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    7/30刊行予定の「イカロスの翼」の本文サンプル、第2話です。
    (長かったのでポイピクにしました)
    前→https://poipiku.com/532896/9061900.html
    次→https://poipiku.com/532896/9061911.html

    #五夏
    GoGe
    #新刊サンプル
    samplesOfNewPublications

    イカロスの翼 第2話 五条について行った先でたどり着いたのは、学内の一室、保健室だった。
     がらら、と古びた引き戸を勢いよく開けた五条は、その部屋の中にいるだろう保健医に声をかける。
    「硝子、いる〜?」
     勝手知ったる、とばかりずかずかと彼は部屋の中に足を踏み入れる。夏油は少し戸惑いながら、その後ろについて室内へと入った。
     ぎし、と椅子の軋む音と共に、デスクに向かっていた保健医──家入硝子が、こちらに顔を向けた。
     いつも目の下にくっきりとクマをつけた彼女は、呪術界でも珍しい反転術式の使い手である。反転術式というのも夏油は知識として得てはいるものの、その感覚は全くわからない。会得している人間は少なく、それを外部出力できる人間はさらに少ないのだと、座学の時間に聞いたことがある。
     その数少ない一人である彼女は、呪術高専に出入りする数多くの術師たちの怪我を直す医療チームの一員として、ここで働いている。夏油もこの数か月の間に幾度か世話になった。体に負った傷が見る間に治っていく様は、まるで魔法でも見ているかのようで、なるほど呪力にはいろいろな使い方があるのだと驚いたものだ。
     のしのしと保健室の中をまっすぐ彼女に向かって歩く五条に、彼女はあからさまに「げえっ」と顔をしかめた。
    「アンタ今日は視察だったんじゃないの。ここに何の用?」
    「ちょっとだけ部屋貸してくんないかなって」
     そう言うと彼は、後ろについてきていた夏油を前に押し出すようにして、その背中を叩いた。よろめくように彼女の前に突き出されて、夏油は驚いて五条を見上げる。
    「うちの一年生に何しようっていうわけ?」
    「そんな疑わなくてもいいじゃん。ちょっとお話するだけだよ」
     怪訝な顔をする家入に、五条はなおもにこにこと言葉をつづけた。
    「さすがに視察全部ほっぽりだすわけにもいかないしね。残りの行程さっさと済ませてくるから、ちょっとだけここで待ってて」
     ぽんぽん、と五条は夏油の肩を叩く。
     待つのは別に構わないが、どうして保健室なのか。ひとまず曖昧にうなずいてはみたものの、疑問は積み重なるばかりである。
     はあ、と家入がため息をつくのが聞こえた。かと思えば、彼女は部屋の隅からからからと丸椅子を転がして、夏油の前まで持ってくる。
    「ここ、座りな」
    「あ、はい……」
     いいんだ、と内心意外に思いながら、夏油は言われるままにその丸椅子に腰かけた。
     その様子に五条は満足げにうなずいて、「じゃあね~」とひらりと手を振って、あっという間に保健室を出て行ってしまった。
     その場に残されたのは、夏油と家入の二人きりだ。
    「悪いね、あの馬鹿が勝手して」
     悪態をつく家入に、夏油は苦笑いを返した。
    「家入先生はあの人と親しいんですか」
    「親しいっていうか……腐れ縁、みたいなもん。同級生なんだよ、私たち」
     同級生。その言葉に、夏油は目を丸くする。
     確か五条も、この呪術高専の卒業生だと聞いている。ということは、家入もまたここの卒業生ということか。
    「私たちの学年は二人しかいなくてさ。アイツと私のふたりだけ」
     椅子の肘掛にもたれてため息をつく彼女に、夏油は黙ってその話を聞いていた。
    「まあ、だからって別に面白い話も何もないんだけどね。アイツが帰ってくるまで、ここでおとなしくしてな」
    「ここにいたほうがいいんですか?」
    「別に教室に戻っててもいいけど。することもないでしょ」
    「まあそれは……そうですね」
     五条が乱入してくる直前の手合わせが、午前中の最後の一試合だった。本来なら今は昼休みで、寮の食堂に戻って昼食をとっていたころである。
     腹が空いているかと言われるとそこまでではないけれど、もしこのまま昼飯抜き、なんてことになったら、おそらく午後の授業の最中に腹の虫が盛大に抗議をしてくることだろう。
     五条が戻る時間がわかれば、それまでにここに帰ってくることもできるのだろうが。あいにくと彼は「ちょっと待ってて」とだけ告げてさっさと出て行ってしまって、その「ちょっと」がどのくらいなのかを教えてはくれなかった。もし離席している間に五条が戻ってきて、「いないんだ、じゃあいいや」とこの機会をふいにされてしまっても困る。
     いろいろと考えた結果、ひとまずはここに残ることにした。空腹は、まあ彼と話をした後にでも、何か買いに出かけることにしよう。
    「にしても、アイツに目をつけられるなんて、何したの。一年生くん」
    「いや、特に何も……」
