーティーは、立食のビュッフェスタイルで行われた。
クロークにコートを預けて会場を見回すと、背の高い左近はすぐに見つかった。
しかし、すでに三人の若手俳優に囲まれた彼に近付く隙がない。
三成がどうしようかと視線を彷徨わせていると、三成が身の置き場に困っているのだと思った先輩俳優が三成を手招きして会話の輪に入れてくれた。そこにいたメンバーはクライマックスシーンを共にした悪役の俳優たちだったが、役とは異なり皆気のいい人達ばかりだ。
「石田くん、いきなりの主役抜擢で大変だったでしょ?」
「でも、島さんとバディ役なんて羨ましすぎですよ」
「島さんも凄かったけど、石田くんも凛としててカッコよかったよー。これは絶対売れるね」
口々に言ってくる先輩たちに礼を言いつつ、折角なので芝居のコツのようなものを聞いてみる。
「私もいつか悪役のボスのような芝居をしてみたいんです」
三成がそう言うと、「インテリヤクザとか、恭介のまんまのキャラでもいけそうだよ」とからかわれつつ、今回の三成の演技にあれこれとアドバイスをくれた。「多分続編があると思うから、今の感覚忘れないようにした方がいいよ」とも言われた。
そうやって会話を弾ませていると、打ち上げの司会担当になった助監督が前に出てきた。監督の音頭で乾杯をし、この場のためにスタッフが急いで仕上げたという即席メイキング映像が正面の大きなスクリーンに流される。
メイキングカメラはほぼ常時回っていたので、思いがけない場面も映されていた。顔合わせ初日の映像には『緊張しすぎて棒読み連発の石田さん』『と、それを見て頭を抱える監督』というテロップが付けられていて、三成は思わず赤面した。
衣装合わせでは、左近がアクション組と見栄えする銃の構え方談義をしている。『ヤクザの構え方』『軍人の構え方』などとテロップが入る。
クランクインの日、表情硬く台本を食い入るように見つめる三成と、対象的にスタッフと談笑している左近。そんな場面が面白おかしく続いていく。中盤になると、一冊の台本を左近と三成が一緒に読んでいる場面や、小道具のあんまんの残りをふたりで半分こして食べているような仲が良さそうなシーンが多くなった。
地方ロケの最終日に和食ダイニングを貸し切って食事会という名の宴会をした時の映像。酒が入って半分寝てしまった三成が、甘えるように左近に寄りかかっている。
この時の記憶がない三成は、穴があったら入りたいとはこういう気持ちかと天井を仰いだ。
「この時の三成さん、とっても可愛かったですよ」
皆が前のスクリーンに注目している隙にいつの間にか三成の隣に来ていた左近が、三成にだけ聞こえる声量で囁いた。
「起こしてくれればよかったのに」
「どうして? 勿体ないじゃないですか」
口では左近に敵わないのが分かり切っている三成は、それ以上言うのをやめてスクリーンに目を戻す。
それぞれのキャストがクランクアップを迎えたときの記念写真が順番に映し出される。そして大トリは今日の午前中の様子だ。目を真っ赤にして何も喋れなくなっている三成の頭を抱き寄せて、子供をあやすように優しく撫でている左近。
「あんな醜態を……」
「いえいえ。ずっと気を張って頑張ってたんだなってことがうかがえて、かえって良かったと思いますよ」
「こうやって見ると、最初から最後まで左近さんに迷惑かけっぱなしでしたね」
「そうですか? 俺は三成さんの成長っぷりに驚いてますよ」
左近が三成の顔を覗き込むように首を傾げると、ポニーテールにした長い髪がサラリと揺れる。
「公開まではまだプロモーションの仕事が続きますしね、これからの三成さんにも期待してますよ」
左近は意味ありげに三成の首筋に軽く指を滑らせて、何事もなかったかのように去っていった。
こちらの心を散々乱して飄々と去っていく左近。しかし、そんな姿も彼らしくて好ましいと思ってしまうあたり重症だと三成は嘆息した。
一次会は豪華景品をかけたビンゴ大会も行われ、賑やかに終わった。その後すぐ近くの居酒屋で二次会が行われ、三成が開放されたのは午後十時半を過ぎた頃だった。左近の姿を探すが、一足先に店を出たらしく見当たらない。
三成は共演者やスタッフに何度も頭を下げて、三次会に向かうメンバーを見送ってから左近に指示された店へと向かった。ここからは歩いて五分程度のところだ。
ショップカードの地図の場所にたどり着くと、そこにあったのは三成が一人で入るにはどう考えても敷居が高い重厚なドアのバーだった。緊張しつつドアを開ければ、すぐ目に入ったカウンターの奥に左近がいる。
ほっとしつつ左近のところに歩いていけば、気づいた左近が三成の方に向けて手を降ってくれた。
「じゃ、奥借りますね」
左近は馴染みのマスターに断りを入れると、予約をしていた奥の個室のドアを開けた。
中は意外とゆったりとしていて、テーブルが一つと二人がけのソファが二つ置かれている。
左近は三成を手招きして自分の隣に座らせると、まずはスマートフォンでオーダーを済ませた。
「ようやく二人きりになれましたね、三成さん」
「は、はい……。あの、俺、こういうことに慣れてなくて」
どうしていいか分からずに身を固くする三成の隣で、左近は足を組んでゆったりと笑った。
「初々しくて素敵ですよ。ちょっとずつ、慣れていきましょうね」
本当に、左近はこういう店がよく似合う。彼から見れば、三成などまだまだ子供なのだろう。
オーダーしたスパークリングワインが届き、まずはお互いグラスを掲げて乾杯してから喉を潤す。フードは軽くナッツとチーズとスモークチョコレートをオーダーし、それをつまみながら左近が話し始めた。
「再来週は制作発表記者会見がありますよね。その後はスチル撮影」
「そうですね」
三成は今後のスケジュールを思い出した。年が明けてすぐに記者会見があるが、三月四月はスカスカだったような記憶がある。
「実は二ヶ月間スケジュールが空いてるのは俺の都合なんです。海外の映画の出演が決まってまして、その時期は日本にいられないんですよね」
駆け出しの三成と違って左近は世界で活躍するアクション俳優だ。
「折角こうしていい関係になれたのに、早速一人にしちゃってすみません」
左近は三成の頬を右手で包むと、おもむろに唇を重ねた。
「今日こうして誘ったのは、それが少し不安だったから、というのもあるんですよね」
「それ、左近さんが海外に行っている間に俺が浮気するんじゃないかという心配ですか?」
左近は軽く肩をすくめた。
「だって三成さんは美人だし、俺はおじさんだし、ねえ? 俺、来年で三十八ですよ。年の差十四歳」
「……いいんじゃないですか、年の差同性カップルでも」
三成は手を伸ばすと、左近の髪をまとめている組紐の端を摘んで引いた。長い黒髪がばさっと落ちてくることを期待していたのだが、組紐が取れても髪型は崩れない。
「紐だけじゃまとまらないですよ」
左近が目立たないように結んであった黒のヘアゴムを外すと、癖のない真っ直ぐな髪が左近の頬に落ちかかる。
「髪、下ろしてる方が好きですか?」
左近が問うと、三成はその黒髪に指を絡めながら頷いた。
「いつもの項で結んでいるのも似合うし、今日のポニーテールも格好いいと思いますけど、俺はこの方が好きです」
「それじゃあ、次から三成さんに会うときは髪下ろしてきますね」
左近は髪を弄んでいる三成の指を取ってそこに口づける。
「毎日連絡してもいいですか?」
「そんなに無理しなくても、俺は他の人に目移りしたりしませんよ」
「違いますよ……。ただ、貴方の声を毎日聞きたいだけです」
