【イルアズ】何よりも、甘い 魔界に聖ヴァレンティヌスが居たとは思えないのだけれど、と思い至るほどの知識は入間にはなかったので、バレンタインデーというものが魔界にもあると知っても、魔界にもチョコレートの特売日はあるのか、と思っただけだった。
魔界におけるバレンタインデーにも色々と謂れはあるらしかったけれど、現代の若魔たちには概ね「大切な人に菓子や花などを送る日」「それに乗じて愛の告白に使われることもある日」という、「何となくプレゼントの日」程度の解像度で伝わっているようで、現代日本のようにチョコレートに特化しているわけではなさそうだったけれど、しかし、贈り物の大半はなんとはなしに菓子類であり、その中にはチョコレートも少なくない割合で含まれているようだ、というのが、魔界一年目の入間が知った魔界流バレンタインデーの全容で、そして、その時期には既に『5』の位階を得ていた入間の元には、それはもう、各所から山のような贈り物が届けられた。
そして、貰えるものは全て貰う、という精神を持って育ってきた入間は、その全てを喜んで受け取り、食べられるものはすぐに食べ尽くし、そして、アズとオペラに散々叱られた――人から貰ったものを安易に食べるなとか、贈り物の意味をちゃんと考えて受け取れとか、名家の出の者が返礼を返さないでは家の信用に関わるのだから、送り主のリストが作れないような受け取り方をするな、とか――、それが一年前のこと。
去年の反省を生かした入間は、今年はしっかりと、貰ったものを持ち帰るための袋を用意し、どれが誰からの贈り物かをメモするための用紙も用意し、いつも持ち歩いているお菓子袋は混ざってしまわないように家に置いて、万全の態勢で登校した。
いつものようにサリバン邸の門まで迎えに来たアズとクララからの小包を筆頭に、次々と贈り物を受け取ったけれど、きちんとどれが誰からのものかをメモして、大切に袋にしまう。差出人の分からないものは避けて、知らない相手からのものも一度家に持って帰るようにして、けれど、クラスメイトがくれたものなら、誰が何をくれたかだけ分かるようにしておけばその場で食べても大丈夫だろう、と、十時のおやつに少し摘まもうと思っていた、ら。
「イルマ様、昼食前です」
にっこり微笑んだアズが、ぱんぱんに膨らんだ入間の『戦利品』袋を取り上げてしまった。
「……ちょっと! ちょっとだけ! 今日は他におやつ持ってないからっ!」
有能なおかし警察に必死に頭を下げたけれど、おかし警察は有能なので一つたりとも返してはくれなかった。
ぐう、と悲しげな音を立てるお腹を抑えながら午前の授業を乗り越え、昼食の為に食堂へ移動する、その間にも同級生や後輩から呼び止められてはいくつかのお菓子を受け取った。受け取ったそばからアズに没収されたけれど。
食堂でお腹いっぱい食べて、教室に戻ろうと立ち上がる頃には予鈴のチャイムが鳴く時間だった。
「……おかし……」
うっうっと涙を堪えながらとぼとぼと歩いていると、余計お菓子が恋しくなってしまう。お腹はいっぱいの筈なのに何となく口寂しいようで、思わずもぐもぐと口が空気を噛む。
そんなことをしていると、隣を歩いているアズの口から溜息の音が聞こえた。
「仕方がありませんね」
溜息交じりのそんな言葉に、入間は思わず期待を込めた眼差しをアズへと向ける。これはもう、「一つだけですよ」の声だ、とキラキラと瞳を輝かせてアズの顔を見上げる。と。
ひょい、とアズの顔が傾いた、かと思うと、その整った顔面が見る間に近付いてきて、わ、と思ったときには唇が触れていた。
柔らかな唇がついついと啄むように入間の唇を誘う。反射的にそれに答えるようにその甘やかな唇を食むと、熱を持った舌が唇の隙間に滑り込んでくる。唇の力を抜いて受け入れると、口の中いっぱいに恋人の香りが広がる。
ん、と、鼻腔から吐息が抜けていく。それが合図になったように、アズの顔がするりと離れていく。
「……あ、アズくん……?!」
あまりに唐突なアズの行為に目を白黒させながら、唇の端から溢れそうな唾液を指先で拭うと、同じ仕草をしていたアズはふ、と得意そうに笑って、
「口寂しければ、いつでも差し上げますので」
と答えた。
アズと恋人になって、キスもするようになってからもうしばらく経つというのに未だ慣れることができない入間は、顔を真っ赤にして、こくこくと頷くしかできない。
もっとキスしたい気持ちと、恥ずかしい気持ちと、でもやっぱりもう一度したい気持ちと、そのことばかりで頭がいっぱいで、お菓子のことなんて頭の中からぽんと飛んで行ってしまった、のだけど。
「……お菓子の類いは、私が食べきれないほどご用意していますから」
ぽそり、と入間に聞こえているかどうかなんて考えていないような小さな声がして顔を上げると、アズは恥ずかしそうに耳の先まで赤くしてそっぽを向いていた。
キスは平気でするくせに、そんな細やかな嫉妬を見せるのは恥ずかしがる、そんな恋人が可愛くて、入間はくすりと笑った。