未定 昔の夢を見た。それはいつも通り安息を妨げる夢見の悪いもので、目を覚ますと夜衣が嫌な汗に濡れていた。
麗子にとってうまく眠れないのも嫌な夢に魘されるのもいつものことで、取り立てて感慨も湧かない。はっとして隣を見れば規則正しい寝息を立てる猩羅がいる。新妻を起こさずに済んだことにほっと息をついた。弱音を吐けぬ性質である麗子は、悪夢に遭っても無意識に声を出さぬよう堪えてしまうきらいがあった。
婚礼以降、麗子と猩羅は触れ合う機会が極端に少ないままだった。猩羅は自室に篭り切りで、何をしているのかも分からない。新しい環境という事もあったし、猩羅が英邸に馴れるまではと誰にともなく言い訳をし、「好きにさせる」という建前のもと麗子自身も積極的に関わりを持たなかった。しかしこうして共寝する習慣だけは続いていた。
婚礼当夜の「夫婦とは同衾するものでしょう?」の言葉通り、夜になると猩羅は何処からともなく現れて寝室へ誘うのだ。
「麗子さま、今宵もわたくしと寝まれます?」
初めてそう問われた夜、麗子は面食らった。一夫多妻に馴染んで育った麗子にとって妻が夫を寝室に誘う、とはつまり「そういう事」だったからだ。麗子は思わず無礼にも猩羅をまじまじ凝視めた。平行に整えられた眉、ぴっちりと閉じた瞼、白磁の肌、友好的に幽かに上向いた口角、そのどれもに異常は認められない。尤も麗子は妻となったこの令嬢の事を何ひとつ理解出来ないままだったが。
会えば会うほど、言葉を交わせば交わすほど解らなくなる。このひとと相対している時、昏い深淵を覗かされるような心地だった。
しかしよくよく考えてみれば父母の時代とは異なり我々は磐石に「夫婦」なのだし、同衾の誘いとは麗子が考えるほど大仰なものではないだろう。実際婚礼当夜も至って普通に眠りについた。麗子は頭を振って微笑むと、なるたけ明るい声を心掛けながら発語した。
「ええ、そうしましょう」
それでもやや緊張しながら猩羅の居室へ向かったがその夜は拍子抜けする程に何もなく、猩羅の、というか菊三が出した茶を飲み軽い雑談をしているうちに「ではおやすみなさいましね」と灯りを消された。
そしてそのような奇妙な夜を重ね、現在に至る。いや、普通の夫婦の過ごし方としては至って普通なのだろうが、相手が猩羅、そしてここが英家である以上「普通」の関わりが続いている事が最も奇妙だった。
麗子とはそのように一般の夫婦らしく過ごす猩羅であったが、家族の集まる食堂などにはやはり一向に現れない。それに対する母の悋気が日増しに強烈になるのを感じる。麗子は猩羅への負い目から彼女が快適に過ごす事を何より優先していたが、母は逆に負い目が怒りの種となっている節があった。
麗子は幼少より母の感情の機微にきわめて敏感であった。父の死後はある種一定に落ち着いていた、落ち着かざるを得なかった情緒が猩羅入輿以降また上振れていた。軽い頭痛を起こしながら溜め息を呑み込む。こめかみを揉む麗子の様子に母が気づく様子はない。――頭痛の種は日増しに増える一方だ。
不思議な人だ、と思う。
「普通の奥様になりたくない」と言った言葉通り、婚家の人間を一切気にせず振る舞う様子はいっそ可笑しかった。その愛らしい安らかな寝顔に思わず手を伸べそうになり、ぐっと手のひらを握り込む。
じっとりと濡れた夜衣が気持ち悪く、衣を換えようとそっと寝台から滑り降りた。
しかしその折に立ったギ、という僅かな軋みに猩羅はぴくりと反応した。
「――……麗子さま、お目醒めですの?」
「――……起こしてしまいましたか」
「昔から音には敏感で、些細な音でこうして起きてしまいますの。いつもの事ですから、麗子様のせいではなくってよ」
