手遅れ 呪いを学び、呪いの祓い方を学ぶという特異性故に生徒数が圧倒的に少ない呪術高専という学び舎で。
在籍する生徒数なんて全学年合わせても二十人も居ないような専門学校ではあるが、無駄にだだっ広い高専の敷地内。座学を教わる学舎から、午後の体術訓練が行われる修練場までの道のりをショートカットするべく通りかかった道ともいえぬ木々の生い茂る獣道をひた走ること数分。ようやく正規ルートであるコンクリートで塗装された階段まで辿り着こうかという時に、木々の隙間から漏れ聞こえる声を耳が拾った。
「ー……さい、五条くん」
「そういうの良いから、用件だけさっさと言ってくんない?」
知らない女の人の声に続いた耳馴染みの良い聞き慣れた声。
そのまま通り過ぎるつもりだった足が、特定の固有名詞と特定の人物に反応してしまって歩みを止める。
え? って。ほぼ無意識に。反射で振り返ってしまったところで目にした光景はもちろん。鼓膜を揺らした可愛らしい声が紡いだ台詞は。
「好きです」
予想に違わず、思った通りのものだった。
「てな感じでね、あの顔だし五条くんがモテるのはわかるのよ。任務地でもよく逆ナンされてるからね」
「あーまあ確かに。ここ最近は高専の敷地内でもよく呼び出し食らってますよね。それで返す台詞は常に一緒」
「迷惑、だっけ」
「そう、その一言」
広大すぎる呪術高専の敷地内。
うっかり道に迷えば簡単に遭難出来る山には川まで流れており、川原付近には一部の高専生に人気のBBQスポットである開けた空間も点在している。
そんなぽかぽか陽気の差しこむスポットで後輩の灰原と並んで日干しされているのは、午後の体術訓練のサボタージュを絶賛決行中の呪術高専三年生。先ほどいらん光景を目撃してしまったばかりの、所謂五条クンとお付き合い中の彼女ってやつだ。
ジャージとは汚すための布とばかり。ごつごつとした石へ寝転がるわたしの隣で、「背中痛くないっすか?」と言いながら綺麗なジャージを惜しげも無く真っ白にしている灰原は底なしに良い奴だし、出来た後輩だった。お菓子の一つでも持っていたらあげたいくらい。いっそ麓のコンビニまで下りて「好きなお菓子を好きなだけ籠に入れなよ!」と言いたいくらいだ。
「多少ロクでもない所はあるし、イジワルだけど五条くんって本当に不思議なくらいモテるよね」
「ははっ、それ先輩の彼女が言っちゃうんすね」
「言っちゃうよ、付き合ってるからこその忌憚のない意見だよ。ていうかさ、夏油くんに告白する女の人はみんなきちんと躾けられているというか……狂信的? で大人しいんだけど、五条くんに告白する人たちってなんで揃いも揃って好戦的というか攻撃的なんだろうね。いや、シンプルに五条くんが煽るせいなんだろうけどさ」
先ほど目にした光景自体は珍しくもないし、五条くんが告白されている現場に出会したとしてもわたしはショックなんて欠片も受けはしない。
高専内で五条くんを呼び出すのは決まって窓の人か補助監督サン。
呪いという異形を見慣れた肝の据わった女性達ばかりだからだろうか。五条くんに「迷惑」「話それだけ?」「時間の無駄」「必要事項以外で話し掛けんな」と素気なく返されると、ぽわぽわに赤らんでいた頬に怒りの朱色を走らせるのが常だった。
一瞬にして興味を失った五条くんが去った後、その足でわたしの所に怒鳴り込んできた人もいれば、任務地からの回収時に数時間放置されたこともある。嫉妬。こういう負の感情を表す言葉には女偏が使われるくらいアレだもんねぇと諦め半分、こわぁ〜いとわざと煽りたくなる気持ち半分。