     気の毒なものを見る目で、家入は夏油を見ていた。苦笑いをこぼした夏油は、簡単にこの十数分で起こった出来事を説明してやった。
     いつものように、上級生の体術に混ぜてもらっていたら、突然彼がやってきたこと。一本手合わせを頼まれて、挑発されるままにそれに乗り、ぼろ負けしたこと。術式と戦い方に言いたいことがある、と言われたので、彼についてきたこと。
     夏油の話を聞きながら、家入は「ふうん」と頷いた。
    「まあ、呪霊操術は呪術界全体で見ても珍しい術式だしね」
     興味を持たれるのもわからなくはない、と彼女は言う。
     ――ふと、一つの疑問が浮かんだ。
    「……あの人、私が呪霊操術を持ってるって、どうしてわかったんだろう」
     彼が夏油を見つけたとき、彼は術式なしの手合わせをしていたところだった。呪力操作くらいは当然していたけれど、術式は見せていないはずだ。だというのに、彼は夏油に開口一番「面白いもん持ってんね」と声をかけてきた。
     どうやって知ったのだろう、と夏油はしばし考えこむ。その様子を見ていた家入は、デスクの上からキャンディを一つつまみながら、口を開いた。
    「あー、アイツ、人の持ってる術式とか、呪力の流れとか、そういうの全部見えてるからね」
    「えっ、どういうことですか」
    「六眼って言ってね、この世に同時に二人は存在しえない、五条家に受け継がれる特殊能力なんだと」
     この世にあふれるありとあらゆる呪力の流れ、形を見ることができる目。それがあの、夏の空を閉じ込めたような美しい青い瞳なのだという。へえ、と夏油は興味深くうなずいた。
    「そういうわけだから、アイツの目にはたぶん、キミが腹の中に飼ってる呪霊の呪力も見えたんだろ」
    「そうだったのか……」
     なるほど、と夏油は頷いた。呪力に対する感度が、他の人間とは比べ物にならないほど高いのだろう。だから手合わせの最中にも、彼の死角を突いたはずの呪霊たちをことごとくよけられたのだと、夏油は理解する。
    「アイツが誰かの戦い方に口出しするなんて、めったにないんだよ」
     術式見せて、っていうことはたまにあるけどね。そういいながら、家入は口の中のキャンディをがりっとかみ砕いた。
    「ま、使えるもんは使っとけばいいんじゃない? 的外れなことは言わないだろうし、キミの不利益になるようなことも言わないと思うよ、アイツは」
    「ならよかったです」
     どんなことを言われるのだろうかと、内心少し緊張していたのだ。彼をよく知るらしい人物に、不利益になることはないと太鼓判を押されれば、その緊張も少しだけ緩和される。
     ほっと胸をなでおろす夏油に、家入はくつくつと笑ったのだった。



     五条が保健室に戻ってきたのは、それから数十分ほどしてからのことだった。
     帰ってきた彼に連れられて、夏油はようやく保健室を後にする。そうして連れていかれたのは、駐車場に止められた高級車の前であった。
    「乗って」
    「えっ、これにですか」
     車には詳しくない夏油でも見た瞬間にそうと分かる、明らかな高級車だ。手元で適当に丸められているジャケットも信じられない値段だが、この車も大概だ。下手したら家が一軒建つのではないだろうか。
     体術の授業の直後にそのまま連れてこられた夏油は、運動場の土埃で汚れた制服のままだ。こんな格好で乗っていい車だとは到底思えなかった。
     けれど五条は全く気にする素振りもなく、先に後部座席に乗り込んで、早く早くと手招きをして見せた。
     運転席で待機していた運転手をちらりと見るも、そちらもにこにこと微笑んで、夏油に乗車を促してくるばかりである。たいへんいたたまれない気持ちのまま、夏油はそろりとその車内へ足を踏み入れた。
     するりと動き始めた車は、あっという間に高専の敷地を後にした。きれいに舗装されているとはいえ、夏の始まりの季節、道端には雑草が生い茂る道を、車体は静かに駆けていく。
    「いったいどこに行くんですか」
    「僕の行きつけのお店。お昼まだでしょ? 一緒に食べようよ」
     もちろん僕のおごりだから安心して、と言って彼はにこりと笑う。着の身着のまま連れてこられた夏油は当然財布などもっていないし、たとえ持っていたとしても彼の持ち合わせで足りるような店に行くとは思えなかったので、その言葉に夏油は素直に甘えることにした。
     車はいつのまにやら高速に乗り、都心方面へと向かっているようだった。任務の一環で都心に出ることは少なくなかったが、それ以外で高専の敷地を出ることはほとんどない。任務外で都心に向かうのはこれが初めてかもしれない。
     高架を走る車の窓からは、遠くまで広がる関東平野、その平坦な地に敷き詰められた高低さまざまな建物がよく見えた。徐々に都心に近づくにつれて、戸建ての数は減り、階数の多いマンションが増え始める。
     その街並みの変化を心なしかわくわくしながら眺めていれば、五条がくすくすと笑った。
    「こういう景色は珍しい?」
    「えっ、あ、はい、都会だなあって思って」
    「この辺出身じゃないんだ。地元どこ?」
    「えっと、東北の方です。山奥で……」
    「あ、敬語要らないよ。気楽に話して」
