それを初恋と人は言う「肩慣らしに、夜狩の引率をするって事か?」
「いいえ、私一人でしばらくは夜狩をしてこようかと」
「いくら何でも急すぎやしないか?」
閉関を解いた藍曦臣は、藍染された旅装束を着て蓮花塢の江晩吟の執務室でお茶を啜っている。
「一人だと言っても、簡単なモノばかりですよ」と言いつつ、乾申袖から取り出したのはいろんな書簡だった。
それを見てもいいのか、促してくきた。
「どこが簡単だ?」
「簡単でしょう」
「貴方は、閉関を解いたばかりだろう!!これも!これも!!!一人で対処するようなもんじゃないだろ!」
中には確かに簡単なモノがあるけれど、選別すれば数人門弟を率いて出なければ退治できないような案件もある。
本来の沢蕪君であれば、一人で退治できないわけではない。
しかし、彼の首元にはうっすらとまだ朔月でつけた傷が残っている。これは紅潮した時に、白く浮かび上がる傷跡として残ってしまうだろう。
「まぁまぁ、朔月を貸していただけたらと思って参上したのです」
「渡せると思うのか!?」
藍曦臣は、朔月を返して欲しいとは言わなかった。
取り上げられた朔月は、江晩吟に預けられたままだったのだ。
『どうしても、夜狩に出たいというなら自分で取り戻してこい』と叔父に言われたため、船で何日もかけて姑蘇から雲夢にやってきた。
その間も妖魔が出たり凶屍がでたりとしたのだが、裂氷と仙術で何とか退治をして来た。
人と触れ合う事もして来たし、雲夢に入った頃には江晩吟の話をよく聞いた。
面白いもので、蓮花塢に近づけば近づくほど評判は良くなる。
「閉関を解いたのも公表してませんし、普段の校服ではないのも着ております」
「そうだな、動きやすそうだ」
藍色に染まった旅装束は、藍曦臣の品格を損ねていないけれど一目で彼が沢蕪君かと解るようなモノではない。
襟元は緩められており、鎖骨が見えた。いつものようにきっちりとゆわれた髪は、緩やかだが整えられている。
藍曦臣の色香が増している。
「……」
「……江晩吟?」
じっと見つめていると、字を呼ばれて我に返る。
「……何でもない!」
ぷいっと顔を背けて、藍曦臣がとりだした書簡を整理し始める。
大小合わせて十件くらいの案件であり、どれもこれば雲夢と姑蘇付近で起こっている事件ばかりだ。
計りやがったな、あのじじぃ……。心の中で、恨み言を言うしかない。
これは、江晩吟も手伝えという藍啓仁からの依頼であった。
「なんなんだよ、妖魔退治だけならまだしも呪いを突き止めろだとか解決しろだとかって言うのは」
「ああ、それは私が呪いを受けやすくなったから、粗治療ですね」
「は?!天下の沢蕪君が、なんで呪いを受けやすくなったんだよ」
「どうにも、観音廟以来心が強く保てずにいたら、小さな呪いも受け入れてしまう様になりまして」
困りましたね。と苦笑する。
きっと魏無羨に頼んで、色々な事を試したのだろう。
修位は上がったけれど、どうにも心に隙ができてしまい底から呪いが入り込んでしまうのだとか。
一応、弱い呪いは免疫をつけて回復はしたのだが強い呪術に関しては正直自信がないという。
(雲深不知処で、治療してほしいんだけども???)
