檸檬14 ⅵ. 水柱と妹弟子
猗窩座との戦闘は苛烈を極めた。
そもそも鬼同士の戦いは不毛だが、その上お互いに手の内を知り合うもの同士となれば、技も決まりにくくなる。日輪刀を手にしている炭治郎の方が若干の優位であるように思えるが、炭治郎は炭治郎で途中負傷した炎柱のフォローにも回っていたので実際は鍔迫り合いだった。
「それで、長期戦になった結果夜明けと共に幕引きですか。こちらは煉獄さんが深傷を負い、あちらは実質無傷。炭治郎さんの忠告を素直に聞き入れていた方が良かったのでは?」
猗窩座の拳に抉られた右脇腹やその他の傷の手当てを終え、事の次第を聞いた蟲柱は可愛い顔をして辛辣な言葉を放つ。包帯ぐるぐる巻きでベッドに横になっている炎柱は、「面目ない!!! 穴があったら入りたい!!!」と怪我人とは思えない声量で答えるので、炭治郎はヤレヤレと首を振る。
「怪我人なんですからもう少し身体を労って下さい……。それに、今回の敗因は俺が上手く立ち回れなかったのが原因です。上弦の参とはよく手合いもしていて、戦法は俺の知るところだったのに見誤りました。柱という貴重な戦力に怪我を負わせてしまってすみません」
「いや!! 謝るのは俺のほうだ!! 俺は君達の戦闘に着いていくので精一杯だった。柱として情けない。俺もまだまだ精進が必要だな」
ニコニコしながらそんな事を言われても、炭治郎は首を縦に振ることは出来ない。お医者様からの無言の圧が凄い。目を合わせないようにしながら、クルリと二人に背を向ける。
「俺はこれから約束があるから失礼する」
「おや、どなたとですか?」
「水柱だ。話があるからと呼び出された」
「冨岡さん? 珍しいこともあるものですね。無口・無表情・無愛想を体現したような方なのに。馴れ合いは嫌いなのかと思っておりました。いつの間に仲良くなったんです?」
「仲良くはなってないが、普通に話はするな。今まで任務を一緒にした中では、炎柱の次に友好的だった」
それじゃあ、俺はこれで。
廊下へと出ることで会話を区切り、その場を後にした。
蝶屋敷を出ると、門の前で水柱が佇んでいた。ジッと上を眺めて動かないので、何かあるのかと思い見上げると青空の中で二羽の燕が戯れていた。
「可愛いですね。今日は曇ることもなさそうで何よりです。ずっとそうして眺めていたのですか?」
スンと冷めた瞳がこちらを向く。
しかし、彼は口数が少なくとも心の中は以外とお喋りだということを炭治郎は知っているので、特に気にすることなく声をかける。
「こんにちは、水柱。お待たせしてしまいましたか?」
「…………いや、そんなに待ってない」
「そうですか。なら良かったです。行きましょうか」
促せば、水柱はコクと僅かに頷いて歩き出したので、炭治郎もその半歩後ろを着いていく。
「……煉獄の容態は」
「脇腹がパックリいってましたが、命に別状はないそうですよ。食欲もある様ですし、すぐに回復だろうと蟲柱が言っていました」
「…………そうか」
「そういえば、俺達は今どこに向かっているのですか? 鴉からの言伝では会わせたい人がいるとのことでしたが」
「………」
返事がないのでチラと横を向いてみるも、水柱の表情に変化は見られない。まあ見たところでそもそも感情表現が乏しい人なので、出会ってから日の浅い炭治郎にはその変化には気づけないだろう。
案の定、彼からは「お前が知る必要はない」と冷たく言い捨てられてしまった。答えが返ってくるまでの沈黙の時間を考えると、表に出さずに脳内で完結した言葉が多々あることだろう。しかし、それをわざわざ聞きだすのもどうかと思うので、炭治郎は「そうですか」と話を切り上げ水柱の後ろを雛鳥の如く大人しくついて回った。