    「いや、さすがにそれは……!」
     彼の言葉に夏油は慌てて両手を振る。いくら夏油が呪術界の常識を知らない一般家庭出身だとしても、それが失礼に当たることは十分わかる。
     しかし五条はにこにこと微笑んだまま、その主張を譲ってくれはしなかった。
    「僕がそうしろって言ってるのに、聞かない方が失礼だとは思わない?」
    「そ、それは……」
    「心配なら念書書くけど? 傑が僕に対してどんな言動しても問題にしないって」
    「そこまでしてもらうわけには」
    「じゃあ僕が念書書く前に敬語やめてね。あと悟って呼んで」
     ちゃっかりと注文を付け加えた五条に、夏油はやられた、と大きくため息をついた。
    「わかりま……」
    「わかりま?」
    「わか、……った、から、勘弁してくだ………くれ」
     躊躇いながらも無理やり言葉尻から敬語を外す夏油に、五条はけらけらと楽しそうに笑った。
    「いや〜傑は揶揄いがいがあるね」
    「うるさいな」
     この大人の前では、夏油は何一つ思うようにならない。完全に彼の掌の上で転がされ、その転がりっぷりを五条はその余裕と共に笑いながら眺めているのだ。
    「傑はどこの家の子? 東北の方にそんな有力な家系あったっけ」
    「あ、いや、うちは両親共に非術師なんだ」
     そう夏油が答えれば、今度は五条が目をまん丸にする番だった。
    「へえ! 非術師の家系なんだ。親戚に見える人は?」
    「いや、いなかったかな。母方の実家の庭の隅にずっと犬みたいな大きい呪霊がいたんだけど、気にしてたのは私だけだったし」
     夏油が両親と暮らしていた山奥よりも、もっともっと奥の小さな集落にあった、母方の祖母の家。まさに限界集落、という地域にあるその家の庭には、生まれた時からずっと大きな呪霊が居座っていた。
     犬みたいな、と形容してみたものの、実際のところは多分犬でもなんでもないのだろう。四つ足の、体の輪郭がぐちゃりと溶けたような、呪霊である。自分にしか見えないらしいそれに初めのうちは怯えていたけれど、何度も祖母の家に通ううちに怖さは徐々に消えていって、今は夏油の腹の中に取り込まれている。
     その呪霊の影を、親族の誰も気にしてはいなかった。もしかしたら見えていて無視していた人間もいたのかもしれないけれど、祖母が亡くなってあの家も解体されてしまった今となっては知る由もない。
    「家系の調査とか受けなかったの」
    「さあ。少なくとも私は何も聞いてないよ。両親が非術師であることは間違いないし、してないんじゃないかな」
    「……ふうん」
     そっか、と五条は頷いた。どうかしたのかと彼の顔を覗き込めば、彼は「なんでもないよ」と言って、にこりと笑ってみせた。



     高級車が滑るように到着した先は、広い敷地に立派な庭のついた、いわゆる料亭という奴だった。運転手が後部座席の扉を開け、そこから五条はするりと降り立つ。先に降りた彼は車内に残った夏油に向かって、車の天井に手をついて体をかがめ、「おいで」と手を差し出した。
     戸惑いながらもその手を取って、彼は車の外へと引っ張り出される。高専か高速道路でおよそ一時間ほど走っただろうか、車に乗る前よりも少し傾いた夏の日差しは、なおも燦燦と二人の頭上から降り注いでいた。
     立派な門をくぐれば、すぐに案内役らしい女性が現れた。無言で先導する彼女に、五条は慣れたようについていく。門と同じく立派な玄関を通り抜ければ、その先は細かく障子で区切られた広間になっているようだった。縁側にはきれいに磨かれたガラス窓が全面に貼られており、その向こうで日の光を浴びる庭園が一望できた。
     明らかに場違いな空気に、夏油は居心地の悪さを感じずにはいられなかった。五条は高級なスーツを身にまとっているからいいものの、夏油は薄汚れた呪術高専の制服である。制服は学生にとっての正装なのだから、問題はないだろうとは思うけれど。それにしたって、この制服ではあまりにも身分が釣り合わない。
     そんな気まずさを感じているのを、五条もわかっていたのだろう。
    「大丈夫、今はほかにお客さんいないから、誰も見てないよ」
     ちらりと振り向いた彼は、声を潜めもせずにそう教えてくれた。
    「……そうなんだ」
     思わずほっとして返事をすれば、彼は楽しそうに笑う。
    「ここ、本当は夜しかやってないんだ。今日は僕が来るから開けさせたの」
    「開けさせ……」
     想像もできない次元の話に、夏油はぽかんとしてしまった。
     確かに行きつけの店、と言っていたけれど。彼のためだけに営業時間外にも店を開けるほどの付き合いがあるところだとは思わなかった。それも、こんなに立派なところが。
    「食べたいものとかある?」
    「うーん、特に希望は……」
    「じゃあ僕のおすすめで。お腹空いてるでしょ」
     体術の後ってお腹すくよね、なんて言って、彼はくすくすと笑った。
     彼にもそんな感覚があるのだと思うと、なんだか少し不思議だった。いつのまにやら、彼のことを人間ではない何かのように思っていたらしい。
     彼だって、夏油と同じ人間だ。少し他人と見える世界が違って、少し常人離れした能力を持つだけの。
