寒いと熱いの狭間で季節の変わり目。
特に五月も終わりに差し掛かる今ほどの時期のことを指すにはぴったりすぎる言葉だった。
晴れれば最早真夏並み、曇れば途端に薄着でいられない程の冷気に体が震え出す。そんな今の季節こそ、生きるのがほんの少しだけ大変だった。
さて、レオと凛月が大学を卒業して二ヶ月近くが経とうとしている。
凛月はプロのピアニストとしてすでにいくつかの案件をこなし、それでもめしやセナに顔を出さない週はなく、泉はそれをいつも不思議に思いながら迎えていた。学生の頃に比べれば来店する頻度こそ少なくなったかもしれないが、凛月曰くここでちゃんとした食事を摂ると体の調子がいいからそのバランスを崩したくないらしい。泉としては自分の作る料理を褒められるのは悪い気はしないし、馴染みのある顔がカウンターにいると少し安心もするのでそんな凛月に今更悪態を吐くこともない。ただ、環境が少し変わってしまうだろうという構えが半ば空振りに終わったことに拍子抜けしたのは事実である。
一方のレオはというと、凛月と同じようにプロの道に進んだのだが凛月とはまた違い、学生の頃よりうんと自由になった。
もう作曲家としての面をあまり隠さず堂々と生活することができるし、仕事自体は家でできるため泉と一緒にいられる時間が格段に増えた。
作曲はレオの霊感次第。降りてきた瞬間にレオの時間は全て作曲に取られてしまうのだが、それ以外の時間は泉の代わりに買い出しに出かけたり、めしやセナの手伝いをする。そう、半ばめしやセナは泉とレオの二人三脚のような形に変化しつつあった。
――気になるレオと泉の関係としては、もはや言うまでもない。
レオが卒業してから正式に婚姻の契りを交わし、恋人という関係からさらに深く結びついた関係に昇華した。
あの日空港のカフェでレオから貰った控えめなシルバーリング。それは料理をする手前薬指にはめることは叶わないものの、ネックレスとして泉のシャツの中で輝きを放ち続けている。
二人の関係は親しい友人には報告済み。あれだけ背中を押されてようやくの結果だっただけに、泉としてもきちんと報告をすべきだと考えていたためそれはなんら問題はない。
……しかし。それからレオが店にやってくる常連客に次々と嬉しそうに報告をし始めるものだから、めしやの二人が結婚したらしいという浮かれに浮かれまくった噂はあっという間に広まり、気づけば地域公認の名物カップルだ。レオにはたっぷりゲンコツを落としてお説教したものの、あんまり幸せそうに客に話すものだから、泉も最後にはレオを許さざるを得なくなってしまったのだった。いつものことである。
そんなバタバタした春ももう終わりかけ。気づけば雨の香りが近づく季節に移り変わろうとしてた。
♢
「――で? ついにセッちゃんとヤッたから祝い酒だって?」
「おい! 言い方が汚い! 邪悪! 結婚初夜と言え!」
「いや、こんなセッちゃんがいないところでそんな話してる時点で月ぴ〜も邪悪だってば」
日が暮れて間もない宵の刻。
ニヤケ顔を隠そうともせず真っ赤で埋め尽くされたグラスをぐい、と飲み干せば、凛月はテーブルに肘をついてレオを見据えた。
夕方から夜にかけて混み合い始めるこのユメ横で、レオと凛月は久々に二人で酒を飲み交わしている。
凛月の方が時間が取れない上に、日中は陽の光がキツい季節になってきているせいでなかなかユメ横には来れていなかったので、こうして二人が向かい合って飲み会をするのは卒業してから初めてだった。
「……まあ今のは軽い冗談だけど。あの超鈍感堅物セッちゃんが本当に月ぴ〜と結婚したんだから、祝い酒には変わりないよねぇ」
「それは……まあ……うん」
「えっ、なんでそんな歯切れ悪い返事するの? もしかしてもう離婚の危機なの?」
「おれとセナが離婚するわけないだろ! リッツの馬鹿!」
「ええ……」
祝い酒のはずがどこか浮かない表情を浮かべるレオ。よく見ると、久々の飲みだというのにレオのジョッキからはあまりビールが減っていないように凛月からは見えた。