気づけば、三成は左近の腕の中に抱きしめられていた。撮影中にはつけていなかった香水の淡い香りがふわりと漂う。
三成は目を閉じて左近に身を任せた。
「俺も、毎日左近さんの声が聞きたいです」
三成を抱きしめる腕の力が一層強くなった気がした。
左近が言った通り、連絡先を交換してから二人は毎日連絡を取り合っている。
左近は本当にマメで、時間がなくとも「おやすみなさい」の一言を告げるためだけにでも電話をくれた。
就寝する少し前、ベッドの中で離れている左近と会話する時間は、三成にとって何よりの癒やしだった。
年が明けた。
今日は制作発表記者会見の日だ。
左近と三成が二人揃ってマスコミの前に出るのはこの日が初めてになる。
撮影はもう終わっているのだが、これまで一般向けに公表している情報は小説作品の実写映画化ということのみで、監督もキャストも全て今日が初公開だ。
三成と左近の二人が顔を合わせるのは打ち上げの日以来でおよそ二週間ぶりだが、毎日電話し合っていたので久しぶりという感じはあまりしない。
衣装のスーツに身を包んで、会見の開始まで控室でのんびりと寛ぐ。
「三成さん、こういう機会は初めてですよね」
「……左近さん、頼りにしてます」
三成は硬い声で言うと、手を組んでギュッと目を閉じた。記者からの質問にまともに答えられる自信がない。
「まあ、フォローできるところはフォローしますけど……、三成さんは主演だし、あまり俺が出しゃばるのもね」
「……でも、俺は左近さんみたいなひねりの効いた返しとかぜんっぜんできないです」
「いえいえ、三成さんは真面目で真っ直ぐ、ちょっと面白みがないなぐらいでちょうどいいんですよ」
軽くバカにされたように感じて、三成は拗ねたように顔を背けた。
「そういう可愛い態度は俺の前でだけにしてくださいね」
三成の頬をぷにっと押して左近は笑う。
「無理に笑わなくていいし、面白いことを言おうなんて頑張らなくていいんです。そのままの貴方が一番魅力的なんだから」
さらっとドキッとすることを言うのは左近の癖なのだろうか。
もうすぐ会見が始まるというのに、三成の顔はほんのりと赤くなっていた。
約四十分後、会見が終わって控室に戻ってきた三成は、崩折れるように床に蹲った。その隣で左近がその背を優しく撫でている。会見に参加した監督と脚本家、プロデューサーは良い宣伝になったと上機嫌だ。
会見はつつがなく進み、三成も左近も記者の質問にそつなく答えていく。
「石田さんは初めての主役ということでしたが?」
「はい、左近さんはじめ、キャストやスタッフの皆さんのおかげでなんとか役を全うできたと思います」
「今回は男性同士の恋愛ものですが、島さんとしてはどうでしたか?」
「男女の恋愛ものと何も変わりませんよ。三成さんはとても良いパートナーでした」
心配していた三成の応対も、少したどたどしさは残るものの及第点だった。
一通りの質問を終えて会見の最後はフォトセッションとなる。最初は登壇者全員で。次に左近と三成のツーショットとなったのだが、そのときに記者から「もっと親密な感じでお願いします」というリクエストがかかった。
――親密ってどうすれば?
戸惑う三成に構うことなく、左近は一歩距離を縮める。
え? と三成が思ったときには、髪をかきあげた額の右端に左近がキスをしていた。
そして、フォトセッションが終わるまではなんとか平静を保っていた三成は、控室に駆け込むなり蹲って今に至るというわけだ。
「ごめんなさい。そんなに嫌でした?」
思った以上に三成が取り乱してしまって、困ったように左近が謝る。
「人前で不意打ちはやめろ、左近!」
照れと恥ずかしさと少しの怒りがない混ぜになってしまった三成は、思わずそう叫んでしまった。
左近が驚いたように目を瞬かせたのを見て三成ははっと我に返る。いくらなんでも、年上で業界の先輩でずっと世話になりっぱなしの人に対して言っていい言葉ではない。
「すっ、すいません。失礼なことを」
体を起こして正座の状態で謝る三成に、左近は顎を撫でながら面白そうに目を細めた。
「いいですね、それ」
「はい?」
「だから、その話し方ですよ。その方が三成さんらしい。貴方もそのほうが楽でしょう?」
左近は三成と視線を合わせて微笑んだ。
「これからはそういう話し方してくださいよ。左近って呼び捨てにして」
「じゃあ、左近さんも……」
「ん。いいよ。それじゃあ三成、着替えて昼食に行こうか」
「は……うん」
衣装のスーツから私服に着替えると、左近は三成を連れてランチの美味しいリストランテに行ったのだった。
結局、左近が三成に砕けた口調で話したのはこの日だけだった。左近が話すたびに三成が赤くなったりしどろもどろになったりするのを最初は面白いと思っていた左近だったが、あまりに話が進まないため、普通に話したいからと敬語に戻してしまった。
不意打ちで敬語を止めたときに三成が見せる反応が可愛くてしょうがないという隠れた理由もあるのだが、そのことは三成には秘密だ。
記者会見を行ったその日のうちに記事や動画がネット上に公開され、SNSでも話題になった。暁斗役が左近なことにファンは大騒ぎし、恭介役の三成がほとんど無名なことに不安がる意見も見られたが、二人並んだビジュアルが理想的だと概ね好評だった。
記者会見の二日後にはパンフレットやグッズ、ファンブック用のスチル撮影が行われた。
二人それぞれのショットに、二人並んでのショット。グッズ用の写真は売上に直結するので、一日かけて様々な衣装、ポーズで何百枚という写真を撮る。
少しだけだがモデルの経験がある三成には、映画の撮影よりもだいぶ気楽だ。
「今日はいつもよりリラックスしてます?」
「え? ああ、少しだけ」
カメラマンの表情の要求にも、三成は的確に応えていった。ツンとすました顔に目を伏せて考え事をするような表情、挑戦的にカメラを見つめる顔。
一方の左近は暁斗の二面性を表すように柔和な笑顔と酷薄な微笑。そして小道具も利用してのダイナミックなアクション。
三成の写真は静で、左近の写真は動という対比がなされている。
ツーショットでは、定番の背中合わせから始まって恭介が暁斗に一方的に突っかかっているようなポーズに、暁斗が恭介のご機嫌を取るように身を屈めて顔を覗き込んでいるポーズ。
次は親密そうにというリクエストに応えて、恭介の後ろから暁斗がハグしているポーズ。それから二人で並んで横になって顔の横で指先だけ絡めている写真。触れそうで触れないくらいの距離のキス寸前の写真。少し遊んで、暁斗が恭介をお姫様抱っこしている写真。
使うか使わないかは最終的に監督と制作スタッフが決めるので、とりあえず思いつく限りの場面を写した。
「流石に一日写真撮影というのは俺も初めてで、疲れましたー」
更衣室代わりの一室で、着替えを終えた左近が珍しくぐったりとして言った。
「ご飯に誘いたいところなんですけど、今日はもう帰ります……」
これで別れてしまえば、次は来月のパンフレットとメイキング用のインタビュー撮りまで一ヶ月近く会う予定がなくなってしまう。その間三成は暇なのだが、左近は次の映画の準備であまり暇ではないというようなことを以前言っていた気がする。
「左近、その、今から貴方の家に行ってはだめだろうか?」
三成が思い切って言ってみると、左近はしばし逡巡してから残念そうに首を横に振った。
「ごめんなさい、部屋が散らかりすぎてて」
「あ、いや、俺も突然過ぎて。迷惑だったな」
家に入れるほど親密な関係ではないとやんわり断られたのだろうか?