     案内された先は、庭の奥にしつらえられた離れの一室だった。広々とした一間の端に、こちらもまた広々とした机。磨き上げられたその机も、広間自体が相当に広いため、見る分にはそこまで大きくは感じない。
     縁側を臨める場所にすでに二つ向き合うように置かれた座布団の片方に、五条は迷うことなく腰を下ろした。それに倣い、夏油も彼の正面にぎこちなく正座する。
    「いーよ、正座じゃなくて。楽にして」
    「でも」
    「さっきも言ったでしょ。ほかに誰もいないし、足崩しても誰も文句なんて言わないさ」
     言わせないしね、とにこりと笑う彼に、夏油は苦笑いを返した。その言葉に甘えて足を崩して胡坐をかけば、さらに五条は上機嫌になった。
     目元に巻き付けていた包帯が、するすると解かれて、彼の肩の上へと落ちる。あらわになった青い瞳を見るのはこれが二回目だ。
     日の光の下ではただまぶしい青に見えたそれは、よく見るとさらに微細な色の移ろいや揺らぎを内包していて、本当に空のようだった。
    「その目って」
    「ああ、硝子から聞いた? 呪力の流れが見えるって」
     こくりと夏油は頷く。
     彼が言うには、物理的に目をふさいだとしても、その呪力の流れはすべて見えているから、日常生活には支障はないらしい。というよりは、通常の視覚をある程度遮断しないと、脳の処理量が増えて疲れるのだと。
    「サングラスの時もあるけどね。お仕事の時はこれかアイマスクだよ」
    「怪我でもしてるのかと思った」
    「あはは、違う違う」
     楽しそうに笑う彼は、こうして目隠しを外すとまだ年若い男であることがよくわかる。若いと言っても夏油よりは十以上も年上なのだけれど、不思議と彼に対してはその年齢の差を大きく感じることはなかった。
    「傑はこっちのほうがいい?」
    「そうだね、目が見えたほうが話しやすいかな」
    「じゃあ傑に会うときはサングラスにしよう」
     ぱち、と片目をつむって見せる彼は、目隠しをしているときよりも表情豊かだった。目元を隠していてはわからない感情も、その顔のすべてをさらしてくれている今はより想像しやすい。少しだけ近くに彼を感じて、夏油はふわりと表情を緩めた。
     それから彼らは、しばしの間とりとめもない話をした。縁側から差し込む夏の日差しは、庭園に植えられた木々に柔らかく遮られ、室内を明るく照らしていた。すぐ近くには池が迫っており、そこに反射する光がキラキラと天井に水面の揺らぎを映している。
     初めは敬語なしで話すことに抵抗のあった夏油は、言葉を交わすたびに目の前の男への親しみが募っていくのを感じていた。気づけば自然と口調は砕け、取り繕うこともなく感じたことを口にして。
     話題の中心にあったのは、夏油の実家のことと、今の呪術高専のことだった。特に五条は実家の話が気になっていたようで、彼の幼いころの話もずいぶん真摯に、そして楽しそうに聞いてくれた。
     小さいころから呪霊が見えていたけれど、周囲に見える人間はいなかったこと。自分に見えているものが他の人には見えないのだと気づいてからは、その話をしなくなったこと。呪術高専で同じものを見る人間に出会えて、初めて呼吸ができると思ったこと。
     そんな本心を、夏油は語って聞かせた。まだ出会って二時間も経たないような、呪術界の重鎮の一人を前にする話ではないのだろうと、分かっていたけれど。それでもその重鎮本人が興味深そうに聞いてくれるから、ついいろいろと語ってしまった。
    「ごめん、私の話ばっかり」
    「いいよ。僕は呪術界しか知らないから、傑の話は新鮮なんだ」
     当主なんて毎日退屈なことばっかりでね、と顔をしかめて見せるものだから、夏油は思わずくすくすと笑ってしまった。
     料理が運ばれてきたのは、十数分ほどたったころのことだった。
     いつの間に注文したのか、次々と運ばれてくる皿の数々は大きな机を半分以上埋め尽くしてしまう。二人きりで使うには広すぎると思った机も、こうしてみると余裕があって程よい大きさに感じるから不思議だ。
    「いつの間に?」
    「さあ、いつだろうね。ほら、冷める前に食べて。ここのご飯、おいしいんだから」
     はぐらかすように笑った男に勧められるまま、夏油はそろえられた箸に手を伸ばす。
     机の上に並べられたのは、和食も洋食も関係ない多様な料理の数々だった。トンカツの隣には刺身の盛り合わせ、その隣の更にはエビチリ。手元に近いところには、レンゲを添えられたテールスープ。さらには肉じゃがやなめろう、おひたしなどの多彩な小鉢が大きめの皿の間を埋めるように配置されて、総数としてはいったい何種類になるだろうか。
     大皿ではないとはいえさすがにこれは多すぎないか、と思いながら、夏油はひとまず手を合わせる。いただきます、と呟くと、五条が「どうぞ召し上がれ」と答えた。
     最初に箸をつけたのは、つやつやと輝くエビチリだった。スイートチリソースの絡まったエビはぷりぷりで身が締まっていて、噛むたびにチリソースに負けないエビのうまみが口の中いっぱいに広がる。
    「うっま……」
    「でしょ。あ、肉じゃがもおいしいよ」
