短冊を書けなかった松井江――やっぱり、駄目だ。
赤い短冊に走らせていた筆先が、止まる。そこに書きかけた願いは、己の背負う業で、他の誰ぞにも、天にすら、代わってもらえるものじゃない。
吐き出した息は鋭く、それに気づいた豊前が僅かに眉を顰めたのに、はっとして筆を置きぐしゃりと細長い紙を握り潰す。緑青に彩った指先が握り込んだ赤は、けれど青白い皮膚を染めることはなく、大小の皺を刻んで小さな塊となるだけ。武器である僕には、そんな紙も、命も、等しく儚く、脆く、壊すのはこんなにも容易い。
「どうした、松井。字ぃ間違えたか?」
「……ああ……うん。そんなところ、かな」
曖昧に笑って屑籠へ放った塊は、ぽん、と軽い音を立てて底へ吸い込まれていった。うまく笑えているだろうか、そう思っていることすら、正面で僕を見据える赤の瞳にはお見通しなのかもしれない。
「少しね、書く事を迷ってしまって」
「あー、わかるぜ。俺もどっちがいいかってすげー悩んでさ」
「……どっちがって、何を?」
「揚げた芋と唐揚げ。でもやっぱ肉が食いてえなって」
「え?」
笑いながら豊前が掲げた白い短冊に綴られた文字は、"山盛りの唐揚げ"。……夕餉の、催促。
「……えっと……」
「普通は願い事なんて叶えてやる側の立場だろ、俺ら。急に人間の真似事して願い事を書けーなんて言われても、困っちまうよなあ」
だから、いま腹減ってるしこれでいいかって思って。そう言いながら豊前は、もはや七夕なんて何の関係もない紙の、上に空けられた穴に紙紐を通して固結びをつくる。その爪は僕と違って、何も彩られいない……いや、今は少しだけ、墨で汚れていた。
「……っふふ」
「ん?やっぱ駄目か?こういうの」
「いや、いいと思うよ。……少しそれ、貸してもらえる?」
「?おう」
何の疑いもなく素直に差し出されたそれを受け取って、今しがた置いたばかりの筆を再び取り上げる。このくらいなら墨を足さなくても足りるだろう、左下の余白に筆の先だけ乗せて、小さな横一文字を書いた。
「じゃあ僕も唐揚げに一票、入れようかな」
そのくらいなら、望んだって許されるだろう。……許されて、ほしい。そう思いながら筆を置こうとしたとき、えっ、と横から素っ頓狂な声が上がる。
「なにそれ、ありなの!?」
「では私も唐揚げが食べたいので一票を」
「あっいいなぁ〜!俺も唐揚げ食べる!松井、その筆貸してよ」
急に立ち上がった村雲と五月雨に両脇を挟むように座られて、僕の筆は手ごと紫と桃色の指先に捕まって、縦棒と短い横棒を書き足された。
それからすぐに頭上に影が差して、ぬっと伸びてきた無骨な手と裏腹に丁寧に塗られた黒の持つ筆が、短く少し太い縦棒を書き加える。
「……我も唐揚げは好物だ」
そんな彩り豊かな指先をもつ手たちが視界から外れたら、すぐにまた別の筆が横から伸びてきて、三画と一画を繋ぐ横一文字、それからその下に新たなもう一画を。
「畑仕事はかろりーを消費するからね」
「私もれっすんのあとでお腹が空きました」
「……ははっ、松井、俺の分も書いてくれよ。それだと言いだしっぺの俺の票が無えだろ」
「あ、ああ……」
言われるまま縦棒を足して、七票。あっという間に献立投票用紙の出来上がりだ。
予定したより随分と加筆分が増えてしまった、少し歪な正の字と丁の字が一つずつ書き足された短冊を豊前に返すと、彼は少しの間それを見つめたあと、にやっと笑って勢いよく立ち上がった。
「他の連中の票も集めてくっか!いちばんつえー願い事にしようぜ!」
「それは良い考えですね、お供します」
「雨さんが行くなら俺も!」
「……手杵の槍なら、広間にいたぞ」
「肥前はたぶんまだ中庭だよぉ」
「お、助かる!ちっと行ってくるわ!」
手っ取り早く票が得られそうな彼らの居場所を聞いて、豊前だけでなく五月雨と村雲まで部屋を飛び出してそちらへ走っていく。暑いんやけど、なんて言いながら開け放たれた障子戸を閉めてついでに冷房の温度を下げた桑名が、座ったままの僕を見下ろしてふっと笑った。
「何、その間抜けな顔」
「……七夕って、そういう行事だったかな」
「うーん。まあほら、主もよく言うやん、『細けえことはいいんだよ』って。そういうことなんじゃない?」
そう、なのだろうか。そうかもしれない。
桑名を見上げるのをやめて反対隣に目を向ければ、にこにこと笑みを浮かべた篭手切がいて、彼はそのまま僕の腕を引いた。
「歌仙に話をしに行きましょう、松井さん。もしかしたら、今日の夕餉に間に合うかもしれません」
「……そうだね。手が足りないようなら、僕たちも夕餉の支度に加わろうか」
「はい」
篭手切につられて自分も立ち上がる、頭一つとは行かないけれど僕よりも低いところからまっすぐに見上げてくる強い眼差しに、敵わないなと思わず口元が緩む。
幸いまだ日の出ている時間だ。まずは交渉、必要であれば買い出しと、頭の中でやることを組み立てながら、厨の方へと足を向けた。
僕たちは付喪神。末席とはいえ、神は願い事を叶える側の立場だ。……多分、そうだ。
仲間たちの小さな願い事くらい、叶えてやろうじゃないか。幸いとこの手は今、血に濡れていないのだから。
「あはは、みんなしばらく戻ってこないだろうねえ。筆、洗っておこうか」
「……そうだな」