「感染するとかありえなくね? 他の奴らはともかく俺には無下限あんだし」
五条は無意識に拾った枯れ枝をグラウンドの向こうに思い切り投げつけながら不機嫌に口を尖らせた。
「ただの結核ならね。呪霊が関連してるとなると話は別なんじゃない?」
家入は階段の端のわずかな木影を陣取って紫煙を燻らせている。
梅雨の薄い晴れ間。さすがに蝉はまだ地面から這い出してはいないようだが、雲間からじわじわと照りつける太陽の反射が二人の制服のシャツに微かなしみを作っていた。
午後は体術の時間で仕方なくグラウンドに出てみたものの、この二人では特にやることもない。監督の夜蛾も上層部の呼出しで離席しており、実質休講のようなものだ。
「それにしたって、連絡も取らせないとか横暴だろ。俺だったらとっくに脱走してる」
「君がそんなんだから夏油も携帯取り上げられんだよ。罹ったの五条の方じゃなくてよかった」
暗に普段の素行の悪さも揶揄されて、五条はサングラスの影からジロリと家入を睨んだ。
夏油傑が高専のどこかに「隔離」されて既に一週間が経とうとしていた。
学校始まって以来の問題児揃いといわれた彼らも無事に三年へと進級し、男子二人は特急を冠するようになって単独任務の機会も増えた。術師不足は相変わらず深刻で、学生の身の上とはいえ繁忙期には容赦なく地方での祓除指令が回ってくる。
だが、その日はたまたま都心での一級呪霊複数案件の可能性が浮上し、五条と夏油は二人揃って現場へと駆り出された。同じ寮に住んでいながら顔を合わせたのも数日ぶりで、一緒の任務どころか最後に「寝た」のがいつだったかさえ定かでない。
もともと夏油は五条に比べれば物静かな質だが、その日は朝からいつにも増して無口だった。暫くぶりの二人での任務に朝から浮き足立っていた五条にしてみれば完全に肩透かしを喰らった気分で、何を言ってもうんとかすんとかしか返事を返してこない相方の反応の鈍さに思わず口をへの字に曲げて黙り込んだ。
なんだよ。疲れてるのはこっちだっておんなじだってーの。
少しやつれたように見える夏油の鋭い横顔に一瞥をくれて、自分も同じように反対側のリアウインドウへからだを預ける。
出鼻をくじかれる格好となった五条は、つまりは完全に拗ねていた。
スムーズに滑る黒塗りのセダンに送り届けられた先は街中にある白亜の教会だった。教会で呪霊狩りとは随分と皮肉な話だと五条は笑ったが、実質そこは結婚式場の付属施設で宗教的な意味合いはほとんどない。むしろ結婚式場なんて人の思いが吹き溜まる典型的な場所で、呪いにとっては恰好の狩場だ。
見方によっては安っぽい教会のファザードからは、既にどす黒い瘴気の様な気配が漏れ出していたが、二人は補助監督とともに一旦隣の披露宴会場にある控室へと通された。
「これ、本当に必要なんですか?」
そう言って、朝から無口を通してきた夏油もさすがに眉間に皺を寄せ、祓除依頼をしてきた結婚式場のオーナーをじろりと睨んだ。
「ええ、まあ。そうでないと『出』ないようでして」
申し訳なさそうにからだを小さくしているスーツ姿の男の脇で、五条が肩を震わせて笑いを堪えている。
何故なら髪を結い上げたままの夏油の頭には、白い可憐なレースのベールが掛けられていたからだ。普段のセックスポジションとは関係なく、単にジャンケンに負けた方が花嫁役という縛りである。
「なんならいっそドレスも着たら」
高専の硬派な制服とのミスマッチが更に五条のツボを刺激したらしく、言った側から笑いが漏れている。
「私に合うサイズがあればね。悟ならまだ着れるのがあるんじゃない」
夏油がヤケクソ気味に返した言葉にオーナーが更にからだを硬らせた。
「『出』るのは主に式のリハーサルの時でして。お召し物は平服で問題ないかと」
ついにゲラゲラと五条の高笑いが控え室に響き渡り、花嫁役争奪戦は決着を見たのだった。
補助監督が住宅街と式場施設の間にある教会へと狭い帳を下ろすと、二人は花かあるいは米を撒くセレモニーのために造られた必要以上に長い円形階段を登り、ファザードの白い観音扉を両側から引き開けた。火事場のバックドラフトのように流れ出る空気とともにどす黒い呪気が一気に押し寄せる。
夏油は思わず片手を掲げて顔の前を覆ったが、五条は構わず無限の大気を纏ったまま一気に祭壇まで間合いを詰めた。
が、肝心の呪霊の姿はない。
あれ?