     夏油が目を輝かせる様子をしばし眺めた五条は、「僕も食べよ」とようやく自身も箸をつけた。
     他の料理の数々も、どれもこれも非常にクオリティの高いものばかりだった。なるほど、これは行きつけにもなるな、と夏油は納得する。
     それからしばらくは、二人そろって机の上の料理の数々に舌鼓を打った。特に夏油は空腹だったこともあり、並べられた料理はあっという間に彼の腹へと収められてしまった。
     男子高校生の食べっぷりを楽しそうに見ながら、五条は始終にこにこと微笑んでいた。
     あれもこれもと差し出される皿に順に口をつけていけば、気づけばテーブルの上は空になってしまっていた。
    「ごちそうさまでした」
    「いやあ、いい食べっぷりだったね」
     見てるだけでお腹いっぱいになりそうだった、と五条は言う。少しだけ気恥ずかしくなって、夏油は頬をじわりと赤くする。
     そんな表情に満足げに目を細めた五条は、「さて」と一つ手を叩いた。
    「お腹もいっぱいになったことだし、そろそろ本題だ」
     本題。一瞬きょとんと目を丸くした夏油は、一拍後にこの会の発端を思い出す。
     術式と戦い方に、言いたいことがある。
     五条にそう言われて誘われたのが、すべての原因だった。彼と言葉を交わす気楽さ、楽しさにすっかり失念してしまっていた夏油は、急にその場で背筋をただす。
     現役の特級術師、それも現代最強との呼び声も高い男から、自身の術式についてコメントをもらえるのだ。人生に何度もないだろう機会に、夏油は真剣な顔になった。
    「傑の術式について。呪霊操術、取り込んだ呪霊を操ることができる術式、ってことで、間違いないかい」
    「うん」
     彼の言葉に夏油は頷く。
     自身の等級から呪術界のランク付けで言えば二級以上の差がつく呪霊であれば、無条件に調伏できること。取り込んだ呪霊の情報は自動で夏油に開示され、好きなタイミングで引き出して使うことができること。上位の呪霊であっても、ライフを削って消耗させれば調伏が可能であること。
     自身で認識している術式のことを、夏油は話して聞かせた。うんうん、と頷きながら、五条はその話を聞いている。
    「今何匹取り込んでるのかはわかる?」
    「ああ。あとは、一度調伏した呪霊であれば、祓われたときにわかる」
    「なるほどね。面白い術式だな」
     青い瞳が興味深いとばかりに細まり、じいっと夏油を見つめていた。
     その目に何が映っているのかを、夏油が知るすべはない。ただその視線の前に、自身の内面に備わった術式のすべてをさらけ出す。
    「体術も結構できてたけど、格闘技の経験は?」
    「小学生のころから、武道はいろいろかじってきたかな。特に空手と柔道は結構ちゃんとやってたよ」
    「へえ、いいね。近接戦闘はできるに越したことはない」
     うんうん、頷く彼に、夏油はなんだか誇らしい気分になる。
     それからも、いくらか術式や戦闘スタイルについての質問が続いた。尋ねられることに夏油は極力真摯に、的確に、端的に答えるよう心掛けた。
    「傑は、自分の今一番の課題は何だと思う?」
    「呪力操作。特に呪力による肉体の強化だね」
    「お、わかってるじゃん」
     ぱちぱち、と五条は大きな手を叩く。
    「傑は一般人にしてはいい動きをしてるけど、呪力を使える術師としては全然だめ。強化の練習はもっと頑張らなきゃね」
    「……何かいい練習方法とか、ないかな」
     はっきりと突き付けられた言葉も、夏油は正面から受け止めた。わかっているのだ、自身がまだまだ術師としては未熟だなんてことは。それを改善したいから、目の前の男についてきたのだから。
     問われた言葉に、五条はにこりと笑った。
    「傑さ、今呪力強化切ってるでしょ」
    「え? うん、そりゃあね」
    「今日から二週間、起きてる時間はずっと呪力強化オンにしてみてよ。寝てる間までとは言わないから」
     思わず夏油は目を真ん丸に見開いて、いやいや、と首を振った。
    「いや、無理だろそんなの」
    「ずっと全力で出してろって言ってるんじゃないんだよ。疲れないくらいでいい。呪力切れしないくらいのペースを探りながらさ」
     聞けば、御三家では呪力を持った子供はみんな小学校に上がる前にこなす課題なのだという。嘘だろ、と夏油は口をあんぐりと開く。その表情に五条はくつくつと笑って、うそじゃあない、と首を振った。
    「術師にとって、呪力は筋肉と同じだ。歩くとき、どこの筋肉にどういう風に力を入れて、なんて考えないでしょ。呪力もそのレベルまでなじませないと」
     彼の言いたいことは理解できる。慣れていないというのであれば、慣れるまで使うほかないのだ。呪術界に生まれ育った術師と比べれば、スタートラインから出遅れていることは身に染みてわかっている。その差を埋めるためには、基礎を確実に築き上げなくてはならない。
    「……やってみる」
     覚悟を決めた夏油の返事に、五条はうんうんと頷いて見せた。
    「手、貸して」
    「?」
     言われるまま、夏油は空になった机に上に手を乗せた。彼の右手を五条はさっと捕まえる。