謝ろうとし、しかし気遣いを無にするのも憚られた。そうですか、と返すにとどめると、麗子さま、とまろい声音で呼ばわれる。
「寝つけませんわよね」
「…………」
「真宮さん、きっとお元気でいらっしゃるわ」
麗子の双眸がふら、と揺れた。
猩羅はありかなしかの、しかし確かな柔らかさで微笑むと、「共犯者がいなくなるのは、心細いでしょう」と続けた。
「麗子さまと真宮さん、実の姉弟のようでしたもの。わたくしがあんな意地悪を申しましたあとですし、それは心配でしょうね」
実の姉弟、という言葉に苦しくなる。確かにそうだ。麗子は実の弟のように、あるいはそれ以上の信頼と擁護を真宮に向けてきた。
強権な祖父は昔気質の偏屈さで、女が当主の座に就くことを嫌った。祖父の威光はあまりに眩く、父・征十郎は祖父が死ぬその時までずっと影が薄かった。祖父は父をずっと軽視してきたし、それは甲斐性のなさがゆえでもあったと思う。始めに迎えた妻はメガエラ。妻を増やしてまでやっと産ませた子はオメガ。やっとアルファが生まれたと思ったら女。祖父の侮りと失望はとどまるところを知らなかった。
アルファマザーとして立場を不動としたかに思えた母も、麗子から見れば実に危うい立場だった。何せ祖父はメガエラの第三夫人を甚く気に入っていたし、第一夫人となった母のことは鼻つまみ者扱いであった。姑である祖母のお墨付きなぞ高が知れている。
加えて父・征十郎の向ける関心や愛情も母に対しては薄いように見えた。否、今となってはあの父の考えを推し量ることは出来ないのだが、当時の麗子から見た父はそうだった。総領娘の母、その立場を尊重する程度の気遣い。
幼き麗子にとって、異母きょうだいとはすなわち脅威だった。大好きな母を悩ませる夫人たち、その腹から出た姉弟を真実家族と思えたことはない。華々しい家に生まれついたアルファは恐らく皆がそうだろう。有憲が異母姉である猩羅を指して「あの人だけ血が繋がらない」と言ったのもその表出に思う。我々にとっての家族とは、母、そして同腹のきょうだい、それがすべてである。
危うさの中、それでも家の中にアルファは麗子とその「家族」のみで、英の家の均衡はそれによって保たれた。その安泰を破って現れたのが真宮だった。あの祖父の落とし胤で、祖父によく似た面差しのアルファで、祖父と父の気に入りの犀門を母として。そして何より、真宮は男であった。
あの頃の動揺や家中の張り詰めた空気を思い出し、麗子は思わず吹き出しそうになった。ふっと息を吐き出すと、猩羅の方へ身を寄せる形で座り直す。
出会った当初の真宮の様子や己の奮闘をぽつり、ぽつりとこぼす様子に、猩羅は興味深げに、しかし黙して耳を傾けた。麗子の方へ傾いだ猩羅の細い首筋に知らず安らぎを得る。――そう言えば、猩羅といる時は頭痛が起きない、とふと思った。
「……真宮とは母が違うどころかそもそも血が繋がっていない。血縁がないからこそ、あいつのことを『弟』として取り扱えたのだと思います」
真宮は麗子にとって無二の存在だった。生まれついた性に抗い、アルファを装って生きる唯一の同胞。凋落する英本家を守り立てる片翼で、「ベータの女」である麗子にとっては頼れる男きょうだいだった。
――そんな真宮が出奔した。置き手紙ひとつを猩羅に託し、行き先も告げずに消えた。
麗子は真宮を本当に頼りにしていたのだ。しかし弟はその困窮を訴えるでもなく黙ったまま、沈みゆく船を降りていった。
「……猩羅さん」
「はい」
「私はあなたを幸せにします。これから先ずっと、私と英家の全てで、あなたの何不自由ない暮らしと安寧を守ります」
「麗子さま……それは懺悔のつもりですの?」
笑い含みの声だった。
