続よきひと前作「よきひと」はhttps://twitter.com/oshihamidori/status/1651568998994313216s=61&t=zoQb2uOrMX9DDUQ7m-6NQg
です。
「あ、いけね。この資料、明日朝イチで宇佐美が使うって言ってたよな」
会社の最寄り駅まであと一駅のところで、ふと思い出した。直帰の夢が儚く消えた。
どうせ家に帰ってもやることはないから支障はないのだが、こう言うのは本当、気分の問題。
イケメン部下の鯉登からすでに同棲している彼女がいると聞かされて、なんでも揃ってるやつは身を固めるのも早いんだなぁ、そういえばスポーツ選手も結婚早いもんなぁなどと勝手なことを考える。フリーだと吹聴してるが、俺だってビビッとくる相手が居たら結婚もありだ。鯉登の彼女、どんな子なんだろう。結婚式に呼ばれたら会えるか。
妄想しているうちに会社に着いた。
営業部は社内の花形部署である。よって灯りが消えるのもいつも遅くて、「お疲れ」とフロアに入ると、まだほとんどの社員が残っていた。
「菊田課長、お疲れ様でした」
パーテーションから顔を出したのは月島だった。昨春係長になって、役付きは柄じゃないですと言いながらも、部下十数名の面倒を見つつ自分の仕事も猛然と熟す。語学が堪能なので、主に外資系企業が担当だ。
「今日、直帰の予定じゃなかったですか?」
「そうなんだが、この資料、宇佐美が使うって言ってた気がしてな」
月島に資料を手渡す。ファイルの表題を見るや「あ、そうです、助かります」と頭を下げられる。いやいや、これも仕事なんだからそんな気を遣わんでも……。
フロアをぐるっと見渡す。しかし肝心の宇佐美が居ない。
「宇佐美は、休憩中か?」
「帰りました」
「何、もう?いつにも増して早いな」
「鶴見さんが久々に帰国されるそうで。リカーショップにシャンパン買いに行きました」
鶴見さんは営業部の部長だったが、一昨年からはモスクワ支社長となっている。
それはともかく、なんで上司が帰国するにあたってシャンパンがいるんだ。宇佐美の鶴見さん愛は深くてちょっとどす黒い気がするんだ……まさか奥さんと愛娘のいるマンションに牽制しに行くのか……?
「宇佐美の鶴見さん愛って、熱烈だよな」
「鶴見さんがツインレイなんだそうです」
「ツイ…?…へえ、そうなの」
おじさん横文字苦手なんだけど、月島は割りに順応してるな。ひょっとして月島の彼女ってめちゃくちゃ若かったりする……?
「ところで、たまの外回り、どうでしたか?」
「ああ、気分転換になって良かったよ。社内ミーティングばかりじゃ、腰痛のタネが増えるだけだしな」
「はは…。今週末は中山でしょう?」
「当然、そのための労働だ」
「課長、ほんと競馬好きですよね」
月島は、自分はやらないくせに、競馬の話を振ってもだいたい付き合ってくれる稀有な部下だ。おじさんのジョークにもお義理の可能性はあるにせよ笑ってくれるし、いい奴だ。
せっかく会社に戻ったのだし、とメールチェックをしていると、月島が緑茶を淹れてきてくれた。
「おお、サンキュー。気が利くな」
「いえ、自分のを淹れるついでもあったんで」
「お前まだ帰らないのか?」
「ちょっと稟議書を溜めてしまって、まとめて処理してます」
「なあ、だったら帰り、飯食って行かないか?」
「あー…その、今日は都合が悪くて。申し訳ないです」
珍しく歯切れが悪い。働かなくていいおじさんの勘が働いてしまった。
「なんだ。彼女と約束でもあるのか?」
あれ、これセクハラとかモラハラ?ああ、俺ほんとだめだ、こういうのついやってしまう。親戚のおじさんポジから脱却しろって鶴見さんにも言われたのになあ…。ほんと管理職に向いてない。
「ごめん、今のなしで…」
「いえ、俺は気にしないです。…実は今日、夕飯を作って待っててくれてるらしくて」
