893パロ8※年齢操作あり
キールより愛を込めて
モーニングの時間は7時から9時。夜勤明けだったり通勤だったりな人たちと、お出かけついでに寄る人たちが足を運んでくれる。メニューは小さなカード一枚に収まる程度だけど、サイフォンコーヒーのおかげかジャズのおかげか、常連さんはよく集まってくれていた。客層のおかげか、集まる時間がキリよく分かれていて広くない店内は程よく混む程度だ。
最後の客を見送って、バーテンダーは伸びをする。夜営業を終えて少しの仮眠、朝の営業を終えたこれからが本当の“就寝”時間になる。部屋に帰るか、このまま寝てしまうか考えて欠伸を一つ。ここで寝ることにした。
裏口側に作った仮眠部屋は開店当初こそ名付けた通りに使っていたものの、最近はすっかり帰るのが面倒になってそのまま寝ることが多くなってしまった。アイロンやらシャワーやら必要最低限のものは揃ってるし、最近は夜の蝶たちが置いていったスキンケア用品が揃ってしまうとそーなってしまう。メーカーはまちまちだけど。
お客様をもてなすための色々なら張り切って頑張れるのに、どうも自分のこととなるとテキトーだ。緊張で凝り固まった肩をほぐして、バーテンダーは表に出た。通りを行き交う車も人も、いつも通りの流れ。最近顔を見せるようになった“黒猫ちゃん”も、相変わらず程よい距離でこちらを観察しているようだった。
「んー、もう閉めるかなぁ」
時間まではまだ10分ほどあるが、常連はあらかた顔を見たし大丈夫だろう。
なんて、ドアプレートに手をかけたとき。通りに響く大きな声がバーテンダーを引き止めた。
「飴ちゃーん!ちょい待ち!」
「……………………虎杖くん」
たっぷりの間を置いて少しの思案。
だけど、バタバタ駆けてくる足音を無碍にもできず、バーテンダーは渋々振り向いた。近くで止まった足音の主は膝に手をついて息を整える素振りを見せるものの、にっこりと微笑んだ頬には一つも汗は滲んでいない。なんだかしてやられたような気分になりながらも、バーテンダーは虎杖を招き入れるとドアプレートをそっと“Close”にした。これ以降はオーダーストップとさせてもらおう。
「抽選早めに始まって開店まで時間余っちゃって。だから、飴ちゃんのとこでコーヒー飲もうかなって!」
「それはありがとう。言っておくけど、開店時間までいるのはナシだからね」
「分かってまーす。あ、モーニング食べたいです!」
カウンターの定位置に腰掛けて、虎杖はご機嫌だった。なんせ今日の抽選で、なかなか良い整理番号を引けたのだ。玉打ちは趣味と実益を兼ねた遊びみたいなものだが、しっかり稼いでおかねば色々困る。スマホやら服やら水光熱費その他諸々……そから三人でのお食事代。
久しぶりに三人でメシ食べたいなーなんて、色々思考を巡らせているとコーヒーのいい香りが漂い始めた。もう少しで朝食のお時間だ。
「おはようございまーす」
虎杖の前にモーニングセットが揃った頃。ドアベルと共に配達員が顔を出した。顔を上げたバーテンダーはカウンターの外に出ると、差し出されたハガキや封筒を受け取る。店の扉にはポストがあったはずだが、彼女は手渡し主義のようだ。
「飴ちゃんって、ここに住んでるわけじゃないんだよね?」
「そーだよ? どーしたの」
「いや、お店宛ばっかじゃないみたいだからさ」
戻ってきたバーテンダーの手に、マンション名が刻まれた封筒があることに気づいた。住所の中にカタカナが含まれているから妙に目立つのだ。
「店にいることが多いから、纏めてもらってるの」
「ふーん」
この店にシャワーまで備わった仮眠部屋があることは、以前の鉢合わせで知っていたが、設備は住めるレベルらしい。プライベートと仕事はきっちり分けるタイプかと思いきや、わりと面倒くさがりのようだ——などと新しい情報を胸に留める。
「大事な書類とか間違って捨てちゃわん?」
「そんなに多くないから大丈夫。今はメールもあるしねぇ」
「ふーん“賃貸契約の更新”とか?」
「マンションは二年契約だからご心配なく」
カマをかけたつもりだったが、微笑みに一蹴されてしまう。まあ、もしウワサの“外国人大家”からの書類が紛れていたとしたら、虎杖の前で無防備に封筒を広げることもしないだろうけど。
「じゃあ、ごちそーさま!」
「お粗末さまでした。今度は閉店ギリギリに来ないでね」
「分かってまーす」
