(燭へし)きみのすきなところ その子どもからは冬の夜の匂いがした。
誰をも寄せつけないような高い塀に囲まれたその古い館には、老人とその世話をするもの、そしてひとりの子どもが暮らしていた。
代々守ってきた財をもとに、新たな事業を立ち上げた老人は成功とともに人を寄せ付けなくなり、そして自らの子どもすら遠ざけたと聞く。けれどその子らが不慮の事故で亡くなったあと、その子どもである幼子にだけは手を伸ばし、守るかのように他の誰も寄せつけず数年をその子どもとともに過ごしたが、数日前に命の灯を消した。
長谷部にその訃報を知らせたのは彼の世話をし続けた女中だった。
男はおそらく親戚や縁戚だと名乗る者たちが、この訃報を隠し続けるであろうことを察していたらしい。幾人かの後処理を任せるものたち、そして長谷部にその連絡をするよう生前から指示をしていた。
その連絡が来ることを長谷部もまた自らの祖父から聞かされていた。
あの男、もしくはその代理のものからの連絡があれば、必ずその指示に従うようにと。
「どういう関係なのですか」
「ふむ……どういう……関係か。一言でいうのは難しいな。半身とでも言っておこうか」
ははと笑う祖父の横顔には寂しさというよりも、まるで隣にその男がいるかのような柔らかな色が浮かんでいたことを覚えている。
「あの男の子どもや、孫と言える存在に何かあれば、お前が手を貸してやってくれ」
遺言と言える言葉はそれだけだった。
そうしてその祖父が数年前に亡くなったおりにはその男が悔やみに訪れた。
誰よりも長く手をあわせ、そしてゆったりと浮かべたのはあの日の祖父と同じ表情だった。
「君が……」
片目を隠すように伸ばされた髪、蜜柑のようなぬくもりをたたえた瞳はかつてどこかで見たような、懐かしさがあった。
「あのひとによく似ている」
長谷部の頬に触れた皺が深く刻まれた大きな手はとて温かかった。
だからだろうか。連絡を貰って長谷部は躊躇なく、電車を乗り継ぎ古い館まで足を運んだのだった。
「連絡をいただきました長谷部です」
「お待ちしておりました」
深々と頭を下げる女中が案内した応接間には、何人ものギラギラと厭らしく目を光らせた大人たちと、冬の匂いがする少年がいた。
「長谷部と申します」
「なんだこの男は?」
「親戚ではないだろう」
「立ち合い人に入っているらしいぞ」
「こんなどこの馬の骨ともわからない人間にまで遺産がいくのか」
子どもがいるのだぞと声を荒げたくなるほどひどい言葉の数々。
そのなかで少年はひそりとただそこに「あった」
人形なのかと思われるほどの白く透き通った肌、そして黒い艶やかな髪はあの日の老人と同じように片側だけ長く伸ばされ、そして夜の空に浮かぶ月のような金色の瞳は力も熱もなくただ開かれているだけだった。
誰も見向きもしない、けれどその子どもがこの場の中心にいるのは確かだった。
ただひとり男と一緒に暮らしていた子どもの心に向き合う気持ちはないが、ただその子どもをどうにか自分の手中に収めようと誰もがけん制しあっているように見える。
遺言次第ではこの子どもがあの男の膨大な資産のすべてを手に入れるのだから。
ぎゅっと握られた小さな手、そしてその手をただ見つめる力のない瞳。
決して子どもになど情を持たない長谷部ですら、その小さな手を握ってやりたいと思うほどなのに。
連絡が入り、今日ここに皆が揃うまでずっとこんな時間を過ごしてきたのかと思うと、あとのことはすべて放り出して連れ出してやりたい。
そうはいかないか。
長谷部がふうと息を吐くと同時に、また新たな男が扉から入り「遺言状を公開いたします」と声をあげた。
ざわつく部屋がしんと静まり返った。
遺言状の結果に部屋は獣の巣窟のようになった。
この屋敷を含む土地や建物、価値のあるものはほぼ処分が終わっており、処分して得たものを含む財産はほぼ寄付されており、身の回りの世話をした者たちへの慰労金、そして親戚と呼ばれる人間たちへの手切れ金のようなものがわずかに分配されるにとどまった。
誰もが莫大な遺産を手にすると思われた少年には大学までの学費に充当するべきものだけが残され、それも弁護士の管轄に置かれるということがわかったとたん誰もが「この子をどうするのだ」と押し付け合いが始まった。
さっきまで遠巻きながらも「誰が世話をするのか」を奪い合っていたくせに、くるりと返された手の速さに長谷部も笑うことすらできなかった。
「こんなしゃべれない気持ち悪い子を誰が引き取るんだ」
「あの男とそっくりで怖いくらいだ」
「もしかして」
酷い言葉の数々に長谷部は祖父の言葉を思い出した。なるほど。
「俺が引き取ろう」
そう口にしたことを悔やんだことはないが、きっとこの言葉が長谷部の人生を大きく変えたのは間違いがなかった。
・・・
光忠にとって長谷部は真っ暗な世界に差し込んだ一筋の光、いやもしかしたら光忠を狂わせる悪魔だったかもしれない