今日も今日とてさっさと五条くんが去った後、やべぇ……と思いながらその場を可及的速やかに立ち去ろうとしたわたしは小枝を踏んでペキッと音を鳴らすというベタ過ぎる失態をおかし、目の据わった怒り狂う鬼と視線が合った後に何かしらの問答を交わすことすら許されぬまま、数十段はあろうかという階段から突き落とされるという恐怖体験(受け身はとったし怪我はない)をしてしまい、階段の最下段にて大の字に寝転がりながら「アンタなんて死ねばいいのよ」という率直すぎる呪いまでもらい受けた結果のSAN値チェックにてファンブルを出し、やってられるかとやさぐれた末に自主的に午後の授業を日向ぼっこに変更した所を後輩である灰原に見つかり、「髪にめっちゃ葉っぱとか小枝付いて爆発してますけど、どうしたんすか?」と言いながら付いてこられて今に至る。
「女怖い……あれ、少なからず体術習ってる高専生だから無事だっただけで、普通の女の子だったら死んでたかもしれないよ。そうだタイへ行こう。そして性転換手術を受けよう」
「いやいや、それは辞めておきましょ」
先輩にちんこついても体躯的に超小柄なままですよって。言われるまでも無くわかってるよ、こんちくしょう。
女のしがらみ脱却が無理なら……わたしが取れる対処法は……。
「ダメか。ならわたし灰原の彼女になりたい」
「あはははは、今からでもなります?」
「いいの? なっていいならなっちゃおうかな」
「そうしましょそうしましょ。んで、七海も誘って美味しい物いっぱい食べに行きましょ」
「いいねいいね、五条くんとだと甘い物しか食べに行けないし。灰原は米で七海はパンが好きだっけ、炭水化物祭りしに行っちゃう? 金ならある」
「行きましょう! なんだったら今からでも……うわっ!?」
「うひゃぁっ!?」
天候に恵まれた日向ぼっこ日和な川原にて。二人して意気投合したところで空から突如として降ってきた小さな塊に驚いたわたし達は、小さな粒に被弾する前に腹筋のみで跳ね起き、猫のような身軽さを披露しながらその場から飛び退いた。
灰原とわたしが寝転がっていた石の上に硬い音を立てて散ったのは、透明のフィルムに包まれた色とりどりの綺麗な……飴玉?
灰原と二人で襲撃者を探す。ザルではないはずのわたし達の呪力感知をするりと躱せる人間なんてそう多くは無い。
目が霞むような太陽光が降り注ぐ空に見つけた豆粒が誰かなど考えるまでもない。
数十メートルは上空に居たはずの豆がまばたきの間に消えるのも珍しい事でもなく。
「良い度胸だなぁ、灰原。なに人の彼女誑かしてんの」
すぐ至近距離から落とされた呆れと微かな苛立ち混じりの声が耳へするりと入ってきた瞬間、灰原が相手では起きなかった不整脈が起きた。
「違いますよ、どちらかと言えば誑かされてるのは俺です」
「はぁ? それはもっとまずいだろ」
人でなしの後輩め、たった今彼女にしてやると言った舌の根も乾かぬうちに人を売りやがって。
どういうことかなぁ〜? って。わたしの頬を面白おかしくぐにぐに揉んでくる五条くんに観念してゲロっておく。
「五条くんにぞっこんらぶになる人たちが怖すぎて無理だからタイに行きたいって相談を灰原にしてた」
「なんでタイ? どうしても行きたいなら俺と行く? てかそれで灰原はなんて?」
「灰原の趣味と実益を兼ねた大食いツアーへ旅立つ計画が持ち上がった」
「灰原は食えてもお前は人並みにしか食えねぇのに? てかやっぱり誑かしてるのは灰原じゃねぇか」
眉間に皺を寄せながら。五条くんはほんのり険しい表情のままポケットから取り出した粉々になっていない飴玉の包装紙を取り払って自分の口へと放り込む。
甘いイチゴミルクの香り。三年の教室に常備されているわたしのお気に入りの飴玉だった。
「あ、五条くんだけずるい」
「ん」
「ん?」
こっちを向けと促されるままに五条くんを見上げれば、そのまま長い指に顎が捕らわれた。
その後は「え?」と薄く開いた唇が問答無用に囓られた。そして押し込まれるイチゴミルク。
後輩の前だよ、とか気にすべき点はいくらでもある。あったのに……飴だけ寄越してあっさり離れていった唇を少なからず残念だと思ってしまったのだからわたしも救えない。