三成は己の浅はかさに唇を噛む。しかし三成の誤解にすぐに気づいた左近は、安心させるように三成を抱きしめた。
「本当に、雑誌とか台本とかトレーニング器具とかで家が散らかり放題なんです。来週までには片付けますから、また後で連絡します。来週俺の部屋に遊びに来てくれますか?」
「行く。一泊で行く」
左近の腕の中で三成は即答した。
「一泊って、意味分かって言ってます?」
恋人の家に一泊、それが意味するところは言うまでもない。しかし、三成はサラッとそれを否定してみせた。
「一泊って、添い寝だろう? 男同士で何をするでもあるまいに」
元々性には淡白であまり興味もない三成は、男同士の性行為を全く分かっていなかった。
「あの、映画の原作は読みましたよね?」
「さらっとだが三巻までは読んだぞ」
「じゃあ、恭介と暁斗が何してたかも覚えてますよね?」
「裸で同じベッドで……でもあれはフィクションだろう? ファンタジーみたいなものなんじゃないのか?」
左近はもう笑うしかなかった。映画の原作小説には、やんわりとではあるが二人のベッドシーンがある。三成はそれを現実にはありえないものと認識しているようだ。
「三成さん、来週俺の家に来るまでに原作本のベッドシーンをよく読んどいてください。あれよりすごいことしますから」
「ん? ああ、分かった」
左近は抱きしめていた腕を解くと、ごく自然な仕草で三成の唇を奪う。
「じゃあまた。明日の夜には電話しますね」
何事もなかったように左近は踵を返し、残された三成はまだピンとこない顔で左近の背を見送ったのだった。
写真撮影の翌日の夜に左近から連絡があった。来週の都合がいい日を教えてほしいと言われたので、三成は一番早い月曜日を指定した。
スマートフォンの向こうで左近が低く笑っている。
「お、俺は……! 左近は、俺に会いたくないのか?」
「もちろん、会いたいですよ」
今すぐにでもね。
わざとらしく声を低くするのは卑怯だと三成は思う。それが左近の手管だと分かっているのに、胸の高鳴りが抑えられない。
「それじゃあ月曜にね。最寄り駅まで迎えに行きます」
おやすみなさい。
いつもの甘い「おやすみなさい」の声に「おやすみ」と返して通話が切れる。
ほう、と一つ息をついて、三成はベッドに身を投げだした。
月曜日。四日後。左近の家で、二人きりで会える。
「着替え、持ってったほうがいいか?」
無意識の自身の呟きが耳に入って、三成は顔を赤くする。
――何を期待して……、いや期待じゃなくて、俺は別にあの小説の中のようなことがしたいわけでは断じてないんだ!
左近から言われたとおりに、三成は昨日の仕事から帰るなり映画の原作小説をもう一度しっかり読み直した。
映画化される一巻目はキスまで。しかし二巻目からは更に深い関係となった二人の所謂濡れ場があった。
全年齢向けの小説であるために官能小説のような生々しさはないが、何をどうするのかは十分に分かった。
「左近はきっとそういうことに慣れてるんだろうな」
海外での仕事も多い彼のことだ、もしかしたら同性の恋人がいたこともあったのかもしれない。
気になればなるほど、よからぬ想像ばかりしてしまう。左近が見知らぬ男を組み敷いている場面が頭に浮かんでしまい、三成は頭を振ってそれを否定した。
左近は変わらず毎晩電話をくれる。しかし、何も聞けないままに月曜日をむかえてしまった。
午後一時過ぎに家から出るときに左近に電話をする。
家の最寄駅から左近の家の最寄駅までは電車で一本だ。
左近のために昨日のうちに買っておいた高級ワインのボトルが入った紙袋を下げて、電車に揺られること八駅。
左近に指示されていた出口に向かえば、改札を出てすぐのところで左近が待っていてくれた。
「待たせた」
「いえいえ。じゃ、行きましょうか」
三成を促して左近は歩き出した。
左近はいつもうなじで括っている髪を、今日はハーフアップにしている。
「あの、髪」
「ん? ああ、下ろしている方が好きだって、前にそう言ってましたよね。似合います?」
左近は長い髪をサラリとかき上げた。
「ああ、すごくよく似合うぞ」
自分の好みに合わせてくれたことが嬉しくて、そしてそれが酷く様になっていて、三成は満面の笑みで答えた。
左近の自宅マンションは、駅から歩いて五分少々のところにある。瀟洒な十階建てのマンションの七階に左近の部屋はあった。
映画の作中の暁斗の部屋のような狭さだったらどうしようかと思っていた三成だったが勿論そんなことはなく、2LDKのゆったりとした間取りの部屋はすっきりとしたモノトーンの家具でまとめられていた。所々にカラフルなオブジェがあったりして、それが冷たくなりそうな部屋に温度を与えている。
「どうぞ、座ってください」
左近に促されて三成は黒い革のソファに座る。体が沈み込む柔らかいソファは、このまま寝てしまいたいと思うくらい座り心地がいい。
「これ、よかったら飲んでくれ」
三成は持ってきたワインをテーブルの上に置いた。
「お気遣いありがとうございます。昼間っから飲酒ってのもなんですから、今夜一緒にいただきましょうか」
――こ、今夜って……それはやっぱり、お泊りということで……。やっぱり泊まりの支度をしてくるべきだったのか? ど、どうする?