はらり…と書簡の中から、一枚の小さな紙が落ちてきた。
それを無意識に手に取り文字が書かれている事に気づくと、読む。そのれは、魏無羨から江晩吟に向けられた小さな手紙だった。
『なんか、懐桑がお前に頼んだら?って言ってきたから、後はよろしく』
破り去ってやろうか、この野郎。きっと、聶懐桑の口車に、あの藍啓仁も乗せられているのだろう。
あいつは、そういうところがあるのだ。と、妙に納得してしまった。
清河は、発展しつつある。今までだって、聶氏が廃れなかったのもなんだかんだと聶懐桑がぎりぎりに執務を回していたからだ。
それを、義兄たちの推薦が無ければだの、手助けが無ければ回らないだのと言っている輩の見る目がない事か。
せいぜい気づいた時には足元を掬われて、ピーピー泣きわめけばいい。
(確証はないが、泣き喚いた中にこの人もいるんだよなぁ……)
少しやつれたけれど、その所為で妖艶さが足された男を見る。
視線に気づけば顔を上げて、首をかしげる界隈らしさ。
四十手前の男にする表現ではないが、仙師には正直外見年齢なんて関係ない。
「しばらくは、貴方を家で預かる」
「いいのですか?」
「いいも悪いも、この案件はほとんど雲夢と姑蘇の境にあるだろう。それに、朔月は俺が持ってるんだぞ」
「そうですね」
「預かる間は、家でも働いてもらうからな」
「ええ、喜んで。……お役に立てるかはわかりませんが」
お役に立たせるために、あんたはうちによこされたんだよ。というのは、やめた。
やはりまだ、ぼんやりしている所がある。
「就寝時間とかは貴方が自分で決めていい。だが、他の事は家の事を守ってもらうぞ」
「はい。……ふふ」
「なんだよ」
いきなり笑いだすために、じとりと白目で藍曦臣を見つめる。
「なんだか、嫁入りのようだなぁと思いまして」
「誰が嫁にもらうか!」
「なら、婿入りでも構いませんよ」
「三行半つけて姑蘇に返してやる!」
「それは寂しい。そうされないように、励むと致しましょう」
そんな軽口をたたいていると、主管とその部下が現れる。
藍曦臣は、主管の顔を見ると驚いたように瞬きをした。
江氏の先代宗主に雰囲気が似ており。それだけで、彼が血縁だと解るだろう。
「いけませんよ、宗主。机をこのように散らかしては」
「く、区分けしてただけだ」
「そうですか」
「お前たちはなんだ」
「私は、宗主に急ぎの書簡をお持ちしました。ああ、どうやら宗主にも書簡が届いておられたご様子で」
「え、ああ。いま、藍宗主から預かった」
「さようですか」
どこかで見た様な?とじっと見ているのだが、正直いって隣にいる江晩吟が、すこしいつもと様子が違うような気がする。
なんだか他人よりも主管に対して、態度が柔らかいというか……。
そう首をかしげていると、主管と一緒に入ってきた部下が声をかける。
「沢蕪君、お茶のお替りはいかがですか?」
「あ、いただきます」
執務机から少し離れた卓の長椅子に座り、お茶を注がれながらしばらく江氏主管を見つめた。
穏やかな目元と体つきは先代のようにがっしりとしていて、長身のようだ。
江晩吟が座っている椅子の背もたれに手を添えて、同じ書簡を覗き込む。
「……」
ひくっと、己の口元がひきつるのが解る。
目の前の距離の二人が、近くないか?それに江晩吟の頬が何となく紅潮しているような感じがするのだが???
「……」
「……(茶器握りつぶられそうですねぇ。請求って聶氏でいいのかな?それとも藍氏?)」
ぎちぎちぎちと悲鳴を上げている茶器を見つめながら、主管の部下は器の儚い運命を悟る。
藍曦臣がたどり着く前に、聶懐桑が現れていた。
『藍宗主がですか?』
『そうなんだよぉ。その時に、主管殿には江兄に必要以上に密着してほしいんだぁ』
『……別に構いませんが?』
『梓兄も、必要以上にお願いするよ』
『大歓迎』
なんだか楽しそうだから承知したけど、
藍曦臣が滞在中に茶器はどれくらい壊れるのか心配になってきた。
宗主相手だからって、高い茶器を出すのは止めた方がいいだろう。
というか、主管もかなり乗り気で江晩吟が戸惑う程に近い。
「それならば、そちらの書簡と一緒に」とか言いながら、わざわざ遠い書簡を自ら取っている。普段なら、上司に告げて自分で取らせるのに……。
その所為で、主管の胸が江晩吟の頬に当たる。
「あ、宗主、申し訳ございません」
「い、いや…構わない。言えば取るぞ」
「そうですね」
ふっと力を抜いたように微笑む顔は、まるで自分の子供に向けるような父親の様な微笑みだ。
その笑顔に、江晩吟は見とれる。
ばきん!!!と、藍曦臣の持っていた器が破裂した。いや、正確に言えば握りつぶされたのだ。
(うわ、こわ……それ新品の陶器ですけど???)