予想と違う展開に五条はポカンと口を開けておどろおどろしい空気を纏った祭壇を見上げた。
「ちょっと、君なんで花嫁置き去りにしてるわけ?」
背後からはまだ境界線の敷居すら跨いでいない夏油の声がする。
「あー、花嫁って後から送り届けられるのが普通じゃない?」
五条の適当な言葉にそれもそうかと頷いて、介添人こそないがベールの花嫁がヴァージンロードを歩いてくる。
「こういうのには手順が重要だからね」
「はいはい。正論」
先走ってバツの悪そうな花婿の脇にガタイの良い花嫁が並んだ。
だが、明らかにそれらしい気配はあるものの、しばらく待っても目的の呪霊が顕現しない。姿を表してくれなければ取り込むことも祓うことも叶わない。
「えーと。悟、誓いの言葉知ってる?」
「健やかなる時も病める時も……あとわかんねー。略。……誓います」
「じゃあ、同上。誓います」
「……どこまでやんのこれ?」
目的のものを呼び出すための単なる形式だと分かってはいるが、腐っても男子高校生、なんとなく照れくさくなって五条はサングラスの下からチラリと相方の様子を窺った。
「どこまでって、呪霊が出るまで」
「マジか」
「では花嫁にキスを」
と、ベールの下の花嫁自身が極めてフラットに言い放ったので、五条は覚悟を決めて隣に立つ夏油へと向き直った。キスどころか普段から全てを許している相手のはずなのに、いざとなると妙に緊張してしまう。
だか、両手でそっと捲ったベールの下のから覗いた相手の顔は彼の予想したものと少し違っていた。
充血して潤んだ切長の目。頬はほんのりと赤いが全体としては顔色が悪く、近くで見ると目の下のクマがひどい。薄い唇は乾いて真ん中にヒビが入っていた。
それはそれで色っぽいと言えなくもないが、やはり懸念の方が先に立つ。
「なあ、お前、なんか熱っぽくね?」
「夏風邪かな。最近ちょっと調子が悪くて」
頬に当てられた長い指の手を振り払いもせず、夏油はぼんやりと相手の顔を見返した。普段ならあまりそういうことを口にしたがらない彼が素直に白状したところをみると、それなりにしんどいのだろうと想像できる。
「昼間はいいんだけど、夜になると咳が出るし、だるくて何にもやる気が起きない」
「なんでそういうの早く言わないんだよ」
「悟の方が忙しいのに。なんか私だけ疲れてるみたいで腹立つから」
「ほんとお前そういうとこ面倒臭いよね」
朝からのらしくない態度になるほどと合点がいって、五条は小さなため息をついた。
「そんじゃ、ま、さっさと祓って帰ろうぜ」
新郎がちょっと屈んで新婦の乾いた唇に軽いキスを落とすと、祭壇の影から飛び出した二体の呪霊が、勢いよく二人に襲いかかった。
新郎の方はクズの集合体。新婦は可愛いけど、あんま女の子っぽいヤツは扱いが難しいんだよね。というクズによるクズらしい査定の末、二体とも取り込まずに祓っていいことになった。
これを可愛いっていうとか、どういう趣味なのよ。と五条は内心相方の言動に耳を疑ったが、夏油が既にからだに取り込んでいる「女の子」たちのことを考えると、相対的な評価としては間違っていないかもしれないと思い直す。
カップルに扮装して呼び出した相手は、そもそも は別の呪いだったものが同じ場所に宿って複合化した呪霊で、いわばこちらもカップルのようなものだった。二体それぞれの攻撃は限定的だが組合わせの妙で実力以上の力を発揮してくる。
もちろんこちらも手練れのペアで、複数案件での戦闘体制には自信もあったが、補助監督から出されたできるだけ施設に被害を出さないようにという通達が思わぬ足枷となった。小さな聖堂内では五条は蒼や赫を封じられるし、夏油も派手な呪霊は出すことができず、必然的に体術勝負となる。
そもそもは二人とも接近戦こそお手のもので、特に夏油は呪霊操術の使い手のくせに格闘技を好む傾向があった。そのせいで身内からは密かに「自ら闘うポ○モンマスター」と渾名をつけられたりもしているのだが、今日は流石にいつもと勝手が違うようだった。