レオはとにかくアルコールには強い。凛月もレオに負けず劣らず強い方なのだが、レオはビールを何杯飲んでもベロベロに酔っ払うなんていう醜態を一度も見せたことはないし、どんな度数のものを口にしていても顔色一つ変えたりもしなかった。
お酒を飲むのは嫌いではないし、どちらかというと、お酒を飲むことを通して仲間達と楽しく賑やかにすることの方をレオは気に入っている。
そんなレオが、凛月との飲みであまり酒が進んでいない。それが凛月にとっては少し違和感があった。
レオはうーん、と少し俯いて手にしていたジョッキから手を放すと、目の前に置かれた枝豆を取ってぷち、と口に運ぶ。
「……何かあったの?」
「うーん……」
様子がおかしいと気づいた凛月が、ふざけた態度から心配するような声色に変えてレオに伺ってみても、レオはしおしおと俯くばかり。
こんな幸せいっぱいな状態のはずなのにレオ本人がこんなに分かりやすくしおらしくなっているのはやはりどこかおかしい。
昨日めしやセナを訪れた時は泉はいたって普通だった。他愛ない話をしながらも、レオのことを話す時の泉は柔らかくて幸せに満ち溢れた表情をしていて。どうやら二人の新婚生活はうまくいっているようだと安心しながら店を後にしたばかりだったのに。
……もしかしたら、俺が昨日帰った後に何かがあった? ということは今、セッちゃんもこんな表情をしている?
そんなことを考え始めると凛月とて気が気ではない。
ねえ、とレオに詳しく事情を聞き出そうと声をかけると、レオははー、と大きくため息を吐いて泣きそうな顔で凛月を見上げた。
「……どうしようリッツ、おれ、……幸せすぎて不安過ぎる」
「…………は?」
「うまくいき過ぎてて心配なんだよ……! そりゃセナはさ、特に態度は変わらんしあんまり好きって言ってはくれないけど! でもセナ、指輪外す時もつける時もめちゃくちゃ大事そうに扱ってるしこの前なんか、もが⁉︎」
「はいストップ。突然雄弁に語り出したと思ったらただの特大惚気じゃん。真面目に心配した俺に謝ってくれる〜?」
本当に何かあったのかってセッちゃんのことまで心配したのに。凛月はそう続けながら、レオの口にアヒージョの付け合わせであるバケットを無理やり捩じ込んで黙らせた。
つまりこうだ。レオがしおらしくなっていたのは別にマリッジブルーなんかでも泉と険悪なムードになった訳でもなく、順調にいき過ぎていることからくる不安のせいだったのだ。なんとも大袈裟で贅沢な悩みだろう。凛月はなんとか飲み込もうともごもご口を動かすレオをじとりと見つめながらそんなことを思う。
「幸せすぎるなら、月ぴ〜とセッちゃんの選択は間違ってなかったっていう明確な正解でしょ。何がそんなに不安なのか俺には分からないけど、これからもその幸せを守っていくのは、セッちゃんを巻き込んだ月ぴ〜の責任なんだからね」
「う……リッツがいつにも増して辛辣……」
「じゃあ俺になんて言ってほしいの〜? 月ぴ〜はさ、コンテストで優秀賞をとっても大学で成績優秀者になっても、それを幸せだとは感じなかったでしょ? ……つまり、今本当に心から大切な物を手に入れて初めて幸福を感じてるんだよ。それに困惑してるだけ」
「なるほど……」
レオの話を聞いていたせいですっかりぬるくなってしまったレッドアイをぐい、と飲み干した後凛月はグラスを店員に渡しておかわりを注文した。レオも汗をかいたジョッキを再び手に取ると、ちびちび飲みを再開する。
レオにとって、賞やそれに伴う金銭類は作曲に付随するただのモノだった。凛月の言う通りだ。レオは曲を生み出すこと、そしてその曲で人々が笑顔になる様子を見ているのが嬉しかったので、富や名声なんてものにはまるで興味がない。そんなレオが、人生で初めて泉という人間に恋をし、想いを通じ合わせる事、そして関係を築く事に今こうして大きな幸福を感じている。それがレオにとって初めて感じる『幸せ』だったのかもしれない。