    「一回呪力流してみて。表面に薄くまとわせるイメージだ」
    「表面に、薄く……」
     捕まえた手、そのつま先を、五条は自身の手でそっとつまむようにして、そこに呪力を流すようにと指示を出す。彼の瞳はじっと夏油を見つめている。少し落ち着かない気持ちで、しかし一つ息をついて気分を切り替えて、夏油は意識を指先へと集中させた。
     体の内側をめぐる、もう一つのエネルギー。それを腹から胸のあたりで練り上げて、体表へと滲ませる。術式を使うときにはわかりやすい回路があるけれど、身体強化にはそういうわかりやすい呪力の流路がない分、安定的に流し続けるのは難しい。
     にじみ出る呪力を、手の表面を覆うようにまとわせる、たったこれだけのことでも、今の夏油にはまだまだ集中が必要だった。
    「これで、あってるかな」
    「うん、イメージはあってる。あとは出力の調整だね。もっと絞って」
    「絞る……」
    「今だと軍手かスキー用の手袋って感じだから。医療用のゴム手袋くらいの薄さにできたら上出来」
     ずいぶん具体的な例えだな、と夏油は内心で突っ込みを入れる。けれど五条の言いたいことはわかる。今よりもさらに呪力の出力を下げて、調整しろというのだ。
     ふー、と細く息をついて、夏油はさらに腹の中のエネルギーに意識を集中させた。
     絞る。絞る。そう内心で繰り返しながら、自身の体の出力を下げていく。調整できる限界を探る。
     少しずつ少しずつ表面の呪力を薄くしていくと、不意に指先に別の力を感じた。
     じわりとあたたかいそれは、物理的な感覚ではない。――五条がその指先に這わせている、彼自身の呪力だ。
     呪力の膜にさえぎられて感じ取れなかった、その微小な呪力。幕を極限まで薄くしたことで、感じ取れるようになったのだろう。
     他人の呪力に驚いて夏油がぱちりと目を開ければ、にこにこと上機嫌の五条が彼のことを見つめていた。
    「僕の呪力、わかった?」
    「わか、った」
    「その薄さまで下げてね。そこが今の傑の限界一歩手前だから」
     どうやら五条はずっと、夏油の体に限界のラインを教えるべく、その強さで待っていてくれたらしい。
     そんな繊細なコントロールが果たして可能なのか、と夏油は驚いてしまったけれど。よくよく考えれば、目の前にいるのは現代最強の術師で。彼くらいになれば、このくらい余裕なのかもしれない。
     ふふ、と楽しそうに表情を緩める五条に、夏油はなんだか胸が熱くなる思いだった。
     この人はすごい。そんな至極当然のことを、改めて感じてしまう。
     自分にできないことが、彼には朝飯前で。自分の知らないことを彼はたくさん知っていて。そりゃあもちろん、彼は夏油よりも十歳以上も年上なのだから、その人生経験の違いというのもあるだろうけれど。
     自分の十年後。彼と同じような年齢になったとき、はたしてこんなふうになれるだろうか。
     術師としての経験。人間としての蓄積。そういったものを、彼と同じように積んでいくことができるだろうか。
    「傑?」
     どうかしたのかと、五条がその青い瞳を夏油に向けて、顔を覗き込んだ。いいや、と空いた手を振ってみせて、夏油は「なんでもないよ」と曖昧に笑った。
    「……どうしたら、悟みたいに強くなれるかな」
    「僕みたいに?」
     その言葉に、五条はきょとんとする。
    「傑はまだこれから強くなるんでしょ」
     何を言っているんだ、と言わんばかりの口調に、夏油は「でも」と食い下がる。
     少年の中に滲むわずかな焦りに気づいたのか、彼はそっと目を細めた。
    「――傑はさ。僕が一番強いのはどういうときか、わかる?」
    「……え、っと」
     五条悟が一番強いとき。どういう意味だろうかと、夏油は考える。
     彼はすでに現代最強の術師として名を馳せている。その彼が一番強いとき、というのは、きっとその力を十二分に振るえるとき、ということだろう。
     夏油はまだ、彼の術式をよく知らない。無下限呪術、という名前だけは聞いたけれど、それがいったいどういう術式なのかもわからない。
     ううん、と唸る少年に、五条はくすりと笑った。
    「正解はね。――僕ひとりの時だよ」
     周りに誰もいない、完全に彼ひとりで敵のただなかにいるとき。これが彼の一番強いときなのだと、五条は何でもないことのように言った。
    「僕の術式はさあ、ちょっと出力が高すぎるんだよね。ぜーんぶ壊していいですよって言われたほうが、いっそ思い切って力を出せるんだ。逆に誰か――味方とか、非術師とかを守りながら戦おうと思うと、そっちの加減が大変でさ」
    「……そう、なんだ」
     彼の語る次元の違う話に、夏油はそう答えることしかできなかった。そうなの、と彼はにこりと笑って見せる。
    「じゃあ今度は、僕の一番弱いところって、なんだと思う?」
    「悟にそんなところあるのかい」
    「あはは、そりゃああるよ。人間だもの」
     ほら、考えてみて。微笑んだままの彼は、考え込む夏油を楽しそうに眺めている。