大技の一発で勝負がつく戦闘とは違い、いくらか長引いた体術戦の中で夏油が徐々に息を切らしていくのが五条の目にも見て取れた。下手に庇うと嫌がられるので、しばらくは素知らぬふりで様子を見ていたのだが、大理石の床を滑って呪霊に派手な一撃食らわせた後、夏油が急に咳き込んで膝をついたのをきっかけに、五条は戦闘方針を改めた。
安っぽい似非教会の施設と親友を天秤にかけるまでもない。
五条は呪霊の反撃を巧みに交わすと、跪いた夏油のからだをヒョイと小脇に抱え無下限の中に抱き込んだ。後は最小限の蒼を一発。呪霊たちは教会の屋根と共に小さな塊となって床に押し潰された。
「あー。青空天井になっちゃったー」
もちろん帳が降りているので空はほぼ真っ暗なのだが、五条は悪びれた様子もなく片手をかざしてポッカリと穴の空いた天井を見上げた。足元ではようやく咳が治まって、ゼイゼイと音を立てて喘いだ夏油が恨みがましい目で彼を見上げている。
「……もう少しで、祓える、ところ、だったのに」
「わりいわりい。ついカッとなっちゃって」
五条は一発殴られる覚悟でヘラヘラと笑ったが、夏油の方にはそんな余裕もないらしく再び激しく咳込んで口元を掌で覆った。あまりに苦しそうな様子にずいぶんタチの悪い夏風邪だなと思いながら、自らも屈んで背中をそっと摩ってやる。
「傑、お前どっか口ん中切れてる?」
ひとしきり咳込んだ後の掌に薄っすらと血痕がついているのを見咎めた五条がさすがに心配になってそこを覗きこむ。途端、夏油の喉元からゴボリと鈍い音がして赤黒い血の塊が掌に吐き出された。一瞬何が起こったのか分からず呆然としている間に、再び引き攣るような音がして今度は真っ赤な鮮血が白い大理石の床に飛び散った。
どこか怪我をしたのか。いやそんな打撃は受けた様子がなかった。ではこの大量の血はどこから来たのだ。
そんなことを考えているうちにも夏油のからだは力を失ってずるずると血濡れた床に沈み込んでいく。
立場上、現場で必要な外傷救急の訓練は一通り受けていた。直ぐに救急蘇生のABCを思い出したはいいが、最初のエアウエイが確保されていない可能性に気がついて五条は頭が真白になった。
夏油は呼吸をしていなかった。
パニックになるな。彼を助けられるのは今はここにいる自分だけだと言い聞かせ、震える手を抑えて大きく一つ深呼吸をする。
夏油の大きなからだを横に向かせ、顎を押さえて口を開かせた。すぐに口内に溜まった唾液混じりの血液が手の中に流れ出す。意識が戻った時噛まれないよう脱いだ制服の袖を丸めて口の端に突っ込み、指を入れてて喉の奥を弄った。指のギリギリ届くところに血液の塊らしきものが触れたがぬるぬると滑ってうまく掻き出すことができない。
親友が目の前で己の血に溺れて死ぬのではないかという恐怖が頭をよぎる。なんで自分には他人への反転術式が使えないのか。友人一人救えないでなにが最強だ。
けれどもそんな感傷に浸っていたのもほんの数秒で、五条はすぐに次の手を模索した。固形物での窒息ならハイムリッヒが有効だが気道内を固まりかけの血液が塞いでいるならどうするべきか。
五条は無下限の力を使って夏油のからだをうつ伏せ状態で肩に担ぎ上げると、頭を逆さまにして背中を掌でバンバンと強く叩いた。
仮に肺に何らかの損傷があるとすればその行為で更なる出血を呼び起こすことになるかもしれないが、幸いなことに夏油は筋肉質な大男だ。元来の循環血液量も多く多少の出血では失血死したりしないだろう。けれども窒息すれば脳への酸素供給が絶たれて反転術式でも助けることはできなくなる。背に腹は替えられない。
一分、二分。窒息死に至るデッドラインは何分だったろうかと考え始めた頃、ゲボリと嘔吐の気配がし、五条の制服のズボンを伝って床にドロリと血液の塊が流れ落ちた。