「申しましたでしょ。こう言ってはご不快かもしれませんけれど、わたくしこの奥様生活を結構楽しんでおりましてよ。それに麗子さま、お忘れかしら、わたくしもとっくに『英』の者でしてよ」
――あなたの妻ですもの。
歌うような言葉に思わずその細い体躯を掻き抱いた。猩羅が笑みを深めた気配がする。そっと抱き返された手は、あやすように背をさすってくる。
「こうして麗子さまとおしゃべりするの、好きよ。あなたが胸の裡を見せてくださると、わたくし安心しますの」
その言葉に婚礼の夜を思い出し、麗子の胸は痛んだ。
あのようなおぞましい狼藉に猩羅は「初めてではない」と平然と言ってのけた。似たような悪意に晒された経験があったということだ。「影のようなもの」と言われた通り、常に存在を殺して付き従う菊三があの夜にのみ怒りを見せた、それがひとつの証左のように思える。
思えば猩羅こそ孤独の身の上である。
母は早くに死に、同腹のきょうだいはいない。そのぶん父当主からは可愛がられたようだが、夫人や異母きょうだいの手前か独り離れで育てられた。
この国においては財閥の令嬢であろうともオメガの身の上は頼りない。こと女性ともなれば尚のこと自衛の手段にすら困るだろう。
「……猩羅さんにとって、家族とはなんでしょう。夫婦とは、どういうものだと思いますか」
唐突な問いに、しかし当惑するでもなく淡々とした調子で首を傾げると口を開いた。
「――そうですわね……。夫婦とは何か、と訊かれると些か悩みますけれど。麗子さまとは、互いに背を預け合えるような関係になりたいわ。盾になって欲しい訳ではありません、ただ、わたくしの背中を撃たない方と人生を歩みたいの」
「はい」
「麗子さまならこの気持ち、お分かりになるかしらね」
「……はい」
「ですから麗子さまとは、このように時々おしゃべりが出来れば充分と思っております。わたくし、目が見えないぶん耳は良いのです。麗子さまが嘘をついているかどうかくらいは、聴き分けられますから」
麗子はそれを聴いて、見合いの日のぞっとするような冷えた空気を思い出した。あの時は勘違いかとも思ったが。
「懇意にしている易者がいる、などと、呆れましたか?」
「ふふ、いいえ。お上手な言い訳でしたわよ」
猩羅は鈴を転がすようにころころと笑った。あの日の猩羅は淑やかで愛らしく、初心な令嬢を絵に描いたようだった。あなたこそ随分取り繕うのがお上手でした、そう伝えれば、「それがわたくしの武器ですもの」と事もなげに返された。
「わたくしはああやって闘うしかありませんの」
麗子はそっと猩羅の手を取った。如何にも苦労を知らない、白魚のようなすべらかな手である。ペンだこのひとつもないこの令嬢は、しかしずっとその境遇と闘ってきたのだろう。
「ねえ麗子さま、麗子さまはわたくしにどんな奥様であって欲しい?わたくしはご存知の通りの性格ですから、ご希望に沿うて差し上げられるかは分かりませんけれど」
今度は麗子が笑う番だった。あの母を相手取って己の要求を通すひとだ、麗子の思う通りに生きて欲しいなど端から思っていない。
「実を言うと私は、夫婦というものがよく分からないのです。家族というものも」
爆弾を孕んでからの英本家は、皮肉にも以前からは考えられないほどに結束を堅めている。しかしそれは睦まじくなった訳ではなく、ただ同じ泥船に乗った者同士、少しでも沈没を遅らせる為に協調しているに外ならない。
麗子には家族というものが分からない。だからこそ、猩羅という新妻を前にどう接すればいいのか惑うばかりであった。
「あなたを妻に迎えられて良かった。あなたは気づいているでしょうが、私は周囲が思うよりもずっと弱い。あなたのような方が伴侶として歩んでくださるなら、そんな僥倖はないと思っています」