あ……やっぱりそう言うこと。寂しいなぁが膨れ上がる前に慌てて気持ちに蓋をする。こう言うのは、慣れが必要。慣れるまで大変だけど。
「なら、早く帰らないとな」
「はい…でもせっかく誘っていただいたのに、すみません」
「そんな申し訳なさそうな顔しないでいいって。若者は恋も頑張りなさい」
「はい…」
月島が色白の顔を少し赤くした。こんな純朴な三十代がいたのか。決していやらしい意味ではないが、可愛いと思ってしまった。
ふと、夕方鯉登と交わした会話を思い出した。
「あのさぁ、月島」
「はい」
「俺が昼に蕎麦食ったって言ったら、じゃあ私も蕎麦食べるって言ってくれるような人、いいよなぁ」
「…はあ…え、なんですかそれ?」
わかんねぇよな。俺も何言ってるかよく分からない。疲れてるのかな。鯉登ショックかもしれない。
「よく分からないんですけど…俺も昼飯は蕎麦でしたね」
「あ、そうなのか?」
「今日寒かったじゃないですか」
「だよなー。こんな寒い日は彼女さん何作ってくれてるんだろうな」
「それなら…」
月島がズボンのポケットからスマホを取り出し、これ…とラインのトーク画面を開いてみせた。
「たまにしか作らないんですけど、たまに作るといっぱい写真撮って寄越すんですよね」
なるほど、画面見開き、全部料理の写真だ。
うん、それはいいんだけど、何これ。惚気?惚気なのか月島?
今日はどうも、部下に惚気られる日みたいだ。
「あ…でも湯豆腐いいなぁ、美味そう。俺も家帰って作ろうかな」
「ちょっと高めの利尻昆布で作ると、美味いですよ」
ぽこん、とトーク画面にメッセージが追加された。
『おそい!!!!』とある。
「あ、彼女さん怒ってるんじゃないか?もう帰れよお前」
ははは、と月島の肩を叩くと、再びぽこん、と今度は写真が追加された。
特徴的な眉毛のイケメンだ。というか鯉登だ。鯉登がおたまを持ってちょっとむくれた顔をしている…あ、これ自撮りだ。あとむくれててもイケメン。
いや……鯉登?おかしくないか?彼女が家に来てご飯作ってるんだよな?でも今、月島の家で夕飯を作って待ってるのは鯉登なの?彼女の友達?え、彼女の友達が鯉登なのはいいけどなんで一緒に月島の家に居るんだ?いかがわしくない?
頭の中が疑問符だらけになってしまった。
「月島、あのさぁ…」
ふっと顔を上げて、その瞬間俺は悟ってしまった。月島の真っ赤な顔を見て悟ってしまった。
お前らって…。
そうだったの?お付き合いしてます的なやつ。あ、違う、おつきあいどころか同棲だ。昼に、鯉登に蕎麦食うってラインした歳上の彼女って、月島だったのか。結果彼女じゃなかったけど、奥ゆかしさと情緒が天然記念物級。……そうなのか。月島、お前ってそうなのか。
なんか、おじさん、相当不躾にぐいぐい深入りしちゃったみたいだ。悪気はないんだけど、ごめんな。
手帳型のスマホケースをそっと閉じて、すっかり動揺しきっている月島に握らせる。
「俺、何も見てないからな。あとお前、稟議書なんか明日以降でいいよ。今日はもう帰りなさい」
「は…では、その、今日はこれで」
軍人みたいな綺麗なお辞儀をして、月島が足早に自席に戻って行った。そして帰り支度をし、また軽く頭を下げ、フロアを出て行った。
「……」
俺の有能な部下二人は、どうやらラブラブ同棲中らしい。しかも鯉登が大学生の時から。
何それ。どういう関係…?おじさんをあまり悩ませないでくれ若者よ。
テンプレ文章ばかりで半ば作業と化しているビジネスメールを打つ手も度々止まる。脳のリソース不足が酷い。一昔昔の、メモリ何百メガのパソコンだってこんなに遅くなかった。でも俺の脳みそ、処理落ちしそう。腹も減ってきた。
時計を見る。月島はもう愛の巣に帰ったのかな。最近の人間は愛の巣なんて言わないのか。
俺にもそんなたいそうなものがあるなら今すぐ飛んで帰りたいけれど、川べりのちょっと眺めのいい、天気が良ければ富士山が見えるマンションに、待つ人はいない。前は弟がよく遊びに来たが、あの野郎、兄貴を置いてさっさと結婚しちまって、この頃は貰い物が食いきれないからお裾分け、という時くらいしか来ない。まあ、幸せな結婚生活らしくて嬉しいが、兄ちゃんは少し寂しい時がある。