「悟。……肋骨折れる。もうやめて」
程なく夏油の掠れた小さな声が耳に響くと、五条はようやく背中を叩く手を止めて、血塗れの大理石の床にヘナヘナと膝から崩れ落ちた。
「あー! あんなジジイに傑のからだ任せてられっかよ」
五条の言う「ジジイ」とは校医でもある年嵩の術師だ。現行夏油の経過を見ているのはこのおじいちゃん先生ということになる。
確かに普段から早く引退して家入に後を任せたいと公言して憚らない位にはくたびれているが、彼女にとっては病人や怪我人を扱う際の心得を学んだ師匠のような存在でもある。反転術師式のアウトプットは使えないが、ペインコントロールに特化した術式持ちで、経験も豊富だし人柄も悪くない。ただ穏健派であるが故の保守的な態度が五条には気に入らないらしく、健診や治療の時に彼が一方的に突っかかっている姿を見かけることがままあった。
もっとも五条が彼を嫌う理由は、学校の保健室に抱いた男子高校生らしい夢をおじいちゃん先生の存在に打ち砕かれた逆恨みという線も捨て切れないが。
夏油は喀血した後一旦都内の関連病院へと搬送されたが、救急処置が終わると二日ほどで高専へと引き渡された。症状や画像診断では肺結核が強く疑われたが、肝心の結核菌は検出されず、結果夏油が使役している呪霊が関与している可能性が浮上したからだ。ただしどの呪霊が原因かは未だ特定されておらず、他人への感染の有無もはっきりしていない。
そんな問題があれば本人か五条の六眼が読み取れそうなものだが、たまにステルス機能自体が術式の呪霊もいるにはいるので否定はできない。
現場でのキスの件は黙っていたが、どのみち夏油の血を浴びまくった五条も濃厚接触者として徹底的に検査をされ、解放されるまでには三日を要した。事実現在も経過観察の身である。
「こういうのって硝子の反転で何とかなんねーの?」
「肺の損傷自体は治してやれるけど、呪霊のせいってなると追っかけっこだからな。元を断たないと」
実際初期の段階で家入は治療計画に介入し夏油のからだに反転術式を施している。そのせいで、本来なら数週間はかかる入院期間を二日に短縮できたというわけだ。
「あいつに全部ゲロさせて、俺が端から祓うか」
「それこそ夏油に殴られんじゃん?」
その勢いだけのアイデアに家入は呆れた顔で五条を見た。
「そういえばさ、五条はあいつの中に何体くらい呪霊いるか知ってる?」
「んー。千ぐらいじゃね?」
「申告数はね」
「なにそれ。雑魚なんて一々申告してらんないでしょ」
五条はちょっと雲行きが怪しい話題に眉根を寄せてみたが、思い当たる節がないこともない。夏油の未申告呪霊の大半は確かに雑魚だったが、実際はかなりヤバいやつも隠していることを彼は知っていた。けれども相手は誰よりも信用している親友だ。それ自体に危機感を持ったことは一度もない。
「聞いた話だけど、今回呪霊特定のためにカウントを始めたら申告の数とだいぶ齟齬があって、それで上と揉めてるみたいなんだよ。隔離もだけど、もしかしてそれを口実に尋問するのための実質監禁かも」
「またあの腐れミカンども、そんなんで俺らに嫌がらせしようとしてんのかよ。っていうか、それ誰情報? なんでしょーこが知ってんの」
「おじいちゃん先生情報。それとなく探りを入れられた感じだったから、知らんフリしてこっちも聞き返した。五条はなんも訊かれてない?」
「俺には訊かないでしょ。家のこともあるけど、傑が何か疑われてるとしたら俺も共同正犯って思われてるはずだから」
五条家と高専のパワーバランスは複雑だ。上層部に嫌われているのは事実だが、相手も証拠もなしにおいそれと五条悟への疑いを公にできない。
「とにかく、今回の結核騒動を何とかして早く夏油を解放しないと他の意味で色々ヤバそう。春先の検診のレントゲンには特になにも写ってないから、その後の可能性高いけど。何か思い当たることない?」