……案外こういう人間ほど幸福には疎いものである。これは泉に対しても同じことを言えるのだが。
「いろんなことがあったんだし、いいから黙って幸せだ〜って笑っててよね、いい加減。じゃないと俺のあの時の名演技も無駄みたいになっちゃうでしょ?」
「あれは確かにリッツにしてやられた! ……リッツやナルがいてくれなかったら、それこそ今のおれの幸せはなかったかもしれないんだよな」
「そうだよ〜? 俺達は月ぴ〜とセッちゃんのために頑張ったんだから、その頑張りを踏み躙るようなこと言ったら『王さま』に反逆しちゃうんだからねぇ」
そう言いながらぶすりとアヒージョの油の中に浮かぶぷりぷりのエビをフォークで刺した凛月に、レオは少しだけぞくりと体を震わせた。
きっといつまでもこの目の前の紅い目をした友人には頭が上がらないのだろう。レオはそんなことをぼんやりと考える。
幸せすぎて不安になるというのは本当に贅沢な悩みだ。それはレオにも分かっているのだが、ここまでの幸福というものを体感したことのないレオにとっては未知の感覚だった。その得体の知れなさが不安の正体だったのかもしれない。
「わはは、リッツにはいつも敵わないなぁ。おれはおまえのピアノが大好きだけど、もっとその賢さを活かした職もあっただろ〜?」
「めんどくさいのはパス〜。好きなことだけやってのらりくらり生きてるのが俺には合ってるの」
「まるで猫だ! 黒猫リッツ……、ああ浮かんできた浮かんできた!『黒猫リッツのタンゴ』……♪」
突然霊感が湧いた、とその場でガリガリとペンを走らせるのは二人の飲みの場でもいつものことだ。泉に言われて最近は持ち歩くようにしているというメモ帳を机に開けば、そこはもうレオのためのミュージックホールへと変貌を遂げる。
ふんふんと鼻歌を歌いながらも所々に「にゃんにゃん」と猫の鳴き声が混じる辺り、今回はタイトル通りの曲のようだと凛月はグラスを片手に呑気にその様を眺めていた。
日中こそ上着が無くても心地よい気温になったものの、こうして日が暮れて暗くなると途端にぐっと温度が下がる。
酒を飲むと酔いもまわり少しは体も火照るのだが、さすがに夜風のそよぐ屋外ではその効果も乏しい。
締めにあったかい緑茶でも頼もうと凛月が店員に話しかけようとした瞬間に、目の前で楽しそうににゃんにゃんと歌っていたレオがぶるりと身を震わせた。
「……っぶぇっくしょい‼︎」
それはこのユメ横の喧騒にも勝りそうな程の大きな大きなくしゃみ。
凛月ですら少し驚く程には豪快な一発だった。
「でっかいくしゃみだねぇ。風邪?」
「かもな〜……、朝からちょっと寒いし……。はっ、それとも誰かがおれの噂をしてるとか……⁉︎ 宇宙人がおれを狙ってるんだな⁉︎」
「まあ宇宙人なら月ぴ〜の噂をしててもおかしくないけど、とりあえず寒いなら風邪じゃないかな〜」
このくしゃみは宇宙人によるものに違いない!と話がどんどん壮大になっていきそうなレオを凛月はいつも通り冷静にあしらって、立ち上がった前髪からちらりと覗く額に自分の掌を添える。
酒のせいも少しはあるだろうが、熱があると言われればある、ないと言われればないとも言えるような微妙な温もりを帯びるレオの額に、うーんと凛月は小首を傾げた。
「……そんなに熱があるような感じじゃないけど、さすがにこの肌寒さの中で冷たいお酒を飲み続けるのはちょっと良くないかもね」
「うーん、風邪ひくとセナに迷惑かけちゃうしな……。ごめんリッツ、今日はもうお開きでもいいか……?」
「いいよ〜。それより早く帰ってあったかいお風呂に浸かって、セッちゃんにあっためてもらいなよ」
「っくしゅ! ……う〜、そうする」
「……セッちゃんのは冗談なんだけど」
凛月は気温に合わせて薄い羽織りを身につけてきていたのだが、レオはあろうことか半袖のパーカー一枚。
また一つ小さなくしゃみをしてぶるりと体を震わせるレオを、凛月はやれやれと眺めながら残りの酒を胃の中に流し込んだ。
