二十五万で買われたトモダチ 肌寒い風が頬を撫でる秋口。どんよりとした雲が一層体感温度を下げてくる。襟元を軽く閉じながら肩にかけた鞄を背負いなおすと、簡素な無地のケースに包まれた携帯がメッセージの着信を告げた。
確認すると、事務所から臨時の仕事依頼だった。この後は特に予定も無かったからいいか、と了承の旨を連絡する。
「なぁ夏油この後予定ないって言ってたよな? なら飲み行かね?」
「や、今日はパス。バイト入った」
後ろからがばりと肩を組んできた友人の腕をそっと外しながら、目線は携帯から外さずに断りを入れた。この時間なら家によって着替える時間もあるな、と頭の中で算段をつける。
「えー何だよ暇っつってたじゃんか! 急にシフト入れてくるとかブラックじゃね? サボっちゃえよそんなの」
「まぁ急だけど金払いいいから無理」
「薄情者! 友人との飲みより金を取るのかお前は!」
「はは、まぁ先立つものはいるからね。背に腹は代えられないでしょ」
ぐすぐす、と泣き真似をして見せると、気持ち悪い顔してないでさっさと行けと背中を叩かれた。お前が引き留めたんだろうと悪態をつきながら軽く手を振り友人と別れる。もう一度仕事用の携帯を確認すると、そこにはこれから落ち合う顧客の名前が書かれていた。
「ふ、スズキイチロウさんね……」
分かりやす過ぎる偽名を口に出しながら、身支度のため足早に自宅へ向かった。
◇
『指定された場所に着きました。ラウンジにてお待ちしております。』
事務所から伝え聞いた連絡先に一言メッセージを送り待機する。周囲を見回すと、声を潜めて商談をする人たちやゆったりとカップに口をつけながら本に目を落とす人など、それぞれが皆思い思いの時間を過ごしていた。落ち着いたピアノの生演奏が心地よく空気を和ませ、薄く漂うウッド調の香りがその場の格を一段と引き上げている。さすが五つ星ホテルのラウンジといった風格が漂っていた。
手元の時計を確認すると、予定の時刻を数分過ぎていたが何も連絡は無い。それらしき人は居ないかとあたりを見回していると、周囲の視線がある一点に吸い寄せられていた。
その視線の先には、遠目からでも仕立ての良さが分かるスーツに身を包んだプラチナブロンドの男が立っていた。すらりと伸びた長い脚に、サングラスをかけていても綺麗な造りが分かる目鼻立ちを受けて、彼を取り巻く空気が静かに浮足立つ。
(こんな時間に室内でサングラスか。なかなかに気取った男だな)
その男はすぐさま歩み寄ったスタッフを片手で制し、誰かを探しているようだった。それを見て、自分の依頼人はどうしたのかと手元の携帯に視線を落とす。さすがに一報くらい入れたほうがいいか、と思案していると、目の前に影が下りた。
「ねぇ、君がスグルくん?」
パッと顔を上げると、目の前には件の男が立っていた。
急に現れた眼前で拝むには強すぎる圧に、ごくりと唾を飲む。少し渇いた唇をやっとの思いで動かし「スズキ様、ですか」と口にした。
「ふは、めちゃくちゃ偽名じゃん、え、伊地知これお前?」
男が横に立つ男性を振り返ると、イジチと呼ばれた彼が私の前に来た。
「はい、私がスズキイチロウという名前で予約しました、伊地知と申します。すみません、偽名を使わせていただきました」
「いえ、正直他にもそのように対応される方もいらっしゃいますし」
深々と頭を下げる男に慌てて声をかける。「ありがとうございます。では早速ですが今日は、」と説明し始めた彼を遮って、白髪の男が割って入った。
「ていうか何そのダッサいスーツ、全然君に合ってないじゃん。よくそんな恰好でいられるね」
「は?」
開口一番に吐かれたその暴言に、客じゃなかったらその場で殴り飛ばしていただろう。だが一応金を払ってもらっている立場なので、奥歯をこれでもかと噛みしめながら一度はぐっとこらえた。
「すみません、なにぶんこれが私の一張羅なもので」
自分でもいくらか棘のある声音になった自覚はあるが、この程度に収めた自分の理性を褒めてやりたい気分だった。これで相手が何か言うようなら無視して帰ろうとすぐ決めた。初対面の相手にそこまで言われる筋合いは無い。少しくらい手が出るかもしれないが、相手も自分とあまり歳は変わらない様に見えるし、少しぐらい殴っても平気だろう。それに、この仕事は客と会う場所がそれなりなホテルが多いためスーツを着ているだけで、どうせすぐに脱ぐのだからどうでもいいじゃないか。お前もどうせ他の客と同じ癖に。
だが、そこまで覚悟していた私に投げかけられた声は、何とも呑気なものだった。
「そ、じゃあまずはそれ何とかしよう。ねぇ、伊藤さんの店、まだ開いてるよね?」
その男は急に何やら用意をさせ始めた。思っていたのと違う展開に虚を突かれ、間抜けな顔でその場に立ちつくしてしまった。
「ほーら、何そんなとこでつっ立ってんの。時間ないんだから早く」
「え、あ、はい」
理解が追いつく前に急かされたものだから、そのまま素直に男の後をついていく。