三成はあまり感情が顔に出ない方なのだが、左近にはそんな小さな三成の感情の変化がすぐに分かるらしい。キッチンからティーポットとカップが乗ったトレーを持ってきた左近は、三成の顔を見るなりくすりと笑った。
「夕飯食べたら送って行こうかと思ってたんですけど、三成さんさえよければ泊まっていきます?」
「え? いや、その……お泊りしたいというか、左近ともっと話したいとは思っているが、下心とかそういうのがあったわけじゃなくてだな」
しどろもどろになって言い訳する三成の前にティーカップを置いて紅茶を注ぐと、左近は笑みを深くした。
「下心があっても俺は一向にかまわないんですけどねぇ。小説読んでその気になっちゃいました?」
「左近が原作本のベッドシーンを読んでおけと、あれより凄い事をすると言ったから……」
左近は自分の分のティーカップを取ると、あえて三成の向かいのソファに座った。
「困らせてしまってすみません。いずれはしたいですけど、一足飛びにそこまで行こうとは思っていないですよ。大丈夫、泊めたってキスまでにしときますから」
「別にキス以上でも……」
三成はもごもごと呟きながら紅茶を一口啜った。
「あ、美味しい」
いつも三成が飲むようなスーパーで売っているティーバッグとは明らかに違う、洋酒にも似た甘い香りと深いコク。渋みもあまりない。
「よかった。気に入ってくれました? 仕事のロケでドイツに行ったときに飲んでからすっかり気に入っちゃって。ミルクを入れるともっと美味しいですよ」
左近に勧められ、二杯目はミルクティーにしてもらう。
「さて、何のお話しましょうか?」
自宅でリラックスしているのか、左近はいつになく優しい声で話す。
人生で一番美味しいミルクティーを飲みながら、三成は視線を斜め上に上げて考えた。
「もし許してもらえるなら、左近が以前出た作品の台本が見たい。できたら、映画の本編を見ながら」
「台本、ですか? 書き込みしまくってて汚いですけど」
「そう、その書き込みが見たいんだ。左近の演技プランとか気をつけてる点とか、そういうのが知りたい」
三成が告げると、左近は面白そうに笑った。
「三成さん、俳優の先輩の家に遊びに来たって感じですね。恋人の家にお泊まりに来たっていうより」
「ちが、ちがうっ! 左近だから知りたいんだ!」
「そんなに慌てなくても分かってますよ。なにかご希望は?」
左近にはいつもからかわれてばかりだ。けれど、そうやって慌てるたびに左近が優しい笑顔を見せてくれるので、これはこれで役得だとも思う。
「そうだな……海外作品と日本国内の作品を一本ずつ見てみたい」
三成が希望を伝えると、左近は「ソフトめなやつにしときますね」と言って別室に消えていった。
左近が言うにはこのリビングの他にはベッドルームとトレーニングルームがあるそうで、出演作品関連のものはトレーニングルームにあるクローゼットの中に仕舞ってあるそうだ。
ものの数分で左近は戻ってきた。
「海外作品はこれ、日本でも結構ヒットしたのでご存知かもしれませんが」
これは三成も見たことがあった。宇宙人が攻めてくる系のSFものだ。しかし……。
「これ、確か、左近は途中で……」
「ええ、まあそうなんですけど。死ぬシーンとはいえ見せ場があるのはありがたいことですよ」
そう、この映画ではクライマックスシーンの手前で主人公たちを先に行かせるために左近演じる兵士は犠牲となるのだ。
「こっちでは最後まで生きてますよ」
もう一本の映画は日本のもので、左近の役は主人公のヤクザのボスの右腕だ。ヤクザモノでアクションも豊富だが、内容はコメディで見やすい。
どちらから見ますと聞かれて、三成は即答で海外作品の方を選んだ。
左近は早速プレイヤーにディスクをセットして再生すると、台本を開いた三成の隣に座った。
当然ながら海外映画の台本なので英語だ。左近の出番のシーンになると赤ペンで書き込みがされている。英語の台本に日本語と英語混じりで書き込みがされているというのが面白い。
日本の台本と違って、シーンの説明や撮りたい場面のイメージが事細かに書かれている。
「左近は英語が得意だったのか?」
「いいえ。俺は高卒ですからね。高校は進学校に通っていたので勉強はそれなりにできましたけど、英語は取り立てて得意ってことはなかったですね」
「それでもこういう映画に出られるのか?」
画面の中の左近は実に流暢に英語を話している。
「向こうに親しいプロデューサーがいましてね。中華系のアメリカ人なんですけど、その人が日本語もペラペラで、だいぶレクチャーしてもらってましたよ」
習うより慣れろってね。
そう言って左近は茶目っ気たっぷりに片目を閉じてみせる。
二時間少々の映画は若干の中だるみを経てクライマックスシーンに向かう。左近の見せ場だ。
主人公たちを追ってくるエイリアン。目的地まであと少しというところで敵に追いつかれてしまう。そこで主人公たちの護衛役で付いてきた兵士たちが次々と犠牲になっていき、最後に隊長の左近が立ちふさがるというシナリオだ。世界を救えと主人公たちを叱咤し、ひとり残った左近。エイリアンたちの攻撃についに下半身を食いちぎられる。ここまでだと悟った左近は、手榴弾のピンを抜きエイリアン共々自爆して果てた。
「さこ……さこん……」
この時の撮影は特殊メイクに加えて埃まみれになって大変だったなぁと左近が当時を感慨深く思い出しながら隣を見れば、三成はボロボロと流れる涙を袖で拭っていた。
「さこんが、しんでしまった」
ずるっと鼻をすする三成。左近はテーブルの端にあったボックスティッシュを引き寄せて三成に渡した。
「大丈夫ですよ。左近はここにいますから」
左近は三成の頭をそっと抱き寄せた。
「そんなふうに泣いてもらえるのは嬉しいですね」
慰めるように頭を撫でられて、三成の涙は止まらなくなる。
「左近はこういうシーン多いのか?」
「ん? 死ぬとこですか? そうですねぇ……悪役も多いので……、出演作の三分の二くらいは途中で死んでますかねぇ」
左近の過去の出演作品は全部見たいと思っている三成だが、左近が死ぬところは見たくない。一人で見たら極限まで落ち込んで浮上できなさそうだ。
結局映画が終わるまで三成は泣き止まなかった。
二本目のコメディ作品は、いつも冷静で落ち着いている左近がハチャメチャな新米組長に振り回される場面が随所で繰り広げられていた。
抗争中の組の構成員を格好良く叩きのめして振り向くなりすぐに組長に怒鳴り散らすギャグシーン。その緩急が面白い。
「左近、こういう役も似合うんだな」
台本と見比べてみると、随分と違うシーンが多い。それに比例するように先程の台本に比べても赤がとても多い。
「これ、監督が台本も書いてましてね。原作もないから現場で結構自由に変えちゃってるんですよ」
三成は声を上げて笑いながら映画を見ていた。左近といると、なぜかいつもより素直に笑ったり泣いたりできる。
「現場も楽しかったんですよ。強面な俳優さんたちは皆んなとてもフレンドリーで面倒見が良くって。撮影期間にキャスト・スタッフ揃って飲み会に行ったことも何度もあってね」
他の映画だったら絶対格好いいだけの格闘シーンも、左近が半ギレで組長の愚痴を叫びながら敵に八つ当たりしているようにしか見えないなのでギャグにしかならない。
そういえば、この映画は続編が決定しているとか聞いたような気がする。そのことを左近に聞けば「映画じゃなくてドラマですよ」という返事が帰ってきた。
「七月から撮影に入って、十月からオンエア予定です」