別にお互いプロになったからといって疎遠になる訳ではない。
机上でお会計を済ませて立ち上がれば、レオと凛月は「じゃあまた」と軽い挨拶だけをかわしてそれぞれ店を後にしたのであった。
♢
ラストオーダーの時間も過ぎ客足が引いたところで、泉は本日の営業を終了としクローズ作業を行っていた。
時刻は夜の九時になろうとしているところ。レオはレコーディング現場に顔を出してそのまま凛月と飲んでくると言い残して出かけていったのできっと帰りは遅いだろう。そんなことを考えながら泉は手際よく片付けを進めていく。
――ありがたいことに、店は相変わらずの盛況ぶりだった。テレビで取り上げられたことも要因の一つなのだが、新たな春を迎えて各大学の新入生達まで評判を聞きつけて足を運んでくることが大きい。特に夢ノ咲学院大学の新入生達の中には、卒業生であり有名な天才売れっ子作曲家でもあるあの月永レオが店にいると聞いて通う者もいるほどだ。
もちろん、一番の理由は『めしやセナという定食屋がこの辺りで一番美味しい』という評判故である。
……レオとしては、それが一番嬉しかったし誇らしかった。
ただ、あまりの盛況ぶりに泉一人では賄いきれない場面も増えてきており、一部の学生からはアルバイトを立候補してくる者もいて。
元々人を雇うということを前提として考えたことがなかった泉だが、レオがいない日は客に迷惑をかけることも予想される。考えに考えてアルバイトを入れる旨をレオに相談したのだが、なんとレオはそれをキッパリ却下。できる限りは自分が手伝うし、もしどうしてもバイトを雇うなら自分の知っている人間、……つまり嵐か司にしろと言って聞かなかった。
泉の店のはずではあるが、ここを綺麗に改装してくれたレオへはどうしても泉は頭が上がらない訳だし、確かにあまり知らない人間が自分の店兼家に出入りするのは泉も気が進まない。そういうわけで、今もこの店は泉が主体となって日々営業を行っている。
一通りの作業が完了すればもう店部分である一階にいる理由もなく、「さて、」と一言口に出した泉はレオが帰ってくることに気を遣って店内の電気をつけたまま二階へと上がろうとした。今日は少し肌寒いし、バスタブに浸かってゆっくりレオの帰りを待つつもりで。
……ところがそんな泉の予想は大きく外れる形で、早くに店奥の勝手口は開かれた。
「ただいま〜……」
どことなくいつもより覇気のない帰宅の声に少し首を傾げた後、泉がその声をする勝手口の方へ向かうと。
そこには飲みすぎたと見た目ですぐ分かるくらい顔を真っ赤にしてよろよろと体を揺らすレオがそこにいた。
「おかえり、早かったねぇ?」
「ん〜……飲み過ぎたっていうか……、疲れたっていうか……」
「は? 飲み過ぎた? あんたが?」
「久しぶりにリッツと飲んだから羽目外しちゃったんだよ〜……」
「……ふぅん……」
レオを自分を出迎えた泉を瞳に映すと、それとなく泉を避けるように顔を逸らして足早に二階へと続く階段へと向かおうとする。
普段からどんなに飲んでも酔っ払うことなんてないあのレオがふらふらと足元がおぼつかないような動きをしていた。それに、いつもなら「ただいまー!」と何時でも大きな声で帰宅を知らせて真っ先に泉のところへ飛び込んでくるのに。
どんなに疲れていてもこんなに露骨に避けるような素振りは見せたりしない。
……なんだか、今日のれおくんは変だ。
泉は瞬時にレオの様子がおかしいことに勘付くと、階段に足をかけようとしていたレオの腕を取って「待ちな」と店へその身を引き戻した。
「ちょっ、セナぁ⁉︎」
「なんかれおくんの様子がおかしい」
「は、はあ⁉︎ そんなことないって、飲み過ぎたし疲れただけ……!」
「あんたは飲み過ぎても酔ったりしないでしょぉ」
「うっ……」
腕を掴んだまま泉は自分の前にレオを立たせると、じっとレオの顔を怪訝そうに覗き込んでくる。
いつもいつも、これまでだってあり得ないくらい鈍感で仕方ない奴なのにこういう時ばっかり勘が鋭い!
