イカロスの翼 第1話 敷地内に漂う不思議な雰囲気に夏油が気づいたのは、寮を出てすぐのことだった。
いつもなら笑顔でにこにこと見送ってくれる用務員のおじさんも、校舎へ向かって教員寮から出勤する先生たちも、どこか落ち着かない雰囲気で。いつもはもっとゆるい――もとい、動きやすい服装をしている先生たちが、みな黒いスーツに身を包んでいて。誰も彼もが心なしか緊張した面持ちで。
いったいどうしたことだろうかと、夏油は首をかしげる。
何か行事でもあるのだろうかとも思ったが、それにしては、夏油には何も連絡がない。大人にだけ関係のあることなのだろうか。
校舎内に満ちる妙な緊張感と落ち着かなさ。それを肌に感じながら、夏油は始業の五分前に、教室にたどり着く。
教室の真ん中にたった一組だけ置かれた机と椅子に、彼は迷うことなく腰を下ろし、肩にかけていたほとんど空っぽのスクールバッグをその隣へと下ろした。
広い教室に生徒は彼一人である。別にどんな風にスペースを使おうとも誰も困りはしないのだけれど、教室の真ん中にぽつんと置かれた机と椅子を無視するのもなんだか気が引けて、こうして一人で席についている。
始業時間まではあと少し。誰に見られるでもない教室でじっと座ってその時を待っていれば、遠くからのしのしと足音が聞こえた。
がら、と勢いよく開かれる扉。顔を向けるまでもなく、そこから入ってくる一人の人物に、夏油はにこりと笑みを浮かべて見せた。
「おはようございます、先生」
「おお、おはよう」
顔を出したのは、随分と強面の男であった。先生、と夏油が呼ぶ通り、彼はこのクラス――と言っても夏油一人しかいないが――の担任教師である。夜蛾先生、と呼ばれる彼は、その強面に似合わず面倒見がよく子供思いの大人だ。
こちらもいつもは動きやすいジャージのような格好をしているのに、今日は黒いスーツに黒いネクタイと、随分固い出立ちだ。その姿に目を止めて、夏油は尋ねた。
「今日なんかあるんですか。なんかみんなピリついてますけど」
「ああ、やっぱり気づくか。ちょっとな、来客があるんだ」
来客。その言葉を小さく口の中で繰り返して、夏油はふむ、と首をかしげる。
「呪術界のお偉いさんが視察に来ることになっている。ずいぶん急に決まったことなもんだから、その接待の準備にてんやわんや、というわけだ」
はは、と乾いた笑いを漏らす彼は、そのてんやわんやにまさしく巻き込まれているところなのだろう。と言っても、彼の顔に滲むのは緊張というよりは疲弊だ。ほかの教師陣が緊張した顔をしていたのを思い出すと、彼の反応は少しばかり異質なように思う。
「どんな人なんですか?」
興味本位で、夏油は尋ねてみた。あー、と困ったように頬をかいた夜蛾は、随分とゆっくり言葉を選んで、口を開いた。
「呪術界の御三家の話は、聞いたことがあるだろう」
「ええ、入学してすぐに教えてもらいました」
「その中の一つ、五条家の当主様でな。もともとここの卒業生で、俺の教え子なんだ」
御年二十八になる、御三家筆頭の若き当主。呪術界の権力の三分の一以上を冗談でも誇張でもなくその手の内に収めている男。五条家の相伝術式である無下限呪術に、精密な呪力操作を可能とする特殊な目を持った、現代最強の特級術師。
夜蛾の語る人物の話に、なんだか雲の上の人のようだと、夏油はぼんやり思う。
「そんな殿上人が、なんでここに?」
「言っただろ。視察だと」
はあ、とあからさまに疲れたように、夜蛾はため息をついた。彼が生徒に対してそんなところを見せるのは珍しい。
