(燭へし)きみといきたい「ごめんね。好きな子がいるんだ」
喫煙室に向かう途中、休憩ブースから聞こえた聞きなれた声と、その声が紡いだ言葉に長谷部の足は止まった。
すっと気配を消して声に集中する。
「どんなひとなんですか」
長谷部のバディである光忠にそう問いかける声は、たぶん庶務担当の女性。
「……そうだね。とても綺麗で可愛い人だよ」
大切なのだと言葉にしなくてもわかる声に嘘だろと声が漏れそうになる。
いつのまにそんな相手が。
知らなかった。
「長谷部くんは特別だよ」
「君だけなんだ」
そう言ってたくせに。
わかってる。それはただのバディに対する評価だってことはわかっていたけれど、けれそその言葉を耳にするたびに誰にも懐かない光忠の唯一になれたようで顔が緩むのを止められない。
他の刀にも、同じ部署の人間にも一線をひいて近寄らせない燭台切光忠が唯一心を許す相手。
誰もがそう思っていたし、長谷部だってそうだと今この瞬間まで思っていた。
そんな優越感に胡坐をかいていたのか。
好きな相手ができたことも、そんなに大切に思っていることにすら気づかなかった。
胃が引き絞られるようにぎゅうとなって、足音をたてないように長谷部はその場を離れた。
吐きそうだ。
そんな相手がいたなんて。
目の前がぐらりと歪み、そのままうずくまって身体のなかのものすべてを吐き出してしまいたい。
けれど。
特別だと言ってくれた光忠が、あの光忠が誰かのことを好きだと思えるようになったのだ。
ならば。
「祝ってやらないとな」
言葉とは裏腹に瞼の奥がちりと熱くなった。
へし切長谷部は刀剣男士ではあるが、本丸に顕現され歴史修正主義者と戦う彼らとは立場が違う。
数多ある本丸をとりまとめる政府で顕現された刀だ。
政府にもいくつかの仕事があり、それぞれの部署に担当をフォローするためだったり、また人間では手に負えないことを担うために刀剣男士が顕現される。
長谷部が最初に所属していた査察部では、政府の役人である人間たちがエリアを担当し、定期的に、そして時折抜き打ちで本丸の査察を行っていた。
刀剣男士はあくまで力を貸してくれる存在であり、神である彼らの立場のほうが審神者よりもはるかに上であるにもかかわらず、己の霊力によって顕現し、主と呼んでくれる存在をまるで自分の部下や下僕であるかのように思ってしまう人間が時折存在する。
いわゆるブラック本丸と呼ばれる状態――口にするのも悍ましいが刀たちが負傷しても手入れをしないだとか、特定の刀を必要以上に過酷な環境に置くだとかそういう本丸もあるのだ――にまで至れば、内部からの告発や演練など政府施設での通報などにより発覚することが多いが、そこまで悪質ではないものの刀たちに負荷がかかっている本丸はそれなりにあるのだ。嘆かわしいことだけれど。
審神者が本来なすべき仕事を放棄してたり、一部の刀だけを相手が望む以上に取り立てたり、一部の刀だけを冷遇したり、また許可されていないにも関わらず勝手に刀を譲渡したりだとか、そんな問題になると思わなかったと審神者は口をそろえていうのだが、そういう小さなことの積み重ねが本丸内の分断や、不適切本丸の芽になるのだ。
本丸に定期的に訪れることで刀たちの表情や本丸の様子が変わっていないかを確認すること、そして定期訪問以外にも顔を出すことでそういう芽を摘むのが査察部の仕事だった。
いわゆる政府で先行顕現された刀、山姥切長義や水心子正秀たちはもちろん、本丸でも事務仕事を担いがちな長谷部も政府のさまざまな部署で働いている。
そんな他の刀と同じように長谷部も政府で顕現され、査察部に配属された。
なかには本丸で顕現されたものの事情――彼らの事情というよりも審神者や人間側の事情が大きいのだが――によって、政府に保護された刀もいる。
長谷部とバディを組む燭台切光忠はそちら、本丸で審神者と呼ばれるものによって顕現されたものの、政府預かりになった刀だった。
光忠は本丸で審神者に一方的な思慕の念を向けられ、その執着が暴走のあまり出陣はおろか内番もさせてもらえず、ただお飾り人形のように彼女のそばにおかれ、あれやこれやと世話を焼かれていた。
最初は光忠のことを大変だなくらいの顔で見ていた他の刀たちも、本来なすべきことをしている自分たちに向けられる気持ちや資材が全部光忠に行くことに不満を募らせつつあった。
担当者と長谷部が不定期訪問したのは、本丸の軋みが音を立て始めたころだった。
一年前の定期訪問時は綺麗に清掃されていた玄関に乱れがあり、本丸のそこここに汚れが見受けられた。
綺麗に着飾り「何かありましたか?」と出迎えた審神者の表情とは対照的に、長谷部たちをぼんやりと見つめる刀たちの表情に覇気がない。
その本丸に査察が入ったのは日々の報告書の分析結果に偏りがあったからだ。