気づけば都内の一角に店を構えるテーラーで、そのままあれよあれよという間に私は着替えさせられていた。
「どう? 今日は急だったからありもので用意してもらっちゃったけど、さっきのよりは幾分かマシでしょ?」
「それは、私の着ていたものとは雲泥の差ですが……こんなもの頂けません」
「いいじゃん客があげたいって言うんだから素直に貢がれときなよ」
「でも、その……こんなもの頂いてしまっても、自分にはこれに見合うものを貴方に返せない、と思います」
鏡に映る、分不相応なスーツに身を包んだ自分の不安げな顔が恥ずかしくなって顔を反らした。居心地が悪く身を縮こませるように自分の腕を引き寄せると、いやに肌触りの良い生地が手に触れた。
すると私の台詞を聞いた目の前の男が、今度は上から下まで舐めるように私を見つめる。まるで何かを見定めようとするみたいに。
「なーんだ。最初はあんなに勢いよく噛みついてきたくせに、たかが服一つで委縮しちゃうなんて期待外れもいいとこじゃん君。もっと面白い奴かと思ったんだけどなぁ」
これ見よがしに大きなため息をつきながら、男はわざとらしく頭を抱えた。
私は基本的に人当たりの良い方だと自負しているし頭の回転も悪くない。しかし、強いてウィークポイントを挙げるならば、人よりほんの少しだけ勝気な所があるのだ。ほんの少しだけ。
「初対面で話もしないうちから勝手に人に期待して、勝手に失望したなんて言われる筋合いは無い。アンタの周りには指摘してくれる良心的な人が居ないのかもしれないから私が言ってやる。私よりもアンタの方がよっぽど期待外れもいいところだ。そんなにきれいな見目をしておいて性格は最悪じゃないか、どうせ友達の一人もいないんだろう。一生カネにしか興味のない薄っぺらい奴らとだけつるんでいればいい」
一息で捲し立てると、どうとでもなれ、と引きちぎりそうな勢いでネクタイを外す。こんなもの今すぐ脱ぎ捨ててやる、後の事なんて知ったこっちゃない。金払いは良いバイトだったので少し惜しいが、いつでも辞めてやるこんな仕事。
怒りに任せてシャツに手をかけたところで、その手を強く掴まれた。
「何だよお前の本性そっちなの? 最初からそれで来てよ」
「ッ離せ、お前に評価される謂れはない。私は帰る、!」
掴まれた腕を振り払おうと腕を強く引くがびくともせず驚いた。これまで腕っぷしの強さで負けたことなど皆無だったのに、目の前の女みたいに綺麗な顔をした男の腕一つ、私は振りほどけなかった。
「僕、思ったより力あるでしょ?」
「離せ、よ」
「まぁまぁ落ち着いて。あんまり吠えると弱く見えるよ? それよりもさ、君、酒は強い?」
「は? 私は帰ると、」
「僕、君が言うように、こんな性格だからお友達いないんだよね。だから君みたいに腕っぷしに自信があって、酒も強くて顔の綺麗な友達が必要だったんだけど」
「知るか、」
「それとも、今すぐこのシャツ弁償してくれる?」
男が視線で示す先には、ボタンがちぎれたシャツの襟首があった。
「あぁそんなの今すぐ払って、」
「二十五万」
「……は?」
「だから、このシャツの値段。二十五万だよ一枚」
現実的な数字を聞いて、私の頭が少しずつ冷静さを取り戻す。握りしめていた拳の力をそっと緩めた。一か月分のバイト代をゆうに超すその金額に、どう対処するか頭をフル回転させる。
「少し頭冷えた? ね、勝手に連れて来られた先で無駄に借金するより、カネしか取り柄の無い男を手玉に取って逆にバイト代までせしめたほうがお得だと思わない?」
ぐっと言葉に詰まったのをイエスと捉えたらしいその男は「はい決まり、じゃあもう一度着替えてくれる? 流石にそれじゃワイルドすぎるから」と新しい服を取って寄越した。着替えるために扉を閉められそうになったところで慌てて言葉を返す。
「バイトって、何するんだ? 何も聞いてないぞ私は」
「あれ言ってなかったっけ。まぁちょっとオッサン達の集まりに行って酒飲むだけだよ。僕飲めないからさ、代わりに飲んで欲しいの」
「腕っぷしどうとかっていうのは」
「あぁそれは、自分の身は自分で守れる奴の方が楽だから」
「っだが、急に私みたいなやつが行ったら怪しまれるだろう!」
「んー確かに、君のその感じで秘書はないしなぁ……あ、じゃあ普通に友達ってことで行こう。君と僕は親友で、一緒に事業を始める計画を立ててる、とかね」
いいねそうしよう、と勝手に結論を出して男が背を向けた。普段の仕事内容とあまりに違い過ぎる提案に、その集まりとは何が目的のモノなのか、身を守る必要があるなんて聞いてないぞ、言ってやりたいことは山ほどあるのに、慌てて口を突いて出たのは自分でも笑ってしまうほどくだらないことだった。
「わ、私はまだアンタの名前も聞いてない!」
「サトル、五条悟だよ。これからお友達として宜しくね、傑」
振り返った彼の顔は、綺麗な青い瞳をもっとキラキラと輝かせて、年相応にあどけない笑みを浮かべていた。なんだよ、良い表情もできるんじゃないか。
「いきなり呼び捨てにするな、悟!」
end.