ということは、左近はテレビドラマの撮影の合間に映画のプロモーションをすることになる。忙しそうだ。
「左近はやっぱり売れっ子なんだな」
左近に寄りかかって三成は呟いた。
「まあ、便利に使っていただいてますよ。今回のドラマは映画のスピンオフなんで、撮影は週の半分くらいじゃないですかね? ちゃんと三成さんと過ごす時間は取りますから、浮気しないでくださいね」
「お前みたいなのを世間では『スパダリ』っていうらしいぞ」
画面はもうエンドロールになっている。
「それは嬉しいですね」
スパダリの意味を知っているらしい左近は、寄りかかってきた三成の肩を抱いて、この日最初のキスをしたのだった。
映画を二本見終わる頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。
「さて、夕飯作りましょうか」
左近が腰を上げると、三成も一緒に立ち上がる。
「なにか手伝えることはあるだろうか?」
ソファで一人待っているのもつまらないし、左近が料理するところを近くで見てみたい。三成自身は料理はからっきしなのだが、子どもの頃から養母のねねの手伝いはよくしていた。
「そうですか? それならお願いしましょう」
左近は三成を促してキッチンに立った。
男の一人暮らしにしては調理器具が一通り揃っていて、きれいに片付いている。
「料理、するんだな」
「ええ。仕事が入るとどうしても外食が多くなりますからね。そうじゃないときぐらいは自炊でヘルシーな和食を作るように心がけてます」
左近は冷蔵庫を開けて食材を取り出した。白菜、春菊、しいたけ、長ネギ、それから豆腐としらたき。最後にとっておきの霜降り和牛。
「今日は三成さんが来てくれるっていうから、すき焼きにしようかなと思って買っておいたんですよ」
左近が手際よく切っていく野菜を、三成は大きな皿に順番に盛り付けていく。二人分のはずなのだが、野菜は皿に山盛りだ。
「三成さん、見た目に反していっぱい食べますもんね」
確かに、三成は左近と食事に行くときはいつも二人前近く食べてしまう。
「三成さんはいつも美味しそうに幸せそうに御飯食べるから、見てるこっちも嬉しくなるんですよ。今日もいっぱい食べてくださいね」
食材を切り終えた左近は、キッチンの引き出しからフライパンを取り出した。深めで取っ手が取れるタイプのものだ。
それから卓上カセットコンロを出すと、ダイニングのテーブルにそれをセットした。
早速フライパンを火にかけ、割り下を作り、牛肉を軽く炒める。それから牛肉を隅に寄せて残りの具材を入れていく。
あとは野菜が煮えるまで待つだけだ。
その間に、三成が手土産に持ってきたワインを開ける。
左近の家で二人きりでおうちごはん。しかも高級和牛のすき焼き。こんな幸せがあっていいものだろうか?
ワインで乾杯して一杯目を飲み干す頃には、卓上のすき焼きがちょうどいい感じに煮えていた。
「では早速いただきましょうか」
「いただきます」
卵を割りほぐした器に肉を取り、卵に絡めて口に入れる。
「……美味しい。今まで食べたすき焼きで一番美味しい」
「お肉いっぱいありますから、どんどん食べてくださいね。俺相手に遠慮はいりませんから」
結局、一度空にして再度割り下と具材を入れるのを二度繰り返して、用意した食材はすっかり無くなった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。お腹いっぱいになりました?」
「ああ。もう入らない」
「それはよかった。それじゃあ風呂の支度ができるまで、リビングのソファでゆっくりしててください」
使った食器類を二人でシンクに片付けて、あとの洗い物は左近がやっておいてくれるというので、三成はその言葉に甘えることにした。
左近はキッチンの壁のパネルを操作して風呂の給湯を設定する。
一方の三成は一度はソファに座るものの何かを思い出したようにすぐに立ち上がった。
「左近、ちょっとコンビニに行ってくる」
「ん? 何かご入用ですか?」
三成はリビングに置いていたバッグから財布を取り出した。
「着替え、何も持ってこなかったから、下着だけ買ってくる。一番近くのコンビニは?」
さこんは「あー」と言いつつ頬をかいた。
「新品の下着はありますけど、さすがに俺のじゃあサイズが違いますよね」
きっとぶかぶかだと笑いながら三成は部屋を出ていく。
残された左近は、パジャマはぶかぶかでも大丈夫だよなと呟きながらベッドルームのクローゼットを漁った。
マンションの二軒隣にコンビニがあるため、三成は十五分程度で帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい。お風呂の準備できてますよ」
玄関で三成を迎えた左近は、まるで新婚夫婦のように三成をハグすると頬にちゅっとキスをする。
「さ、左近……」
「寒かったでしょう? 早く入ってください」
赤くなった三成の頬をすっと撫でてから、左近はキッチンに戻っていく。
三成は買ってきた下着を持って左近の脇を抜けてバスルームに入った。
三成が来る前に片付けたのだろう、脱衣所には三成のためのタオルとパジャマだけが置かれていて、左近の洗濯物などはなにもない。
三成はさっさと服を脱いでバスルームに入った。
三成の実家とは違ってダークカラーでまとめられた室内はどこか新鮮だ。
シャワーで体を流し、置いてあった石鹸とシャンプー一式を拝借して体を洗うと、早速湯船に浸かった。
大きめのゆったりしたバスタブに体を沈めて、縁に寄りかかって目を閉じる。一人になって落ち着くと、急にこれからのことが一気に頭の中に溢れてきた。
――一緒に、寝るんだよな。いや、俺はソファでも……。あのソファ気持ちよかったし、あれなら一日中座っていてもいいくらいだ。って、いやいや、恋人の家に泊まりに来て一人でソファで寝るって無いだろう。しかし同じベッドは……。
同じことを繰り返しぐるぐる考えて、埒が明かないと三成は思考を手放した。もうなるようになれだ。
優しい左近のことだ、嫌がる三成を組み伏せたりはしないはず。
――でも、左近って言うことがたまにいやらしいし、そういうこと好きそうだし。
ぶくぶくぶくぶく……。
三成はまたしても答えの出ないことを考えながら口元まで湯に沈んだ。
長風呂になってしまったなと湯船から立ち上がった瞬間に目眩がして、三成はバスルームの床にへたり込んでしまった。一分もしないうちに目眩は収まったので、脱衣所で体を拭き、左近が用意してくれていただいぶサイズの大きいパジャマに袖を通した。袖は指先まですっぽり隠れてしまい、ウエストもゆるい。けれど、いつも自分が使っている洗剤とは違う匂いに気分が上がる。
「お風呂、気持ちよかったですか?」
「うん……。左近、水をもらえるか? 少しのぼせたかもしれない」
まだ少しフラフラする身体でリビングに行けば、慌てたように寄ってきた左近に体を抱き上げられた。
「無理しないでください。ちょっと顔色悪いですよ。まだ気持ち悪いんでしょう?」
お姫様抱っこでベッドルームに運ばれた三成は、そのまま左近の大きなベッドに下ろされる。
「今、水を持ってきますからね」
「すまない……」
枕は柔らかめ。ベッドのマットレスは硬め。三成がいつも寝ている自分のベッドとは真逆だが、これはこれで気持ちいい。
……多分、これが高級寝具だからというのもあると思うが。
左近はすぐに冷たいミネラルウォーターのペットボトルを持って戻ってきた。