けれど光忠にとって、伸ばされたその手は生への道標だった。
救いという言葉では片付けられないなにか。
厳しくもあったが穏やかな祖父との暮らしは、最初から長くは続かないのだとわかっていた。
彼はただひたすらに走ってきた人生に疲れており、そしてその体はすでに老いていた。
光忠がこの家に来たのと同じころ、彼が一度だけ遠くに出かけたことがある。
その日、戻ってきた祖父は出発したときよりも十も二十も老けて見えた。
「どこにいってきたの?」
怖くなってそう尋ねた光忠に「大事なひとのところだ」とその大きな手で光忠の頬をそっと撫でた。
その夜だった。
光忠がそのあとこの家から持ち出すことになったたったひとつのもの、お前の味方なのだと兎のぬいぐるみを渡してきたのは。
これはお守りで、そして目印だ。
何を言っているのだろうとその時は思ったが、光忠の前に跪くと「俺と来るか?」と聞いた長谷部の顔を見たときにはっきりわかった。
この人を見つけるための目印だったのだと。
兎と同じ煤色の髪、そして同じ色の瞳を持つひと。
だから光忠は頷いた
・・・
「光忠!早くしないと遅れるぞ!」
「長谷部くん!ネクタイがまがってる!こっち向いて」
「お前は髪の毛が跳ねてるぞ」
「ちがうよ!これは!ああ!さわらないでよ!」
光忠を引き取ったとき、まだ長谷部は卒業を控えてはいたが大学生だった。
手続きには苦労するかと思ったが、話は通っていたのか弁護士たちがすぐに手を回し、ふたりはほどなくして長谷部が住む家で暮らし始めた。
仕事に慣れない新入社員が、高学年とはいえ小学生と暮らすのはなかなかに大変だった。
口がきけない気持ち悪い子と言われていた光忠は、しばらくこそ口数が少なく、言葉もうまく操れないところがあったが、長谷部と暮らすほどに明るさを取り戻し、料理や家事を覚えて長谷部を助けてくれるようになった。
「あ、そうだ授業参観行けることになったぞ」
「無理しなくていいのに」
「なんだ嫌なのか?」
「だって……」
「まあいい。行くからな」
小学校もあと数か月。
最後の授業参観だった。
ひとつの詩をとりあげ、生きていること、それを実感する瞬間について語る授業は聞きごたえがあった。たかだか一年余りではあるけれど、大きくなったんだなあと光忠の背中を見ながら長谷部もそんなことを実感していた。
「生きているからこそ伝えられることもあります」
だから大切なひとに、大切だと伝えようそんな流れから、両親に「好きなところ」を伝えましょうという先生の声に長谷部はわずかに居住まいをただした。
残酷なことをと思わないわけでもないが、光忠は失っているからこそ両親に伝えたいこともあるかもしれないな。そういえば両親の話をしたことはなかったと思う長谷部の目に「はい」と立ち上がる光忠の姿が映った。
「きみのすきなところ」
まだ声変りをしていない光忠の声は春風のように暖かくてそして柔らかい。
あの声で長谷部くんと呼ばれるのは心地よい。
「まっすぐで、そしてピンと伸びた背中、光忠と呼ぶ声のやさしさ、間違ったことをしたときに叱ってくれる声はちょっと怖くて苦手」
クスクスと笑いが漏れる。
もしかしてこれは俺のことか?
「誰もいらないと思っていたとき、君が伸ばしてくれた手が僕を生かしてくれた。そして僕に居場所をくれた」
光忠……
「そんな君のすべてが大好き。君だけがいればいいよ。大好きだよ長谷部くん」
ドキンと大きく胸が跳ねた。
これはまるで。
ただ世界にひとりきりだったから、だから伸ばされた手にすがるような気持ちなのだろう。そう思いながらもバクバクと跳ねる胸、そして顔がじわじわと熱くなる。
落ち着け。
「ずっとずっとそばにいてね」
振り向いた光忠の瞳はいつもの優しい卵色ではなく、赤みと熱を帯びた色。
こちらを見つめる光忠はいつもの光忠と違って見えた。
あああの男と同じ瞳の色だ。
半身のようなもの。その意味はもしかして。
「だいすきなはせべくん」
逃がさないよと聞こえたのは、聞き間違えではないのか。
バクンとまた大きく胸が跳ねた。
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(蛇足というか自分用メモ)
・兎のぬいぐるみはなかに宝石がいくつか埋め込まれている
(親戚に奪われないようにと隠された財産贈与)
・誕生日は長谷部くんが作ってくれるケーキで祝った
→次第に光忠が長谷部くんの誕生日に作るようになる
スイーツというか料理全般に興味を持つ
・成長するたびに執着をみせる光忠の手を離そうとする長谷部くん
海外留学の話を断ろうとする様子にもうだめだと決意し
光忠の後見である弁護士(大般若あたり)にすべてをゆだねて身を隠す
・留学後、祖父にもらった財産で長谷部くんを探しながら独立を目指す
・長谷部くんの住む町に近い場所で開業、誕生日ケーキを買いに来た長谷部くんと再会という流れ