背負わずに抱えていて夏、蝉の声がジンジンと耳に木霊する。汗で張り付く布と肌、照らしつける鋭い太陽の光。身を焦がす、灼熱の地獄――。ラケットがブンブンと唸り、タンタンタンとテニスボールが跳ねる音がする、蝉が懸命に恋焦がれる叫び声を上げる中で、いつもの怒声が飛び交う音は親しみ慣れた日常だった、すくなくともあの日迄は。涼しい部屋、微かに聴こえる蝉の声だけが静寂を凌いでくれる。夕刻の音が響くまで幸村精市の夏は来ない。
ガラガラと病室の扉が開いて、真田弦一郎がそこには立っていた。幸村にとっての旧知の仲……幼なじみであり、同じ志を持ち、そして常に共にあった相手であり、幸村の想い人。約束した未来は、今は未だ果たせないけど……果たすことも難しいのかも知れないけど。他の誰かには見せられない弱気な心は、真田にだけは晒すことが出来る。
「やあ、いらっしゃい」
「幸村……」
「ちょうど良かった、お見舞いの品の果物なんだけどね、俺一人で食べきれないからどうしようかと思ってたんだ」
「……そうか」
ベッドの横の椅子に座りながら、真田は何を聞く訳でもなくて幸村の様子を見ていた。お見舞いとして真田はよくこの病室には来るが、いつも口数は少ない。大抵の場合、幸村が喋り通しで真田はそれに相槌を打つばかりだ。上手く動かない指先で、果物ナイフを持って果物の皮を向くのを真田は止めはしない。他の部員は幸村がそうするとおっかなびっくりで、そわそわとし出すが、真田は表情に出さずにただ、その覚束無い手元を凝視するだけだ。
「上手く剥けるようになったと思わないか、真田」
「そうだな、大分手元が安定してきたと思うぞ」
「入院してるとやることがなくてね……」
「この間貸した本は読んだのか」
「ああ、とっくに」
「そうか」
剥いた林檎を皿に置いて真田に差し出すが真田はそれを受け取らない。幸村はベッド上のテーブルに皿を置いてため息を吐く。真田の視線はずっと、幸村の身体の節々を彷徨っていて、それは多分真田にとっての確認作業なのだろうが、それが終わる迄の間、真田は他のことをしない。それはいつもの事だ。少しでも、何か真田の中の記憶と違うこと、つまりは違和感があれば、真田はその違和感の理由を探り、医者に報告する。尤も最近は、そんな必要もないくらいに快調ではある方なのだけど。関東大会決勝の日に受けた大掛かりな手術からもう一週間だ、リハビリも順調で退院も近い。焦りが、無いわけではない。だが、幸村はまたコートに立つことが出来る。
「そういえば……弦一郎」
幸村が真田を名前で呼ぶ。真田は確認の視線を止めて幸村の顔を真っ直ぐと見据えた。
「三途の川を渡る時、その川を背負ってくれるのは初めての相手、とかいう話があるらしいよ」
「……聞いたことがないな、初めての相手とは?」
「初めてセックスした相手」
「なんだと……?」
「俺たちの場合、どっちが迎えに行く側なんだろうね」
その問いに、真田は無言になる。暫く続く沈黙、そして躊躇うように吐かれた息。小さな声で真田が唇を開く。
「それは、女側が男側に背負われて渡る、みたいな話ではないのか?」
「……知ってたの?」
「いや、知らん……知らんが、そういうものだと思っただけだ」
「だとしたら俺は弦一郎を背負わなきないけないのか」
「……そうなるな」
幸村がははっと笑う。笑って、林檎を手に取ってから真田の口元まで運ぶ。
「俺はお前を背負いたくなんかないよ、重たいし沈みそうだし」
「俺だって背負われるのは御免だ」
「ほら、あーんして弦一郎」
その言葉に、真田は口を開く。幸村は真田の口に林檎を放り込みながら笑った。
「じゃあさ、こうしない?」
「なんだ」
シャクシャクと林檎の齧る音がする。その心地のいい音を聞きながら幸村は微笑んだ。
「弦一郎が先に死んだら俺が来るまで待っててよ、もし俺が死んだら弦一郎が来るまで待ってる」
「縁起でもないぞ幸村」
「いいじゃん、約束してくれよ。ダブルス組んだ仲だろ?」
「…………」
「それでさ、二人揃ったら」
「二人揃ったら、なんだ」
言葉の続きを言わずに、幸村はもう一つ林檎を真田の口元へと運ぶ。流されるまま真田はその林檎を口に入れながら、首を傾げた。
「弦一郎は俺のこと抱えて二人で三途の川を渡ろう」
「……幸村を俺が抱えて運ぶのか」
「そう、お姫様抱っこでね」
クスクスと笑って幸村は、今度は身を乗り出して真田の唇に自分の唇を重ねる。
「そんな事よりも、早く戻ってこい」
「素直に俺が居なくて寂しいって言えばいいのに」
「それは……それもあるが、早く戻ってこい」
「堅物だね、弦一郎は」
「……幸村」
「そんなお前も好きだよ」
夏が、来る。一度は諦めかけていた夏が、来る……。真田と共に、立海と共に、幸村の夏が来る。
「ああ、俺もだ幸村」
「でも俺はお前が負けたこと、許してないからね」
「……それは」
「だから一生かけて償ってよ、俺を抱えながらさ」
幸村の夏は、これから始まるのだ――。