聞けば、この高専の忌庫には、五条家から寄託された呪具もずいぶんたくさんあるのだという。夏油がこの数か月の間に体術の授業で使ったことのある呪具も、もとは五条家の持ち物で、この当主が卒業するときに記念品のような感じで寄託していったのだとか。
「へえ、太っ腹ですね」
「だから、視察で何かヘマをやらかしてはならんと、みんな緊張しているわけだ」
「なるほど、機嫌を損ねて予算を減らされてはかなわない、ってことか」
大人たちも大変だ、と夏油はくつくつと笑う。
「そういうわけで、すまんが今日は座学はなし、いつものように二年生の体術に混ぜてもらってくれ」
「それは別にいいですけど。先生は?」
「俺は……アイツに指名されてるからな」
アイツ、という言葉が指すのが誰かなんてのは、明白だった。教え子だというのだから、そのご当主様からすれば夜蛾は恩師にあたるのだろう。多少気心を許せる相手、と言うやつなのかもしれない。
実際彼は良い教師だと、夏油も思っている。たった一人の生徒である彼に、可能な限り付き添って、何かと世話を焼いてくれるし。
「それは……頑張ってください?」
くすくすと夏油が笑えば、夜蛾はまたため息をついたのだった。
午前中の授業は、そう言うわけで上級生に混じっての体術の時間となった。最近気に入って練習している三節棍を片手に、夏油は運動場の中央、集合場所へと向かう。
運動場のまわりは一面の山であった。夏も近づきつつあるこの季節、新緑というには随分力強い木々の色が視界に鮮やかだ。
くるくると獲物を手の内で回しながら集合場所へと到着すれば、半分ほどが集まり始めていた二年生たちに「よ」と手を振られた。その手に笑顔で答えた後で、
「今日もお邪魔します」
そうへにゃりと眉を下げて、夏油は準備運動に加わったのだった。
*
呪術高等専門学校は、全寮制の学校である。東北地方の山奥から、中学卒業と同時にその身一つでこの学校へと進学してきた夏油は、当然のようにこの学校の寮で生活を営んでいた。春に初めてこの場所に来てから、最初の夏である。
地元よりもいくらか暑いこの学校は、それでも東京都心と比べれば標高も高く自然も豊で、暑さも多少ましらしい。まだまともに都心に繰り出したこともない彼には、いまいち実感のわかないところだ。
呪術師を目指す同級生はなく、戦闘に向いた術式を持つのはこの学年には彼一人。呪術師が希少なのだということは入学前から聞かされていたけれど、まさかここまでだとは思わなかった。もう何人かが補助監督になるコースで入学しているらしいが、授業も任務も重ならないため、顔も名前も知らない。
体術の稽古では一つ上の学年に混ぜてもらい、任務の際には引率で補助監督がつく。寮に帰れば食事は用意されているし、授業は自分一人のために行われるので、わからなくなることはない。生活で不便することはないし、困ったこともない。
けれど。「不足がない」というのは、「満足している」という意味ではない。常に腹七分目あたりまでは満たされるが、それより多くを望むことはかなわない。
――端的に言えば、彼はこの学校生活をつまらないと思っていた。
地元では化け物――呪霊、を見ることができるのは、夏油だけだった。同じものを見ない同級生たちには真に心を開くこともできない中学時代、その最後の秋に、呪術高専からのスカウトを受けたときには、胸が弾んだものだった。
ここなら、同じものを見る友人ができるかもしれないと。
これまでの人生で得られなかったものが、ここなら得られるかもしれないと。
そんな期待を胸に入学して、早三か月。なるほど確かに同じものを見る人間は周りにずいぶん増えたし、自身の持つ力を使って人を助けることができるというのは、彼の正義心を満たしてくれるものだ。地元にいるときのように、自分の目に映るものを誤魔化す必要もなければ、自身の持つ能力を言葉にし、追究することもできる。知らなかったこと、呪術に関する基本的なことも懇切丁寧に教えられ、今までできなかった経験も多数できている。