哀れ握りつぶされた器を見つめながら白々しく「お怪我は?」と尋ねてみる。
「あ、すみません。力加減を間違えてしまって」と言いながらぱらぱらと手中の破片をぱらぱらと卓に落とす。
中身があったためか、手が濡れてしまいました。とだけにこやかで言った。
「沢蕪君、どうしたんだ」
さすがに茶器が壊れた事に驚いたのか、椅子から立ち上がり執務机から覗き込んでいる。
「…力加減を間違えてしまって、器をつぶしてしまいました」
「やはり長旅の疲れが出てきたのだろう。先に部屋に案内しよう」
執務机からこちらに来ると、江晩吟は藍曦臣に手を差し出す。
その手を取り、引いて執務室から出ていこうとする。
しかし、扉の前で立ち止まり振り返ると「沢蕪君を休ませたらすぐに戻る」と言って廊下に出て行った。
執務室から廊下を出て少しだけ歩くと、江晩吟は盛大に息を吐きだした。
「あー…」
「ど、どうしたんですか」
「……なんか、主管が近くてな」
「いつもは違うんですか?」
「隣に立たない、机の前に立って説明をする。資料も遠ければ、俺に取らせる。そしてなおかつ、急ぎの仕事ならあんなにやさしい態度はとらない」
眉間に拳を当てながら、いつもと違う距離に対して疑問を抱いていたようだ。
「あいつ、俺の父親に雰囲気がますます似てきてな。油断すると『父さん』って呼びそうになるんだよ」
「……」
「それで、呼ぶとしばらくの間はからかわれる」
やれやれと言いながら、江晩吟は藍曦臣の前を歩き続ける。
蓮花塢は、焼け落ちた時からすべてを新しく建て替えた。雲深不知処とは違って、面影はないのだ。
だから、江晩吟と初めて出会った場所はすでにない。生まれ変わっていく様を、藍曦臣も見てきた。
廊下を進めば開けた場所に出て、蓮池が一望できる場所に出る。小舟から手を振る者がいてソレに手を振り返す。
江晩吟の実力が示されたような新しい蓮花塢の間取りを、藍曦臣は把握していない。けれど、このまま歩けば……。
「そちらは、貴方の私邸になるのではないですか」
ぴたりと立ち止まると、江晩吟は立ち止まり振り返る。
「そうだが」
「客坊ではないのでしょうか?」
「預かるって言っただろう。それに私邸だったら、他より静かだ」
蓮花塢は、どこからでも人の声や音が聞こえる。雲深不知処とは違って、賑やかな所だ。
蓮池は解放されていて、船が行き来するのが見える。
「洗濯や掃除は家僕に任せちゃいるけど、軽い食事は自分たちで作らなきゃいけないが……」
貴方は作れるか?と心配そうに尋ねられる。
藍曦臣は、一応逃亡生活の時に金光瑶にならってはいたが本当に簡単なモノしか作れない
「……あー…作れるといえばいいのか、作れないと言えばいいのか…」
「微妙な所なんだな」
「はい」
「なら、俺が教えよう。貴方に、教える事があるのは不思議な事だが」
言い淀んでいると、くすっと楽し気に笑う。……眩しいな。
「よろしくお願いします、江先生」
再び二人は、歩き出した。
自分よりも品やかで細い体をしているのに、こんなにもたくましくて頼りになる背中だ。
寒室にいた頃は、背中を見送るというだけでそれは置いて行かれるような気持ちになっていた。
「……」
その背中を追いかけてもいいのだと、諦めなくていいのだと……彼は言う。
枯れた蓮の花が蓮池にあちこちにあって、あれ?と思い浮かべる。
新しくなった蓮花塢は、何処にも嘗ての面影が無いけれど……変えるべきではない場所もある。
それは、この蓮池が良く見えるように設置された大きな廊下も一つで、再び立ち止まる。
「ここは」
風通りの良い場所で、垂らしている髪が揺れる。
蓮の茎がゆれる揺れて、水面が美しい場所だ。
「泣くなよ」
「な、泣きませんよ」
「どうだか」
「というか、覚えていたんですね」
ここは形が変わっていても、江晩吟と初めて出会った場所だ。
「……覚えてる」
「二人で、泣きましたね」
▽▲▽▲▽
―――二十年以上も前の事。もしかしたら、三十年近くなると言ったほうがいいかもしれない。
藍曦臣は、藍啓仁に連れられて蓮花塢に来ていた。
ここは姑蘇よりも蒸し暑くて、花の匂いと水の匂いが見せ変える程に強かった。
「藍公子、ここは暑いでしょう。蓮池の近くに行くと涼しいですよ」
当時の江氏の宗主であった江楓眠が、そう告げる。
叔父の様子をうかがうと「涼ませてもらいなさい」と許可が出た。
家僕に案内されて、やってきたのは蓮池が一望出来て風通りの良く日陰になっていた場所だった。
確かに部屋の中よりは涼しく、そして美しい場所だった。
「きれいな場所だね、阿湛」
振り返ったが、いつもの場所に弟は居ない。