レオとしては泉に体調が良くないことを知られたくないし、一晩ぐっと眠ってしまえば風邪なんて明日には治るだろうと思っている。
だから今夜だけ。今夜だけはなんとしてでも泉にうつさないように、心配をかけないようにさらりとかわして自室に閉じこもろうと思っていたのに。
普通ならここで単純な泉を丸め込める言葉の一つや二つも簡単に思い浮かぶのだが、残念なことに今は体調不良のせいもあって上手く頭がまわらない。レオは泉に詰められても咄嗟に言葉が出てこず、ひたすら顔をそらすことしか出来なかった。
そして、そんなレオの明らかに何かを隠している態度に泉には焦りと困惑の感情が胸いっぱいに広がっていく。
「ちょっとぉ、ちゃんと顔見せな」
「やだ」
「いいから見せなってば! ……それとも、やましいことでもあるわけぇ?」
「な、ない……」
「はいじゃあこっち向く!」
レオの「ない」という返事にすぐ被せるようにして、泉はレオの頬を両手で挟んで無理やり自分の方に向かせた。
もう二人の間に隠し事はなし。それはこれまで散々約束を繰り返してきたことだから。
レオもいい加減懲りているだろうし、ひとまずはやましいことはないという言葉は信じてあげることにした。
そうしてレオをようやく顔を合わせてみると、驚くほどにレオの顔が真っ赤に火照っていることにすぐ気づくことが出来る。
心なしか呼吸も浅く辛そうな気がするし、どう見ても酔いや疲れのせいではないと泉は感じた。
「……れおくんもしかして、体調悪い?」
「…………寒気がするのと、頭がくらくらしてぼーっとする」
「寒気……、ちょっとおでこ触るよぉ」
「ん……」
ようやく本当のことを打ち明けたレオに泉は少しほっとした後、すぐにまた心配する表情に戻って己の左手をレオの額へと当てる。
直前まで水仕事をしていたため冷え切っていた手だが、熱を纏ったレオにとっては心地よくほんの一瞬だけ体の気だるさが消えたようにかんじた。
「――うん、やっぱり熱あるねぇ。いつから具合悪かったの?」
「リッツと飲み始めたくらいから……。最初はくしゃみだけだったんだけど、どんどん寒くなってきて」
「最近気温差も激しかったし、あんた大きい仕事してたでしょ。その反動で疲れが出たのかも」
「うん、だから……セナに迷惑かかるからさ、うつさないようにおれ今日は自分の部屋で寝るから……! 」
そういうことで、とそそくさと離れていこうとするレオを、根は世話焼きの泉が許すはずもなく。
今度はさっきよりももっと強い力でレオの腕を掴むと、泉は少し怒っているようにむっと眉を吊り上げた。
「ダメ。体調が悪い時は栄養を少しでもとってしっかり休まないといけないの。……それに、結婚したんだかられおくんは正式に俺の家族なわけ。いい加減迷惑かかるとかそういう他人行儀みたいな考え方やめてくれる?」
「へ…………?」
「……家族が具合悪くなったら心配もするし、看病するのは当たり前のことでしょ。いいから素直に俺に看病されな」
逃げる素振りを見せるレオの頬をまた泉の白くて冷たい両手が覆う。その冷気を一気に吸い取って熱に変えてしまうほどに、レオの体温はじわじわと上がり続けていた。
店を営んでいる泉の迷惑になりたくなくて、……心配をかけたくなくて泉を避けるつもりだったのだが、これは確かに泉の言う通り。
もう二人はすっかり恋人『以上』の関係なわけで、レオもいい加減泉に体を預けることを覚えるべきだった。