だから、決して不満があるわけではない。今のところ、ここ以上に彼をありのまま受け入れてくれた場所はほかにはないし、ここを出たところでまだ未成年の彼にはどこに行く当てもない。実家に戻れば、自身の見えるものを誤魔化し続ける人生に逆戻りだ。それを思えば、ここに残るよりほかに選択肢などないに等しい。
けれど。けれど、――少し、期待外れだった。
入学前の期待が大きすぎたのだろうか。それとも、自身が欲深いだけなのだろうか。
一年前の自分と比べれば、どれだけここが恵まれていることかと。そう思うのに、その反面「もっと何かないのか」と思ってしまうのも確かで。
抜けるような青空は、梅雨の季節にはそぐわぬ清々しさだった。真夏の盛りほどには気温は上がらないが、それでもこの空の下で体を動かしていれば、当然汗だくになる。
休憩、との教師の号令に、夏油を含む生徒たちは一斉に木陰へと飛び込んだ。
あつ、と口々に訴える上級生たちも、そう数は多くなかった。今ここにいるのが三人で、あと二人は任務に駆り出されて不在。一学年に五人、というのは呪術高専ではそれなりに多い方だ。
夏油も額から伝い落ちる汗を袖でぐいと拭って、用意していた水を一気に煽る。熱った体には、それなりにぬるくなってしまった水でも心地よい。ごくごくと飲み干して、大きく息をつけば、ようやく一心地つく気分だった。
次は上級生たちが組み手をする番だ。一試合終わったら交代で夏油が組み手に加わることになる。後少しの休憩をしっかりとって、時間的に昼前ラストになるだろう一戦に備えようと、夏油はその場に足を投げ出して座った。
――校舎の方から感じたことのない気配を感じたのは、その瞬間だった。
ざわ、と全身の肌が粟立つような。猫のように毛を逆立てそうになるような。服の上からずしりとその体にのしかかるような気配。
なんだ、と目を丸くした夏油は、咄嗟に周囲を見回す。見れば組み手をしている上級生たちはその気配には気づいていないようだ。おそらくは集中しているのだろう。
校舎の方へと視線を向けると、正面玄関からぞろぞろと人が出てくるのが見えた。スーツ姿の教員たちの中に自身の担任である夜蛾の姿を見つけて、ああ、と夏油は納得する。
視察に来ているという五条家当主様御一行だ。
見たことのある顔の中に混じって何人か知らない顔があった。きっとその人々が、五条家から来ているメンバーだ。
その中でも特に背の高い男が、随分高そうなスーツに身を包んで、一際多くの人間に囲まれて歩いていた。一目でそれがその「ご当主様」なのだろうとわかった。
「……ふうん」
若いと聞いていたけれど、こうして現物を見ると本当に若い。二十八、と言っていたか。夏油よりも十以上も年上のその男が、この呪術界の権力の三割ほどを握っているのだと思うと、なんだか不思議だった。
そこまで、と教員の声がかかった。目の前で繰り広げられていた組手の一戦がちょうど終わったらしい。次は自分かと、夏油は立ち上がる。
術式なしでの実戦をある程度想定した組手は、夏油の得意な形式でもあった。
日差しの元へと出ていけば、校舎の前を歩く御一行のことは、夏油の思考から追い出されていった。肌に感じる気配にも慣れてしまって、そのせいで不調をきたすようなこともない。
よろしくお願いします、と互いに頭を下げて、構えて。はじめ、の挨拶と同時に、夏油は素早く目の前の相手へと一本踏み込む。
