元潜入捜査官はポアロの珈琲がお好き 喫茶店探偵・安室透改め、降谷零は警察庁に籍を置く警察官だ。ポアロによく来る刑事さんたちとは違う部署で、少し毛色が違うらしい。らしいというのは、よくわからない私にポアロ常連の新一くんが正義のためなら法も己も厭わない強い狼集団だと教えてくれたのだ。
その降谷さんは半年ほど前まで捜査のために安室という偽名でポアロで働いていたのだけれど、その事件が解決した今では限られた人にだけ素性を明かし、ポアロの常連客におさまっている。捜査の一貫とはいえ相当ポアロを気に入ってくれたようで、看板娘の私としては嬉しい限りだ。
同僚だったときも一緒に遠くまで買い出しに行ったり、メニュー開発のためにカフェやレストランを巡ったり、時にはスマホゲームにまで付き合ってもらったりと仲良くしてもらっていて、なんと今でもご飯に行ったり休日には遊びに行ったりと交流は続いている。
聞けば彼は休みの日に遊ぶような友人がもういないらしく、「こんなふうに遊べるの梓さんだけなんです」なんて言われたら断れるわけがない。いや、別に断りたいわけではないのだけど。
私は安室さんのことが好きだった。もちろん素顔に戻った降谷さんのことも好きだ。
以前にスマホで何度も見ていた写真の女性は事件関係者だったらしいことを随分経ってから知った。安室さんの頃から今も降谷さんには彼女はいないそうだ。新一くんには「国が恋人」なんて言っていたらしい。この国を守る信念を強く持っている真面目一途な人だ。
そんなところも好ましいのだけど、私は友人以上に進むつもりはない。
いや、ちょっと嘘です。素性を明かして客としてポアロに来るようになったころはもしかして、とちょっとだけ期待もしました。でも決定的な言葉も確信できることもなくて、きっと友人止まりなのだと思う。
彼の気持ちがないのに私から告白なんてできない。そもそもあんなイケメンで文武両道、優秀な警察官で出世頭だという彼の恋人の座なんて見た目も十人並みで、街の喫茶店の一店員の私には到底射止められないだろう。正直、安室さんのときのほうが手が届くかもしれないと期待できた。だってアラサーで探偵兼アルバイトなんて、結婚を考えるような同年代ならいくらイケメンでも敬遠する方が多そうだ。その点で私はまだ結婚を急ぐわけでもなく、彼が対象外だと言っていた未成年の学生でもない。ちょっと期待できたのだ。でも本当の彼は公務員で、収入の面でもなんら問題ない。つまり引く手数多なのだ。
そんな彼を射止めるなんて無理。自分を卑下するわけではないけど、恋愛のカーストに差がありすぎる。
だから恋人なんて高望みはしない。友人として楽しく付き合えるだけで十分だ。
そうして今日もポアロの仕事に勤しんでいたある土曜日。ランチタイムが一息ついた頃、店内はおニ階さんの蘭ちゃんと園子ちゃん、世良ちゃんが勉強がてらおしゃべりにきていた。そんなとき蘭ちゃんの彼氏の新一くんがポアロに飛び込んできた。
「あれ、新一? もう事件の事情聴取終わったの?」
「ああ終わったよ。てかそんなことよりちょっとすごい話聞いちゃって……、梓さん!」
蘭の隣まできて口早に返事をした新一はいつにない剣幕で梓を見た。
「え? なに、どうしたの?」
「降谷さん、今日お見合いするんだって!」
「え……ふるやさんが、おみあい」
「梓さん、いいんですか?!」
新一のもたらしたニュースにマスターも蘭たちも梓の様子をじっと窺った。痛いほどの視線に思わず頬を掻く。
「いいもなにも……降谷さん彼女いないし、でも結婚はしたいみたいだったから、そういうこともあるよねぇ」
「え。彼女いないって、降谷さんと梓さん付き合ってるんじゃないんですか?!」
「えー? ないない!」
あっけらかんと笑う梓にすかさず詰め寄ったのは蘭たちだった。情報を持ってきた新一を押しのけるように三人に囲みこまれ、その勢いに思わずたじろぐ。
「本当にそれでいいのか、梓さん?」