カウンターに紙幣を乗せ、虎杖は両手をしっかり合わせる。バーテンダーの見送りを背に受けて扉に手をかけると、扉の近くに数枚封筒が落ちているのを見つけた。
「あれ、手紙落ちてるよ?」
カウンターに戻る背中を呼び止めて、封筒を拾い上げる。傘立ての影になっていて、気づかなかったのかも知れない。
すると勢いよく振り向いた彼女が、目を見開く。
「虎杖くん、待って!」
そう叫ぶのと、虎杖の手から封筒を奪われたのはほぼ同時のことだった。
「——飴ちゃん?」
虎杖の目の前で、赤い筋が彼女の細い腕を滑り落ちる。どう見ても紙で切ったとは言い難いそれに、虎杖は反射的に手首を捕まえ引き寄せた。カシャンと少し分厚い封筒が床に落ち、破れたところからは分厚いカッターの歯が覗いているのが見える。
「怪我はしてないみたいだね。ダメだよ、レディーの手紙を見ようとするなんて」
だというのに、送られた当の本人は気にすることなく虎杖の指を心配していた。手を掴まれたまま、虎杖の手をあちこちと見回し、怪我の有無を確認している。
「冗談言わんでよ、どう見てもレディーに宛てるモンじゃないでしょ」
思わず、低い声が出た。ぐつぐつと腹の奥から怒りが沸き上がり、とても冗談に笑う気分にはなれない。
「私は大丈夫。ほら、もう閉店するから帰って」
掴んだままの手を優しく叩かれ、虎杖はようやく彼女の手首を解放する。納得のいってない様子の虎杖に、やれやれとバーテンダーは肩をすくめた。
「利き手じゃないから大丈夫。夜営業もちゃんとするから、良かったら来てね」
そう言って拾い上げようとするのを止めて、虎杖は靴底で封筒からカッターの歯を踏み出した。すると、弾みで中身が滑り出てくる。
「は?」
虎杖の目の前に広がったのは、数枚の写真だった。しかも、どれもいわゆるAVのワンシーン。ご丁寧に女優の顔の部分には、バーテンダーの顔が貼り付けられている。
「……その反応、少なくとも君が送り主じゃないようで良かったよ」
眉間に皺を寄せる虎杖の隣で、やっぱりあっちの組かなぁ……などとバーテンダーは呑気に笑っていた。
***
「ナナミン!」
事務所のドアを乱暴に開け放ち、虎杖の怒号がフロアに響いた。一室から七海が顔を出すと、怒りに震えた虎杖がこちらに向かってきている。その怒気は溢れんばかりで、隣の伊地知が小さく悲鳴を上げた。
「聞きたいことがあんだけ……どっ!」
今にも掴みかかりそうだった手は七海に弾かれ、視界が反転した虎杖は気がつけばソファーへと押し込まれていた。足を払われたらしい。
「話を聞いて欲しければ、落ち着くように」
伊地知が淹れたコーヒーを虎杖に譲り、七海も向かいに腰掛ける。虎杖は顔を顰めたままだったが、七海の視線に諭されて大人しくカップに口付けた。伊地知には悪いが、やはりさっきのコーヒーの方が香りがいい。色々聞き出すつもりが、すっかり“違いのわかる舌”に育てられてしまった。
「……伊地知くん、君は先ほどのことを五条さんに」
「は、はい。では、また」
威勢良く掴みかかって来たものの口を噤んだ虎杖に、七海は軽く人払いをした。周りを一瞥しただけで意図を汲んでくれる後輩には、本当に助けられている。
「どうしました」
伊地知が指示をとばす声を聞きながら、七海が長い足を組んだ。虎杖が怒っている理由は分からなくとも、絡むものの見当は凡そつく。“ユカリ”か、それとも件のバーテンダーか……思考を巡らせる七海の目の前に写真が一枚差し出される。虎杖が密かにくすねた一枚だ。
AVのワンシーンと分かる一枚に歪に貼り付けられいる横顔が、バーテンダーのものであることに気付き七海の眉間に僅かに皺がよる。
「——それで、寄り添った君に何かしらの“お礼”は?」
「それ本気で言ってんの?」
「冗談ですよ」
そう言って立ち上がる七海は、棚からファイルを取り出した。
「恐らくこの女優でしょう」
「え——?」
テーブルに広げられたファイルには、顔は違えど見覚えのある身体つきの女優のAVジャケットがあった。目を見開く虎杖に、あちらの組の“しのぎ”だと七海は説明する。
「随分前、ウチの嬢にそういった加工写真を送りつけられましてね……」
「その時はどうしたの」
「五条さんが手を引くよう丁寧に“交渉”しにいきましたよ」
「あ、そーなんだ」
やられたのはお気に入りのオンナノコだったのだろうか。怖いので、詳細は聞かないことにした。
