【魔王IFイルアズ】B面も好きだから「ねえアズくん」
「はい、何でしょうか魔王様」
一声掛ければ学生時代と変わらずにぱっと笑顔を浮かべてこちらを向いてくれる腹心に、しかし魔王は違うでしょ、という顔で指を振った。するとアリスは一瞬はっと目を見開いてから、瞼を伏せて、こほん、と一つ咳払いをする。
「――何でしょうか、入間様」
入間が魔王に就任してからというもの、すっかり「魔王様」と口にすることが増えたアリスに、「やだ、名前で呼んで」「いやしかし」「別に魔王のこと名前で呼んだらダメとかいう文化ないでしょ」「入間様が魔王であることを噛みしめたいのです」などと無為な押し問答をした末に、二人きりの時には必ず名前で呼ぶこと、というルールを定めたのが少し前のことだ。
と、いうわけで、現在入間とアリスは入間の部屋で二人きりである。
「僕たちさあ、まあ、一応、こう……恋人同士……と呼んで差し支えない関係、じゃない」
「……そのように、自負させて頂いておりますが」
なんなら既に結婚に向けた話も始めている。恋人どころか婚約者と言ったって差し支えない。
それなのに、入間の何となく煮え切らない言い方に、不安を覚えた様子のアリスは、きゅっと口元を引き結んで、片手を恭しく胸元に添えて、深く頭を下げる。しかし入間は、自分の思考に集中しているように中空のある一点を見詰めながら、手にした羽ペンの先をくるくると躍らせてみせた。
「いやね、もっと早くに言うべきだったなぁとは思ってたんだけど、言い出しづらくてと言うか、なあなあで今まで来ちゃったんだけどさ」
「……どのような、お話でしょうか……」
深々と頭を下げたままの姿勢でアリスが言う。その声が緊張の色を帯びているのに、入間はやっと気付いたらしい。
「いや、そんな深刻な話じゃないから。顔上げて?」
「……はぁ……」
入間の言葉に、アリスは不思議そうな顔を浮かべながら、言いつけどおりに身体を起こす。サラリと揺れた薄紅色の髪が割れて、その端正な顔が入間に向けられる。
「深刻ではないんだけど、真面目な話ではあるかなぁ……あのね」
「はい」
「敬語…………やめない?」
「は?」
真っ直ぐにアリスの瞳を見詰めてはっきりと言った言葉を、しかしアリスはいまいち理解できなかったらしい。こてん、と首が横に傾いだ。
だからね、と入間は念を押すようにして、アリスの宝石のような瞳をじっと見つめる。
「敬語使うの、やめない?」
「……仰っている意味がよくわからないのですが」
二度繰り返された言葉を、しかしアリスは理解できなかったらしい。眉根をぎゅっと寄せて、一生懸命考えているように見える顔をして、しかし口元は間抜けに緩んでいる。たぶん、何も考えられていないのだろう。
「僕たち、恋人同士なわけじゃない」
「はい……」
「それなのに片方だけが敬語なの、おかしくない?」
「……いえ。何もおかしくはないと思いますが。なにしろ、イルマ様は魔王ですので。身分に差がございます。それに、仮にイルマ様が魔王でなくとも、畏れ敬う方には敬意を込めて接するべきかと……」
言っていることはいつものアリスらしい、理路整然とした反論なのだけれど、その口調はどことなくフワフワしていて、語気には覇気がない。
「まあ、ほかの悪魔が居るところでは建前も必要だけど。でも、二人の時は良いじゃない」
「……誰かに、見咎められでもしたら」
「僕がそうしてって言った、って言えば済むでしょ。だいたい、僕らが付き合ってるのははみんな知ってるんだし、そんなことくらいでとやかく言われたりしないだろうし、今更」
「……しかし……」
「しかし?」
「…………ええと……その……ご命令、ですか」
アリスは何となく居心地が悪そうに視線を泳がせてから、困ったように俯いて、胸の前でこちらの手であちらの手の指先を弄びながら呟いた。すると入間はそうじゃなくて、と首を振る。
「二人で居るときは、そういうのなしにしたいな、って思って」
「そういうの……とは……」
「上下関係って言うかさ。敬語もなし、命令もなし。……まあだから、アズくんが嫌なら、命令はしないけど……オンとオフのメリハリはあっても良いかなーっていうか」
入間はそう言って、アリスの淹れた紅茶を一口啜った。
「……僕もさ、小さい頃は友達なんか作れる状況じゃ無くて、こっちに来てからは文化の違いに戸惑ってばかりで、それから先は、オペラさんとか、アズくんとかが世話をしてくれるのが当たり前の暮らしになっちゃって、なんか、ゆっくり考える暇も無いまま来ちゃったけど、よくよく考えたら、やっぱりその……対等でいたいっていうか……まあ……身も蓋もなく言っちゃうとアズくんが僕だけ特別扱いするのが嫌って言うか嫌じゃ無いけど嫌って言うか」
「……お嫌、ですか」
「アズくんが僕のことを特別大事にしてくれるのは嬉しいよ! 誰にも渡すつもりないし! ただ、あの、大事にされすぎて、最近逆に距離を感じると言いますか、クララやリードくんや、他の皆と話す時みたいな、屈託の無いアズくんも……好きといいますか……その顔は僕には見せてくれないんですかー、と言いますか……」
なんのかんの言ってはみるが、結局の所入間自身の欲なのである。魔王の座についてしばらくが経ち、「欲」のままに物事を動かすことにも随分慣れてきた筈だったけれど、誰のためにもならない、個人的なワガママを誰かに、特にアリスに伝えるのは、いつになっても少し照れくさいらしい。