そして、最終的に連れてこられた場所は、街中の小洒落た洋食店だった。その外観と中にいる客の服装を見て明らかに場違いな格好で来てしまったと悟った炭治郎は、何故教えてくれなかったのかと水柱に問いたかったが、当の彼も隊服に羽織を着た炭治郎と同じような姿だったので、グッと言葉を飲み込みドアノブを下げて扉を引いた。
カランコロン。低めの鈴の音が響き、ウェイトレスの呼びかけに迎えられる。いらっしゃいませと笑顔で近づいてきた彼女に二本指を立てて答えようとすると、横から「待ち合わせだ」と横槍が入ってその手を下げる。水柱の視線の先には、派手な宝石の眼帯をした銀髪の男がこちらに向かって手を振っている。
「よぉ、遅かったな冨岡! 俺様を待たせるとはいい度胸だぜ」
「………………時間通りだろう、宇髄」
「宇髄……音柱の。妻が三人いるという不貞──。元忍者の人でしたね。貴方も上弦と遭遇し一戦交えたと伺いましたが、その様子では息災なようですね」
ということはつまり、相手をしていた上弦の陸・堕姫と妓夫太郎はもう……。
「おう。上弦の陸の首は俺様がド派手に討ち取ってやったぜ!」
「……ッ」
やはりそうか。あの二人には世話になったのにお別れも言えなかった。新しい仕事も板についてきたとよく話を聞いてきたのに、残念だ。
「………………宇髄、座っていいか? お前も座れ」
着席を促され、炭治郎は水柱の隣の席に腰掛けた。四人席のため座席が一つ余っており、目の前は空席のはずだがそこには水の入ったコップが置かれている。
「お待たせしました、宇髄さん。お昼時だからか急に混み出して………」
もう一人誰かいるのだろうか? 丁度そう思った時、ガシャンとガラスが割れる音がしてパッと顔を上げた。
目が合ったのは、桜色の丸い瞳を持つ少女だった。隊服を見に纏い、音柱の名を口にしたことからも彼女が鬼殺隊の一員である事が伺える。ただ違和感を覚えるのは、彼女の髪が肩の位置で切り揃えられている事だ。炭治郎は彼女と初対面のはずであるが、長い髪を纏めている印象があるのは何故だろう。
そんなことを考えながら、炭治郎は席を立って割れたコップの破片を拾った。時期にウェイトレスも来て、彼女に集めた破片を渡して立ち上がると、固まったままでいる少女と再び視線がかち合う。
ウルッ、と揺れる眼光。
次の時には、炭治郎は少女に抱きすくめられていた。
「おにぃちゃん」
その呼び名は妙にしっくり来た。
お兄ちゃん。
何度も呼ばれた小鬼や炭治郎という名前より、お兄ちゃんという単語の方が自分を表すのに適切な気がする。しかし、何故そう思うのかまでは思い出せない。記憶の靄は薄れたがまだ晴れはしないようだ。
「おう、とりあえず座れや」
音柱の一言で、我に返った炭治郎は少女の肩をそっと押し離す。少女は抵抗もなく離れたが、服を掴む力は頑なで困った炭治郎はチラと音柱を見やる。
「禰󠄀豆子、気持ちは分かるがそろそろ離してやれ」
「………はい」
手が離れたことにホッとして、炭治郎は水柱の隣に戻る。水柱は我関せずと言った様子で出されたお茶を静かに啜っているので、「どういうことか説明して下さい」と詰め寄るとパチッと深海の瞳が瞬いた。
「………………妹だろう、お前の」
何を言っているんだコイツ、という顔だった。珍しく表情筋を動かしたかと思えば、何だその顔は。聞かれた意味がまるで分かんというか、少し軽蔑まで混じっていないだろうか。
炭治郎からしてみれば、こっちが何を言っとんじゃと言う気持ちだった。炭治郎に妹などいない。少なくとも鬼である炭治郎に妹がいるなどという話は聞いた事がない。可能性があるとすれば、それは人間の時の話だ。しかしそれは今の炭治郎には判断のしようがない。何故なら炭治郎には鬼になる前の記憶がないのだから。