「ということで、ウチは絡んでいません。君の聞きたいことは、これで終わりですか」
「あ、うん」
虎杖が頷くと、七海は組んでいた足を解きテーブルに置いたままだった写真を返す。虎杖の知らないところで五条会が嫌がらせをしていた訳じゃないことを知り安堵したものの、どこかモヤモヤとした気持ちが残った。ウチが関与することじゃない、そう七海に言われた気がして落ち込んでいる自分がいる。
——こんな写真、送りつけられて平気なわけないのに。
七海が何処かへ電話しているのを聞きながら、虎杖は忌々しいそれをシュレッダーにかけた。身内を貶されたような、そんな気分になって……そう言った意味でも“育てられた”なと思った。
***
最初のうちは警戒して行動しているものの、回を重ねて“習慣”になってしまうと、どうしても油断が生まれてくる。例えば、適当にずらされていた時間や曜日とか。ずっと“上手くいっていた”のなら、尚更だ。
夜は賑わう通りも、昼間のうちは人通りもまばらで目立たない。通りを歩いていた男は立ち止まると、なんでもない風を装って「Close」の掲げられたドアに近づいた。
「随分と遅い配達ですね」
「!」
封筒がドアポストに触れる直前、男を影が覆った。聞き覚えのある声とその威圧に、男の背筋を冷たいものが走る。固まる男の手から、今まさに投函されようとしていた封筒が奪われた。
手紙にしては随分と分厚いそれを革手袋をした指が乱暴に開くと、カッターの歯とともに数枚の写真が落ちてくる。
「学習しないな」
「ひっ」
相変わらずの杜撰な切り貼り。視線の合わない顔は明らかに“盗撮”だと一目で分かるレベルのそれに、薄い唇から嘲笑が漏れた。
「互いの交渉を邪魔をしないのが、暗黙のはずでは?」
冷たく落とされる言葉に震える男は、写真がアスファルトに広げられるのをただ見つめることしかできない。目の前に相手組織の幹部クラスが現れたのだ、男の緊張も無理もないことだった。しかも、今回のことが男の独断で動いていたとなれは、別の問題も浮上してくる。
「お陰で警戒が強くなってしまって、迷惑なのですが」
音を立てた革底に反応するように顔を上げると、グラス越しの目に鋭く貫かれた。冷たい視線に晒されみるみる色を失っていく男をしばらく見下ろしていたが、やがて興味を失ったかのように解放する。
その隙に慌てて写真を拾い、男は相手の気が変わらないうちにこの場から退散することにした。
「おい——次はない」
こそこそと身を縮める男に釘を刺すと、悲鳴をあげて走り去っていく。無様な背中をしばらく見送っていたが、ふと現れた気配に気づくと口角を緩めた。
「——こんばんは。そろそろ開店ですか」
七海が振り向くと、箱を抱えたバーテンダーが怪訝な顔をして立っている。
「こんばんは。まだ少し先ですね」
即座に笑顔に切り替えて挨拶を返して見せたが、その目はどこか七海の真意を探るようにヒシヒシと警戒が伝わってきた。手には梱包されていたであろうボトルが握られており、ドアの前にいた男たち相手に“何をするつもりだったのか”が伺い知れる。ブルゴーニュのカシスを厭わないとは、相変わらずの肝の座りようだ。
「夜は17時半からですよ」
「そうでしたね、出直すことにします」
——お怪我にも障るでしょう。
そう言った七海の視線が、カバーで覆った指に落ちる。
「ご心配ありがとうございます。見てくれだけですので、大丈夫ですよ」
何でもないように笑って、バーテンダーはボトルを抱え直した。
「じゃあ——」
「賢いあなたのことだ、“こう”なることは分かっていたでしょう」
すれ違う直前、バーテンダーを七海の言葉が引き止める。グラス越しに静かに見下ろす表情からは、相変わらず腹の底が読めなかった。
「それって、どれのこと? 今のこの状況のことですか?」
——でも、それはお互い様だ。
口元には微笑みを湛えていても、見上げる視線は射抜くように煌めいている。自宅のポストを使うのをやめた理由も、こんな手紙が店にくるのも、どちらの組がやっていようと彼女にしてみれば“結果は同じ”なのだから。
「少しはご自身の身を案じるべきかと」
「それはありがとうございます。“その時は”気をつけますね」
「しかし、あなたの他に“案じる人”がいるなら、無頓着でも問題なさそうですね」
「あら、それってひょっとして“あなた”のこと?」
二人の間で静かに火花が散る。