「どうぞ。水分摂って横になってれば落ち着きますからね」
三成は頷いてボトルを受け取り、蓋を開けて一口水を飲んだ。冷たい水が火照った体に染み込んでいくようだ。
「吐き気はなさそうだし、大丈夫ですね。それじゃ、俺も風呂入ってきます」
左近は三成の額にちゅっと口づけてから部屋を出ていった。
水を飲むと気分の悪さもなくなり、三成はボトルの水を半分ほど飲んでナイトテーブルにボトルを置くと、部屋の中を見回してみた。シンプルなライティングデスクの上にラップトップパソコンとタブレット、ベッドの正面にテレビ、その下のテレビボードにはレコーダー兼用のプレイヤーと数枚の映画のディスクが置かれていた。
壁にはアーティスティックなデザインのカレンダーとインテリアアート。まるでモデルルームのようだ。
二十分ほどして左近が戻ってきた。紺のパジャマの肩からバスタオルをかけ、長い髪をタオルドライしている。
「早かったな」
「今日はシャワーだけで済ませてきました。三成さんをあまり長い時間一人にするのも申し訳ないですしね」
「そんなに気を使わなくていいのに。俺はもう大丈夫だぞ」
三成は横になったままで左近を見上げて微笑んだ。すると、左近は「うわ……」と小さな声を漏らす。三成が首を傾げれば、左近は口元を抑えて顔をそらした。
「左近?」
「髪、乾かします」
ナイトテーブルの下からドライヤーを取り出し、左近は三成に背を向けてベッドに腰掛け、髪を乾かし始めた。
「左近? どうかしたのか?」
左近の背に向けて三成が問いかける。
「三成さん、無防備すぎですよ」
左近の目線の高さからは、大きなパジャマのせいで胸元が開けた三成の白い肌がよく見えてしまうのだ。
「左近でもそんな顔をするんだな」
「……不本意に襲われたくなかったら、誘惑も大概にしてください」
――そうか、左近はこういうのに弱いのか。
何かをしようと思ったわけではない。ましてや誘惑だなんて思いつきもしなかったのだが、逆にその計算のなさが左近には効くらしい。
左近は三成に背を向けたままで髪を乾かし終えると、ヘアミストで髪を整えてから左の肩あたりでゆるく髪を結んだ。
「さて、眠るにはまだ早い時間ですが、どうします?」
左近はベッドに横になっている三成の両脇に手をついて乗り上がった。
「……左近と気持ちいいことしちゃいます?」
三成と視線を合わせ、ゆっくりと顔を近づけていく。もうすぐ唇が触れる……、というタイミングで三成が口を開いた。
「左近はいつもこうして女性を口説いているのか?」
「妬いてるんですか?」
軽く唇を触れ合わせてから左近が囁やけば、三成はおよそ情事には似つかわしくないキョトンとした顔で答えた。
「いや。この程度で落ちる女は簡単でいいなと思って」
三成の率直すぎる感想に、左近は目を瞬かせた。
「この程度って……。三成さん、本当に恭介にそっくり」
左近はくすりと笑うと、三成の上からどいて横に寝そべった。
「しないのか? 気持ちいいこと」
「しますよ。気のある男のベッドに入って無事で済むと思わないことです」
左近は腕の中に三成を抱き込んだ。
「しない、のか?」
「してるじゃないですか。気持ちいいこと」
左近は抱いた三成の髪を優しく何度も撫でた。
「ほら、温かくて気持ちいいでしょう?」
「そう、だな。俺の想像とはだいぶ違うが」
三成は左近の胸元に顔を埋めて目を閉じた。
「三成さんの想像する気持ちいいことはまた今度ね」
いつもはこんなに早い時間に寝たりしないのに。この腕の中は酷く眠くなる。
せっかく左近と一緒にいるのに、眠ってしまうなんて勿体ない。
そう思いつつも心地よい眠気には勝てず、三成は左近に抱かれたままで夢の中へ落ちていったのだった。
折角のお泊りで全く関係が進展しなかった二人は、このまま秋までキス止まりの清い関係を続けることになるのだった。
映画の制作発表記者会見のあとから三成には次々と仕事が入って忙しく……、などということは残念ながら無く。映画自体は話題になっているものの三成の仕事は相変わらずぱっとしなかった。
そのことを左近に相談すれば、いつもの穏やかな笑顔で励まされた。
「まだ顔見せですからね。大丈夫、映画が公開されれば絶対オファーは増えますって。実は知り合いの監督から『あの子どうなの?』って聞かれてるんですよ」
実際、左近はあの記者会見を見た業界の複数の関係者から「あの子、顔はいいけど演技はどう?」と聞かれていた。
勿論、まだ手放しで褒められるほど三成の演技は素晴らしいものではないが、役に対する真摯な向き合い方と努力を側で見ていた左近としては、この原石を輝かせてくれる監督に推薦したいところだ。
焦って、役者のルックス重視の安っぽい映画に出てほしくない。
「顔を売りたいのなら、来月からの俺の仕事に同伴してみます?」
三月から左近は映画の撮影のために二ヶ月間アメリカに行く。あちらにも知り合いが多いので、よかったら紹介しましょうかと左近は提案してくれたのだが、三成はそれを丁重に断った。
そんなふうに紹介してもらえるほどの価値が今の自分にはないことくらい、三成自身もよく分かっている。
左近としては向こうで撮影の合間に三成とデートできたらいいなという下心もあったのだが、真面目すぎる三成にはそんな考えは浮かばなかったらしい。
撮影が休みの日は、きちんと体を休めて以降の撮影に備えるべきだと三成は考えているのだ。
そんなわけで、三月と四月は遠距離恋愛になった三成と左近。
左近の撮影スケジュールや時差を考えればメッセージのやり取りで済ませるべきなのだろうが、左近が「毎日三成さんの声が聞きたいです。三成さんの声が聞けないと頑張れないです」というので、電話は欠かさなかった。
左近の撮影は予定期間を少しオーバーして終了し、その後向こうでいくつかの仕事をして、左近が帰国したのは五月中旬だった。
それからすぐに『キツカミ』のプロモーションの仕事が本格化する。
劇場とオンラインで最初の予告編が解禁になったことで、注目度は一気に上がった。
『プライドは人一倍、優秀なのに人望ゼロの強気なエリート一ノ瀬京介』
『何でもできて人当たりもいいのに、気弱でいつも貧乏くじを引く真柴暁斗』
『そんな凸凹な二人がバディを組んだら……』
恭介と暁斗のいくつかのカットが組み合わされた予告は、原作のファンにも好評らしい。特に最後に一瞬だけ映るキスシーンはスクリーンショットが出回るほどの人気だ。
刑事物とはいえ堅苦しくはなく、しかしきっちりミステリーも取り入れ、恋愛要素も散りばめてある。
左近と三成もこの予告動画は見たのだが、三成は少し物足りなく感じてしまった。もっと見てほしいシーンがあるのにと。しかし左近は「こんなもんでしょう」と特に気にしたふうもない。
映画の予告は映画の興行に影響する一方、期待値を高くしすぎると「予告詐欺」などと言われてしまうので匙加減が難しい。中には「予告がピーク」などと言われ本編が酷評される映画もある。予告はまだこの先も毎月一本づつ追加されていくということで、今はまだ物足りないぐらいで丁度いいのだ。
インタビューの依頼は多種多様なメディアから来た。多いのは雑誌だが、映画の専門誌から原作小説のコミカライズの連載が始まった漫画雑誌に、女性向けのファッション誌まで取り上げてくれた。
三成と左近が一人で取材を受けることもあったが、二人一緒にということが圧倒的に多く、衣装に近いようなスーツ姿の二人が、毎週のように雑誌に載った。