そうだ、今日は雲深不知処にあの子は居るのだ。もう居ない母の面会日、開く事のない扉を前に待ち続ける弟。
「……見せてあげたかったな」
案内してくれた家僕は、飲み物を取ってくると言って離れてしまっていた。
ぽたり…と、藍曦臣の手の甲に涙が零れる。
「いけない」
ぽたりぽたりと、止めようとすればするほどに涙があふれる。
これは、きっと風景が美しいからだ。
母のいない静室の前で座る弟が哀れだからではない、待ち続けられる弟が羨ましいからではない。
眩しい程に美しいそこが、綺麗だからだ。
「どうしたの?どうして泣いているの?」
子供の声が聞こえて、顔を上げると江氏の象徴の色の紫を身に着けている少年が居た。
「どこか、痛いの?」
「い、いえ……とれも蓮池がきれいだから……」
そう言いながら、涙を必死に止めようとすると子供は藍曦臣の隣に来て一緒に座った。
夏だから、他者の体温は熱くて汗をかくだけだろう。
しかし、子供は客人の手に己の手を重ねた。
誰かに触れられることに慣れていない藍曦臣は、驚いて手を引いた。
「あ……」
「あ……すみません」
謝ったけれど、子供の竜胆の様な色をした目は薄い膜が張られて雫となってこぼれていく。
「手離したぁ」と泣きじゃくる子供は、涙をぬぐいながらも大声で泣く。
「ご、ごめんなさい!誰かと手を繋ぐのは、叔父上や弟以外には居ないもので!」
言い訳を並べてしゃざいしたけれど、子供の涙は止まる事はなかった。
どうすればいいのか解らなくなって、しかも自分も今の今まで泣いていたから涙腺は緩まっていた。
だから、ぽろぽろと涙があふれてしまう。
弟が泣いた時、どうしただろう。いや、そもそも弟は静かに泣くのだ。こんなに大声で泣く事はない。
大叔父の外弟子はたしか、家が恋しくて声を上げて泣いていた。
ああ、どうしたらよかったんだっけ……。
静かにぽろぽろと涙が零れたまま慌てていると、子供は藍曦臣に抱き着いてきた。
それでさらに驚いて、涙があふれてくる。
体格的に弟と同じくらいで、反射的に抱きしめ返す。―――家僕が来るまで、一緒に泣いていた。
家僕が、慌てて叔父と子供の姉を連れてきた。
その子供は、江晩吟である。江の若君であった事にも驚いた。
自分の姉に、幸せそうな笑顔を浮かべて抱き着いていく姿を見て『行かないで』と手を掴みたい気持ちになった。
だけど、そんな事はできなくて少しだけ上げた腕をすぐに戻した。
―――ここでは、自分はよそ者だ。
また涙が、出そうになった。
叔父に頭を撫でられて、肩を抱き寄せられる。その胸に、顔を埋めた。
「叔父上」
「なんだ」
「あの子は、手を払わらわれただけで泣いたのです。大きな声を出していました」
「……」
「大叔父様の外弟子もよく泣いております」
「……」
「……阿湛は、いつから声を上げて泣かなくなったのでしょう」
羨ましいと思った。
些細な事で大声を上げて泣く子供がとても羨ましくなった。
己は、弟のように誰も居ない静室の前で座り続けることはできない。
いつだって叔父の隣で、その背中を見つめるだけだ。
閉関している父親に、叔父が食事を持っていく時もただ似たような感覚を覚えていた。
▽▲▽▲▽
「あの時、一緒に泣いてくれた江晩吟はかわいかったですね」
「うるさいな。あの時は、魏無羨に泳ぎで負けて母に叱られた後だったんだよ。
姉さんも、あいつの事ばかり構ってたから……」
ふんと鼻を鳴らして、枯れた蓮を見つめる。
一歩と近づいて、後ろから抱きしめてみた。
「ひ!!」
「……悲鳴を上げるのは、どうかと思うんですけど」
「う、うるさいな。俺は断袖じゃないんだ、男に抱きしめられるなんて慣れていないんだよ」
前から江晩吟は、藍曦臣がこういう行動をとると小さな悲鳴を上げていた。
身体は強張り、顔は青くなる。
自分のやらかしてしまった行動がきっかけで、酷くなったのは確かだ。
「……まだ大丈夫です」
「……何が大丈夫なのか、聞きたいが」
「そうですね、まだあなたを襲う程我慢してませんから大丈夫です」
叩かれると思ったが、何も起こらない。
「抵抗なさらないんですか?」
「抵抗したら、あなたは襲うだろう」
「私、曲がりなりにもあなたを襲ったんですけど、解っています?」
「解っている」
それなのに、私邸に連れ込んだりこうして抱きしめる事を許すのだ。
「それに、抱きしめてくる癖は昔から変わらないだろう」
「初対面の時は、貴方が抱きしめてきたんですよ」
「貴方に手を払われて癇癪起こしたことなど、覚えてないな」
覚えていると白状しながら、覚えていないと嘘を吐く。
彼の肩に頭を乗せる。
「……相変わらず、ここは美しい」