だがそれも、やけに遠くから届いた声に打ち消された。
「飴ちゃーん!もーいーい?」
「……野薔薇ちゃん」
声の方へ視線を移せば、通りの向こうから釘崎野薔薇が同伴らしき客と歩いてくるのが見える。
「……」
愛らしい鈴の音に、バーテンダーは少し考える素振りを見せた。七海を断った手前があるからだろう。七海から野薔薇へと視線を移し、もう一度七海を見あげた。そうして観念したように息を吐くと、プレートを“Open”にひっくり返す。
「どーぞ。いらっしゃい」
「やった、ありがとー!」
喜ぶ野薔薇に手を引かれ、同伴の男は少し困惑しているようだった。恐らく本当は、別の店に野薔薇を連れて行く予定だったのだろう。
「……」
男の背中を店内へと押し込む寸前、野薔薇がこっそりと七海を伺い見た。薄紅の唇は何かを言いたげに戦慄いたが、言の葉を飲み込むようにきゅっと唇を引き結ぶ。
七海がバーテンダーと二人きりでいることに気づいて慌てて乗り込んできただろうに、自身の領分はきちんと弁える賢い子だ。そのいじらしさに七海の上司、五条悟なんかはメロメロになっている。
「“お客さん”なら、歓迎しますけど」
そんな野薔薇を庇うように、バーテンダーの腕が野薔薇を店内に誘った。庇い庇われの関係を築いているようだが、本当はゴタつきに巻き込みたくはないのだろう。
その割に、反対の腕はちゃっかりボトルを抱えたままでいる。
「では、そのブルゴーニュを“本来の用途で”ぜひ」
「……甘いの飲まないでしょ、あなた」
含みのある物言いは、あの男ともどもボトルで殴ろうとしたことに対する意趣返しだ。バツの悪さにとっさに本音が出てしまったが、バーテンダーは誤魔化すようににっこりと微笑みを返して見せる。
「白ワインを合わせて、アペリティフでご用意しますね」
「ええ、ありがとうございます」
カシスリキュールと白ワインを合わせたら、キールというカクテルになる。後味のさっぱりしたそれは、アペリティフ——つまり食前酒にぴったりの一杯だ。
「ねえ、アペリティフってなに……?」
「食前酒のことですよ。ご馳走するので、お二人も良かったらどーぞ」
「ホント? ありがとう!」
喜ぶ野薔薇の声を聞きながら、七海も定位置になりつつあるカウンターへと向かう。タイミングを合わせて差し出されたキールは、辛口を好む七海のために白ワインの割合を多くしたようで通常よりも薄く色づいていた。
グラスが合わさる小さな音を聞きながら、七海もキールを味わう。つまみのナッツが揃えば、華やかな夜の始まりだ。
***
「どーしたの、虎杖くん」
「んー、なんでもないっ」
カウンターに座ったものの、キョロキョロと落ち着かない虎杖を咎める。バーテンダーに送りつけられる悪質な手紙を知ってから、虎杖はどうも窓の外が気になって仕方がないのだ。人知れずドアポストにねじ込むなら、夜営業が始まる前か、終わった後だと“あたり”をつけたが、今のところ怪しい人影を見たことはない。
「ねぇ。あれから変なラブレターとか来てる?」
「え? ああ、あれね……」
だとしたら、モーニングが終わってすぐか……などと思考を巡らせた。前にお世話になったコンビニ店員にも協力してもらった方がいいのかも知れない。
「最近は来てないみたい」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
もう怪我もしてないよ、とバーテンダーが両手を広げて見せると念入りなチェックが入った。それでもまだ納得のいっていない虎杖を宥めるように、バーテンダーはグラスを差し出す。
「心配してくれたお礼ね。アペリティフにどーぞ」
「あ、あぺり……?」
「食前酒のこと」
「そーなんだ!」
綺麗な赤みを帯びたグラスに、虎杖の表情も明るくなった。今度伏黒や釘崎に教えてやろう、なんて初めて知ったお洒落な単語を復唱する。
「あのラブレター、きっともう来ないと思うよ」
「どーして?」
「虎杖くんが心配してくれたからね」
「またそーやって」
呑気な笑顔に唇を尖らせる虎杖だったが、差し出されたナッツの小皿にすぐ機嫌は戻った。
「美味しい?」
「……うん」
上手くはぐらかされたな、なんて思ったがこれ以上追求すると「君も一枚噛んでるようなものでしょ」なんて痛い返しが来そうなのでやめておく。苦虫の代わりにナッツを砕いたら、軽やかな音が口の中で弾けた。
終わり
キール 最高のめぐりあい