週に一、二度顔を合わせることになった左近と三成は、左近のスケジュールが空いている日に限られるが、映画の撮影の頃と同じように連れ立って食事に行くのが定番になっていた。
撮影中とは違い、映画公開前ではあるがメディア露出が増えてきてからは街中で声をかけられることも多くなり、そういったことに慣れている左近とは違って三成はうまく対応できない。それが地味にストレスになってきているのだが、人に見られる仕事というのはそういうものだ。
「こればっかりは慣れていくしかないですね。写真やサインがNGならそれははっきり言っていいんですよ。でも、あんまり塩対応だと逆恨みされかねませんから」
左近は、時間があれば写真もサインも構わないという。ただ、三成と二人の時間に割り込まれるのはちょっとねと苦笑いしていた。
公開まで二ヶ月を切った八月に入ると、今度は映画の宣伝のためのテレビ収録が入ってくる。雑誌の取材とは違って出演者もスタッフも多くて、三成は緊張しっぱなしだ。
普段はバラエティにはほとんど出ない左近が積極的に出演してくれるとあって、グルメものからクイズ番組、体を張ったゲーム番組とオファーは引きも切らなかった。
頭はいいのに意外と抜けたところがあって凡ミスをする三成をさり気なくサポートする器用な左近という、映画の中そのままの二人の息のあった様子は、否が応でも映画の期待値を高める。
インタビューでは当然のごとく二人のキスシーンのことについて聞かれ、中には少し意地悪く「年上の男とキスってどうなの?」と三成に聞く人もいたが、三成は本音で「左近さんほど素敵な人なら、年の差も性別も気にならなくなりますよ」と答えていた。
やっと映画公開の九月がやってきた。
公開三週間前に行われた関係者向け試写会で、三成と左近は初めて完成した作品を見ることになった。
ストーリーやセリフは分かっているのに、こうして映像作品になったものを見てみると、演者としても新鮮な発見がある。自分が見ていない部分で他の演者がどんな表情でどんな演技をしているのか。音楽や、撮影時の音では足りない効果音が加わることでぐっと物語に引き込まれていく。
三成自身はそれほど意識して演技していたわけではないのだが、スクリーンの中の恭介が暁斗に向ける態度が徐々に素直になっていくのが分かる。演技しているつもりでも、どうやら内面の感情がだだ漏れだったようだ。
そっと隣を盗み見れば、同じようにこちらを見ていた左近がにこっと笑いかけてくれた。
左近のシャワーシーンにドキドキしたり、憂い顔にきゅんとしたり、アクションシーンに見惚れてみたり、キスシーンが直視できなかったり。
気付けばあっという間に二時間が過ぎ、エンドロールが流れていた。
「いい出来ですね。三成さん、絶対人気出ますよ」
左近がそっと耳打ちしてくる。
左近の姿ばかりを追っていた三成は、自分がどう映っていたかなどほとんど気にしていなかったのでよくわからない。
「左近こそ、女性ファンがまた増えそうだな」
「まあ、この映画のターゲット層になる方々が好むような映画にはあまり出ていないですからね」
「……浮気するなよ」
「心配なさらず。三成さんより魅力的な女性がいるとも思えません」
若い女性向けのメンズラブ映画だが、もう少し広い層にも見てもらえそうだ。まあ、男性同士の恋愛に嫌悪感を持つ人が少なくないのは難点なのだが。
関係者からの反応は思った以上に良く、三成は配給会社の男性担当者から「とてもいい映画でした!」と興奮気味に声をかけられたくらいだ。
その日の夜は左近の家に泊まり、台本片手に映画の出来について二人で夜通し語り合った。
……そんなこんなで、二人の関係は特に進展するでもないが、かといって冷めているわけでもない。
毎日の電話は欠かさないし、月に二度は三成が左近の家に泊まりに行っている。泊まりに行けば同じベッドで眠るし、先月はついに一緒に風呂に入った。
……とはいっても、三成は終始左近の裸から目線をそらし続けていて左近に笑われたのだが。
順調に映画のプロモーション活動は続き、公開前日の早朝からの情報番組生出演行脚も無事に終えた。
そしてついに公開初日を迎える。
この日は午前と午後で場所を変えて二回の舞台挨拶があるのだが、午後の舞台挨拶は全国の映画館で配信されることが決まっている。
午前に舞台挨拶を行う映画館に集合したときに、プロデューサーから「午後の舞台挨拶、全国の映画館の八割の席がもう予約で埋まってるそうですよ」と言われ、三成の緊張は頂点に達していた。
当日券も入れれば満席になるところも多そうだ。
今日の舞台挨拶は、あえて作中の衣装ではなく、三成と左近に似合いそうな衣装をスタイリストがセレクトしてくれた。
三成は涼し気なVネックの水色のTシャツの上に薄手の紺の麻のジャケット。左近は打ち上げに着てきたような白のワイシャツに黒のジレ。そして何より、今までの取材やテレビ出演では暁斗と同じ項でひとつ結びにしていた左近の髪型が、今日はハーフアップになっている。
「似合います?」
分かりきったことを三成に聞く左近は、今日も憎らしいほどに余裕だ。
「似合っていないなんて少しも思っていないくせに」
三成は唇を尖らせた。
「そんなことはないですよ。俺も珍しく緊張してましてね」
今まで多くの作品に出演してきた左近だが、舞台挨拶に立つのは久しぶりだという。
「三成さんの初主演作の舞台挨拶ですよ。失敗するわけにはいきません。さ、行きますよ」
珍しく気合の入った左近に促され、三成はスクリーンの前の舞台に出ていった。
午前の舞台挨拶は当たり障りなく終わり、いよいよ午後の舞台挨拶が始まる。
午前の挨拶は上映前だったのだが、午後は上映後に行われるため、観客の盛り上がりも違うことだろう。
午前中の左近は緊張などまるで見せずに、いつもの余裕の笑顔で客にファンサービスまでしていた。一方の三成は、質問に答えるのに精一杯だった。
映画館の控室で二人で昼食を食べ終えてSNSを検索してみれば、撮影OKだったフォトセッションの写真とともに「左近様やっぱり最高」「左近さんから目線もらった。妊娠しそう」「三成くん緊張しすぎで可愛い」「恭介マジ美人。グッズ全種類買ってきた」といった感想が出てきた。中には「あの二人リアルで付き合っちゃえばいいのに」といったものまであった。
「……リアルで付き合ってるんだが」
画面を見ながら三成がポツリと言えば、左近も一緒に画面を覗き込みながら顎を撫でる。
「これは薄い本が量産されそうな気配ですねぇ」
「薄い本?」
そういった方面に全く見識のない三成が首を傾げると、左近は苦笑しながら答えた。
「所謂ファンアート、二次創作ってやつですかね。絵に限らず漫画や小説もあるんですよ。原作小説の二次創作も人気のあるジャンルのようですから、俺たちもネタにされると思いますよ」
それに俺、映画の中で脱いじゃってるし。
「……左近はそういうの、嫌じゃないのか?」
勝手に他人の頭の中で誰かと恋愛関係にされるのが嫌ではないのかと三成は聞く。しかし左近は特になんとも思っていないようだった。
「愛好者同士で楽しむ分にはいいんじゃないですか? まあ、そういうのを真に受けて直接言ってこられると困るんですけど」
実際左近は海外の親しい俳優仲間と恋人扱いされた経験がある。
「やっぱり、俺達の関係が世間にバレるのはめいわくだよな」
映画がヒットすれば、三成の名前も売れる。ネタになると思えば週刊誌から狙われることもあるだろう。二人で食事に行くのはまだいいとして、左近の家に泊まりに行くのはもう止めたほうがいいのだろうか?