「屈託のない……ですか」
「そ、あの、『いい加減にしろシャックス』とか『?』とかやってるときのアズくん」
入間なりのモノマネのつもりなのだろう、少し声色を変えてそう言うと、アリスの顔がみるみる赤く茹だる。
「っ……あの……それは、屈託が無いというよりは遠慮がないと申しますか思慮に欠けると言いますか貴族としてアスモデウス家の者として公の場で見せるのは許されない振る舞いであることは分かっているのですが同輩の気安さと言いますか奴らと居る間は学生気分に戻ってしまいむしろそちらを正すべきであって入間様の前でお見せするなどとても」
「えー、僕、好きなのになぁ、オフのアズくん」
ワタワタと慌てて言い訳を並べるアリスの言葉を遮るように言ってから、入間は「ダメ?」と首を傾げて見せた。
今も昔も、アリスが入間のその仕草に弱い――おかし警察をする時を除く――ことをよく分かっている表情で。
入間の思惑通り、アリスは喉元まで出掛かった言葉を飲み込むように口元をぎゅっと結ぶと、深々と溜息を吐いた。
「……努力、します」
「ほんと? やったー!」
絞り出すようなアリスの言葉に、しかし入間は満面の笑顔を浮かべて万歳の格好をした。
アリスはやれやれ、とでも言いたげな様子でゆっくりと二三度首を振ってから、明け透けに喜んでいる入間の姿に、仕方が無い方だ、とでも言いたそうに苦笑いを浮かべる。
しかし、これで話はおしまいか、とアリスがもとの仕事に視線を戻そうとしたとき。
「じゃあとりあえず、今から三十分間敬語禁止ね!」
「は?!」
突拍子の無い入間の言葉に、アリスは見事に声を裏返した。
「だってアズくん、早速敬語だったし。ずっとでなくていいから、とりあえず三十分練習してみよう!」
「……で、ですが……」
「はい敬語ー! あ、一回敬語が出るごとにゲームが1分伸びるようにしようか」
「は、あの、お待ち、いや、待っ」
「今からスタートね!」
よーいどん、と入間は景気よく言って、にっこり笑った。
「アズくん」
「……う、あ……」
ゲームが始まった瞬間部屋には沈黙が落ちたので、入間はしびれを切らしたようにアリスの名前を呼んだ。
すると「はい」と答えることを封じられたアリスは、返事一つままならずにうめき声のような声を漏らす。
「アーーーズくん!」
その様子が面白いの半分、早く返事をして欲しい半分、というような表情で入間が畳みかけると、アリスは目を回しながら必死に言葉を探そうとする。
「……な、なん…………なん…………だい?」
「なんだい?!」
やっとアリスが絞り出した言葉に、入間は一瞬目を見開いてから、思い切り吹き出した。
「ふ、普段、そんな言葉遣いしないじゃない」
「わ、笑わないでくだ……っ……くっ……笑う、な、よ」
「ほら! ここに居るのはリードくんだと思って!」
「っ――わ、わ……笑うな……っ!」
目を瞑ってやっとのことで叫んだアリスの言葉に、入間はきゃぁ、と黄色い声を上げてはしゃぐ。
「……お気に召して頂けましたか」
「はい、一分追加ー!」
「……ッ……!!」
入間の歓声にほっと表情を緩めた途端の容赦ない一言に、アリスはその場に膝から崩れ落ちた。
「あの、これは、いつまで続く………ん、だ」
「あと二十六分」
「……クッ……………!」
「そんなに難しい?」
「む……難しいに決まって……い……い、る!」
「そっかぁ……試しに、リードくんみたいになってみようか」
そう言うと入間は、自分の胸元にぽんと手を当てようとする。そのまま無口頭魔術によるチェルーシルで姿を変えようとしたけれど、それより先にアリスが何か言いたげな顔をした。
「……い……あ……ええ……だから……いるま…………さ、ま……」
「……本当は様付けるのもペナルティにしたいけど、アズくんが頑張ってくれているのは伝わるので目を瞑ります」
「……入間様の、前で、出来なければ……なければ……? なければ、は敬語……で……す……違う……敬語、か?」
「……アズくん、言語まで見失ってる……」
「ああ! もう! 不甲斐ない!」
唐突にアリスは頭を抱えて天を仰いだ。何かが限界を迎えたらしい。
「入間様のご期待に答えたいと! 思ってはいるのです! しかし! 一方で入間様をそのようにぞんざいに扱うことなど私には! できないと! そう叫ぶ自分もまた居り!」
「……そっかぁ……」
アリスの魂を震わせるような叫び声に、入間はしょぼんと肩を落とす。
「無理させてごめんね。……無理にとは言わない……言わない……けど……ああでもたまには僕もアズくんの雑なところ見たい……」
「……雑」
「もうね、これは本当に、ただの僕の自分勝手な欲だから……アズくんができそう、って思った時でいいから……僕の前でも、たまには、気安くなってほしいなぁ……」
「……入間様、今、私の気安いところを『雑』と仰いましたか」
「そういうわけだから、ゲームはおしまいね。でも、また気安いところ、見せてね、アズくん」
アリスの訴えは聞こえているだろうに、敢えてなのうだろう、その問いかけには答えず、入間はにっこりと笑った。
話はこれまで、と言わんばかりに視線を落として元の作業に戻った入間を前に、アリスは少しばかり固まっていたが。
数秒ほどしてから。
「――!」
その日一日、魔王はなんだかやけにご機嫌だった。
――アリスが何と叫んだのかを知るのは、魔界で一人、魔王のみである。