     夏油からしてみれば、目の前の男に弱点なんてないように見えて仕方なかった。こうして相対しているだけでも、彼の呪力量の総量やそのコントロールの精緻さはよくわかる。触れられたままの指先にはなおも先ほどの薄さの呪力が流れていて、夏油が気を抜くと感じられなくなる。彼はこうして話しながらも、ずっとこの強さを維持しているのだ。呼吸をするかのように。
     彼が最強であることを、呪術界の誰も疑わない。そんな彼の弱点とは何なのか。
    「……わからない」
    「そう? そんなに難しいことじゃないよ」
    「だって君は特級で、現代最強だろ。そんなわかりやすい弱点なんてあるはずがないじゃないか」
     考えてもわからない答えに、夏油はむす、と唇を尖らせて見せる。彼はその表情に楽しそうに笑って、答えを教えてくれた。
    「正解はね。僕は一人しかいないことだよ」
    「……は?」
     想像しない角度の答えに、夏油は目を丸くした。
    「そんな驚くことじゃないさ。僕は一人しかいないから、同時に複数の場所で発生する事象には、順番にしか対応できない。どんなに高速で移動できるとしても、それは変わらない」
    「そんなの、弱点でもなんでもない、当たり前のことだろ」
    「そうだね。世の中の術師の大多数は、それが当たり前だ。――でもね、傑。きみはそうじゃない」
    「!」
     夏油の反駁を想定していたのか、五条は笑ったまま、捕まえた手の甲をそっと撫でた。
     彼の言いたいことは、夏油にも分かった。
     呪霊操術は、遠隔での操作が可能だ。複数の場所に同時に顕現させることも、今後訓練を積めばできるはず。今はまだあまり術式の訓練を積んでいないけれど、自身の術式の力を引き出せれば、それが可能であることはわかっている。
     この術式の真髄は、局地戦にはない。そのことを、五条は指摘したのだ。
    「さっきの手合わせでもわかっただろうけど、今の傑は僕には手も足も出ないよね。でも、こうして喋ってる間に、例えば仙台とか、大阪とか、もっと近いところなら高専でもいい、傑の操る呪霊が暴れても、僕はそれをどうすることもできない。一対一では僕が最強でも、僕だけが最強なんじゃだめなんだ」
     五条の語る話を、夏油はただ黙って聞いていた。
     自身の術式の使い方。夏油の考えるそれは、ずっと目の前に相対する呪霊、敵との戦いを想定したものばかりだった。
     しかし、真の力を発揮するのはそこではないと。真にその優位性を活かすことができれば、五条悟にすら勝てるかもしれないと。そんな可能性を、彼は示してくれた。
    「大局を見る目を養うんだ。一朝一夕で身につくものじゃあないけれど、今からだって遅くなんかない。五年後にはきっと特級にだってなってるかもしれないね」
     彼の真っ直ぐな評価に、じわじわと胸に広がるのは、喜びだった。誇らしさだった。希望だった。
     自身の可能性への。見えていなかった世界への。彼が術式を褒めてくれたということに対しての。
    「私は、強くなれるかな」
     そんな言葉がこぼれたのは、自信のなさゆえではなかった。むしろ、彼に肯定の言葉を返してほしい、ちょっとした甘えのようなもの。
     五条は青い瞳を緩く細めて、頷いた。
    「僕に並ぶくらい、強くなれるよ」
     嘘のない言葉に、夏油は少し気恥ずかしくなって、照れたように笑った。
     呪術高専に来てよかったと、夏油はこれまでで一番強く思った。
     もし高専に来ていなかったら、この人には出会えなかった。もし今日任務か何かが入って高専にいなかったら、この人に見つけてもらえなかった。
     運命の巡り合わせに、夏油は人生で一番の感謝を捧げた。間違いなく今日は、一生忘れられない日になった。
     ほんの数時間で夏油の人生を大きく変えてしまった男は、夏油に向かってなおもその美しい顔を笑みの形にして向けていた。触れたままの手には、彼の温かな呪力がずっと感じられていた。
    「それにしても、いい術式だねえ。強い呪霊を取り込めば取り込むだけ強くなれる」
    「まあね。取り込むのもなかなか一苦労だけど」
     夏油の言葉に、五条は意外そうに目を丸くした。
     どうして、と言わんばかりのその顔に夏油はくすりと笑う。
     取り込む数に上限があるわけでもない、と思う。取り込めば取り込むだけ強くなるというのは間違いない。任務のたびに見つける呪霊を取り込んで手持ちを増やしているし、使える呪霊が手に入ればその分次の任務に有利になる。
     けれど。
    「……ここだけの話なんだけど」
    「うん」
    「呪霊って、めちゃくちゃマズいんだよね……」
     苦笑い混じりにそう言えば、五条は一瞬きょとんとしてから、けらけらと笑い出した。
    「そうなんだ! え、どんな感じなの」
    「ゲロ拭いた雑巾丸呑みする感じ」
    「うっわ、ほんとに? ずっとそれやってんの、傑」
    「まあね」
     取り込まなくては強くなれないのだから、仕方ない。こればかりは避けられない。何百、何千と繰り返しても、あの味、あの感触に慣れることはないだろうなと思う。
    「そりゃしんどいでしょ」
    「小さい頃は本当に嫌で、毎回半分泣きながら取り込んでたよ」
     初めて呪霊を取り込んだ日のことを、夏油はずっと忘れられないでいる。
