異聞ノア 光あれ。
彼はまずそういったらしい。私は膝を抱えて表でごうごうとたちあがる高波の唸りをじいと聞いていた。船内は静まり返っているが、生き物が呼吸する音が、その心音が、じわじわと暗闇に滲んでいる。不思議と、中の誰も口を開こうとはしなかった。ただ時々何かを諦めたようなため息が、誰ともしれずにこぼれる。私は膝に顔を埋め耳を塞いだ。身動ぎをすると、隣で小さくなっていたインパラが迷惑そうに瞼を持ち上げて私を見たが私は気が付かないふりをする。
光あれとかの人はいったそうだがここに光はない。夜もずいぶん長く続いている気がする。最初はただ、スコールのように激しい雨だったが、いつの間にかこの雨は世界を覆い、大地は海になった。
口の中で唱えるのは祈りだ。そうだ。私は信じた。だからこうして、ここで生きているのだ。
応えるように雷鳴が轟く。それはかれの恫喝だ。私は何度も何度も許しを乞うように、聖書の一節を辿った。疑う余地もない。
十分な備蓄があるはずだったが、船に乗り込んだ動物を全て養うにはあまりにも少ない。空腹は思考を鈍らせる。隣でイノシシとハイイロオオカミが食べ物を取り合って争っている。激しく唸り声を上げ二頭が乱闘する様は、周囲の動物たちをうんざりさせたが、しかし、そうならざるを得ないだろうことは誰しもが理解していた。ここには食べ物ほんの少ししかない。表は海で、光すらない。
血の匂いがした。ぼんやりしていた頭が突然明瞭になる。オオカミがイノシシの頭の後ろに噛み付いて離れない。血。
ざわめきは一瞬で伝播した。そうだ、みんな分かっているのに分かってないふりをしていたのだ。ここにはわずかな食べ物しかない。しかし、他に選択肢はあるのだ。
血の匂いは強烈で、我々の空腹を刺激するのに十分だ。
視線を走らせると、ツキノワグマがじゅるりと生唾をたらして血走った目で周囲を見ていた。トムソンガゼルは発狂寸前、いまにも大きくジャンプして表に飛び出してしまいそうだ。真っ赤なオオムが耐えきれず声高に鳴いた。緊迫感はいまにもはち切れんばかりだ。
オオカミに噛み付かれたイノシシはしばらく暴れていたが、次第に力をなくし、ずるりと床に横たわった。オオカミの激しい呼吸音。私は咄嗟に飛び出して、船室のドアに近づいた。立てかけてある棒を手にする。ポケットから石を取り出して、縺れそうな指で何度も打った。チッ、と暗闇に微かな火花が散る。上手く力が入らずなかなかつかない。四度、五度打ってそこでようやく火花は松明へ燃え移った。
おおう、と動物たちが畏怖のような声を漏らす。私はそれを手に振り返った。松明に照らされた彼らは、一様にあっけに取られたような、みようによっては卑屈な顔に見えた。
私がイノシシに近づくと、イノシシの腹に牙を立てていたオオカミがウウ、と唸る。私は怯まず、目の前に煌々と燃える火を掲げ、前に出た。オオカミは私の目を見たあと、松明に目を細めじりじりとあとずさりをした。
私は松明をゆっくりと振りながら、事切れたイノシシの前に膝をついた。
天にまします我らの父よ。
口の中で唱えたが、それは途中で途切れた。
父よ。
なぜ私たちにこのような試練を与えるのか。
なぜ我々を試すのか。
それはまるで、悪魔の所業のようです。
私は松明をもったまま、イノシシの引き裂かれた腹に顔を寄せた。血の匂い、甘い。
最初から、この雨は私たちの穢れを洗い流すためのものなどではなく、
私たちの原罪を浮かび上がらせるためのものだったのではないのでしょうか。
だとすればもう、この雨はずっと前から穢れています。
雨の音がする。甲板を、水面を激しく叩いて私を制止しようとしている。
私は舌をのばし、ぬるりとした肉から滴る血をゆっくりと舐めとった。
それはまるで、赤ワインのように甘美で。