そのまま繰り出した一撃は、相手の腕に受けられる。返す刀で撃ち込まれる一撃をひょいと屈んで避け、そのまま足元を掬うように足を伸ばす。避けるように高く飛び上がった相手からの蹴りを、今度は夏油が腕で受ける。
人間業ではない動きも、呪力を使えば実現可能だ。地元にいる頃から空手と合気道を習っていた彼には対人の心得はあるが、呪力を用いた肉体の強化はまだまだ鍛錬が足りなかった。さすがに呪力の扱いに関しては、上級生に一日の長がある。
それでも夏油は、呪力の扱いに長けた上級生と五分の試合をしてみせた。呪力の操作もそこそこに、自身のフィジカルでもって相手を追い詰め、反撃を受け流し、対等に打ち合っていく。
ふ、ふ、と互いに猛攻を仕掛け、しのぎを繰り返すこと何分か。やめ、の声が掛かる頃には、すっかり夏油も相手も呼吸が上がってしまっていた。
ありがとうございました、とその場で礼をして、手合わせは終了である。ふう、と大きく息をつくと同時に、
――ぽん、と。肩に手が置かれる感触。
背後からの手にぎょっと夏油が振り向けば、そこには上等なスーツを纏った長身の男、――五条家の当主だろう人が、立っていた。
間近に見れば、その男は目元を包帯のような布でぐるぐるに巻いていることが分かった。先ほど遠目から見た時には分からなかったが、男の目は完全にその包帯に覆い隠されてしまっている。
口元だけが、にこりと楽し気に笑みを浮かべていた。
「へえ、面白いもの持ってるね」
囁くような声。それに夏油は怪訝な目を向ける。
「面白いもの……?」
「その腹。今何匹くらい飼ってるの?」
「!」
男の言葉に、夏油は目を見開く。咄嗟にその男から距離を取るように後ずされば、さらににんまりとその男は口元に弧を描いた。
校舎の方からばたばたと大人たちが駆け寄ってくるのが、彼の肩越しに見えた。五条様、と呼びかける大人たちの声に、彼が本当に五条家の当主なのだと確信する。
「……答えないといけませんか」
「いいや? きみが嫌なら無理にとは言わないよ」
「じゃあ嫌です」
「あはは、きみ面白いね」
男はけらけらと笑って、夏油の肩を叩いた。
ようやく到着した大人たちの中には、今日彼に指名を受けたのだという担任、夜蛾の姿もあった。はあ、と大きくため息をついた夜蛾が、男と夏油の間に割って入る。
「おっと」
「あまり後輩をいじめてやるな」
「ひどいなあ、いじめてるつもりなんてないですよ」
ね、と男はこちらに顔を向ける。ここで夜蛾に庇われるのは、何だか癪だった。彼には突然声をかけられただけで、別にいじめられたとも思っていない。
夏油は男の言葉に一つ頷いて見せた。あは、と男は楽しそうに笑って、ばしばしと夏油の背中を叩く。
「いいね、負けん気が強いのは嫌いじゃない」
男はそう言うと、不意にそのジャケットを脱ぐ。その一枚で軽く七桁は行くだろう高級そうなそれを、彼は随分ぞんざいに、背後に控える別の大人へと放り投げた。白いシャツはシンプルな仕立てだが、彼の体格を考えれば間違いなくオーダーだろう。首元に巻き付けたネクタイを緩め、ボタンを一つ、ふたつ、と外して、男はぐるりと肩を回した。
「僕とも一本付き合ってくれる?」
「えっ」
「は!?」
より素っ頓狂な声を上げたのは、周囲の大人たちだった。何を、と戸惑う彼らなど歯牙にもかけず、彼は運動場の真ん中へと歩いていく。足元は当然スーツに合わせた革靴で、そちらも当然のように高級品だ。こんなところで砂や小石にまみれていい代物ではないことは、平凡な一般家庭出身の夏油にもさすがに分かった。
けれど男は、そんなこと何も気にしていないようだった。軽く腰をおとしてわざとらしくファイティングポーズを取って、くいくいと挑発するように手を動かす。