「おいおい冨岡、此奴には人間の頃の記憶がない。柱合会議で聞いたろ?」
「? そうだったか? 覚えていない」
「記憶がない? ……そうなの、お兄ちゃん?」
向かいに座った少女は、赤くした目元をハンカチから上げて炭治郎を見つめる。本当のことなので頷けば、彼女はまたジワりと涙を溜めて俯いてしまった。
見ていられない。この少女の泣いている姿を見ていると、何故だか胸が痛む。逃げるように視線を彼女の隣の音柱へ移し、状況説明を訴える。
「そんなに見つめられても困るぜ。コイツをこの場に連れてきたのは確かに俺だが、それは冨岡に頼まれたからだ。確か、妹弟子とかだったか?」
「ああ。………俺が向かった時には竈門の、……禰󠄀豆子の家は崩壊していた。おそらくは鬼に襲われたのだろう。酷い有様だった。住人と思われる家族は崩れた家屋の下敷きになり冷たくなっていたが、禰󠄀豆子だけは辛うじて息があった。だから助けて俺の師匠の家に預けた」
いつになく流暢に喋り出した水柱に、(普段からそのくらい話せば誤解も生まれないだろうにな……)と思いつつ、炭治郎は禰󠄀豆子というらしい少女を今一度観察する。
こういう時に限って自慢の嗅覚は役に立たない。確かに彼女にはどことなく懐かしさを感じるが、自分の匂いは分からないので血縁関係の有無は判断できない。
「あの日、お兄ちゃんは麓の町へ炭売りに行っていて家には居ませんでした。でも、少し離れた場所にお兄ちゃんの背負っていた籠が落ちていて、戻ってきていたことは確かなんです。きっとあの時、お兄ちゃんはそこにいた鬼に攫われたんだと思います。そしてその時その場に居た鬼は恐らく、、」
顔を上げた禰󠄀豆子は、涙ぐむ少女の目から一転強い意志を持った隊士の顔つきになる。
「鬼舞辻無惨………私達の家族を殺し、お兄ちゃんを誘拐したのはアイツに違いない」
「………根拠はあるのか」
「無い。けど分かるの。お兄ちゃん程じゃないけど私も鼻は効く。お兄ちゃんから濃く香る別の鬼の匂い………それはあの時家の近くに残っていたものと同じ匂いだもの」
彼女の力強い眼差しを受け、炭治郎は口を噤んだ。
思うことは色々あるが、もしその話が事実であるならば、無惨は炭治郎にとって恨むべき仇ということになる。記憶がない今は実感が湧かないが、今の炭治郎に置き換えるならば家族の様に慕う鬼達全員を何者かに虐殺されたということである。それは許し難く耐え難いことであるし、きっと炭治郎は我を忘れるほどの激情に支配されるだろう。それは悲しみかもしれないし、怒りかもしれないが、どちらかはその時にならなければ分からない。
「……お兄ちゃん、もし嫌じゃなければ今度一緒にお家に帰ろう? そうすれば何か思い出すかもしれないよ」
「………ああ。それもそうだな」
そう返事をしつつも、炭治郎は迷っていた。
もしも記憶を取り戻してしまったら、炭治郎は無惨の事をどう思うようになるのだろう。嫌いになってしまうのだろうか? 育ててくれた恩も、育んだ恋心も全て無かったことにして、ただひたすらに彼への憎悪を募らせるのだろうか。
それを炭治郎は怖いと思う。自分が自分でなくなってしまう気がして、無惨を傷つける様なことをしてしまうのではないかと思うと恐ろしい。例えそれが正しい姿であったとしても、最愛の人を傷つける様なことはしたくない。
(でももし、俺が記憶を取り戻すことで無惨様に平穏が訪れるのだとしたら……?)
それはもう家庭ではなく確信に近い。
それなら答えは簡単だ。単純でいい。炭治郎は喜んで記憶を取り戻すべく動くだろう。よしんばその選択が自身の破滅を導く結末になろうとも、炭治郎はその道を選ばずにはいられないのだから。
【続】