「よくないわよね?!」
「梓さん、自分を誤魔化しちゃだめですよ!」
怒涛の追及にのまれた梓はただ口元を引くつかせた。
降谷さんがお見合い。結婚するかもしれない。結婚――婚約ともなれば、きっと今までのような友人関係は続けられない。男女が二人きりで会うなんて相手に不貞行為だと疑われてしまう。
そうなればもう会えるのはポアロでだけ。それだって彼が他に美味しくて居心地のいい店を見つけて来なくなったら終わってしまう。
高望みしないなんて思いながら、彼が誰かと結婚することを考えてなかった。
まだ二十三の私は結婚を急がなくても彼は三十目前で、その気があるならいつ結婚してもおかしくない年齢だ。
「えっと……」
そのことに思い至ると自然と視線は下がってしまった。
「新一くん、彼のお見合いの場所はどこだ?」
「水都楼って料亭だ」
「あそこね! 行きましょう、梓さん!」
「マスター! 梓さん借りるわよ!」
口篭る梓を他所に行動を起こした四人は驚き戸惑う梓からエプロンを剝ぐと有無を言わさず連れ出した。いま仕事中……と困惑したが、マスターの力強い「行ってらっしゃい」に押され、気づけばタクシーに乗り込んでいた。後部座席で蘭と園子に挟まれ、さながら連行される容疑者のようで梓は見合い会場に行って一体どうしようというのか、ただただ縮こまっていた。
あっという間に件の水都楼に着くと、定員オーバーで分かれた新一もすぐに到着した。閑静な住宅街にひっそりと佇む高級料亭に無意識に息を呑む。そっと後退ってそのまま立ち去りたい。けれど連行されてきた梓は今も蘭と園子に両腕をがっしりと掴まれていて、為す術もなく連れられるまま料亭に足を踏み入れた。
そもそもこんな料亭に予約もなしに入り込むなんて無理だと思ったのに、先頭に立つ新一がお店の仲居にサプライズがどうのと説明するとあっさり店内に入れて貰えた。
隣だという部屋に音を立てないよう静かに進むと、新一が「静かに」と人差し指を立てて合図をすると1cmにも満たないくらい細く襖を開けた。そのほんのわずかな隙間から隣を覗きこむと、降谷と上司らしき男性の他にはおらず、見合い相手はまだ到着していないようだった。だが五分も経たないうちに貫禄のある壮年男性と振袖姿の利発そうな見目麗しい女性が案内されてきた。
二人が着席すると降谷の上司が挨拶を始めた。どうやら見合い相手は霞ヶ関の重鎮の娘のようだった。お互いに一通りの紹介を終えると上司と相手の父親らしい男性は二人きりにするために席を立とうとした。しかし降谷は毅然とした声で呼び止めた。
「その必要はありません。本日は直接お断りするためにここへ来ましたので」
降谷の一言にそれまでにこやかだった父親は一瞬で目をつり上げた。
「なぜだ、君は私と縁を結び出世したくはないのか?! 娘も見ての通りの美人で、聡明で利発な申し分のない才女だ、君ももっとよく知れば気に入らないはずは」
「関係ありませんね。出世に興味がないとは言いません。ですが出世のために警察官になったわけではない」
「ではなにが気に入らないと言うんだね!」
「そもそも何度も断っていたのに無理矢理この席を設けたのはそちらでしょう。僕にはたった一人、僕の唯一と決めた女性がいる。貴方の地位も名声も、お嬢さんの美しさも優秀さも僕にはなんの意味もなさない」
降谷が断ったことにホッとしたのも束の間、想い人の存在を知り梓は放心していた。彼に想う人がいたなんて知らなかった。それも言い方からして並の恋の相手ではない。
ぼーっと考えに耽っていると廊下側の襖が音もなく開き、先程まで隣にいたはずの降谷が顔を出した。
「やあ、皆お揃いで」
笑顔の圧に高校生たちはあははと苦笑いを浮かべた。梓も固まったまま冷や汗が背中を伝うのを感じていたが、不意に降谷に腕を掴まれ引き寄せられる。
「梓さんをお借りしても?」
「どーぞどーぞ!!」
「え、え、」