「きみの術式、見せてよ」
「……汚れますよ、服」
「汚せるものなら汚してみなよ」
その男の言い種に、夏油はむっと唇を尖らせた。
舐められている。そりゃああちらは夏油よりも随分大人で、現代最強の特級術師だ。まだ呪術を本格的に学び始めて数か月の夏油など赤子にも等しいのだろうが。それにしたって、服に汚れ一つ付けられないと思われているとは心外だ。
ぐっと広げて見せた手の中に、ずるりと黒い球が現れる。ゆらりと大きな影となったそれは、つい先日取り込んだばかりの呪霊だ。夏油自身はまだ三級だが、この呪霊は二級相当。他にも何匹か同レベルの呪霊を捕まえているが、手札を一気に開示するのは、この男を前にしては悪手だろう。
呪霊を呼び出した夏油に、夜蛾が「おい、」と声を上げかける。それを男は顔もむけずに片手で制した。彼以外の大人たちもその制止にぐっとその場で動きを止める。
夏油自身をぐるりと包み込むように姿を現した呪霊に、男はひゅう、と口笛を吹いて見せる。
「いいね。もっと見せて」
「その目隠し、見えてるんですか」
「ふふ、僕の目は特別でね」
歌うように言う男はずいぶん楽しそうである。まあ、見えていようがいまいが、夏油には関係のないことだ。
「ほら、いつでもどうぞ」
そう言うと彼は、夏油に向かって手を広げて見せた。構える素振りすらも解かれたことに、彼と自身の力の差を突きつけられるようで、意識的に大きく夏油は息をつく。
「――行きますよ」
背後で大人たちが頭を抱えるのが見えたけれど、もう夏油には知ったこっちゃなかった。
呼び出した影を、まっすぐに男の足元まで伸ばす。触手のような影のようなそれは地を這うようにして、勢いよく五条のもとへと駆けて行った。それと同時に、夏油も駆けだして男との距離を詰める。
足を掬いに行くその影を、しかし男は避けようともしなかった。彼の足元まで駆け寄った影は、――しかし、その服に触れることもできず、ばちんと弾かれる。
「!」
弾かれた触手が悲鳴を上げた。一瞬だけ目を見開いた夏油は、しかしそのまま男に直接殴り掛かる。
白い包帯で包まれた顔面、その頬に思いっきり拳を振りかぶり、――ぱし、と男の手に受け止められた。
「くく、呪霊操術の使い手が直接殴りにくるとはね」
「くっ……」
掴まれた手をぱっと振り払い、一歩距離を起き。すぐさま体勢を立て直して、再び彼へと立ち向かう。
夏油の手足と連動する形で、従えた呪霊は的確に男の死角を突く。しかし男はそれを振り返りもしないでひょいひょいと避け、そこから反撃らしい反撃もない。
くそ、と内心で悪態をつきながら、なおも夏油は攻め立てる手を止めなかった。男との差は歴然で、呪力による身体強化もまともに使いこなせない彼の動きなど、男には全て見えているらしい。
けらけらと楽しそうに笑う男と対照的に、夏油の呼吸は乱される一方だった。
「いいよいいよ、どんどんきな」
「くそ……!」
余裕の表情、余裕の態度。それに苛立ちを隠すこともできず、夏油はさらに一歩踏み込んで、強く拳を打ち出した。
それを胸の真ん中で受け止めた男は、ーーにこりと笑って、ぐっとその手に力を込める。
瞬間、ぐるん、と視界が回った。足首に相手の足先が引っ掛けられる感触が、ほんの一瞬だけあった。上が下に、下が上に、瞬きの間に世界が一回転して。
気づけば、夏油の背中は地面に叩きつけられていた。
「……!」
叩きつけられた、と言うよりは、ふんわりと着地させられた、と言う方が正確だろう。男は立ったままで夏油を見下ろして、その顔に指先を向けていた。人差し指と中指を揃えて、銃のように構えて。
「ばーん、なんてね」