     祖母の家の庭にいた、例の呪霊。それが、夏油の一匹目だった。
     手の内にくるくると黒い球となってまとまった呪霊。飲み込むのだと、本能で分かっていた。物理的に飲み込めるサイズじゃあなかったそれは、しかし実体のあるものではない。ごくりとそれを飲み下した瞬間の、あのどうしようもない気持ち悪さ。初めての時は驚いて泣いてしまったものだ。
    「まあ、呪霊の使役なんて離れ業、その分の代償くらいあるか」
    「そう思うことにしてる。本当にしんどいときは嫌だなって思うこともあるけどね」
    「正直だね」
    「悟相手に強がってもね」
     いつの間にやら、自分はずいぶんと五条に心を開いているようだった。
     呪霊がまずくていやだ、なんてことは、これまで誰にも話したことがなかった。呪術界での経験の少ない夏油にとって、弱みを見せることは他の術師に侮られることに直結する。後ろ盾になる家がないというだけのことで、古くからの家系の術師に馬鹿にされたことも、実際のところ少なくはない。
     けれど、目の前のこの男は、そんなことするはずがないという確信があった。この数時間で、彼のことは信頼できると分かっていた。
     この人のことは信用できる。この人のようになりたいと思える。どこかで一人で戦っているように感じていた心が、この人が味方でいてくれたらと、そう思ったのだろう。
     弱みを見せられる大人、というものを、夏油は初めて知ったのだった。
     結局その日、夏油は日暮れに近い時間になってようやく高専へと返された。車で高専まで送られて、車の中でひらりと手を振る五条に、夏油は思わず窓越しに声をかけた。
    「ねえ」
    「ん?」
     呼びかけた彼の声に顔を向けた五条は、窓を開いて少しだけ身を寄せてくれる。
     口にしようとしていた言葉をそのまま音に乗せようとして、夏油は一瞬口をつぐむ。
     こんなことを言ったら迷惑だろうか。今日一日親しく話した程度で、こんなことを言うのはおこがましいだろうか。図々しいと思われないだろうか。彼はずいぶんと忙しくしているらしいので、今日一日でも実は結構な迷惑をかけてしまったのではないだろうか。
     そんな懸念がよぎって、言葉が喉に引っかかる。 
     何も言わない夏油に、彼はくすりと笑った。
    「ねえ、また会いに来てもいい?」
    「――え、」
    「傑と話すの、すごく楽しかったからさ。また相手してくれる?」
     それは、夏油が言おうと思っていた言葉だった。
     ――また会えるだろうか、と。
     同じことを思っていたのだと、夏油はじわりと頬を赤くする。彼もまた、今日のこの時間を楽しいと思ってくれていたのだと。
     嬉しかった。望んでいいのだと、また会いたいと望まれているのだと分かって。
    「……うん、また話そう。私も今日は楽しかったよ」
     赤くなってしまった頬で、夏油も微笑んで見せた。五条は嬉しそうに瞳を細めて、それからちょいちょいと夏油を手招きした。
     車のドアのすぐ近くまで近寄った夏油に、彼は頭を下げるようにと指示する。それに従って少しだけ夏油が身を屈めると、ーーぽん、と。五条の手が、その頭を軽く撫でた。
    「じゃあね、傑」
     また来るね。
     そう言って彼は、ひらりと振った手をひっこめた。窓の向こうに戻っていった手、大人の男の手の大きさを頭で感じて、夏油は胸がいっぱいになる思いだった。
     滑るように高専を後にした車を、夏油はそのテールランプが見えなくなるまで見送っていた。
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    xxshinopipipi00

    SPUR ME7/30新刊サンプル第4話です。
    当主×呪専の五夏、唯一の1年生すぐるくんが五条家の当主様に気に入られる話。
    すぐるくんが五条のおうちに行く回です。モブが若干でしゃばる。

    前→https://poipiku.com/532896/9061911.html
    イカロスの翼 第4話 目の前に聳え立つ大きな門に、夏油はあんぐりと口を開けた。
     重厚な木の門である。その左右には白い漆喰の壁がはるか先まで繋がって、どこまで続くのか見当もつかない。
     唖然としている少年の後ろから、五条はすたすたと歩いてその門へと向かっていく。
     ぎぎ、と軋んだ音を立てて開く、身の丈の倍はあるだろう木製の扉。黒い蝶番は一体いつからこの扉を支えているのか、しかし手入れはしっかりされているらしく、汚れた様子もなく誇らしげにその動きを支えていた。
    「ようこそ、五条の本家へ」
     先に一歩敷地に入り、振り向きながら微笑んで見せる男。この男こそが、この途方もない空間の主であった。
     東京から、新幹線で三時間足らず。京都で下車した夏油を迎えにきたのは、磨き上げられた黒のリムジンだった。その後部座席でにこにこと手を振る見知った顔に、僅かばかり緊張していた夏油は少しだけその緊張が解けるように感じていたのだけれど。
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