反射でありがとうと礼を口にしたわたしの目の前、灰原は赤面するでも呆れるでもなく笑顔を浮かべてにこにこしていた。
「あ? 見世物じゃねぇぞ」
そう言ってチンピラの如く後輩を威嚇している色素の薄い頭を軽く小突く。
こういう時、五条くんは絶対に無限バリアを張らないんだからズルいなぁって思うんだ。
「灰原、炭水化物祭りはまた今度、ね」
「はい! 美味しいお店ピックアップしておきますね」
「楽しみにしてる」
「待て待て、彼氏の前で浮気の算段立てるのやめろ」
「違いますよ、浮気じゃないです。先輩の盛大な惚気を肴に飯を喰らう会です。さっきまでも先輩の惚気を訊いてただけですから」
顎置きにするには幾分低すぎるわたしの頭へわざわざ猫背になってまで重しを乗せてくる彼氏サマに「重い」と文句を一つ。続けて後輩にも一言。
「それは違う、さっきのは本当に愚痴。次に纏まった休みが取れたらタイに行きたいって思ったのも本当」
「いや、タイは辞めておきましょ、本気で」
苦笑いを浮かべた灰原が粉々に砕けた飴を一つ拾い上げ、五条くんへと差し出す。
「五条先輩の目って特別に良いって訊いてたけど節穴ですか? しっかりして下さいよ」
「あぁ?」と。
先ほどまでのわたし達の会話を聞いていない五条くんは何で後輩にいきなり煽られているのかわからないながらに、反射で威嚇を返していた。
五条悟に惚れた女に殺されかけたんだよなんて、わたしは絶対に口にしない。灰原だってわたしの意向を汲んで告げ口はしない。本当に出来た後輩である。
頭の上に疑問符をぽんぽん浮かべながら、少しだけ不機嫌を滲ませた五条くんの顎が頭に刺さって痛い。
迷惑料代わりに五条くんのポケットを勝手に漁る。淡いピンクの飴玉を二つ失敬し、一つは灰原へあげた。
「なんだかんだ、流されちゃってるなぁわたし」
小さな粒を口の中へ放り込む。これでわたしの口の中にはイチゴミルクが二つ。カラコロとぶつかる粒を舌の上で転がしながら、甘い香りに満ちると現金なわたしの頬はすっかり緩んでしまった。
「良いんじゃないですか。でも次に日向ぼっこしたくなったら、俺に声掛けて下さい」
灰原の言葉には特に返事はしなかった。代わりにニコッと笑っておいた。
深々と吐き出されるため息。わたしに倣った灰原も口の中へ放り込んだ飴を舐めることなく、ガリガリと噛み砕く。
あらワイルド、なんて。ふふっと笑ったわたしの頭から重みが消えたかと思えば、「てかさっきから気になってたけど、お前汚れすぎじゃね?」、五条くんが首を傾げながら真っ白に汚れたジャージを優しく叩き、甲斐甲斐しく汚れを落とし始めた。
それに礼を返しながら、ふふんっと胸を張る。
「受け身の訓練してたからね」
「午後の授業サボったくせに?」
「訓練ってのは人知れずこっそりやりたい日もあるんだよ」
「気持ちはわからないでもないけど、そこは後輩じゃなくて俺に声掛けろよ」
「うーん……確約は出来ないけど、候補には入れとくね」
そこは可愛く「うん」って頷くとこじゃねぇの? なんて。女に夢を見過ぎな五条くんの胸ぐらを掴んで引き寄せる。
口の中で転がしていた大きい方の飴玉を問答無用で五条くんの口へ押し込んで。
それをなんのためらいもなく受け入れた五条くんがどうもと口にした礼に、うんとだけ返した。
そして再び頭の上にのし掛かる遠慮のない重さと、肩こりを誘っているとしか思えない背後から回された二本の腕がわたしの胸の辺りでクロスしていくのを見下ろしてため息を一つ。
「五条くんのせいでわたしの身長縮んだ気がする」
「んなわけあるか。寧ろ俺はお前の身体の発育に貢献してる方だろ」
彼氏サマの言わんとしていることは理解した。
でも納得は出来ない。だってわたしの胸は五条くんが携帯の待ち受けに設定しているワカパイなるものの対極にある慎ましやかな絶壁だ。