「菊田課長、プレゼン資料が出来たので、印刷したやつをお持ちしました」
前山がニコニコと目の前に立っていた。妻帯して子供も二人いるけれど、まだこの多忙極める営業部に残りたいと言ってくれている有り難い部下だ。
「おー、助かる」
資料を受け取り表題だけ確認して、あのさぁと話し掛ける。
「変なこと聞くけど、今日の晩飯、何?」
「え、家に帰るまで分かりませんよー」
「嫁さんから、今日は◯◯よーとか」
「ないです、ないです。牛乳買ってきて、とかおつかい系のが来るくらいですよ…なんでそんなこと聞くんですか?」
きょとんとした顔の前山に「実はさ…」と言い掛け、ちょいちょいと手招きする。
「え、なんです?」
デスクを回り込んで、俺の隣にやってきた前山に、腕組みをしていかにもな訳知り顔で呟く。
「実はな…」
「はい」
「今日、月島と鯉登の昼飯、蕎麦だったんだよ…」
「はい。…はい?」
「そうなんだよ、蕎麦だったの」
「え…?それで…?」
なんだか分からないという顔で、しかし人が良い前山はなんとか意味を掬い上げようと顎を摘んだり首を捻ったりしている。
「いいよなぁ…」
「え、蕎麦がですか?俺でいいなら、帰りに蕎麦お付き合いしますよ?」
その発想はなかった。前山めちゃくちゃ優しい。寒いから昼も晩も蕎麦でいいような気がしてきた。一人で湯豆腐っていうのも、なんだか寂しいしな。
「俺は有難いけど、嫁さん飯作って待ってるんじゃないの?」
「いえいえ、連絡すれば大丈夫。うちの嫁さん、平日はそれなりに心得て飯作ってるっぽいんで」
「……じゃあ、お付き合い願おうかな。天麩羅が美味い店行こう。勿論奢り」
「うわー喜んでご馳走になります。課長は、もう上がりですか?」
「おう、もうあとは明日にするわ」
じゃ俺も帰る支度しますね、と前山は自分の席に戻っていった。素直で優しい部下が居て俺は果報者だなぁとしみじみ思う。
散らかったデスク周りを片付け、十分後には前山と連れ立ってビルを出た。
駅の反対側にある、掘り炬燵なんかもある蕎麦屋。ボーナス貰った時くらいしか来ないけど、今日はなんかそういう気分。
高級天麩羅そばは、それは美味かった。前山は食レポさせたら多分社内一だ。頬に手を当てて、「美味いですね、ほっぺた落っこちそう」とニコニコだ。全然そのつもりはなかったのに、十四代が入荷していると聞いて、思わず徳利を一本ずつオーダーしてしまった。前山は終始至福の表情だ。
「平日からこんな贅沢させて貰って、いいんですか?」
「今日はいいのよ。これくらいの贅沢もさぁ」
結局、気分よくダラダラ店で喋って飲んで、駅の改札で別れたのが九時半過ぎだった。前山は赤い顔で手を振りながら、帰っていった。
俺は京浜東北線で、ゆっくり埼玉に帰ることにする。
家に着いたら十一時近いなあ。風呂入ってすぐ寝よう。洗濯は起きられたら明日の朝すりゃいいか。全部明日だ。
ちょうど隅の席が空いたので、そこに座ってスマホをチェックする。月島と鯉登からメッセージが来ていた。
「……」
怖いな。ラブラブなシーンとか送ってきてたらどうしよう。顔合わせらんない、それは勘弁、と思いつつラインを開く。
杞憂だった。
月島からは「夕方はすみませんでした。ご配慮に感謝します」だった。うん、常識的で良い。
一方鯉登からは「はぐらかしてすみません、一緒に住んでるのは月島です。最高の恋人です。今夜再確認しました」と来ていた。
おいおい、何を確認しちゃったんだエロいな。鯉登のヤツ完全に惚気じゃねえか。ちくしょう、身長も性格もこの二人の凹凸バランス最高、お似合い。末長く幸せに暮らせよ。おじさん、半分酔っ払ってるけど、部下の幸せは真面目に願ってるからな。
本当に。