返事をしたのは誰だったか、何が起きているのかわからないまま今度は降谷に引かれるまま水都楼をあとにした。お見合いを覗いていたことの罪悪感から手を振り払うこともできず、言葉もなくただ並んで歩いた。いつの間にかすっかり傾いた太陽がうっすらと空を赤く染めている。しばらくして堤無津川の土手まで来ると、人の気がないことにほっと息を吐く。
「……どうして断っちゃったんですか?」
ようやく口を開いた梓の第一声に降谷は目を見開いた。
「全部聞いてたでしょう?」
「うっ…………聞いてた、けど」
「けど?」
「断るための方便かなって……」
「嘘はついてませんよ」
はっきり言い切った降谷を思わず見上げると、凪のように静かに微笑む瞳が梓を見ていた。嘘を言っている瞳ではない。じっと見つめ合うのも憚られてふいと目をそらす。
「じゃあ…………」
「……」
「ど、どんな人なんですか?」
「え?」
意を決した梓の問いに降谷は歩みを止めた。降谷からの視線を感じながらも問いかけとは裏腹に、答えを聞くのが怖くて俯いたまま早口で言い募る。
「あんな美人さんを振れるほどですもんね。やだな、そんな人がいるなら言ってくれてもいいじゃないですか。降谷さんに恋人がいるなんて私ちっとも知らなかった。あ、今度ポアロに」
「いないよ恋人なんて」
「え、だって」
「まだ恋人じゃないんだ」
その一言にぱっと顔を上げると映った表情にはほんの一匙の寂しさが滲んでいた。
「……降谷さん片想いなの?」
黙ったままの降谷は笑みを浮かべながら軽く眉根を寄せた。
「……降谷さんも片想いなんてするんですね」
「どういう意味です?」
「だって降谷さんなら時間もかけずサクッと落としてそう」
「生憎ととても鈍い人なんですよね」
吐いた溜息に今までの苦労がありありと浮かんでいて、つい笑いが零れる。
「降谷さんも恋愛で苦労なんてするのね。でも私、応援して」
「応援なんてしなくていい」
急に低く硬くなった声音にびくりと肩が震える。降谷のはっきりとした拒絶に目に透明の膜が滲む。梓は堪えようと唇を噛んだ。
「ごめん、そんな顔させたいわけじゃないんだ」
「……応援もさせてくれないんですか」
「そうじゃない」
零れ落ちた雫を拭うように降谷の手が梓の頬をなぞると、そのまま顔を仰向かされた。いつになく真剣な瞳が梓を見やる。
「……梓さんは僕が偽名を使って潜入捜査してたことは知ってるよね。僕が素性を明かすのは僕にとっても相手にとっても危険な行為なんだ。それでも僕はそんな危険を侵してでも、どうしてもその人が欲しかった。諦められなかった。だから僕は素性を明かしたんだ」
「……?」
「なのにその人は僕の決意にはちっとも気づいてくれなくてね。何度二人で出掛けてもデートだとは思ってくれてないし、その人に会いたくて店に行ってるのに『もうポアロは降谷さんの胃袋掴んじゃいましたもんね』って笑うんだ」
「…………え」
その意味するところに梓は目を丸くした。そんな梓を降谷は柔らかく眦を下げ、どこまでも優しい笑みを浮かべて見つめていた。
「僕が好きなのはきみだよ、梓さん」
「……」
「任務のために死ぬことも覚悟していた僕の、たったひとつの未練。それがきみだ。僕は梓さんとずっと一緒にいたい。こんな仕事だし、いつ天命が尽きるかわからないけど、帰る場所は君のもとがいい」
降谷の告白にぽろぽろと涙が止めどなく流れる。あまりの号泣ぶりに慌てふためく声が聞こえた。
「わ、わたし、降谷さんのこと、諦めなくていいの?」
「──梓さん、僕のこと好きだったんですか?」
「ずっと……、安室さんのときから好きでしたよ!」
震える声を抑えて絞り出すように告げると、次の瞬間には降谷の腕の中にいた。広い胸と細いけど筋肉質な腕にぎゅうっと抱き締められ、こみ上げる想いのまま梓も抱き締め返すと頭のすぐ上から喜色に満ちた笑い声が漏れ聞こえた。
「そんな前から僕のこと好きだったなんて全然気づかなかった。僕も鈍感だな」
「ずっと両想いだったなんて、夢みたいだ」