The language of flowers ──冷たい雨が降りしきる中を、二人は走っていた。
「はぁっ、はぁっ……」
長時間走り続けた足はまるで棒にでもなってしまったかのように感覚を失い、雨に体温を奪われ冷えた身体とは裏腹に、激しい呼吸を繰り返した喉は灼けるように痛い。
ただ、繋がれた手の温もりだけが、彼女とこの世界を繋ぎ止めるよすがだった。
「はぁっ……」
何があろうと、決して、後ろを振り返ってはいけない。──
今、自身の手を引いて走る騎士から告げられ、また城に残してきた父からも、別れ際に言われた言葉が、彼女の頭の中でぐるぐると回っていた。
その言葉に従い、うつむきながらも前を向いて走っていたはずの彼女の視界の隅に、ちらりと何かが横切った。
花だ。
今はそれどころではないのに、と、自分を叱責して視線を前に向けながらも、彼女の脳裏には一瞬だけ垣間見たその花の姿が焼きついていた。
※
「先ほど、以前ゾーラの里の近くで見た花を見つけました」
消え入りそうな声で呟くように言う姫に、騎士は周囲を警戒するのを一旦やめ、姫のほうへと視線を移した。
雨よけに騎士がかけたハイリアのフードをかぶり、樹に寄りかかるようにして座った姫は、力なく微笑んだ。
「あの花を貴方やミファーと見たのは、もう昨年の春のことなのですね……。
まだ一年足らずのことなのに、それなのに、もう……」
そこまで言うと、姫は俯いた。
騎士は姫の前に跪き、その顔を案じながら覗き込むように身をかがめた。
騎士は俯いたままの姫の横顔をじっと見つめた。しばしの沈黙の後、騎士は重々しく口を開いた。
「姫様。お疲れのところ申し訳ありませんが、ここもじきに危険になります。
移動を」
騎士の言葉に、しかし姫は俯いたままみじろぎ一つしなかった。
騎士は辛抱強く、反応のない姫に語りかける。
「シーカー族の待つカカリコ村へ──安全な場所まで、私がお連れします。必ず」
騎士の言葉に、姫はゆるゆると顔を上げ、目の前にある騎士の顔を見つめた。
姫の目の前には、いつでも自分をまっすぐに見つめてくる、変わらない騎士の双眸があった。
「貴女を護ります」
騎士が言葉を重ねる。
その言葉の力強さに、姫は一瞬うろたえたように瞳を揺らした。
「それは、国に仕える騎士としてですか?」
姫が、かつて騎士を避けていたときと同じような疲れた口調で、騎士に問いかけた。
「もしそうであるなら、王の代理として、私が今すぐその任を解きます。
たとえ貴方が退魔の剣に選ばれた勇者だとしても、私を護ってこれ以上、その身を危険に晒す必要はありません。
貴方一人なら、ガーディアンから逃れてカカリコ村へ、あるいはハテノ村へ辿り着くことができるでしょう。もしくは力強い戦力として、アッカレ砦へ赴き、多くの民の命を救うことも。
ですから──」
「違います」
騎士の強い言葉に、姫は驚きに目を見開きながら口をつぐんだ。
寡黙な騎士が姫の言葉を遮るのも初めてなら、このように強い勢いで姫に言葉を告げるのも初めてだった。
姫は、これまで、騎士がいかに自分に対して細心の注意をもって優しく、いたわりをもって接してくれていたのか、この時初めて気づいた。
驚いた様子の姫に構わず、騎士は続ける。
「確かに、俺は騎士で、退魔の剣に選ばれた勇者です。
そして、貴女はこのハイラルの姫君で、俺の対となる姫巫女。貴女を護ることが、騎士として、勇者としての俺に与えられた使命です。
──でも、違う。
貴女は、俺にとって──」
そこまで言って、騎士は黙って唇を噛み締めた。
まるでひとたび言葉にすれば、すべてが泡のように消えてしまうか、あるいは、その先に続く言葉を知らないとでもいうかのように。
二人の間に会話が途切れ、さああ、と、雨がそぼ降る音だけが耳に響く。
ふと、姫の脳裏に、先ほど見た花の花言葉が思い浮かんだ。
うつむいたように咲く、紫色の可憐な花の姿が。
いつだったか、姫はゾーラの王女に、その花の花言葉を教えたことがある。その言葉の意味を、深く考えることもないままに。
姫は俯いた。
人はなぜ、花に、あるいは宝石に、「言葉」をつけようとするのだろうか。自らの境遇、あるいは想いを託そうとするのだろうか。物言わぬものたちに。
姫が唇を噛み締めていると、騎士はそっと──おずおずと、と表現して差し支えないような、躊躇いとさえ呼べる動作で──姫の手を取った。その優しい動作に反して、姫の手を握る騎士の手の力強さに、姫は弾かれたように顔を上げ、騎士の顔を再び見つめた。
そのとき、ようやく姫は理解した。騎士の寡黙さの本当の理由を。そして、想いに比べて無力な言葉を。
騎士は強く姫の手を握った。まるで騎士の肉体の中ではなく、姫のそのたおやかなてのひらの中にこそ、おのれの魂が包まれているとでもいうかのように。
姫もそれに応えるように、騎士の手を握り返した。自分の心を委ねるように。
「──行きましょう、リンク。
貴方がいるなら、私はどこまででも行けます」
姫の言葉に、騎士が頷いた。
「はい。
俺はどこまででも、貴女と共にあります」
手を繋ぎ、二人は再び走り出した。
騎士と並んで走る姫の脳裏には、あの可憐な紫色の花の残像が浮かんでいた。