レオはやっと悟ったようにはあ、と息を吐くと、己の頬を覆う泉の手に自分のを重ねて擦り付けるように頬を寄せる。
「……うん、ごめん。こういう時のために『病める時も健やかなる時も』って誓いの台詞があるんだよな」
「そういうこと。……ほら、立ってるのもしんどいでしょぉ。寝室行こう」
泉の言葉はいつものようにツンとしているけれど、声音はひどく優しいものだった。
その言葉にレオは安心して力が抜けたようで、泉に体をもたれさせて力無く笑う。
――そういえば、こうして弱っているところを泉に見られるのも介抱されるのも、空腹で拾われたあの夜以来のことかもしれない。
そんなことを懐かしく思いながら、レオは大人しく泉に体を支えられて二人の寝室へと向かったのであった。
寝室に着いて大人しく着ていた服を脱がされたレオは、この時期に寝巻きに使っていた半袖半ズボンのパジャマではなく、もう少しだけ寒い時期に着ていた長袖のスウェットを泉に手渡された。
レオは普段着も適当にその辺で見繕った物を着ているため、寒暖差のことや気温のことを全く考慮していない。
今回は大きな仕事があって徹夜を重ねていたことと、この気温差の激しさにも関わらず薄着のまま出歩いていたことが主な原因であるだろう。
風邪を治すにはまず体を冷えから守り、栄養と休息を摂ることが不可欠。寝巻きはその第一歩であった。
そうして泉がベッドの寝具を整えている間にぼーっとした頭で着替えを済ませると、さらに体温が上がったようにぐっと眩暈が酷くなってくる。これにはさすがのレオもたまらず、泉が広げている布団に潜り込むように体を横たわらせるほかなかった。
「れおくん大丈夫? しんどい?」
「思ったよりしんどいかも……視界も頭の中も全部ぐるぐるしてて、まるで知らない世界みたい」
「無理しないでしんどかったら寝ちゃいな。俺は氷枕とか必要な物揃えに一旦下に戻ってくる」
「……ん…………」
思考と霊感を邪魔するような頭への鈍痛と、全身に重しが乗っかったような倦怠感。それから肌に擦れる寝巻きがひどくゾワゾワと不快に感じて、レオはうっと顔を顰める。そんな姿に泉は心配をしつつも、努めて冷静にレオに布団をかけてあげてすっとその場から立ち上がった。
きっとこれから夜が更けていくごとに熱も上がっていくだろう。
氷枕は店用の製氷器があるからいくらでも作ってあげることができるし、簡単な風邪薬なら家に常備してある。一晩経っても高熱から下がってこれないようなら、店は臨時休業にしてレオを病院に連れて行こう。
泉は辛そうに目を閉じたまま荒い呼吸を繰り返すレオの頭をそっと撫でてあげると、部屋の灯りをベッドサイドのランプだけにして静かに部屋を後にした。
♢
レオのためにいつもより何倍も速く最低限でシャワーなどの身支度を終えた泉が看病セットを持って寝室に戻ってきたのは、それから三十分後のこと。
ベッドの中のレオはどうやら眠っているようではあるが、寒気がひどいのか何度も寝返りを打っては魘されているようで苦しそうに呻き声をあげていた。
一年前自分が熱で倒れた時も苦しそうにしていたとレオから聞かされてはいたが、あの時のレオもこんな風に心配と不安な気持ちになっていたのだろうか。泉はそんなことを考えながら、枕と作ってきた氷枕を交換して、その熱い額に冷たいタオルを乗せてあげた。
「……は、っはぁ……あ……」
こんなに苦しそうにしているレオを見るのは泉も初めてのこと。