なんか俺って、前世ではそんなにいい人間じゃなかったような気がするんだよな。そもそも前世っていつだよって話で、でもそんな気がしている。誰にも言わないけど、直感って言うのかな。だから、現世では良い人間でいられたら、とか柄にもなくこの頃思うんだ。
例えば、月島の隣の特等席には、今は鯉登が座ってる。
鯉登の特等席には月島が。こんなのは完璧概念の話になるが、好き合うってそう言うことなんじゃないかと俺は思う。
でも、俺の隣の特等席には、特定の誰かは座らないような気がする。それを寂しい、不幸って言ってしまえばそれまでだけど、時々違う景色が見たくなった時に、誰かが俺の隣を使ってくれたら良いんじゃないかと思えるようになってきた。フリー気取ってるけど、実態はそんなカッコいいもんでもない。
なんて事を考えていたら、とん、と肩に重みがかかった。
隣に座っていた男が、居眠りをして寄りかかってきていた。若い。顔に、びっくりするくらい傷跡がいっぱいある。まだ四月なのに、ちょっと寒そうな白T。しかし物凄いイケメンだ。鯉登もイケメンだけど、隣のにいちゃんは、ちょっと尖った感じのイケメン。へえ…世の中結構美形がいるもんだなぁと思って見ていたが、おっさんが若者の顔をジロジロ見るのはいかにもセクハラっぽい。慌てて視線を逸らした。
スマホで競馬サイトを開いてオッズの確認をし、それから出走馬の仕上がりなんかも確かめる。競馬ってさ、この時間が楽しいんだよな。一端の評論家ごっこみたいな。
快速電車が次の駅に停車して、その振動で隣の若者が目を覚ました。
「あ、俺、すいません!」
起きるなりすごい勢いで詫びるので、いいよいいよと手を振った。
というか、目を閉じてても美形だったのが両目開いたら後光差してるような、夜十時過ぎに見たら目の毒になりそうな美形で笑ってしまう。なんだ、タレントか何か?モデル?
「ん、まあ、電車なんて、こんなのお互い様だし」
「いや…でも本当、すいません」
「若いのに随分疲れてんだなぁ、大丈夫か?」
「はあ…バイト詰めすぎてて…ちょっと」
おじさんはそのバイト内容が少し気になるが、初対面だからまさか聞くわけにもいかず。
「どこで降りるの?」
「◯◯です」
家の最寄駅だった。それなら。
「俺もそこで降りるから、寝てていいよ。着いたら起こしてやる」
「えっ、でも」
「いいよ、俺は電車では寝られなくてさ。ただのついで」
よほど疲れていたのか、はい、じゃあ…とぼそりと呟いて、男はまた眠り始めた。
今日はいろんなことがあるなぁ……。
川を越えて埼玉に入ると、ちょっと空が広くなる。
窓の向こうに、小さく月が見えた。春の朧月夜の言葉通り、だいぶ霞んでいる。子供の頃から、月を見ているとひどく懐かしい気持ちになる。俺はかぐや姫じゃないから、帰りたいとか、そういうのじゃない。切ない。まるで何かを置き忘れてきたみたいな……。
隣席の男がまた肩に寄りかかってきた。
袖振り合うも多生の縁というけれど、肩を貸したらどれくらいの縁なのか。
そんなことを思っているうちに、飲みつけない上等の日本酒の酔いが回って気持ちよくなって来て、俺もうっかり寝てしまった。
俺と隣のにいちゃんは結局、仲良く一駅分乗り過ごしたのだった。
おしまい
菊田さんは、カプとかじゃなくて、単に好きです。
杉元は、倉庫のバイトを掛け持ちしています。フォークの達人です。(生かされていない設定)
鯉月の二人と宇佐美は記憶ある。鶴見さんは…どうなんでしょう。菊田さんはなんとなーく前世の存在を認識しているくらい。杉元も記憶ないです。家が近いことを知り、やがて飲み仲間、遊び仲間になるんじゃないかと。有古ともそのうち記憶ないまま再会すると思います。
現世の菊田さんは絶対競馬が趣味じゃろ…と思って続きを書き始めて、結局こんな感じのお話になりました。菊田さんの脳内は若者言葉と死語のせめぎ合いで忙しいんだろうな…笑。とても楽しく書きました。お読み下さってありがとうございました!