腹の虫が収まらないというのはこういうことかとネロはため息を吐いた。あの男に腹を立てた数などとっくの昔に両手を超えているが、今回のこれは特にひどい。うまく制御ができないままデスクに腰を下ろすと、椅子が悲鳴のような音を立てた。
どうしても直らない眉間の皺を指先で揉んで、どうにか表情を取り繕う。さっきから感じていた心配そうな視線を無視してしまえるほど、正気は失っていなかった。
「悪いな、仕事の邪魔して」
カイン、と同僚の名前を呼んで顔を上げる。予想よりも数倍心配が色濃い表情に思わず苦笑してしまった。ネロが認識していたよりもずっと荒れていたらしい。もう一度、悪かったと口にすれば気にしないでくれと首を振られた。
「それより、何があったんだ? あんたがここまで荒れるなんて……」
確かボスと一緒だったんだろと言われて、何も言えずに曖昧に微笑んだ。ブラッドリーと共にいたのはその通りで、別段隠し立てするようなことでもない。ないのだが、だったら何をしていたのかと聞かれると困る。
秘密裏の調査だとかハイクラスのコンプラだとか、そういうことならどんなに良かったか。実際のところはもっと汚くて、治安が悪くて、下品なアレコレだ。色気ではなくて血なまぐさい方面の。この真っ直ぐで誠実で素直な新人警官に伝えられるようなことじゃない。かと言って、すぐに適当な理由をでっちあげるのも難しかった。何せ、今回の事は一から十まで口には出来ないようなことだったので。あんなことしやがって、と眉間に皺が寄りそうになるのを慌てて元に戻す。
口ごもったまま眉間に指を当てたネロに、カインの眉が下がる。
「ごめん、困らせちまったな。無理に聞き出したいわけじゃないんだ」
「ああ、いや、そういうわけじゃ……」
カインが事情を聞いてきたのは、何か力になれたらという純粋な優しさからだというのは分かっている。だからこそ、適当に会話を終わらせるのは気が引けてしまう。
「あー……その、えっと、何か……説明が難しいっつーか……そういうやつで」
難しいどころかカインには絶対言えないようなことなのだが、そう言うしかなかった。今はともかく、気遣いが有難かったのだと伝えておきたかった。心配させて悪かったと言えば、カインの表情がほんの少しだけ緩んでネロの方がほっとしてしまった。ハイクラスが絡む仕事で何かあったのだと思ってくれたのかもしれない。彼に嘘を信じ込ませるのは心苦しいが今回ばかりは仕方ない。
寛果に胸を撫で下ろしたネロの前で、急にカインの表情が強張った。まるで何かに思い至ったみたいに。
「……どうした?」
「あ……」
不安そうに揺れる金の瞳がネロを見つめ、戸惑ったように反らされる。まさか、と背中に冷や汗が流れたような心地だった。まさか、ばれたのか?
口を開こうとして、何を言えばいいのか選びきれずに再び口を閉ざす。下手なことを言えば藪を突くことにもなりかねない。気まずい沈黙が下りた。どこかから漂ってくるチョコバーの香りが何となく不釣り合いだった。
「その、ボスは……」
形の良い唇がゆっくり動くのを固唾をのんで見守った。ブラッドリーがあんなクソみたいなことをするのをどうして許容してしまったのかと、現実逃避のように考えた。
「……もしかして、全然野菜食べてなかったのか?」
「…………は?」
予想外の言葉を聞かされて、ちょっと椅子からずり落ちた。慌てて姿勢を正して手を目の前にかざす。
「ちょっと待ってくれ。……野菜?」
「違うのか……?」
ネロのリアクションに目を瞬かせたカインが言う事には。
ある日の昼休みにブラッドリーがネロ御手製ランチを食べているところに行き当たったらしい。ランチボックスにはおいしそうなサンドイッチがぎっしり詰められていて、一番の目玉はローストビーフサンドだったと言われて日付の見当がついた。一か月ほど前のことだろう。
それで、おいしそうな匂いにつられて思わずカインが近寄ると、ブラッドリーに野菜メインのサンドイッチを全て押し付けられたのだという。その時はせっかくネロが作ってくれたのだし、そもそも健康に悪いだろうとちゃんと断ったらしいのだが、その後、事あるごとに野菜のおかずを押し付けてくるようになったのだという。ネロが作ったものじゃない、他ではちゃんと食べているからいいだろうというブラッドリーの言葉を信じて食べてしまっていた、と。
「あんたがボスの身体を気遣ってるのは知ってるのに、すまない」
「ああ、いや、それはいいんだけどさ……あんたのせいじゃないし……」
確かに、オーナーの健康状態を良好に保つのはアシストロイドとしての使命といってもいい。後でブラッドリーには食生活についてのお話をしなくてはならないとも思う。だが悪いのはブラッドリーであってカインではないし、それ以上に気になる部分がある。
「あんたら、そんなに頻繁に飯食ってんの?」
「いや、そうでもないぞ?」
「……昨日はどこ行った?」
「昨日?」
不思議そうに首を傾げたカインが告げたのは、ブラッドリーとっておきのレストランの名前だ。ネロは行った事がないが、外観は見たことがある。こじんまりとした、昔ながらのジャズが似合いそうなやたらと雰囲気のいいところだった。どう考えてもただの部下を連れて行くような場所じゃない。しかもわざわざ退勤時間を合わせてまで。ここ最近、やたらガチガチにスケジュールを組んでるなと思ったら、こういうことだったらしい。
困惑した様子のカインに何でもないと手を振って、ブラッドリーの食生活については気にするなと小さく微笑む。今回は別件だと付け足すと、ようやくカインの表情がほぐれた。俺にできることがあったら何でも言ってくれと張り切って握りこぶしを作るのに気持ちだけで十分だと頷いた。
本当のところは、早くブラッドリーに口説かれてることに気づいてくれと言いたかったが、それこそ藪を突くことでしかなかったから何も言えなかった。