おそらく編成を長く変えていないのだろう、最高練度になっても出陣をしている刀があれば、低練度のままに内番を続けている刀がいる。
そして顕現時から一度も出陣も演練も、内番すらもしていない刀がいた。
燭台切光忠だった。
見目麗しい刀剣男士に思慕の念を抱く審神者はいないわけではなく、なかにはそうして気持ちを向ける刀を出陣させない審神者もいた。
「これは問題では?」
「内番もさせていないのは気になりますね」
報告書に気になるところがあってと執務室で書類を確認する審神者と担当者の背後に立ちながら、長谷部は執務室に残る燭台切光忠の気配を辿る。
この奥か。
「ちょっと厠をお借りしても?」
そう言って書棚になっている壁に手をかけた長谷部に審神者は「そこは違う」と声を荒げた。
ビンゴ。
押さえる担当者の腕の中で暴れる審神者を横目に力を入れると、がらりと開いた書庫の向こうで見慣れない服を着せられた燭台切光忠がだらりと椅子に座っていた。
政府で見かける燭台切光忠とは違う、どろりと濁った瞳、そして投げ出された足は歩くことを拒まれて長いのだろうと察することができた。
地面をしっかりと踏みしめ、力強い一打を繰り出すこの刀の足を。
思わず漏れた舌打ちにちらりと長谷部に目を向けると「哀れみならいらないよ」と弱弱しくもそう吐き捨てる声に「お前はいい刀だ」と長谷部はゆっくりと投げ出された足を撫でた。
「このままでいいのか」
「嫌だといってもどうにもならないんでしょ」
「お前はどうしたいんだ」
濁った瞳の奥にちらりと炎のような赤が見える。まだこの刀は死んでいない。
刀を握ったこともないだろう白い指、触れるとひやりとしたそれを握ると長谷部はもう一度言った。
「燭台切光忠、お前はどうありたい?」
「きみといきたい」
そうして燭台切光忠は政府預かりの刀となり、リハビリと研修ののちに長谷部が異動になった警備部へと配属された。
「彼しかいやだ」
そういう光忠の強い要望により、長谷部とバディを組むようになったのが三年前だ。
まさかその光忠に好きな相手ができるなんて。
よかったと言ってやるべきなんだろうな。
そう思うのに。このもやもやした気持ちはいったいなんだ。
「長谷部くん」
「光忠」
「顔色が悪いよ。どうかした?」
いつのまにか追いついたらしい光忠に顔を覗かれ、思わず顔を逸らす。
お前好きな相手がいるんだって?
誰だよ。よかったな。
そう言わなくてはいけないのに。
「なんでもない」
「なんでもないことないだろう?」
どうしよう。医務室にでもいく? 悪い病気かな。
ねえ長谷部くん、どうしよう。
おろおろした顔を見せる光忠に、ああそうなのかと自分の気持ちが腑に落ちた。
いつまでも長谷部くん長谷部くんと後を追ってくるこの刀が、自分を特別と言ってはばからないこの刀が愛おしいのだと。
さてどうしたものか。
「とりあえず仕事するぞ」
「え? 大丈夫なの?」
「ああ」
「じゃあ今日仕事が終わったら、一緒にご飯食べよう」
「え?」
「長谷部くんが好きなコロッケ作ったからさ」
そうだな。ちゃんと向き合おう。
「いいな。楽しみだ」
そういうと嬉しそうに微笑む光忠に「まずは仕事だ」と長谷部は笑みを向けた。
…
長谷部くんはずっとたったひとり特別な相手だ。
そう口にするたびに嬉しそうな顔をしてくれるし、俺にとってもお前はそうだぞと言ってくれたこともあるけれど、彼はバディとしてのそれだし、僕の特別という言葉もそうだと思っているだろうが、僕の特別はそういうものじゃない。
もう何もかもどうでもよくなった僕に手を差し伸べてくれたとき、あのとき僕は彼と生きたいとただそれだけを願った。
これが愛なのかどうなのかは僕にだってわからない。
あの女がいつも口にした「愛してる」と全然違うって言いたいけれど、時折僕も彼をどこにもやりたくないと思うのだからもしかしたら同じなのかもしれない。
それに気づいたときは何度も吐いて、何度も違うとわめいたけれど、もうそんなのどうでもいい。
僕はただ彼とともにありたい、ずっと僕だけの彼であってほしい。
その最初の一歩。
それが僕のことをバディとか気が合う友人じゃ足りないんだって伝えたかった。
彼に意識してもらうために、彼が来たのを知っていてあえて口にした。
「好きな人がいるんだ」
蒼白な顔をした長谷部くんを見たときの歓喜の気持ち、わかってくれるかな。
「じゃあ今日仕事が終わったら、一緒にご飯食べよう」
「え?」
「長谷部くんが好きなコロッケ作ったからさ」
「いいな。楽しみだ」
へし切長谷部ってあんな顔で笑うんだ、遠くからそんなささやきが聞こえる。
ああたまらない。
優越感から洩れる笑顔に、長谷部くんは綺麗な顔でふっと笑った。