三成が不安を口にすると、左近は笑顔を消して三成に正面から向き合った。
「貴方さえ良ければ、俺はこの関係をカミングアウトしても構わないと思ってます。男同士だから普通の結婚とはいきませんが……」
左近は三成の手を取った。
「三成さん、俺のパートナーになってくれませんか?」
これはもしかしてプロポーズというやつだろうか?
いや、間違いなくプロポーズだ。
その人生でたった一度であろうプロポーズが、映画館の控室で、しかも舞台挨拶の直前だなんて。
ぽかんとしてしまった三成が返事を返す前に、部屋のドアがノックされてもうすぐ上映が終わるので登壇の準備をと告げられる。
それに返事をした左近が先に立ち上がり、三成に手を差し出す。三成はその手に自分の手を重ねた。
「……左近こそ、本当に俺でいいのなら……。末永く、よろしく頼む」
三成は自分がどんな顔をして返事をしたのか全く分からなかったのだが、左近の顔が今まで見たことがないほどに赤くなったのを見ると、どうやらいい笑顔ができていたようだ。
「いい雰囲気だからって、仕事の直前に言うんじゃなかった……」
「そうか? 俺はベストタイミングだったと思うぞ。一生忘れられないだろう?」
三成は重ねたままの左近の手を引いて控室を出た。
映画はその映画館で一番大きいスクリーンが満席となる盛況ぶりで、二人が舞台に出ていくと黄色い悲鳴がそこら中から上がる。
本日二度目の舞台挨拶とあって三成にも手を振るぐらいの余裕は出てきたのだが、三成と左近が何かをするたびに歓声が上がるので中々トークに進めない。
三成が唇に人差し指を当てる仕草で観客に静かにするように促してようやく話ができるくらいの騒々しさに収まった。
「では早速始めましょう。映画のことについて事前に公式サイトで質問を募集しましたので、それに答えていただきます」
司会役の女性アナウンサーが台本をめくる。
「まずは石田さんへ。島さんはどんな方ですか?」
これは今までにも何度も聞かれた質問だ。
「見た目の通り、とても大きい人ですね。中身も、とても頼りになって。初主演のパートナーが左近さんのような人で本当に良かったです」
三成は答え終えてから左近の方を見る。
「島さんはどうですか?」
「三成さんは恭介とそっくりですよ。真っ直ぐで、人付き合いは少し不器用で、一生懸命で、だからほっとけなくて。とても可愛い人ですね」
左近も三成と視線を合わせる。それにまた観客からの悲鳴が上がる。
「次の質問にいきますね。撮影で一番苦労したシーンはどこでしたか?」
三成は左近に「どこ?」と小さく聞いた。そんな声も全部マイクに拾われている。
「俺は雨の中を全力疾走したシーンですね。もう全身ずぶ濡れで、十二月の雨でそりゃあもう寒かったんですよ」
ねえ? と三成に聞けば、三成も苦笑いでそれに答える。
「あれは確かに寒くて大変だった。僕は……撮影前ですね。顔合わせの日が一番大変でした」
「ああ、ちょっといじめちゃいましたしね」
「そうそう、あのときの左近の顔は笑ってるのに目が全然笑ってなくて本当に怖かった」
「三成さんがあんまり顔がいいから、なんか悔しくて」
さらっと左近のことを呼び捨てにしたのに全く気づいていない三成に、会場がざわめく。
「では、一番好きなシーンはどこでしょう?」
「ラストシーンですね。警察官の制服姿の左近がとにかく格好良くって」
「恭介からネクタイ引っ張られてキスされるシーンですね。実はあれ一発OKだったんですよ。アングル変えての追加撮影で三成さんはNG出しまくりだったんですけど」
左近の口からキスシーンのことが出て、再び会場は悲鳴に包まれる。
「作中のキスシーンは二回ともとても印象的に表現されていましたね。二人の心の距離感がとても良かったと思います。
では最後に、ファンの皆さんに一言ずつお願いします」
三成は一度ぺこりと頭を下げてマイクを握り直した。
「今日は沢山の方に来ていただけてとても嬉しいです。まだまだ駆け出しですが、精一杯恭介を演じさせていただきました。気に入っていただけたら、ぜひもう一度、映画館に足をお運びください。今日はありがとうございました」
「今回初めて恋愛ものの当事者を演じました。暁斗は何でもできて器用そうに見えて、実は本当の自分を見せることにはとても不器用で、そんなところが愛すべきキャラクターだなと感じています。恭介共々、暁斗も愛していただけたら光栄です。ありがとうございました」
それぞれ挨拶を終え、最後にフォトセッションに移る。マスコミのカメラが前列に並ぶが、ここでは一般客も撮影が可能だ。
二人の肩が触れる距離で並び、時々ポーズを変えながら左右に順番に目線を送る。
途中で面白がった左近が三成をお姫様抱っこすれば、今日一番の大歓声が上がる。三成も調子に乗って左近の首に腕を回して頬にキスなんてしたものだから、もう会場のボルテージは限界を突破してしまった。
フォトセッションタイムが終わって、二人は一礼して会場をあとにする。背中から聞こえる歓声はまだ止みそうになかった。
翌日のスポーツ新聞には、例のお姫様抱っこの写真が載った。週明けの興行成績ランキングではめでたく初登場一位を取ることができ、とりあえず「爆死」とは言われずに済みそうだ。女性向けのライトノベルが原作だが、脚本がしっかりしていたおかげで大人の鑑賞にも十分耐えられる作品に仕上がっていると評価も高い。
映画館で販売していたグッズやパンフレットも売り切れが続出しているという。
「とりあえず、スタートダッシュは決められたな」
左近の自宅のソファで、左近の腕に抱かれたままスマホの画面を見ていた三成は満足そうに言った。
「万人受けする内容じゃないですから、あとはリピート客頼み、ですかね」
左近はそう言うが、すでに公開三日目にしてリピート客が付いているようだ。口コミでの新規客もいる。
「この感じだと、来週あたりもう一回舞台挨拶することになるかもしれないですね」
「そうだったら嬉しいな。左近ともう一度舞台に立ちたい」
「次は頬じゃなくて唇にしちゃいます?」
「……そうだな」
三成は甘えるように左近の頭に腕を回して抱き寄せた。
二週間後の舞台挨拶では流石にキスをすることはなかったが、続編の制作決定がアナウンスされ、一層の盛り上がりを見せた。
その年の年末、三成と左近はパートナーとなることを公表した。二人は「キツカミ婚」と言われて大きな話題になったのだった。