いつもは馬鹿みたいに大きな声で笑って幸せそうに自分の名前を呼んでくれるのだが、今はとてもそんなことができるような状況でもなくただただ苦しそうで可哀想だった。
「れおくん……」
はあはあ、と上下する顔にそっと触れて綺麗に閉じた目元を拭ってあげると、苦しさからなのか生理的な涙がぽろりと溢れ落ち、瞬間に泉の心臓はどきりと大きく跳ねる。
それから堰を切ったようにぽろぽろと流れ始めた涙に、泉は焦る気持ちを大きくしながら手元に置いていた乾いたタオルでそれを優しく拭ってあげた。
「ぅ……、うあ、ぁ、は……っ」
「れおくん、大丈夫……?」
「…………せ、な……」
「うわ言、かなぁ。……れおくん起きて。一旦起きてお水飲もう?」
「……っう、ん…………」
こんなに魘された状態でこのまま寝かせたままにしておくのは少し不安で。泉はうわ言のように自分の名前を呼び出したレオに堪らなくなって、一度意識を戻そうと優しくレオを揺り動かした。
誰しもそうであるだろうが、体調が悪い時ほど眠りは浅くなり質も悪くなりがちである。
いつもは一度眠れば体が満足な休息を得るまで目覚めないことの方が多いレオだが、この時ばかりは泉の少しばかりの声かけと揺すりによってすぐにその大きな瞳を開いた。
「……ぁ、セナ…………?」
「よかった……、すごく魘されてるみたいだったから」
「ん……仲良くなるはずの宇宙人に追いかけられてキャトルミューティレーションされる夢見た……」
「きゃと……? よく分からないけど、悪い夢を見てたんだねぇ」
「セナがUFOに連れ去られて……おれを連れてけって言ったのにあいつら聞かなくて…………」
「……分かったからもう喋らないで。なんだか体に悪そう」
どうやらそのUFOに襲われる夢がよほど恐ろしかったらしい。レオは目が覚めてもまだ夢から覚めきっていないのか、怯えたような瞳を潤ませて泉の手をぎゅっと握ってきた。
……泉も、熱を出して寝込んだ時孤独に戻る夢を見た。それは真っ暗で寂しくて怖くて、本当に酷い悪夢のようで。
夢というものは体調に左右されるのか、不思議なもので心を弱めるような悪夢であることが多い。
それがレオでいう、UFOに襲われる夢なのかもしれない。「おれを連れてけ」という辺りがどことなくレオらしいのであるが。
「脱水症状になっちゃうからこまめにお水は飲もうねぇ。スポーツドリンクがよかったらそこの自販機まで買いに行ってくるけど」
「いや……水で大丈夫。ありがとな、セナ……」
そう返すと静かに口元に寄せられるのは、店のドリンクに使っているいつものプラスチックストロー。
起き上がるのも辛いであろうレオのために泉はペットボトルの水にストローをさしてあげたのだ。
そんな泉の小さな優しさにほっと胸は温かくなるのを感じながら、レオはちゅう、とストローに口をつけて水をひと吸いする。
「……れおくんがしんどそうにしてるの、初めて見た」
「ん……?」
「うちに来てから体調崩したことなんてなかったし、……むしろ俺の方がれおくんに介抱されてたでしょぉ」
「あー……、基本は病知らずの丈夫な体だからな〜。……でもこういう季節の変わり目とかにたまーにやらかす」
なんてったってあの寒空の下でもただの空腹だけで済んでいた程だ。基本は丈夫、というレオの言葉に泉も簡単に納得はする。
ところが、季節の変わり目に体調を崩すことがある、というのは初めて聞いたこと。泉も気圧差や気温差には弱い方だが、レオにもそういったことがあるとは思いもしなかっただけに少しだけ面食らった。