そう訊かれて、五条は顎に手を当てうーんと唸った。
「病院の祓いは何軒かあったけど」
そもそも病院や学校は人の思念が吹き溜まりやすいので案件は多いのだが、これといった具体的なエピソードは思い浮かばない。
「結核関連ていえば、今は数減らして閉鎖になったり一般の病院になってるところが多いと思うけど。元々療養所だったとことか。公立で、辺鄙な場所にある……」
そこまで家入に言われたところで、五条にはピンとくる場所が一箇所思い当たった。
「硝子。もしかして筵山の下の方に昔の療養所の跡がない?」
咥えタバコの家入がポケットから携帯を取り出しカコカコと資料を調べた。
「ああ、あるね。昭和の時代に閉鎖になってる。しかも高専の付属だったところっぽい」
「そこだ。街に降りる途中閉鎖されてる道があって、その先に朽ちた荒屋が残ってる。療養所だったとは知らなかったけど、先月俺たちが何体か祓ってる」
「はあ、また何でそんなとこ行ってんだよ。今更肝試しでもないだろう」
家入が呆れたように紫煙を吐き出したが、五条は黙ってそれを受け流した。余計なことを言って勘のいい彼女に面倒なところを突っ込まれたくない。
「でもあの時、傑は何も取り込んでなかったと思うけど」
「それ、君が知らないだけじゃない?」
家入の鋭い言葉に一瞬どきりとしたが、そんなはずはないと思い返す。いや、もし万が一、夏油が五条の預かり知らぬところで呪霊を取り込んでいたとしても、それは夏油の自由で周りがどうこういうものでもない。本当にそう思っているし、だからこそ彼は常に全てを管理したがる上層部と対立しているのだ。
ただ、それが親友のからだを傷つけているとなれば放置はできない。
「すぐそこだし、ちょっと現場行って見てくる。なんか痕跡残ってるかも。夜蛾先戻ってきたらテキトーに言い訳しといて」
五条はそう言い放つと、残像を残して家入の前から姿を消した。
長いこと閉鎖されて獣道と化した道路のどん詰まり、鬱蒼とした森の中にその建物はあった。蔦や寄生木に侵食され朽ちかかってはいるが、一部は雨風が凌げる屋根が残っていた。建物の所属を示す表札は外されており、病院らしい痕跡も特になかったし、作りはむしろ学生寮に似ていたので、二人はそこを訪れた時古い職員寮か何かだと思ったのだ。
最初は普通に肝試しのつもりで出かけたが、特に目新しい呪霊にも遭遇せず、古い建物には何処にでもいそうな雑魚を端から祓うと特にやることも無くなった。
人気の無い森の中で二人きり。体力と精力を持て余した彼らは、勢いで初の野外での行為に及ぶこととなった。行為といってもそのつもりで準備をしてきたわけではないのでできることは限られていたのだが、数分後、彼らは自分達がインフラの整った都会に生きる現代人だったと思い知ることになる。
それ以降、彼らはここを訪れていなかった。
ガサリと植物の堆積物を踏み分けて、五条は建物の敷地内に立ち入った。
記憶を辿り、あの日と同じ行程で建物内を見聞する。時間は経っていたが自分達の残穢が所々に跡を残しており、軌跡を辿るのは比較的容易だった。
玄関ホールから天井の抜けた食堂らしき場所へ。奥の古い台所で夏油が小さな蝿頭を払ったのを覚えている。
廊下の奥へと進むと確か図書室のようなところがあったなと考えたところで、五条の感覚が強い呪力の動きを捉えた。一瞬後ろ頭の髪がピンと逆立つ気配がしたが、警戒は直ぐに解かれた。よく知った呪力の形だった。
「何でお前がいんの?」
「多分、君とお同じ目的で」
五条が振り返ると、夏油は制服ではなく、パーカーとジャージというラフな出で立ちでそこに立っていた。顔色は未だあまり良く無いが、最後に搬送先の病院で見た時に比べれば、体調はだいぶマシそうに見える。
「脱走……」