というか話にノッといて何だが後輩の前でする会話ではない。これが七海だったら「付き合っていられない」と即座に切り捨てて立ち去るだろうに、灰原は何故かニコニコと笑ってわたし達を眺めていた。いや、まあ、良いなら別に構わないけど。
いつものノリで返せば、五条くんもいつものノリで返してきた。下ネタじゃん、サイテー。
「全然育ってない。あっ……五条くんって実は下手くそなんじゃ……?」
「そのハッって顔やめろ。いっつも途中で気絶するくらい気持ちよくしてやってんだろうが」
「わかんない、体格差で潰れてるだけな気がしてきた」
「あぁ? 今から実戦してやってもいいんだぞ」
「嫌だよ、こんな明るい時間から。てか五条くんに見つかったなら大人しく午後の体術訓練の補講に出るわ、腕離して」
「話終わるまで離しませんけど?」
「ぐえっ、重い……え、本当に重いよ、体重掛けてのし掛かりすぎじゃない? 潰れるよ、わたし潰れるよ?」
ギブギブと繰り返しながら、五条くんの逞しすぎる腕をぽんぽんと叩く。
この程度の抑止じゃ止めてくれないじゃれつきにそろそろ本格的に潰されそうでしんどい。五条くんの体躯はさ大型犬通り越して熊サイズじゃん。着痩せして見えるだけで筋肉ムッキムキだよ。脂肪と違って筋肉は重いんだよ。鎧着込んだ熊とか重いに決まってんじゃん。ふぎぎぎぎっ……。潰れる。
俊敏性は鍛えられてもこうして物理で来られたらどうしたってわたしじゃ勝てない。
呪力で身体能力を強化してもいいが、遊びで疲れたくない……いや、もう充分疲れてるけど。
生理的な涙が目に浮かびそうだし膝も笑い出した。
「はっ、はいばらぁ……たすけてぇ……」
これ以上は耐えられないと、息も絶え絶えに目の前に居た後輩に助けを求めたのは考えるまでもなく悪手だったらしい。
次の瞬間には項から肩に掛けて焼け付くような痛みが走っていた。
鋭い痛みに悲鳴を上げるより先に、わたしの身体はビクリと跳ねてその刺激を甘美なものと認識した上に、「んっ……」、うっとりしたような吐息まで漏れたとあっては……我ながら本当に救えない。
脳が囓られたと理解した時には五条くん共々、わたしの身体は飛んでいて、行き着いた先は言わずもがな。
視界がブレる間際、呆れたように紡がれた後輩の台詞をわたしの優秀な耳は完璧に拾っていた。
「なんで息するようにいちゃつくこの先輩達見て、五条先輩に告白しようと思えるのか本当に謎っすわ」
そんなの解るわけがない……と返したいところだけど、正直なところわたしには何となく“五条くんに告白する人”の気持ちがわかるのだ。
「で? 後輩に乗り換えようかちょっと本気で悩んでた浮気者の彼女サンは言い訳しなくていいの? てか受け身云々の前にお前なら避けられるだろ、何してんの?」
真っ黒いサングラスの隙間からのぞき見えた蒼が放つ燦々とした光は強烈。
怒ってるなぁ〜と思うばかりで、特級呪術師からの威嚇に怯んだりはしない代わりに、マイペースに返した。
「うーん……五条くんってさ、実は結構フツーの男の子だよねぇ」
許可も取らずにレディーの服のファスナーを下ろしてくる彼氏サンに苦笑い。
わたしは受け身は取れても、硝子や五条くんみたいに反転術式が使えないから身体に浮いた痣は消せないのが悔やまれる。
会話成り立たねぇ〜とぼやきながら。チリチリとした痛みの走る小さな傷をくれる人のフワフワな髪を梳いてやる。
「てかさ、川原に寝転がってたしシーツ汚れるよ」
もっと汚れることすっからいいよ、って。あとで硝子んとこ絶対連れてく、って。
労る気があるなら跡つける前に連れてってよ、とか。親友にまで性生活明け透けにされるとさすがに恥ずかしいんですけど、とか。
わたしの文句はすべて五条くんの喉の奥へと飲みこまれて消えてしまった。
おしまい
オッエェェェの時はとりつく島もないけど、他人に興味を持つようになった五条くんならイケるんじゃ? って自分に自信のある女の人はグイグイ行きそうだよね。