「いっつも不摂生な生活してる自覚はあったけど、セナの美味しいご飯のおかげで最近は本当に体の調子もいいんだ。だから今回はただのたまたま」
「そうじゃないと困るんだけど〜? ちゃんとバランスの取れた食事を作ってあげてるんだし、れおくんにはもっと健康になってもらうから」
「……、わはは、そうだなぁ」
泉と会話をして少し悪夢から落ち着いたのか、レオはにへらと頬を緩ませて小さく微笑む。相変わらず辛そうではあるが、先ほどよりかは深く呼吸ができているようだった。
泉はベッドに腰掛けたままレオの頬にくっついた髪をはらってはほっとしたような表情を浮かべる。
「……今日さ、」
「ん?」
「リッツに『幸せ過ぎて不安だ』って言ったんだ、おれ」
「……は?」
「そしたらリッツに言われちゃった。『月ぴ〜は初めて本当に大切なものを手に入れて、人生で初めて幸福を感じてるんだ。それに困惑してるだけだ』って」
生まれて初めて心から感じる幸せの対象がセナだったんだ、って。レオはそう続けると、何を言われているのかいまいちピンと来ていない泉の顔を見てふっと笑う。
「おれも案外、セナ並に鈍感だったってこと」
「何それ、意味分かんないんだけど。熱のせいで変なこと口走っても俺は忘れてやらないからねぇ?」
「わははっ、それでいいよ。……これでやっとスタートラインに立てた気がする。とりあえず今は熱出してるおかげでセナが優しいから、存分に甘えさせてもらう♪」
「はぁ? よく分からないけど調子に乗らない! とにかくちゃんと面倒は見てあげるから、そろそろ口閉じてもう一眠りしな」
レオの言動に少々困惑しながらも、それも熱に浮かされたせいだと泉は捉えているのだろう。
調子に乗るな、とレオのニヤケ面をぺちりと優しく弾けば、瞬間ふと漏らした笑みは慈愛に満ちた柔らかいものだった。
「セナもここで一緒に寝るんだろ?」
「何言ってんの、病人のベッドを半分占領するほど横暴でもないんだけど〜? 俺は今日はソファーで寝るから、しっかり休んで体治しな」
「ええ〜! セナがいないと寂しい、治るもんも治らん!」
「こら、病人が暴れるな!……っちょっと、まっ、うわ⁉︎」
「おれの抱き枕になれ〜!」
先ほどまでの魘されていた姿は幻だろうか。
レオの制止を聞かずに寝室を後にしようと立ち上がる泉の腕を、レオはぐっと掴んだまま離さなかった。そうして泉が一瞬怯んだ隙にぐいっとベッドへと引き寄せれば、泉の体は簡単に熱を帯びるレオに巻きつかれて布団の中へ引き摺り込まれていく。
……こうなってしまってはもう泉も簡単には抜け出せない。暴れたところでレオの体に障る可能性が高く、無理に足掻くことも叶わなくなった。
「もう! 悪化しても知らないからねぇ⁉︎」
「ん……、すぅ……」
「……寝てるし…………」
泉を無理やり引き込んだところで、本当にレオの体力は尽きてしまったらしい。
レオに強い力で抱きつかれているためうまく体を動かすこともできず、これはこのまま眠るしか道がなさそうだと泉も半ば諦めの気持ちになった。
……幸せ過ぎて不安だなんて。
俺はもうずっと前からそんな感情に心を振りまわされてきた。
絶対れおくんになんか言ってやらないけど。
「……馬鹿だねぇ、れおくんは」
ちゃんと元気になったら言ってやろう。
――幸せ過ぎて不安だなんて、生意気だって。
夜の冷え切った空気にはレオの高すぎる体温はちょうど良く思えて。
泉も気づけば夢の中へと意識が消えていった。