「してないよ。悟じゃあるまいし。ちゃんと監視付き」
夏油は振り返って後ろ手に白衣の校医を指し示した。
「隔離先で今まで取り込んだ呪霊の検分してたんだけど、埒が開かなくて。先生のガイドでここに辿り着いた」
夏油の話によれば、ここは昭和初期から後期にかけて使われた高専付属の結核療養所で、校医はかつてここの担当医師だったという。
「当時はまだ決定的な治療薬がなくてね。戦中戦後は特に厳しかった。術師の質も今とは違って、反転術式を使える者もほとんどいなかった。私は彼らの苦痛を取ることが精一杯で助けてやることはできなかった。君たちが祓ったのはそういう時代の残穢だよ」
校医は懐かしそうに朽ち果てた建物を見回した。
「それでお前は俺に内緒で呪霊盗み食いして腹壊したってわけか」
「人聞き悪いな。腹壊してないよ。血は吐いたけど。そもそも盗み食いもしてない。未遂だ」
「未遂? なにそれ」
「こっち、来て」
夏油は未だ恨みがましい表情で自分を睨んでいる相棒の手を引いて裏口から庭に出た。直ぐ目の前にある苔むした東屋には記憶がある。
夏油はその東屋周辺の積もる落ち葉や枯れかけの植物を片っ端からひっくり返し、数分後、目的のものをベンチ裏の隙間から見つけ出した。
「呪霊玉?」
五条が夏油の掌に乗った真っ黒な球体をマジマジと見ながら声を上げた。
「そう。あの時後で取り込もうと思って制服のポケットに入れてたんだけど。君とあんなことになってすっかり忘れてて。気がついたら無くなってた。中途半端な状態で置き去りにしたせいで私に呪いをかけたんだと思う」
夏油が掌の呪霊玉を高く空に掲げると、それはクルクルと渦を巻いて解け、たちまち若い男の姿に似た厄災に戻った。
「解呪する」
五条が宣言して掌印を組むと、夏油のからだからずるりと黒い気配が流れ出て、呪霊本体に吸い込まれる。
「予定通り取り込む?」
「いや、結構。流石に懲りた。この子は祓ってやろう」
五条のちょっと意地悪な質問に夏油は苦笑いして応え、東屋の端にちょこんと腰掛けて二人の行動を見守っていた老医師を振り返った。
「先生。お願いします」
「私か? まあそうだな。最後まで責任を持つか」
校医はよっこいしょ重い腰を上げると、節くれ立った指先で呪霊を呼び寄せ、からだの形をなぞるようにして何かを唱えた。それは足元からサラサラと崩れて黒い砂になり、やがて跡形もなく消え去った。
「これで本当に終わり?」
「そうだね」
「取り込んだ呪霊隠してた件は?」
「まあ怒られたけど、夜蛾先生が庇ってくれたおかげで追加申告で許された」
「傑、生きてるな」
「生きてるよ」
「あの時死んだかと思った」
「私も」
結局夏油の呪いは無事祓われ、翌日には隔離から解放されて高専の教室に戻された。からだが回復するまでしばらくは安静ということで任務や体術訓練は免除されるが、座学には出ろというお達しだ。
朝っぱらから夏油の背中に張り付いて離れない五条と敢えてそれを許している夏油を家入が相変わらずクズを見る目つきで眺めている。いつもの平和な光景だ。
「ところでさ、あのおじいちゃん先生っていくつだと思う? あの時さらっと戦時中の話してたと思うけど」
「うーん。その頃すでに医者になってたわけだから。……もしかして90歳超えてる?」
「浅野先生なら百十二歳だよ」
二人の会話にさりげなく答えを返した家入の言葉に一瞬教室の空気が固まった。
「マジか、こえー! 楽巌寺のジジイよりずっと歳上じゃん」
「おじいちゃんて言ったってせいぜい七十代くらいかと思ってたけど」
「だから私、早く医師免許とって先生楽させてあげたいんだよね。九十年もここ守ってきたんだよ。お前らも少しは敬って、あんま迷惑かけんなよ」
家入の言葉にクズ二人が舎弟のように「ヘイ」と頷く。
直ぐに担任が授業のため教室へ入ってきて、五条はようやく力ずくで夏油の背中から引き剥がされた。