――ですからそのままでいてください。
そう伝えると猩羅は暫時固まっていた。予想外の言葉だったらしい、珍しく動揺の色が見える。「あら、まあ……」、と呟きながら、己の手を取る麗子にゆっくりと指を絡めた。
「猩羅さんがそのままでいてくださるのが、私にとっての何よりです」
「……旦那様となった方にそんな風に言っていただけるなんて、昔のわたくしに言っても信じないでしょうね。お嫁に行くにしてもどこぞの妾か後添えか、とにかく良い扱いはされないだろうと、子どもの時分から諦めておりましたのよ」
「私も、あんな事をしたのにこうして輿入れしていただけるとは思いませんでした」
そうして話すうち、麗子は心に蟠った苦悩が解けるような錯覚を起こし始めた。猩羅という人は底が知れない。相対していると深淵を覗くような思いになる。初めはある種恐れていたそれが、しかし段々と海のように思われてきた。黒々として水中が窺えない、不気味なほどに凪いだ夜の海。踏み込み過ぎれば呑み込まれるかもしれぬ、深く深く何処までも広がる大海。
触れ合った指先から深海に繋がり、胸中を潮騒で満たす。失くなる訳ではない、解決などしよう筈もない、しかし潮騒に包まれる間は不思議と心が安らいだ。
「――麗子さま。あなた信じてくださるかしら」
なんでしょう、と続きを促す。カーテンの隙間から差し込む冴え冴えとした白光が、猩羅の濃い睫毛に輝きを落とした。今宵は新月、月が見えない代わりに星々が強く輝いている。
「初めてお会いした時に申しましたお声が素敵という言葉、覚えていらっしゃる?あれは演技ではなく本心でしてよ」
「それは……、嬉しいです」
「ふふ。わたくし、あなたの声が好きです」
「私も……猩羅さんの声が好きです」
平坦で、涼やかで、そしてごくたまにまろい響きを見せる声。この声と言葉を交わすのが好きだった。
「麗子さま、これからも眠れない夜はこうしておしゃべりしてくださる?」
わたくしは話し相手として合格かしら、と首を傾げる猩羅に鷹揚と頷く。
「猩羅さんが寝不足になってしまうかもしれませんが」
「当主の麗子さまと違ってわたくしは好きにお昼寝出来ますから、問題ありませんわ」
冗談めかした言葉に麗子は、このひとは日中、自室に引き籠って一体何をしているのだろう、と思ったが口にはしなかった。猩羅のことは依然として解らないままだったが、彼女に対する漠然とした信頼はある。夫婦として過ごす日々の中で、「信頼出来れば力になる」との約束が真実だろうことは確信していた。猩羅を鶴女房にはしたくない。詮索するつもりはなかった。
「何だか眠れそうな気がしてきました」
猩羅はその言葉に微笑むと、繋いでいた指をほどいて麗子に横になるよう促した。麗子が横たわるのを確認し、猩羅も掛布の中へ滑り込む。
麗子はしばし悩んだ末、猩羅の手に掛布の中で再び触れた。当然のように繋ぎ返してくれる事にほっとする。麗子も体温が高い方ではないが猩羅はもっと低い。冷んやりした静けさに触れると心が落ち着いた。
間もなく白い星明かりが夜明けを告げる白んだ空に変わる時間だ。安眠を得られぬ夜は無限かに思われるほど長い。孤独な暗闇の中、ともに明けを待ってくれる人がいる、それが伴侶を得るということなのだろうか、とぼんやり考えた。
――猩羅にとって、自分はそのような存在になれるだろうか。いつか、野望とは何なのか、「機織り」とは何をしているのか、打ち明けてくれるだろうか……。
「おやすみなさい、猩羅さん」
そう、精一杯の思いを滲ませて告げれば、猩羅はいつも通りの調子でそっと応えた。
「おやすみなさいませ、麗子さま。よい夢を」