はいおしまい、と彼はその手を引っ込める。息を乱すことも、服に埃一つつけることもなく、彼との手合わせは彼の圧勝で幕を下ろした。
グラウンドに背中をつけた夏油は、すっかり全身汗だくになってしまっていた。大きく呼吸を乱したままで、彼は男を見上げる。
「は〜〜……」
ぐしゃ、と彼は自分の髪をかき乱す。
全く相手にならなかった。一手くらい入れられるかも、と思ったのだけれど、随分見通しが甘かったらしい。
「大丈夫? 立てる?」
「ええ、大丈夫です」
男は口元だけでにこりと笑って、傍に膝をついて夏油に手を差し出した。それを夏油は素直に受け取って、その手に自身の手を重ねる。ぐい、と引き上げられた体はそのまま立ち上がらされて、すぐそばには男の顔があった。
「きみ、なかなか筋がいいよ」
「……そりゃどうも。ボロ負けでしたけど」
「はは、これでも一応特級だからね。学生に一本取られてちゃ世話ないさ」
はあ、と夏油はため息をついてみせた。
悔しい気持ちはあった。けれどそれ以上に、高揚を感じていた。
世界はまだまだ広く、自分など手の届きようもない高みにいる術師が、本当に存在するのだと。
現代最強と言われる人間、その力のほんのわずかな部分だけれど、それを感じることができて。夏油には、一つわかりやすい指標ができたのだ。
自身よりも高いところにある顔を、夏油はまっすぐに見返す。包帯に隠された奥の瞳が、じいっと自身を見つめ返しているのを、夏油は確かに感じ取った。
「気に入った。きみ、名前は?」
「……人に名前を聞くときは、まず自分からじゃないんですか?」
言い返した夏油の言葉に、周囲の大人たちが一斉に慌てたようにざわめいた。しかしそんな反応も意に介さず、男はけらけらと笑う。
「あっはは、ほんとにきみ、いいねえ!」
彼の手が、目元を隠していた包帯へとかかる。する、と解かれる包帯の下から、その瞳が姿を現した。
真っ白いまつ毛に縁取られた、夏の空によく似た抜けるような青。彼が背中に背負うのと同じ色のそれが、彼の眼窩に嵌っている。
「僕は五条悟。五条家の当主で、きみの先輩にあたるよ」
「……夏油傑、です」
傑ね、と男――五条悟はにこりと笑う。目元が明らかになっているぶん、その笑みの表情は先ほどまでよりもだいぶわかりやすい。何を考えているかわからない不気味さも軽減されている。
「傑、君の術式と戦い方にいろいろ言いたいことがあるんだけど、このあと時間ある?」
「!」
「ちょっ、悟!」
後ろで慌てたように夜蛾が声を上げた。当主の彼の下の名前を呼び捨てにしているのは、きっと彼が教え子だった頃の癖が咄嗟に出てしまったのだろう。
「お前、このあとも予定詰まってるだろうが」
「そんなのどうにでもなるでしょ。ねえ?」
五条は背後を振り返り、彼が連れてきたらしい大人たちに尋ねる。尋ねると言うよりは、有無を言わさずどうにかしろ、という圧を感じるのだけれど、夏油には関係のないことだ。
おろおろと左右を見回した大人たちが、ため息混じりに頷くのを見て、五条は満足げに微笑んだ。
「傑は? 僕の話、聞きたい?」
「聞きたいです」
食い気味に答えた夏油に、五条は柔らかく目を細めた。
こんな機会、もしかしたらもう一生ないかもしれない。現代最強と言われる特級術師に、自身の戦い方をどう思ったか意見を聞けるなんて。世の学生、世の呪術師が聞いたら泣いて羨ましがるだろうものが、目の前に提示されて。それに飛びつくことを迷うほど、夏油は愚かではなかった。
「じゃあ行こっか。ついておいで」
付き人に持たせていたジャケットを受け取って、彼は夏油に背を向ける。そのまますたすたと歩き去って行こうとする背中を、夏油は慌てて追いかけた。